トリステインの王宮は、ブルドンネ街の突き当たりにあった。王宮の門の前には、当直の魔法衛士隊の隊員達が、幻獣に跨り闊歩している。戦争が近いという噂が、二、三日前から街に流れ始めていたためだ。隣国アルビオンを制圧した結果貴族派『レコン・キスタ』が、トリステインに進行してくるという噂だった。
よって、周りを守る衛士隊の空気は、ピリピリしたものになっている。王宮の上空は、幻獣、船を問わず飛行禁止令が出され、門をくぐる人物のチェックも激しかった。
いつもならなんなく通される仕立て屋や、出入りの菓子屋の主人までもが門の前で呼び止められ、身体検査を受け、ディティクトマジックでメイジが化けていないか、『魅了』の魔法等で何者かに操られていないか、など厳重な検査を受けていた。
そんな時だったから、王宮の上に一匹の風竜が現れた時、警備の魔法衛士隊の隊員達は色めきたった。
魔法衛士隊はマンティコア隊、ヒポグリフ隊、グリフォン隊の三隊からなっている。三隊はローテンションを組んで、王宮の警護を司る。一隊が詰めている日は、他の隊は非番か訓練を行っているのだ。今日の警護はマンティコア隊であった。マンティコアに騎乗したメイジ達は、王宮の上空に現れた風竜めがけて一斉に飛び上がる。風竜の上には五人の人影があった。しかも風竜は、巨大なモグラをくわえているというおかしな状態だった。
魔法衛士隊の隊員達は、ここが現在飛行禁止である事を大声で告げたが、警告を無視して風竜は王宮の中庭へと着陸した。
桃色がかったブロンドの美少女に、燃える赤毛の長身の女、そして金髪の少年、眼鏡をかけた小さな少女、そして白髪の青年だった。青年は身長ほどもある長剣を背負っている。
マンティコアに跨った隊員達は、着陸した風竜を取り囲んだ。腰からレイピアのような形状をした杖を引き抜き、一斉に掲げる。いつでも呪文が詠唱できるような態勢を取ると、ごつい体にいかめしい髭面の隊長が大声で怪しい侵入者達に命令する。
「杖を捨てろ!」
一瞬、侵入者達は不満そうな表情を浮かべたが、彼らに対して青い髪の小柄な少女が首を振って言う。
「宮廷」
一行は仕方ないと言うばかりにその言葉に頷き、命令された通りに杖を地面に捨てた。
「今現在、王宮の上空は飛行禁止だ。ふれを知らんのか?」
一人の、桃色がかったブロンドの髪の少女が、とんっと軽やかに竜の上から飛び降りて、毅然とした声で名乗る。
「わたしはラ・ヴァリエール公爵が三女、ルイズ・フランソワーズです。怪しいものじゃありません。姫殿下に取次願いたいわ」
隊長は口ひげを捻って、目の前の少女を見つめる。ラ・ヴァリエール公爵夫妻なら知っている。貴族の中でも有数の、高名な一家だ。
隊長は掲げた杖を下した。
「ラ・ヴァリエール公爵様の三女とな」
「いかにも」
ルイズは、胸を張って隊長の目をまっすぐ見つめた。
「なるほど、見れば目元が母君そっくりだ。して、要件を伺おうか?」
「それは言えません。密命なのです」
「では殿下に取り次ぐわけにはいかぬ。用件も尋ねずに取り次いだ日にはこちらの首が飛ぶからな」
困った声で隊長が言った。そんな隊長に、話を聞いていた白髪の青年――――金木が口を開いた。
「そちらの事情も分かりますが、僕達も密命で行動しているんです。どうにか姫殿下に取り次ぐわけにはいきませんか?」
隊長は、口を挟んできた金木の容姿を見て、苦い顔つきになった。見た事もない服装だし、鼻は低く、肌も黄色い。そして背中には大きな剣を背負っている。
どこの国の人間だかは分からぬが、貴族ではない事は確かであった。
「無礼な平民だな。従者風情が貴族に話しかけるという法は無い。黙っていろ」
それを聞いて、金木は困ったような表情を浮かべて頬を掻いた。平民だからという理由で話も聞かないとは……。貴族とはいえ、自分達を神様か何かと勘違いしているのではないだろうか。ここまで来ると、怒りを通り越して呆れてしまう。
どうするか、と一同が悩みかけた時、宮殿の入り口から鮮やかな紫のマントとローブを羽織った人物がひょっこりと顔を出した。中庭の真ん中で魔法衛士隊に囲まれたルイズの姿を見て、慌てて駆け寄ってくる。
「ルイズ!」
駆け寄ってくるアンリエッタの姿を見て、ルイズの顔が薔薇をまき散らしたようにぱあっと輝いた。
「姫様!」
二人は、一行と魔法衛士隊が見守る中、ひっしと抱き合った。
