絨毯も何も敷いてない床、小さめの衣装ケースの中には最低限の衣服。取って付けたように置かれた机と椅子、そして部屋の端には真っ白なベッド……
おにーさんの部屋は随分飾り気がなかった。夏なのに薄ら寒く感じるくらいだだっ広い空間で、おにーさんは一人眠っていた。
耳を澄ましても夕立の音と雷鳴がするばかり、おにーさんの寝息は聞こえてこない。息をしてないかも、とちょっとだけ心配になるほど静かな眠りだった。
「起きないねー……」
暗い部屋の中、私はベッドの傍に座っておにーさんに話しかけてみる。けれど当然起きない。蓮子を助けると言って、スキマ妖怪と一緒に眠ってそれっきりだ。
おにーさんとメリーは夢の中の世界に入ったまま一度も帰ってきていなかった。スキマ妖怪曰くおにーさんの意思で残ったらしいから、大丈夫だと思いたいけれど……
もしかしたらこのまま目を覚まさないかもしれない。そんな根拠のない不安が頭の片隅にあった。嫌だ。このままずっと話せなくなるのは、とても、嫌だ。
「ま、おにーさんの寝顔が見れるのは嬉しいけど」
私はおにーさんのホッペを突きながら独りごちる。以外とモチ肌だ。
……そういえばおにーさんが寝てるところ、見たことない。どうやら一番遅くに眠って、一番早くに起きているみたい。もしかしたら眠っていないかもしれないって、メリーも話していたし……この際だ、しばらく眠ってもらった方がいいかも。
そうだ、いい事思いついた。今朝メリーが蓮子にやったみたいに……
「……お楽しみのところ悪いけれど、いいかしら?」
私が北斗のベッドに入り込んだところで、突然部屋に電気が付く。掛け布団から顔を出すと、まさに紫が部屋に入ってくるところだった。せっかくこれからおにーさんを満喫するところなのに、お邪魔虫は馬に蹴られて潰されればいいよ。
「私に何か用?」
「見られてもやめはしないのね。まあ、その格好の方が都合がいいけれど」
「……どーいうこと?」
私が掛け布団に包まりながら小首を傾げる。やめるつもりはこれっぽっちもないけど、変な事を言われたら気になってしまう。
紫は私達が横になっているベッドの側まで歩いてきて、近くにあった椅子に腰掛けた。
「頼みがあるの。彼の夢の中に入ってくれないかしら? そして可能であれば連れ戻して欲しいの」
「いーけど。何で私だけ? 紫は行かないの?」
私は即答しつつ尋ねる。
おにーさんの夢の中にはいるのはいい、むしろウェルカムだ。とても気になる。けれど紫が来ないのは変な気がした。むしろ私に行かせるくらいなら紫自身が行った方が手っ取り早いと思うんだけど……
そこら辺どうなのか知りたくて聞いて見たんだけど……返事は遅い。紫は困ったような笑顔を浮かべていた。
「私じゃ余計な事を言って事態をややこしくしてしまうから。結局私はどうやっても裏で糸を引く悪役にしかなれないと、自覚していたはずなのにね……」
「凹んでる?」
率直に思った事を聞いてみると、時間が止まったみたいに紫の動きが止まる。けどすぐに、重苦しいため息と共に動き出した。
「瞳を閉じた覚妖怪が、どうして心が読めるのかしら?」
「読んでないよ。顔に出てたから何となくわかっただけ。きっとおにーさんも蓮子もメリーも気付くと思うよ」
「……あの子達にだけは知られたくなかったのだけど、私もまだまだね」
そう言って紫は耳に髪を掛け、ため息を漏らして小さく笑った。頬が引き攣っている。それは無理に笑っている様にも見えて……
私はベッドから身体を起こして紫に向き直る。窓の外で一際大きな雷鳴が鳴り響いて、眠っているおにーさんの身体がほんの僅か身じろいだ。
お互いどれくらい黙っていたか、おもむろに紫が目を閉じ、俯く。
「ごめんなさい……少し、吐き出すわ」
「吐き出す……?」
「今回の件は、私が二人から目を離した隙に起こってしまった。完全に、私の……落ち度よ」
「………………」
「それだけじゃない。夢の中に入って助けられるのは私だけと気負ってメリーを助けに行ったのに……逆に事態を悪くしてしまった。本当に、最悪だわ」
