延々と振り続ける雨の中、蓮子の声が聞こえたような気がした。そんな筈ないのに。幻聴? だとしたら相当参ってるのかも。
私は永遠に明けることのない夜空を見上げる。雲ひとつない星空からは水の雫がとめどなく落ちてきていた。
足に茨が巻き付いた椅子の背もたれにしな垂れ掛かる。服も帽子もびしょ濡れになっているけれど……どうでもよかった。
……ここには誰も辿り着けない。真実も、今も、未来も……暗い森に迷う。ここにあるのは私と鬱蒼とした森と足元の水溜り、そして私が座る木彫りの椅子一つだけだ。
「仕方がない、よね」
これは私が望んだことなんだから。私は袖で顔を拭う。
ささやかな抵抗のつもりだった。いつか分かたれるその時が怖くて、変わりたくないと思った。今が奪われるくらいなら全てを閉ざして眠ってしまいたいと軽率に願ってしまった。
「わかってるわ。私が望んだ事だもの」
ここは私の夢の中だ。私の望みが、この夢の中に反映されている。だから私はこんな森の中にいるんだろう。
あの時……灯台の上で私が見たのは多分『猿の手』だ。とある短編小説に出てくる、魔力を持った猿の手の、ミイラ。
三つの願いを叶えるが、その代わり様々な代償を払っていくホラーモノだ。なるほど、だとしたら私の代償は孤独になること、なのかしら。
「ふふ、私って意外とメルヘン趣味なのかもしれないわね」
深い森の中で夢を見続ける。さながらいばら姫みたいだ。
……馬鹿馬鹿しい。自分が望んだ癖に、悲劇のヒロイン気取り? 自嘲気味に笑う。
私はきっと現に帰ることはない。紫が差し伸ばした手を、私は自分で振り払って、この森の中に閉じ籠ったのだから。
けれどもし……もし私の手を引いて連れて帰れるとしたら、きっと……
「そこの貴女、こんな辛気臭い場所で何やってるの?」
どれくらいの時間が経っただろうか? 不意に誰かの声がした。私は思わず椅子から飛び上がって辺りを見回す。
淡い期待はあった。けれど目の前にいたのは、灰色のパーカーとプリツスカートを着た見慣れぬ少女だった。闇の中でフードを被っているせいで、顔は見えない。わかるのは、私達と同じくらいの歳の女の子であろうことだけだった。
「誰……?」
「別に名乗る必要ないでしょう? 私は貴女とお友達になりに来たわけじゃないんだし。私は異変を解決しに来ただけよ」
「異変って……」
私が戻っていると、パーカーの少女がゆっくり歩いてくる。夏に似つかわしくないロングブーツが水溜りを蹴り飛ばす。
確か紫と北斗は、幻想郷で起こっている事象を『異変』と呼んでいた。だとしたら、今、目の前にいる彼女は幻想郷の住人? あるいは……
「紫の、知り合い?」
「……今、なんて言った?」
少女の歩みが止まり、フードの奥から睨まれる。案の定だ。
紫はもう私の夢の中に入れない、入れないようにした。だから別の人を寄越したのだろうけれど、わざわざ北斗じゃなくて赤の他人を使うんだから陰湿だ。
……嫌いだ。人の気持ちをまったく考えていない。機械的に問題を解決しようとするそのやり方に嫌悪を覚えて仕方がない。まるで私は……ただのスペアパーツじゃないか。
違う、違うもの! 私は、私だもの! 誰かの代用品として生まれてきた訳じゃない。私は……紫じゃない!