「ああ、無事に帰ってきたのね。嬉しいわ。ルイズ、ルイズ・フランソワーズ……」
「姫様……」
ルイズの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「件の手紙は、無事、この通りでございます」
ルイズはシャツの胸ポケットから、そっと手紙を見せた。アンリエッタは大きく頷くと、ルイズの手を固く握りしめる。
「やはり、あなたはわたくしの一番のお友達ですわ」
「もったいないお言葉です。姫様」
しかし、一行の中にウェールズの姿が見えない事に気づいたアンリエッタは、顔を曇らせる。
「……ウェールズ様は、やはり父王に殉じたのですね」
ルイズは目をつむって、神妙に頷いた。
「……して、ワルド子爵は? 姿が見えませんが。別行動をとっているのかしら? それとも……まさか、敵の手にかかって? そんな、あの子爵に限って、そんなはずは……」
ルイズの表情が曇る。彼女に代わって、金木が言いにくそうな表情でアンリエッタに言った。
「彼は貴族派のメイジでした」
「何ですって?」
それを聞いたアンリエッタの顔が、蒼白になった。そして興味深そうにそんな自分達を、魔法衛士隊の面々が見つめている事に気づき、アンリエッタは説明した。
「彼らはわたくしの客人ですわ、隊長殿」
「さようですか」
アンリエッタの言葉で隊長は納得するとあっけなく杖をおさめ、隊員達を促して持ち場へと去って行く。
アンリエッタは再びルイズに向き直った。
「道中、何があったのですか? ……とにかく、わたくしの部屋でお話ししましょう。他の方々は別室を用意します。そこでお休みになってください」
キュルケとタバサ、そしてギーシュを謁見待合室に残し、アンリエッタは金木とルイズを自分の居室に入れた。小さいながらも、精巧なレリーフがかたどられた椅子に座り、アンリエッタは机に肘をついた。
ルイズはアンリエッタに事の次第を説明した。
道中、キュルケ達が合流した事。
アルビオンへと向かう船に乗ったら、空賊に襲われた事。
その空賊が、ウェールズ皇太子だった事。
ウェールズ皇太子に亡命を勧めたが、断られた事。
そして……、ワルドと結婚式を挙げるために脱出船に乗らなかった事。
結婚式の最中、ワルドが豹変し……、ウェールズを殺害し、ルイズが預かった手紙を奪い取ろうとした事。
しかし、このような手紙は取り戻してきた。レコン・キスタの野望……ハルケギニアを統一し、エルフから聖地を取り戻すという大それた野望は躓いたのだ。
しかし、無事、トリステインの命綱であるゲルマニアとの同盟が守られたというのに、アンリエッタは悲嘆にくれた。
「あの子爵が裏切者だったなんて……。まさか、魔法衛士隊に裏切者がいるなんて……」
アンリエッタは、かつて自分がウェールズにしたためた手紙を見つめながら、はらはらと涙をこぼした。
「姫様……」
ルイズが、そっとアンリエッタの手を握った。
「わたくしが、ウェールズ様のお命を奪ったようなものだわ。裏切り者を、使者に選ぶなんて、わたくしはなんという事を……」
「……ウェールズ皇太子は、もともとあの国に残るつもりでした。あなたのせいじゃありません」
自分を責めるアンリエッタを、金木はそう言ってフォローする。彼女の事は正直言ってあまり好きではないが、愛する人を失って悲しむ彼女に鞭打つような事をするほど、金木は非情な人間ではない。
「……あの方は、わたしの手紙をきちんと最後まで読んでくれたのかしら? ねえ、ルイズ」
ルイズはアンリエッタの言葉に頷くと、
「はい、姫様。ウェールズ皇太子は、姫殿下の手紙をお読みになりました」
「ならば、ウェールズ様はわたくしを愛しておられなかったのね」
アンリエッタは、寂しげに首を振った。
「では、やはり……皇太子に亡命をお勧めになったのですね?」
悲しげに手紙を見つめたまま、アンリエッタは頷いた。
ルイズは、ウェールズの言葉を思い出した。彼は頑なに『アンリエッタは私に亡命など勧めていない』と否定していた。やはりそれは、ルイズが思った通り彼の嘘だったのだ。
「ええ。死んで欲しくなかったんだもの。愛していたのよ、わたくし」
それはアンリエッタは、呆けた様子で呟いた。
「わたくしより、名誉の方が大事だったのかしら」