紫の口から弱音が次々と溢れていく。あのスキマ妖怪とは思えない、言葉の数々に私もびっくりしてしまう。幻想郷の妖怪の中でも相当な力を持ってるはずの八雲紫が、まるでどこにでもいる人間の少女のような顔をして落ち込んでいた。
きっと蓮子にも、北斗にも……メリーにも隠し続けていた姿なんだと思う。三人の前では隙を見せたくなくて、それでも吐き出してしまいたくて、一番どうでもいい私に言ったのだろう。
「ねぇ、紫。紫は、メリー達の何になりたいの?」
「………………」
愚痴を聞く……それを嫌だとは思っていない。恨みもないし、悪意もない。けれど、気付けば自分でもなんで聞いたかわからない問いが、口を衝いていた。
紫の肩が跳ね上がる。まるで傷口に塩を塗りつけたみたいな反応だった。そんな反応を見て、私は慌てて首を振ろうとする。答えなんて聞きたくないって。けれど、その前に紫が椅子から立ち上がる。
「……何にもなるつもりはないし、なれないわよ。私はね」
雨音に掻き消されそうなほどか細い声で呟くと、私の目を塞ぐように手をかざしてくる。その瞬間、抗いようもないほどの眠気が体を支配した。身体がベッドに崩れ落ちる。目蓋が勝手に落ちていき、煩かった雷雨の音も遠ざかっていく。
……よっぽど話を打ち切りたかったのか、強引に夢の中へ落としにきたみたいだ。
自分勝手に愚痴り始めたと思ったら、体裁が悪くなったら逃げる様に眠らせて……自分が聞いてしまったのが悪いんだけど、卑怯だと思った。
やっぱり妖怪の心も、人の心も、覗いても落ち込むだけね……
結局紫は、メリーの何かになりたいんじゃないか。
寄せては返すようなゆったりとした音がする。目を開けると、そこには雲一つない夜空とそれを写す巨大な湖があった。足元を見下ろすと滑らかな砂場で、波がブーツのつま先を洗っている。
ああ、そうだ、湖じゃなかった。これは、海って言うんだった。
おにーさんに教えてもらった。果てが見えないほど大きくて、しょっぱい水で出来てるらしい。
いつか連れて行って欲しいって考えてはいたけれど、夢の中で連れて来られるとは思ってもみなかった。
私は風に飛ばされないよう帽子を抑えながら辺りの暗がりを見回すが、人の姿はない。
「おにーさん、どこにいるのかな?」
背後は切り立った崖になっていてこの砂場を囲むように並び立っているみたいだ。それをなぞるように眺めていると……その一番先端に長いチェスの駒のような形をした塔が、回転するレーザーのような光を放っていた。
「なんだろ、あれ」
よくわからないけれど、その光のおかげで崖に沿うように設置された階段も見つけることが出来た。今の所行けそうな場所は……あそこくらいしか見当たらない。
このまま夜の海を眺めていたい気もするけれど……どうせ眺めるならおにーさんと一緒がいい。まずはおにーさんを探さないとね!
「ザクザク、チャプチャプ、ランランラーン」
私は砂を踏みしめる感触と海が奏でる波の音を楽しみながら、半分散歩のつもりで光を放つ塔を目指した。
スキップしながら石の階段を登り切ると、その塔が結構な大きいことがわかった。見上げると首が痛くなるほどだ。もしかしたら見張り台なのかもしれない。海でも見張ってるのかな?
よくわからないけど……サビサビの扉はあんぐりと口を開いていて、いつでも入れるみたいだった。
「この中におにーさんがいるのかな?」
辺りはゴツゴツとした岩と草原ばっかりで、誰もいない。
やっぱりこの中しかないよね。立ち止まっていても仕方がないし、入ってみよう。
塔に足を踏み入れてみると、中はまるで地底の様に薄暗かった。天井にある部屋から溢れる灯りが唯一光源みたい。ずっと聞こえていた波の音もくぐもって聞こえる。自分の息が聞こえそうなほど静かだ。
「んー……?」
……どうやら壁際の階段を登れば灯りのある部屋に行けるみたいだ。飛んで行ってもいいけれど……せっかくだ、最後まで自分の足で登ってみよう。
流石に外の階段みたいに、スキップでは登れない。転けたらアゴとかぶつけて痛そうだし、一段一段踏みしめる様にゆっくりと登っていく。
「……なたの……ねがいは……ですか」
「……うだな。あえて……なら……」
半分くらい登ったところで、部屋の方から微かに声が聞こえてきた。誰かが話をしているのかな?