「出てって。ここは私の夢なんだから、勝手に入らないでよ!」
自分でも何を言ってるかわからない。けれど、叫ばずにいられなかった。腹の底から湧き上がって来る恐怖に耐えられない。怖くて怖くて仕方がなくて、絶叫する。
「何も見たくない、知りたくない。みんなみんな……居なくなってよッ!!」
その瞬間だった。椅子に纏わりついていた茨が伸びて、パーカーの女の子のくるぶしに絡んだ。植物の蔦のありえない動きに、私は唖然としてしまう。
「……ッ! これは……!」
が、そこで気付く。この茨が私の意思に反応して動いていることに。
そうだ、これは……ここは私の夢だ。だから私が望んだように、この女の子を排除しようとしているのか。
気持ち悪い。力付くでも追い返そうとする自分のおぞましさ、帰りたくない本心が混じり合って、私は指先一つ動けなかった。
どうしたらいいかわからない。ただ今は、この現実の刺客を遠ざけたい欲望が優っていた。
「来ないで……来ないでよッ!!」
私が叫びに呼応するように森の奥から無数の茨が伸びてくる。彼女の四肢に絡みつき、そのまま森の奥に引き摺り込もうと引っ張っていく。
しかし、女の子は抵抗しない。ただ肌に食い込む茨の棘に顔をしかめているだけだった。
「そう……貴女、やっぱり人間じゃないわね。半成りってやつかしら?」
不意に女の子が独り言を呟く。半……成り……? それが耳に届いたと同時、足へ巻き付いていた茨が風船の割れるような音と共に弾けた。
あまりに大きな音で、私は一瞬目を閉じてしまう。そして恐々と目を開けてみると、目の前から赤い閃光を放つ何かがいくつも飛来していた。
思わず頭を抱えてしゃがみこむ。けれど、それらは私の腕や身体に張り付き私の動きを奪った。
水溜りの中で這いつくばるような姿になりながらも、私はなんとか首だけもたげる。
「あ、なたは……」
「……これでも私は人間よ。貴女と違ってね。まあ、どうでもいいけれど」
そう言って女の子はゆっくりとこちらに近付いてくる。
その手には何が書かれた数枚の紙切れが握られている。私の手足に張り付いていたのもそれだ。北斗が使っていたお札に似ているけれど……
女の子は目の前までやってきて、フードの奥から私を見下ろしてくる。降り頻る雨の中、少女と目が合う。
日本人形のように端整で白い肌の、可愛らしい女の子の顔だ。なのにその瞳はゾッとするほど感情が抜け落ちていた。
全身が凍り付いたように動けなくなる。特別な力なんかない。恐怖による作用だ。
「や……こな……い、で……」
「貴女が元凶かどうか、わからないけれど……この世界を作っているのが貴女なのは間違いない。なら、やることは一つ」
少女がそう言った瞬間、肩に激痛が走った。自分の声帯から発したとは思えない金切り声が出る。
歯を食いしばりながら水溜りから顔を上げると、左肩に白い紙の付いた棒が突き刺さっているのが見えた。先が鋭利なわけじゃないのに、それは段々と傷口深く侵入してくる。その度に私はただのたうち回ることしか出来なかった。
「……貴女を退治してみれば、何かしらのヒントが得られるんじゃないかしら。それに、何で紫のことを知っているかも気になるし」
感情の起伏の少ない声音で呟かれた言葉に、私は反応出来ない。痛みを和らげようと浅い呼吸を繰り返すので必死だった。
「安心しなさい。夢の中だから死にはしないわ。きっと何か失ったりもしない。ただ目覚め悪い夢を見るだけよ……あぁ、その前に紫のことは話してもらうわね」
「ゆ、め……」
そういえば以前衛星トリフネの中の夢を見た時、怪物に襲われて怪我をしたことがあった。もしここでも、あの時のように夢の中の傷が残ったとしたら……
今ここで死んだら、現実の私も死ぬ。
私は唯一動く首を振り、必死に抗おうとする。けれど、わずかに身動ぐことしかできない。あまりに恐ろしくて……声は出ないほどに、体が竦んでいた。
頭をブーツで踏みつけられる。体重は掛けられてないと思えるくらい軽い。けれど、この少女なら頭を踏み抜くくらい平然と出来てしまいそうな気がして、歯がガチガチと鳴った。
「ぃ……いや……だ……」
「さあ、話しなさい。なんであのスキマ妖怪のことを知ってるの? 素直に話せば、せめて痛みなく退治してあげ……ッ!」
言葉の途中、誰かが走る靴音が響き渡った。それは水を蹴り飛ばしながら近付いてくると、不意に頭に乗せられたブーツの感触がなくなる。すぐさま顔を上げると、パーカーの女の子とカッターシャツの女の子が取っ組み合いになっていた。
「メリーから……離れなさいよ!」
「ちょ……なんなのよ貴女!?」
カッターシャツの少女は細い腕でパーカーの少女を地面に押し付け、馬乗りになる。泥が跳ね、びしょ濡れの白いシャツにシミを作っていく。その後ろ姿に、私は飛び跳ねるように立ち上がる。
「蓮子!? どうしてここに……」
「何でって、そんなの考えなくても……キャッ!?」
蓮子がよそ見をした瞬間、身体が大きく吹き飛ばされる。水溜りだらけの地面を転がる姿を見て、私は思わず蓮子に駆け寄った。
「ちょっと!? 大丈夫!?」
「あたた……って、それは私の台詞よ、メリー! その肩の傷! 大事なの!?」
ところが蓮子はすぐさま身体を起こして、逆に私の両手を掴んで揺すってくる。それが逆に患部に響いて痛いんだけれどね!