金木は、違うと思った。彼はそんなもののために、アルビオンに残ったわけではない。彼はアンリエッタに迷惑をかけないために……、ハルケギニアの王家が、弱敵ではない事を反乱税に示すために、アルビオンに残ったのだ。
「……それは違います。皇太子は、あなたやこのトリステインを守るためにアルビオンに残ったんです。僕はそう聞きました」
ぼんやりとした顔で、アンリエッタは金木の方を見た。
「わたくしに迷惑をかけないために?」
「自分が亡命したら、反乱勢が攻め入る格好の口実を与えるだけだって彼は言っていました」
「ウェールズ様が亡命しようがしまいが、攻めて来る時は攻め寄せて来るでしょう。攻めぬ時には沈黙を保つでしょう。個人の存在だけで、戦は発生するものではありませんわ」
「それでも、護りたかったんだと思います。だからこそ皇太子は、アルビオンに残ったんです。……アンリエッタ姫殿下、お願いです。彼が最後に残した言葉を、あなただけは信じていてください。彼が誰よりも愛した、あなただけは」
金木が悲痛な声で言うと、アンリエッタは悲し気な表情を浮かべて窓の外を見やった。
金木は一度息を吐くと、アンリエッタを見て告げる。
「勇敢に戦い、勇敢に死んでいったと。それだけ伝えてくれてって、皇太子は言っていました」
寂しそうに、アンリエッタは微笑んだ。薔薇のようにきれいな王女がそうしていると、空気まで沈鬱に澱むようだった。アンリエッタは美しい彫刻が施された、大理石削り出しのテーブルに肘をついて、悲し気に金木に問う。
「勇敢に戦い、勇敢に死んでいく。殿方の特権ですわね。残された女は、どうすれば良いのでしょうか」
それを聞いて、金木は唇を噛んだ。かつてある少女を残して一人死地へと向かった金木にとっては、その言葉は耳に痛い事この上無い。
「姫様……わたしがもっと強く、ウェールズ皇太子を説得していれば……」
アンリエッタは立ち上がり、申し訳なさそうに呟くルイズの手を握った。
「良いのよルイズ。あなたは立派にお役目通り、手紙を取り戻してきたのです。あなたが気にする必要はどこにも無いのよ。それにわたくしは、亡命を勧めてほしいなんて、あなたに言ったわけではないのですから」
それからアンリエッタは、にっこりと笑った。
「わたくしの婚姻を妨げようとする暗躍は未然に防がれたのです。我が国はゲルマニアと無事同盟を結ぶ事ができるでしょう。そうすれうば、簡単にアルビオンも攻めてくるわけにはいきません。危機は去ったのですよ、ルイズ・フランソワーズ」
アンリエッタは努めて明るい声を出した。
ルイズはポケットから、アンリエッタにもらった水のルビーを取り出した。
「姫様。これをお返しします」
しかし、アンリエッタは首を横に振った。
「それはあなたが持っていなさいな。せめてものお礼です」
「こんな高価な品をいただくわけにはいきませんわ」
「忠誠には、報いるところが無ければなりません。良いから、とっておきなさいな」
ルイズは頷くと、それを自分の指に嵌めた。
その様子を見て、金木は王子の指から抜き取った指輪の事を思い出した。ズボンのポケットに入った今やウェールズの遺品とも言えるそれを取り出すと、アンリエッタに手渡す。
「姫殿下、これを……。ウェールズ皇太子から預かった指輪です」
アンリエッタはその指輪を受け取ると、驚きのあまり目を大きく見開いた。
「これは、風のルビーではありませんか。これを、皇太子から預かったと?」
「はい。ウェールズ皇太子は、最後にこれを僕に託しました。あなたに渡してくれと」
実際には、風のルビーはウェールズの遺体の指から抜き取ったものだ。だからそんな事を金木に言い残せるはずもない。しかし、金木はあえて嘘をついた。少しでもアンリエッタの心の慰めになればと考えた、金木の優しい嘘である。例えそれが金木のエゴだとしても構わない。大切な人を失った彼女にただ事実だけを伝えるのは、あまりにも残酷な話である。
アンリエッタは風のルビーを指に通した。ウェールズが嵌めていたものなので、アンリエッタの指にはゆるゆるだったが、小さくアンリエッタが呪文を唱えると指輪のリングの部分がすぼまり、薬指にピタリと収まった。アンリエッタは風のルビーを愛しそうに撫でると、金木の方を向いてはにかんだような笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。優しい使い魔さん」
