それは数ヵ月前の十一月に遡る出来事だ。
いつも通り練習を終え、涼子と他愛もない話をしながら帰っていた時のこと。
「大地君は中学生になったらどうするの?」
「中学ねぇ……多分このまま行けば横浜シニアにエスカレーター式で進むんじゃないかな」
「そうなんだ!じゃあまた一緒にバッテリーが組めるかもね」
「そう……だな」
何もなければ卒業と同時にリトルを辞めてシニアへ転向する予定だ。
──けれど時々思う。本当にそれで良いのかと。
横浜シニアは決して弱いチームではない。それどころか県内でも上位に入る強豪名高い評判だってある。
(でもなんか刺激が足りないんだよなぁ。こう…言葉に出せないんだけどさ…)
地元のシニアに上がり、ただ野球をやってるだけで俺はこの先大丈夫なのか?もしシニアでも変わることができなければ“また”悔しい思いを痛感させられるかもしれないんだぞ。
五年生に経験した帝王リトル戦の敗北。
それからという日は時間を惜しまず練習を重ねていったが、先月の秋に始まった最後の県予選でまたもや帝王リトルに負けた。
言い訳は山ほど見つかるが一番はやっぱり、
「寿也君……元気にしてるかな…」
公式戦まであと二週間と目前に控えたある日、寿也は横浜リトルを去った。
次の日に監督を通して俺達にも寿也が辞めたことは伝わったが、もうユニフォームを返して家も引っ越していた。
「分かんないな。野球辞めてなきゃいいけど……」
噂では家庭内のいざこざが理由で野球をやる余裕が無くなったと、チーム間や学校に広まっていたが、それが真実かは誰も知らない。
くそっ、なんで消えたんだよ寿也──
帝王を倒してようやく全国への道が見えてきたと思った矢先に……
「ごめんなさい、重い話しちゃって」
「いいよ。アイツだって許してくれるさ」
もうすぐ冬が訪れ、雪が溶ければ出会いと別れの季節がまた始まる。
やっぱり横浜シニアで野球を続けるのが最善の道か…それとも他の新天地でプレーするか…って、そんな自己中は流石に無理があるか……
「大地」
不意に呼ばれた俺の名前。
耳に入ってきた瞬間、奥隅に押しやられていた懐かしき風景が流れた気がした。
歩くのを止めて背中を返すと、そこにはクールな顔立ちに多少癖っ毛のある茶髪の少年が、瞳に強い意志を持ってこちらを見つめてきている。
「!…猪狩っ……!?」
「ふっ、久しぶりだな。一ノ瀬大地」
「お前…どうしてここに!?」
強い驚きで脳内の思考回路が狂ったぞ。
だって暁は隣県(別と言っても距離はさほど遠くはないが)だろ?誰もお前が来るなんて考えもしてないぞ。
「君をずっと探してたんだ」
「探してたぁ?…いくらなんでもストーカーだぞ。お前が男に興味あるなんて…マジ引いたわ」
「そっ、そんなわけないだろ!!旧友の仲だからってそんな感情は抱いていない!」
「はははっ。相変わらず真面目なツッコミしか返さないな」
「大地もな。投手をリラックスさせろって言われてから、こうしてよくどうでもいいボケをかましてきただろ?頭は良いのにな……そこの彼女に変なことでも吹き込んでたんじゃないのか?」
「してないっつうの。涼子は別だって」
(へぇ~大地君って昔はボケてたんだ…)
俺の意外な一面を知った涼子は、堪らず笑みを溢した。
だってさ、あかつき時代にピンチを招いた時、「何でもいいから猪狩をリラックスさせてみろ」って監督が指示してきたからこんな感じで猪狩にツッコミをさせて緊張をほどいてやったんだぞ。その甲斐あって試合にも勝てたし。
…これからはしないけどよ。マウンドでキャッチャーがそんなおちょくりしてたら「舐めてんのか?」って怒られそうだからな。本当に必要な時以外にはやらないって。
「で、かなり脱線してけど用件は何?」
「実は君にある提案をしに来たんだ」
猪狩の表情が変わって真剣になる。
「──あかつき中への勧誘か?」
「流石は僕が認めた捕手、察しがいい」
提案と出した時点で俺を連れ戻しに来たとは大体読めた。
でも誤算だったのはお前一人だけで俺を探した点だ。
あかつき中は野球だけでなくサッカーやバスケといった運動部がとにかく強くて全国的にも有名だ。
それ故に施設や環境も充実しており、有望な人材を見つけては特待生として入学させるチーフスカウト達も存在している。
先ずは手紙とか電話を使い、間接的に誘うのが常識だけど、コイツは真っ向から来やがった。
「今更どうして俺を呼び戻すんだ?お前だってあれほど相手として戦いたいって言ってたじゃん。そこまでしてお前は中学でも優勝したいのか?俺達の約束はそんな軽かったのかよ!!」
猪狩を突き放すかのように言葉を飛ばした。
依然として表情一つ変えない猪狩に対し、涼子はもう状況が分からずに戸惑っている。
はっきり言えば、俺があきつき中行くことで優勝する確率だってグンと伸びるし、またお前とバッテリーだって組める。そう考えれば悪い条件なんて一つも無いんだ。
──それじゃあ涼子はどうするんだ?