それはともかく、どうしてここに蓮子が、しかも一人で……?
「……ねえ、蓮子。一体これは」
「どういうことなのかしら? 人間が、妖怪を庇うなんて」
私の言葉を遮るように、パーカーの少女が起き上がる。いや……いつの間にか立ち上がっていた。それに今、一瞬姿が掻き消えたような……
女の子はドロドロになったパーカーのフードを外し、黒く長い髪を露わにする。髪飾りも何もない、ストレートヘアーだ。
「……貴女、自分が何やったかわかっているの?」
「は?」
パーカーの少女の咎めるような言葉に、蓮子が露骨に喧嘩腰になる。
普段は能天気な蓮子だけれど、こういう時は無類の面倒臭さを発揮する。相手が折れるまで問い詰め続けるし、向こうから謝るまで食い下がる。
「それはこっちの台詞よ。さっきから偉そうに言って……」
あぁ、マズイ展開だ。頭に血が昇ってしまっている。反骨精神は評価したいところだけれど、今回は相手が悪かった。
本人はただの人間だと言っていたけれど……この子は北斗のような妖怪とも戦える人間だ。私達なんて赤子の手を捻るように倒せてしまうだろう。
「ちょ、ちょっと蓮子……」
「途中からだけど聞いてたわよ、さっきの話。勝手に妖怪呼ばわりで悪役決めつけて……正義のヒーローのつもり? バカじゃないの?」
完全に茹で上がってしまった様で、立て続けに捲し立てる。手が届いていたなら噛み付いていたかもしれないと思うほどの剣幕だ。パーカーの子も目を白黒させている。
「メリーは……人間よ! アンタがどう思おうとも、私がそう思っている限り!」
「そんなの貴方だけが言っても、何の意味も……」
「ないとは言わせないわ……!」
蓮子は少女の言葉を掠め取りながら、一歩踏み出す。そして、すっかり水を吸ってしまったカッターシャツの襟元を握りしめ、噛みしめる様に言う。
「アンタがメリーを妖怪とも決めつけたように、私もメリーを人間だと……信じ抜くから」
その誓いにも似た言葉を聞いて、私は身体の芯から熱いものと鉄の味のような苦々しいものが込み上げてくる。
……もし私を助けられるとしたら、連れて帰れるとしたら蓮子しかいない。そう思っていた。ううん、そう……願っていた。
だからこそ、この夢の中では常に星空が見えているのだろう。蓮子だけは迷わず辿り着けるように。
そう、来てくれて凄く嬉しかった。それは偽りようもない本心だ。けれど、私は……
「それじゃ……たしは……れいの……にしか……」
ふと雨音の中に誰かの独り言が混じる。
うまく聞き取れなかったけれど、それが目の前のパーカーの女の子なら発せられたものだってことはすぐわかった。妙にその独り言が気になって、聞き返すべきなのか迷う。
そんな僅かな間幕に、突然巨大な地響きが割って入ってくる。森の木が軋み、夜空に浮かぶ水面が激しく波打ち始め、雨足が強くなっていく。
「蓮子!?」
「ッ! これは……」
「夢が覚めようとしてるわね」
私と蓮子でお互いに抱き合うように支え合っていると、平然とした声が飛んでくる。鳴り止まない地鳴りの中恐々と顔を上げると、パーカーの正直が直立不動のまま私達を指差していた。
「きっと貴女が来たせいね。ま、どうでもいいけれど。結局いくら煽っても元凶は現れないし、骨折り損だわ」
女の子は水を吸った髪を撫で付けながら、辟易とした表情を浮かべる。
私は状況も忘れてそれを見つめてしまう。その姿は、先までの人間味のない様子とは正反対の、少女らしい仕草だった。
「老婆心で忠告しといてあげる。貴女の見ている夢は願いを歪ませる『甘い悪夢』よ。貴方達は二度夢を見た。なら三度目はない。夢の果てが貴女達から全てを奪うわ。ま、どうでもいいけどせいぜい夢見には気をつけなさい」
女の子はそれだけ言うと、私達に背を向け歩き出す。それを見て、隣で片膝を突く蓮子が地鳴りに負けないよう声を張り上げる。
「待ちなさいよ! メリーに酷いことしといて……何も言わず帰るつもり!? 一言くらい謝りなさいよ! 後、アンタは何者なの!?」