寂しく、悲しい笑みだったが、金木に対する感謝の念がこもった笑みだった。金木はその笑みに何も言う事ができず、唇を噛んで俯く。
「あの人は、勇敢に死んでいったと。そう言われましたね」
その言葉に、金木はコクリと頷く。
「はい。その通りです」
アンリエッタは指に光る風のルビーを見つめながら言た。
「ならば、わたくしは……、勇敢に生きてみようと思います」
王宮から魔法学院に向かう空の上、ルイズは黙りっぱなしだった。キュルケが、一体ウェールズから取り返してきた手紙に何が書いてあったのか、ルイズと金木から聞きだそうと、なんやかんや話しかけてきたが、二人は一言も喋らなかった。
「なあに? あれだけ手伝わせて、どんな任務だったか教えてくれないの? おまけにあの子爵は裏切り者だって言うし、ワケ分かんないわ」
キュルケは金木を、熱っぽい視線で見つめた。
「でも、ダーリンがやっつけたのよね?」
金木は頷きながらも、険しい表情を浮かべてこう返した。
「でも、逃げられた」
「それでもすごいわ! ねえ、一体どんな任務だったの?」
彼女からそう言われても、金木は何も言わなかった。ルイズが何も言わない以上自分も言うべきではないし、それ以前に任務の内容は誰にも話さない方が良いと分かっていたからだ。
キュルケは眉をひそめて、それからギーシュの方を向いた。
「ねえギーシュ」
「何だね?」
薔薇の造花をくわえて、ぼけっと物思いに耽っていたギーシュが振り向いた。
「あなた、アンリエッタ姫殿下があたし達に取り戻せと命じた手紙の内容を知ってるんでしょ?」
ギーシュは目をつむって言った。
「そこまでは僕も知らないよ。知ってるのはルイズだけだ」
「ゼロのルイズ! なんであたしには教えてくれないの! ねえタバサ! あなたどう思う? なんかとっても、バカにされてる気がするわ!」
キュルケは本を読んでいる友人を揺さぶった。しかしタバサは何も言わずされるがまま、ガクガクと首を振るだけだった。
そんな風にキュルケが暴れたおかげで、バランスを崩した風竜はがくんと高度を落とした。その時の揺れでバランスを崩し、ギーシュが風竜の背中から落下する。それを見て金木がぎょっとした表情を浮かべて、周りにいる少女達に叫ぶ。
「ちょ、ちょっと! ギーシュ君落ちたよ!?」
「大丈夫よ、相手はギーシュなんだから」
「彼の扱い雑過ぎない!?」
ギーシュのあんまりな扱いに金木が珍しく大声で叫ぶが、そんな金木の服の裾をタバサがちょいちょいと引っ張る。それに金木がタバサの方を振り返ると、彼女は下の方を何故か指差していた。眉をひそめながら金木が下を見てみると、ギーシュがゆっくりとした速度で地上に向かっているのが見えた。どうやら途中で『レビテーション』の呪文を唱えて落下の速度を落としたらしい。それを見て金木はほっと胸を撫で下ろしてから、ルイズに視線を戻す。
今の彼女は大分落ち着きを取り戻したように見えるが、内心はまだ分からない。婚約者の裏切りに、ウェールズ皇太子の死と、今回の旅で彼女が失ったものはあまりにも多すぎる。そう考えると彼女の心の傷は、きっとまだ癒えていないのだろう。
それから金木はルイズを裏切った婚約者、ワルドと彼の背後の組織『レコン・キスタ』に考えを巡らせる。ワルドの口ぶりからして、レコン・キスタはトリステインのあちこちに根を張り巡らせているようだ。それは、アンリエッタを護る魔法衛士隊という組織にワルドという裏切り者を密かに潜り込ませていた点から分かる。
王女を護るという役目を持つ以上、そこに配属される隊員の素性などは厳しくチェックされるはずだ。それなのにワルドが魔法衛士隊に潜り込む事ができたという事は、無論彼の実力もあるだろうがレコン・キスタという組織力も無関係ではないだろう。これは自分の勝手な推測だが、レコン・キスタの活動にはトリステインでも有数の貴族が力を貸している可能性が大きい。
そう考えると、今から自分達が帰るトリステインにはレコン・キスタの息のかかった人間がまだ多くいるかもしれない。ルイズと金木がまだ生きている事が分かれば、追手が自分達の命を狙ってくる可能性だってある。
(……だけど、そんなの関係ない。僕の大切なものを奪うなら……相手が誰だって、
自分が浮かべているであろう冷たい表情をルイズ達に見られないように真正面を見つめながら、金木はバキリ……と折り曲げた右手の人差し指を親指で押して鳴らした。