約二年間ずっと共に協力し合い、時には喧嘩や衝突することだってあった。
でも分かるんだ!俺達は時間を重ねていくにつれてバッテリーとしても、普通の男女間としての仲も、しだいに深まっていくのを。
「またバッテリーが組めるね」
その言葉がどれほど嬉しかったのだろうか。
横浜シニアで良いか悪いかは別として“また組みたい”なんて、こんなダメキャッチャーを好きでいてくれる思いがあったのかと知らせれるとあかつきに行くなんて俺には……
「君の試合は全て観させてもらったよ。どうやら川瀬さんのことを気にして拒んでいるように見えるが……違うか?」
「……………」
「やれやれ、情けないやつに成り下がったんだな。正直幻滅したよ、君にはね」
「情けないやつ……だと?」
「君は誰のために野球をやってるんだ」
「誰の為って……」
「自分の為じゃないのか?僕と戦う為に野球をやってるんだろ!?それなのになんて様だ!失礼な言い方をさせてもらうが、この女のご機嫌を取りたくて野球をやってるんじゃ今すぐ辞めろ!!!お前なんかが勝負の世界に出る資格は無い!!」
(えっ………何がどういうことなの…?)
普段冷静でクールな猪狩が我を忘れるほど興奮する姿を見せたのは初めてだ。
試合で打たれた時だって、ノーヒットノーランでちやほやされた時だって、コイツはいつも平常心だった。
アイツがここまで怒ると、俺だって胸に来るぜ。
「──僕と組め、大地。中学三年間であかつきを優勝させた時の君の心を思い出させてやる!そして今度こそ……!甲子園の舞台でお前が這い上がるのを待っててやるよ!」
甲子園……。
ああ、そうか。お前は心から俺と勝負がしたかったんだな。本当なら中学でも対戦したかったはずだ。それを放棄してまで俺を誘うのはこの現状に耐えかね、もう一度俺に鍛え直すチャンスを与えるってことか。
「ったく……余計なお世話だってんだよ…」
分かってらぁ。それが自分にとっての最善策だってな。
なら少しだけ…ワガママ言ってもいいよな、涼子。
「俺は俺の意志であかつき中に入る。それだけは忘れるなよ。そしてお前がコイツをスカウトさせたことを、高校野球で後悔させてやる!!」
拳を力強く握り、互いにビリビリと火花を散らすかのように飛ばし合った。
もう負けたぜ、お前にはよ。
どこまでも野球に対して真剣な目で挑み、自分の限界へ挑戦し続ける意欲と魂。負け続きだった俺は、そこが足りなくなったのかもな。
「そうか……後は自分でやるんだな」
エナメルバックのポケットに小さく電話番号が書かれたメモを入れ、猪狩は帰っていった。
練習着姿ってことは態々遠いところを忙しい中来てくれたのか……そう思うと猪狩もお節介過ぎる面があるんだな。ま、今回は深く感謝するけどよ。ありがとよ猪狩。
「行っちゃうの?」
「うん。ほぼ確実、かな」
「そっか……」
案の定、涼子が肩を落とす。
一緒に組もうぜって時に横からあんな会話されてやっぱり無理ってなればそりゃ、俺だってえーってなるわな。
「私の事をそこまで気にしてくれたのは嬉しいよ。だけどそれが大地君の邪魔になってたんじゃ私も行った方がいいと思うわ」
「……お前は何とも思わないのかよ。本音言えば俺は寂しいぜ。二年も付き合ってきた女房との先約を断って居なくなるってのに、お前は呆気ない返事だな」
今思えば少々無神経というか、相手の気持ちを考えてやれなかった。
鞄をアスファルトの地面にドカッと降ろし、涼子は声を上げて──
「寂しいに決まってるわよ!!なによ?!約束破っといてその言い草は!!!あなたは心配されたくて猪狩君の所へ帰るの?違うでしょ!自分の為に…もう一度やり直す為に……っくっ……行くんだよね……あかつきへ……」
俺ってリードもできなければデリカシーもないのか。
ほんの軽はずみのつもりが涼子にとっては嫌な別れだったんだな。
ヤバイ、しかも泣き出してるし。えっと……こういう時に男はどうすれば……あっ!そうだ!!!