「……初対面の相手に随分求めるわね。私が誰かなんてどうでもいいじゃない。貴女達が異変にこれ以上関わらないなら、私と会うことはないんだから」
「そんなの……」
「……まあ、そこの金髪の異邦人さんには悪いことしたとは思っているわ。だから紫の事は聞かないでおいてあげる。けれど……次はその程度では済まないわ。今日以上に痛い目見たくなかったら、首を突っ込まないことね」
女の子は背中越しにヒラヒラと手を振ると、まるで陽炎の如く消えてしまった。音も何もない。まるで元より誰も居なかったかの様だった。
私達は雨に打たれながら狐に化かされた様な呆気なさで、少女の居た場所を呆然と眺めていたが……一際強くなった雨の粒が鼻先を叩く。
見上げると夜空に浮かぶ湖が重さに耐えきれなくなった様に、こちらに落ちようとしていた。あんな水量に押し潰されたら確実に死ぬだろう。逃げる術は……
「メリー、あれ!」
「ッ……!」
蓮子が指で示した先を向く。すると、そこにはドアほどの大きさのスキマが開いていた。
計ったかの様なタイミング。そこで私は確信する。ううん、薄々勘付いてはいた。蓮子が一人でここまで来れるはずがないもの。必ず、紫が手助けしてるだろうと。そして……私の夢の中に入れなくとも、監視はしているだろうと。
「……帰ろう、メリー。さっさと帰って、シャワー浴びて、北斗に暖かいもの作ってもらいましょ」
蓮子はニッコリと笑いながら、右手を突き出してくる。その甲は傷だらけで、ここまで森を掻き分けてやってきたのがありありと伝わった。
どんな時でも平然と、いつも通り、当たり前の様に差し伸べられた蓮子の手。今まで、私を引っ張ってくれた、私について来てくれたその手を……
私は、取ることが出来なかった。
「メリー……?」
「蓮子、私は……」
帰りたくない。そう言おうとした声は、音にならならない。蓮子に届かない。震えでまともに喋ることもできなかった。ずっと私に降り注いでいた雨が、心を凍えさせていた。
蓮子と目が合う。真っ黒な瞳が動揺に揺れていた。
「なに、してるの……! ここにいたらメリーは……」
……瞳だけじゃない。差し出された手も小刻みに震えていた。
今の私は蓮子の目にどう映っているのだろうか。それを考えると息が出来なくなる。
ずっと信じていた。蓮子ならどこにでも連れて行ってくれるって。どんなことになろうと私の手を握って隣に居てくれるって。
けれど、だからこそ……今は、蓮子が、怖かった。
蓮子は必ず辿り着く。辿り着いてしまう。私が何なのか、紫と私がどういう関係なのか、私達の結末を、まるで無垢な子供の様に無邪気に秘密を暴いてしまう。
怖い。元の知るために生きる世界が怖い。紫を、真実を、北斗を、これから先を、こいしを、変わっていく世界を、知るのが怖くて堪らない。
「メ、リー……やだ、待ってよ。置いてかないでよ、私を一人にしないで、お願い、いや、いや、メリー、お願い、教えてよ、私、こんなサヨナラは……」
うわ言のように、縋り付くように蓮子が言葉を連ねる。けれど、頭の中に一切入らなかった。ただ怖い怖い怖い……
雨が一気に強くなる。土砂降りを通り越し、鉄砲水のような水流が頭に降ってくる。私は抗いもせず、それに吞み込まれた。ぐるぐると回転する暗い視界にいくつもの気泡が舞い上がり、私は揉みくちゃにされる。
そんな中、一瞬だけ誰かの手が視界に入った気がする。けれど、誰の手か確かめることはできない。
私は何も理解できないまま、目を閉じて肺の空気を全て吐き出した。
……最後まで私に手を伸ばしてくれるのね、蓮子。
嬉しいよ。貴女が、私を求めてくれて、本当に……嬉しいの。
けれどね、私は……やっぱり貴女が怖いの。
知りたくないと駄々をこねて、こんな森の中に閉じ籠った私を……蓮子はどう思っているのか。それが何より一番怖くて……
ねえ、蓮子。知りたくないと思うのは……いけないことなのかしら?