富裕大陸の岬の突端に位置した城は、一方向からしか攻める事ができない。密集して押し寄せたレコン・キスタの先陣は、魔法と大砲の攻撃を何度も食らい、大損害を受けた。
しかし、所詮は多勢に無勢。一旦城壁の内側へと侵入された堅城はもろかった。王軍はそのほとんどがメイジであったため、護衛の兵を持たなかった。王軍のメイジ達は、群がる蟻のように名もなきレコン・キスタの兵士達に一人、また一人と討ち取られ、その命を散らしていった。
敵に与えた損害は大きかったが、その代償として王軍は全滅した。文字通りの全滅だった。最後の一兵に至るまで、王軍は戦い、そして斃れた。
つまり、アルビオンの革命戦争の最終決戦、ニューカッスルの攻城戦は、百倍以上の敵軍に対して、自軍の十倍にも上る損害を与えた戦い……、伝説となったのだった。
戦が終わった二日後、照り付ける太陽の下で死体と瓦礫が入り交じる中、長身の貴族が戦跡を検分していた。羽のついた帽子に、アルビオンでは珍しいトリステインの魔法衛士隊の制服。
それは、金木が左腕を斬り落とした人物、ワルドだった。
彼の隣には、フードを目深にかぶった女のメイジ、土くれのフーケが立っている。彼女はラ・ロシェールから船に乗り、アルビオンに渡ってきたのである。昨晩、アルビオンの首都、ロンディニウムの酒場でワルドと合流し、このニューカッスルの戦場跡へとやってきたのだ。
周りでは、レコン・キスタの兵士達が財宝あさりにいそしんでいる。宝物庫と思われる辺りでは、金貨探しの一団がお目当ての物を探し当てたらしく、歓声を上げていた。
長槍を担いだ傭兵の一団が元は綺麗な中庭だった瓦礫の山に転がる死体から装飾品や武器を奪い取り、魔法の杖を見つけては大声ではしゃいでいる。フーケはその様子を苦々しげに見つめて、舌打ちを鳴らした。
そんなフーケの表情に気づき、ワルドは薄い笑みを浮かべた。
「どうした、土くれよ。貴様もあの連中のように、宝石を漁らんのか。貴族から財宝を奪い取るのは、貴様の仕事じゃなかったのか」
「私とあんな連中を一緒にしないで欲しいわね。死体から宝石を剝ぎ取るのは、趣味じゃないわ」
「盗賊には、盗賊の美学があるという事か」
ワルドが笑うと、フーケはふんと鼻を鳴らしながら、
「据え膳に興味はないわ。私は大切なお宝を盗まれて、あたふたする貴族の顔を見るのが好きだったのよ。でもこいつらは……」
フーケはちらりと王軍のメイジの死体を横目で見た。
「もう、慌てる事もできないわね」
「アルビオンの王党派は貴様の仇だろうが。王家の名の下に、貴様の加盟は辱められたのではなかったか?」
ワルドが嘯くように言うと、フーケは冷たい、感情を抑えた声で言った。
「そうね。そうなんだけどね」
それから、ワルドの方を向いた。二の腕の中ほどから左腕が切断されている。主を無くした制服の袖が、ひらひらと風に揺れていた。
「あんたも随分と苦戦したようね」
ワルドは変わらぬ調子の声で答えた。
「ウェールズと腕一本なら、安い取引だったと言わねばならんだろう」
「大したやつだね。あのガンダールヴ。風のスクウェアのあんたの腕を、ぶった切っちまうなんて」
「平民だと思って油断したよ。それどころか、とんだ化け狐だった。あの化け物め……」
そこで、今まで無感情だったワルドの声に感情がこもる。それは、明確な敵意と怒りだった。それを見て、フーケは思わず眉をひそめた。自分が前に対峙したあのガンダールヴの青年は、確かに普通の青年には無いものを感じたが、化け物と呼ぶほどの事だろうか? そりゃあワルドの言う通り、あの青年の強さは化け物じみていたが……。
フーケはワルドの言葉を聞きながら、辺りを見回してから言った。
「だけど、この城にいたんじゃあ、その化け物も生き残れはしなかったみたいだね」
フーケがそう言うと、ワルドは冷たい微笑を浮かべた。
「化け物とはいえ、所詮は生物だ。攻城の隊から、それらしき人物に苦戦したという報告は届いていない。奴は俺と戦って、力を消耗していた。恐らく、ただの平民に成り果てていただろうな。奴を討ち取った兵は、それが伝説の使い魔と気づきもしなかっただろう」
フーケは、気がなさそうに鼻を鳴らした。カネキとか呼ばれていた、妙な格好の青年を脳裏に浮かべる。彼がそんな簡単に死ぬようなタマだろうか?