「分かった!!じゃあ約束するよ!あかつき中を卒業したらまた戻って来る!そんでまた涼子と俺でバッテリー組んで目指そうぜ、甲子園をよ!」
「えぇ……甲子園?」
あら、まさか満足してくれなかったか?我ながら良い条件だと思ったんだけど…やっぱりダメか?!
「それは無理よ。第一、女の子の高校野球は認められてないんだよ?」
…は?そんなの初耳だぞ!女子が高校で野球するのを禁止とか何でだよ!それじゃあバッテリー組めねーじゃん!!
「大地君が死んでもその約束を守ってくれることと、私を試合に出れるようにしてくれるって追加で約束してくれたら良いよ」
「追加ですかい…」
いつかはぶち当たる壁だし、それは良いか。
「じゃあそれで成立ってことで」
「ふふっ♪良かった~!」
笑い顔は可愛いなぁ。それもあと四ヶ月で見れなくなるなんて、名残惜しさが否めない。
猪狩、これは決して彼女のご機嫌取りじゃないぜ。
俺はあかつき中へ行くと言っても高校では敵になるつもりだったし、涼子と組んでお前を倒すってのは初めからやりたい俺の希望ってやつよ。
リトルでは無理だった一番の景色を見せてやりたいんだ。いいだろ?そのくらいはさ。
「ほら」
「えっ、なにこれ?」
「何って指切りだけど…もしかして知らないのか?」
「アメリカでは指切りなんて文化は無かったから初めてだわ」
「なら良い機会だ。小指出してみ?」
恐る恐る小指を出してきた。あまりにも慎重すぎたのに焦れったくなり、乱暴気味に指を握った。
「ふえっ!!ななななによこれっ!?」
「痛いって!骨折る気か!!」
「あ、ごめんなさい……」
「んっと…そのままな…」
──ゆーびきりげんまん嘘ついたら針千本のーます、指切った!──
「はい、おーわり」
「ねぇ、本当に千本も飲めるの?」
「飲めねーよ!てか俺が約束破ると思うか?!」
「どうだろう?ついさっきだって…」
あーもう!ここまで疑い深いとめんどくさいぞ!男に二言なんて…
「嘘よ、顔を見ればわかるわ」
ゆっくりと三歩前に寄り付き、整った顔を俺の体に預けた。
「待ってるからね。……私は……」
「涼子……」
キュンとさせる行動に欲望が半分出てしまい、その華奢な体をそっと優しく包み込んだ。
冬に近づいている日の夕方は風がやや強く、互いの体温を伝わらせてくれた。
その今しか味わえない温もりを大切に……また約束の時まで俺は歩きだす──。
猪狩から貰ったメモに電話を掛けたのは三日後の事だった。
☆
「涼子ーっ!早く写真撮りましょ!」
「うん!今行くわ!」
季節は変わって春──。
今日で慣れ親しんだ小学校を卒業し、私は中学生へ階段を上がる。
校門近くに咲いていた立派な桜の木の前でクラスメイトと写真をこれでもかってほど撮った。
私のクラスは三十八人。だけれど写真には全員写っておらず、二人足りなかった。
その二人とは、寿也君と大地君だ。
寿也君は家の事情で居なくなったと噂が後を絶たなかったったが、大地君が消えたのは一週間前。つい最近の出来事である。
元から頭の良い彼は筆記試験を難なく合格し、実技でも高いポテンシャルが認められて入学がほぼ内定したらしい。そして……
既にあかつき中の野球部は活動が本格的にスタートし、大地君も一足先に合流する為、下宿先の寮へ移動した。
何一つ話さないで消えちゃう所は彼らしいと言えばらしい。
(私も負けてられないわね。次に大地君が帰ってきたらあっと言わせてやるんだから!)
空を見上げると、そこには一面に透き通った春空が広がっていた。
彼とどんなに離れていても、同じ空の下で繋がっているんだ。
また会う日まで──
私も必ず強くなる。
To be continued…