「で、その手紙とやらはどこにあるんだい?」
「この辺りだ」
ワルドは杖で地面を指した。そこは、二日前まで礼拝堂であった場所だ。ワルドとルイズが結婚式を挙げようとした場所であり、ウェールズが命を失った場所でもある。
だが、今ではただの瓦礫の山になっていた。
「ふーん、あのラ・ヴァリエールの小娘……、あんたの元婚約者のポケットに、その手紙は入っているんでしょう?」
「そうだ」
「見殺し? 愛してなかったの?」
「愛するとか、愛さないとか、そういった感情は忘れたよ」
抑揚の変わらぬ声で、ワルドは言った。
呪文を詠唱し、杖を振った。小型の竜巻が現れ、辺りの瓦礫が飛び散る。
徐々に、礼拝堂の床が見えてきた。
始祖ブリミルの像と、椅子に挟まれた間にウェールズの亡骸があった。椅子と像に挟まれていたおかげで、亡骸は潰れていなかった。
「あらら。懐かしのウェールズ様じゃない」
フーケが驚いた声を上げた。実は彼女は、元々アルビオンのある貴族だったのだ。そのため、ウェールズの顔を彼女は覚えていた。
しかし、どこにも死体は見つからない。
「ほんとにここで、あいつらは死んだの?」
そのはずだが、と呟いてワルドは辺りを注意深く捜し始めた。
「ふーん……、あら、これってジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『始祖ブリミルの光臨』じゃないの」
フーケが床に転がっていた絵画を手に取りながら呟く。
「と、思ったら複製か。ま、そうよね。こんな田舎の城の礼拝堂に……って、ん?」
フーケは、絵画が転がっていた床の上に、ぽっこりと開いた直径一メイルほどの穴を見つけ、ワルドを呼んだ。
「ねえワルド。この穴、何かしら?」
ワルドは眉をひそめると、しゃがんでフーケが指した穴を覗き込む。ギーシュの使い魔である巨大モグラが掘った穴だが、ワルドは当然その事を知らない。驚愕で引きつくワルドの頬を、穴の奥から吹く冷たい風がなぶった。
「もしかして、この穴を掘ってラ・ヴァリエールの娘とガンダールヴは逃げたんじゃないの?」
フーケが言うと、ワルドは頷いてから苛立った様子で舌打ちをする。
「中に入って、追いかけてみる?」
「無駄だろう。風が入ってくるという事は、空に通じているはずだ。くそ、やられたな……」
ワルドは苦々しい声で言った。そんな様子を見て、フーケがにっこりと微笑む。
「あんたもそんな顔をするのね。ガーゴイルみたいに感情のない男だと思ったけど……、どうしてどうして、気持ちが顔に出るタイプ?」
からかうな、と言ってワルドは立ち上がった。そんな二人に、遠くから声が掛けられた。
この場にそぐわない、快活で澄んだ声だった。
「子爵! ワルド子爵! 件の手紙は見つかったかね? アンリエッタがウェールズにしたためたという、その、なんだ、ラブレターは……。ゲルマニアとトリステインの婚姻を阻む救世主は見つかったかね?」
ワルドは首を振って、現れた男に応えた。
やってきた男は、年のころ三十代の半ば。丸い球帽をかぶり、緑色のローブとマントをその身に纏っている。一見すると聖職者のような格好に見えた。だが物腰は軽く、まるで軍人のようだった。高い鷲鼻に、理知的な色をたたえた碧眼。そして帽子の裾からカールした金髪が覗いている。
「閣下。どうやら、手紙は穴からすり抜けたようです。私のミスです。申し訳ありません。なんなりと罰をお与えください」
ワルドは地面に膝をつき、頭を垂れた。
しかし閣下と呼ばれた男はにかっと人懐こそうな笑みを浮かべると、ワルドに近寄ってその肩を叩いた。
「何を言うか! 子爵! 君は目覚ましい働きをしたのだよ。敵軍の勇将を一人で討ち取る働きをして見せたのだ! ほら、そこに眠っているのは、あの親愛なるウェールズ皇太子じゃないかね? 誇りたまえ! 君が倒したのだ! 彼は、随分と余を嫌っていたが……こうして見ると不思議だ。妙な友情さえ感じるよ。ああ、そうだった。死んでしまえば、誰もがともだちだったな」
ワルドは台詞の最後に込められた皮肉に気づき、わずかに頬を緩めた。それからすぐに真顔に戻ると、自分の上官に再び謝罪を繰り返す。
「ですが、閣下が欲しがっておられたアンリエッタの手紙を手に入れる任務に失敗いたしました。私は閣下のご期待に沿う事ができませんでした」
「気にするな。同盟阻止より、確実にウェールズをしとめる事の方が大事だ。理想は一歩ずつ、着実に進む事により達成される」
それから緑のローブの男は、フーケの方を向いた。
「子爵、そこの綺麗な女性を世に紹介してくれたまえ。未だ僧籍に身を置く余からは、女性に声をかけづらいからね」
フーケは男の顔を見つめた。このワルドが頭を下げている所を見ると、随分とお偉いさんなのだろう。だが、どうも気に入らない。その体からは妙なオーラを放っている。禍々しい雰囲気が、ローブの隙間から漂ってくる。ワルドは立ち上がると、男にフーケを紹介した。
「彼女が、かつてトリステインの貴族達を震え上がらせた土くれのフーケにございます、閣下」
「おお! 噂はかねがね存じておるよ! お会いできて光栄だ。ミス・サウスゴータ」
かつて捨てた貴族の名を口にされたフーケは微笑んだ。
「ワルドに、私のその名前を教えたのはあなたね?」
「そうだとも。余はアルビオンの全ての貴族を知っておる。系図、紋章、土地の所有権……、管区を預かる司教時代に全てそらんじた。おお、ご挨拶が遅れたね」
男は目を丸く見開いて、胸に手を添えた。
「レコン・キスタ総司令官を務めさせていただいておる、オリヴァー・クロムウェルだ。元はこの通り、一介の司教に過ぎぬ。しかしながら、貴族議会の投票により、総司令官に任じられたからには、微力を尽くさねばならぬ。始祖ブリミルに使える聖職者でありながら、『余』などという言葉を使うのを許してくれたまえよ? 微力の行使には信用と権威が必要なのだ」
「閣下はすでに、ただの総司令官ではありません。今ではアルビオンの……」
「皇帝だ。子爵」
クロムウェルは笑った。だが、その目の色は全く変わっていない。
「確かにトリステインとゲルマニアの同盟阻止は、余の願うところだ。しかし、それよりももっと大事な事がある。何だか分かるかね? 子爵」
「閣下の深い考えは、凡人の私にははかりかねます」
クロムウェルは、かっと目を見開いた。それから両手を振り上げると、大げさな身振りで演説を開始し始めた。
「『結束』だ! 鉄の『結束』だ! ハルケギニアは我々、選ばれた貴族達によって結束し、聖地をあの忌まわしきエルフ共から取り返す! それが始祖ブリミルより余に与えられし使命なのだ! 結束には、何より信用が第一だ。だから余は子爵、君を信用する。些細な失敗を責めはしない」
ワルドは深々と頭を下げた。
「その偉大なる使命のために、始祖ブリミルは余に力を授けたのだ」
フーケの眉が、その言葉を聞いてぴくんと跳ねた。力? 一体、どんな力だと言うのだろうか。
「閣下、始祖が閣下にお与えになった力とはなんでございましょう? よければ、お聞かせ願えませんこと」
自分の演説に酔っているかのような口調で、クロムウェルは続けた。
「魔法の四大系統はご存知かね? ミス・サウスゴータ」
フーケは頷いた。そんな事は、子供でも知っている。火、風、水、土の四つだ。
「その四大系統に加え、魔法にはもう一つの系統が存在する。始祖ブリミルが用いし、零番目の系統だ。真実、根源、万物の祖となる系統だ」
「零番目の系統……。まさか、虚無?」
フーケは自分でその単語を呟いてから、思わず青ざめた。それは、今では失われてしまった系統だ。どんな魔法だったのかすら、伝説の闇の向こうに消えている。この男は、その零番目の系統を知っているというのだろうか。
「余はその力を、始祖ブリミルより授かったのだ。だからこそ貴族議会の諸君は、余をハルケギニアの皇帝にする事を決めたのだ」
クロムウェルは、ウェールズの死体を指差した。
「ワルド君。ウェールズ皇太子を、是非とも余の友人に加えたいのだが。彼はなるほど、余の最大の敵であったが、だからこそ死して後は良き友人になれると思う。異存はあるかね?」
ワルドは首を振った。
「閣下の決定に異論が挟めようもございません」
クロムウェルは、にっこりと笑った。
「では、ミス・サウスゴータ。貴女に、『虚無』の系統をお見せしよう」
その言葉に、フーケは息を呑んでクロムウェルの挙動を見つめた。
クロムウェルは腰に差した杖を引き抜くと、詠唱を始める。
低い、小さな詠唱がクロムウェルの口から漏れる。フーケがかつて聞いた事のない言葉だった。
詠唱が完成すると、クロムウェルは優しくウェールズの死体に杖を下した。
すると、次の瞬間驚愕すべき事が起こった。冷たい躯であったウェールズの瞳が、ぱちりと開いたのだ。その光景に、フーケの背筋が凍り付く。
ウェールズはゆっくりと身を起こした。青白かった顔が、みるみるうちに生前の面影を取り戻していく。まるでしおれた花が水を吸うように、ウェールズの体に生気がみなぎっていく。
「おはよう、皇太子」
クロムウェルが呟くと、蘇ったウェールズはクロムウェルに微笑み返した。
「久しぶりだね、大司教」
「失礼ながら、今では皇帝なのだ。親愛なる皇太子」
「そうだった。これは失礼した、閣下」
ウェールズは膝をつくと、臣下の礼を取った。
「君を余の親衛隊の一人に加えようと思うのだが。ウェールズ君」
「喜んで」
「なら、友人達に引き合わせてあげよう」
そう言って、クロムウェルは歩き出した。その後を、ウェールズが生前と変わらぬ仕草で歩いていく。
フーケは呆然として、その様子を見つめていた。クロムウェルが思い出したように立ち止まり、振り向いてワルドに告げる。
「ワルド君、安心したまえ。同盟は結ばれても構わない。どのみちトリステインは裸だ。余の計画に変更はない」
ワルドは会釈した。
「外交には二種類あってな、杖とパンだ。とりあえずトリステインとゲルマニアには温かいパンをくれてやる」
「御意」
「トリステインは、なんとしてでも余の版図に加えねばならぬ。あの王室には『始祖の祈祷書』が眠っておるからな。聖地に赴く際には、是非とも携えたいものだ」
そう言って満足げに頷くと、クロムウェルは去って行った。
クロムウェルとウェールズが視界の外に去った後、フーケは顔を青くしながらもやっとの思いで口を開いた。
「あれが、虚無……? 死者が蘇った。そんな馬鹿な」
その呟きを聞いて、ワルドが言った。
「虚無は生命を操る系統……。閣下が言うには、そういう事らしい。俺にも信じられんが、目の当たりにすると信じざるを得まいな」
フーケは震える声で、ワルドに尋ねる。
「もしかして、あんたもさっきみたいに、虚無の魔法で動いているんじゃないだろうね?」
するとワルドは、まさかと言うように笑った。
「俺か? 俺は違うよ。幸か不幸か、この命は生まれつきのものさ」
それから天を仰ぎながら、
「しかしながら……あまたの命が聖地に光臨せし始祖によって与えられとするならば……全ての人間は『虚無』の系統で動いているとは言えないかな?」
フーケはぎょっとした顔になって、胸を押さえて自分の心臓の鼓動を確かめる。生きているという実感が、急に欲しくなったのだ。
「そんな顔をするな。これは俺の想像だ。妄想と言ってもよい」
ほっとフーケはため息をついた。それからワルドを恨めしげに見つめると言った。
「驚かせないでよ」
ワルドは右手で、金木に切り落とされた左腕の辺りを撫でながら言う。
「でもな、俺はそれを確かめたいのだ。妄想に過ぎぬのか、それとも現実なのか。きっと聖地にその答えが眠っていると、俺は思うのだよ」
そしてぎりっと奥歯を強く噛み締めると、アルビオンの青空を睨み付けるように見ながら吐き捨てる。
「そのためには、まだ生きているあの化け物が邪魔だ。聖地に向かうために、あいつの命を奪う必要がある」
そんなワルドの様子を見て、フーケはついにさっきから気になっていた事を口に出した。
「あのカネキって奴、そんなに厄介なのかい? 確かに強いかもしれないけど、それだけだろう? レコン・キスタって組織でかかれば、すぐに叩き潰せるじゃないか。そんなに気を張る必要はないと思うけどねぇ」
するとワルドはふんと鼻を鳴らしながら、フーケに言う。
「お前は奴の本当の力を見ていないからそう言えるのだ。あいつの見た目は俺達人間と同じだが、中身は全く違う。奴の持つ、力の質そのものもだ。さっき閣下はウェールズを最大の敵と言っていたが、それは違う。最大の敵は、あいつだ。あいつを殺さなければ、俺達レコン・キスタの野望が果たされる事は無い」
それを聞いて、フーケはさらに困惑した。彼の金木に対する警戒心は尋常なものではない。彼自身だって風のスクウェアの実力者だというのに、だ。無論慢心は注意すべき事だが、それにしても警戒心が強すぎるようにフーケには思えてならない。一体この戦場で、彼は金木の何を見たというのだろうか。
フーケのその疑問に答える者は、その場には誰一人もいなかった。