気になった私は階段を一気に駆け上がって、部屋の前まで辿り着く。
部屋を覗き込むと吊カンテラが、ガラクタだらけの部屋を照らしていた。そこにいたのは、黒いローブで身体を覆い隠している誰かと……黒ずくめの男の人の二人だ。それぞれ近くに椅子があるのに二人ともそれに座らず、テーブルを挟んで立っている。
「祈りは届いた。しからば叶えましょう、貴方の願いを! 運命を捻じ曲げるほどの力で、貴方の旅路に私がしるべを与えましょう」
部屋の奥に立っていた黒ローブが、案外高い声で叫びながら左腕を振り上げる。その手には真っ黒なミイラの腕が握られていた。
この説教臭そうな声、何処かで聞いたことがある声な気がする。けれど、思い出せない。私が記憶を掘り返している間も、黒ローブは威勢の良い言葉を続けた。
「嵐の暗夜行路を征く者達よ、灯火に向かい、ひた走りなさい! 己が運命を捻じ曲げた末に、辿り着いた先を……刮目するのです」
「……その必要はないです」
独りで楽しそうに盛り上がる黒ローブを無視するように、手前に立つ男性が低い声で呟く。瞬間、黒ローブの動きがピタリと止まった。カランカランと、カンテラが揺れる音が妙に耳につく。
「俺の願いは俺自身で叶えます。他人に変えてもらう筋合いはありません。そうでないと最後に俺が納得できない」
「……その傲慢さ故に、貴方の船は暗夜の海を彷徨うことになる。その願い、永久に失われていいのかしら?」
男性の言葉に、黒ローブがよくわからない例えで返す。すると男性は大袈裟に肩を竦めてみせた。その仕草で、ようやく私は気付く。男性の右の二の腕から先がないことに。長袖がヒラヒラとなびいていることに。
「脅しても無駄です。俺の願いは誰のものでもない、俺のものです。貴方に一片たりとも渡しやしません」
「………………」
「それに……どうせ叶えられるのは夢の中の話でしょう?」
男性……右腕を失ったおにーさんが不敵に嘲笑うと、ローブの奥の眼光がさらに鋭くなる。カンテラの光の加減で見えないけれど、少なくとも良い顔をしてないことくらい心が読めなくてもわかった。
おにーさんは右腕を動かしかけて……慌てて左手で指を指す。
「そのミイラ、『猿の腕』……でしたっけ? 以前知り合いから聞きました。どんな願いでも三つだけ叶える代わりに、運命を捻じ曲げ人を不幸にする呪いの腕」
「………………」
「蓮子とメリーに対してなんて言ってそそのかしたかはわかりませんが、二人を騙したツケは払ってもらいますよ」
おにーさんは腰の刀を左腕一本で器用に抜くと、その切っ先を黒ローブに突き付けながら言う。
敬語を使ってはいるけれど、おにーさんが怒っているのは心を読まなくてもわかった。
私は思わず自分の腕を抱きしめる。もし私が蓮子を殺していたら、おにーさんは私にどんな表情を向けていたのか……考えると、怖くなった。
そうしていると、不意に黒ローブがミイラを握る左腕をゆっくり下ろしていく。そしてややトーンダウンした口調で喋り始める。
「そそのかした、なんて人聞きの悪いことを。願ったのは彼女達なのに。迷い苦しんでいた彼女に光を与えただけなのに。闇雲に彷徨った末の無為な死と、願いに辿り着いた先にある永遠の夢。どちらが幸福か、誰だってわかるでしょう?」
「到達点も、幸せも……自分で決めるものです。やはり貴方は他者の夢を勝手に歪めて弄んでいるだけ。願いを叶えるなんて大層なものじゃありませんよ」
明確な否定。それを聞いた黒ローブは何も言わず……マントを翻した。
その瞬間、カンテラが作り出す影から小鬼が三匹浮かび上がり、間髪入れず飛びかかってくる。
「おにーさん!」
「ッ!」
唐突な襲撃に私は思わず叫んでしまうが、おにーさんはそれより速く動いていた。
足元の羊皮紙を蹴り上げて正面の一匹の視界を潰すと、刀を振り下ろし羊皮紙ごと切り裂く。そしてすぐさま左側から来た小鬼を回し蹴りで蹴り飛ばす。が、右側の小鬼の迎撃が間に合いそうもない。
「やぁ!」
咄嗟に身体が動いていた。私は助走からの飛び蹴りで小鬼を蹴り飛ばす。小鬼は部屋を照らしていたカンテラにぶつかって床にへたり込んだ。
カンテラが床に落ちて割れ、中の火のついた油が部屋に撒き散らされる。たちまちガラクタに燃え移り、部屋の物を次々と焼き始めた。
そんな大惨事の中、おにーさんが驚きの表情で私の方を振り向いた。
「こいしちゃん!? どうしてここに!?」
「ずっと眠ってるから助けに来た! 正しくは起こしに来た!」
「あー、うん。とにかく助かった、ありがとう!」
おにーさんはお礼を言ってから私をかばうように前に出た。目の前で、火の粉と一緒に右の袖がヒラヒラと舞っている。
本当は腕のことを聞きたかった。けど、部屋が燃えてる手前そんな呑気に話してる余裕はない。それにおにーさんは私や蓮子達を心配させるようなことを喋らないだろうし。
部屋の中、舞い上がる炎は小鬼にも燃え移る。まるでダンスのように悶え苦しみながら狭い部屋をのたうっていた。けれど、黒ローブは一切見向きもしない。ただ私達を睨みつけていた。
「歪めた? 弄んだ? 願ったのは自分達だろう? 運命を捻じ曲げたのはお前だ。代償を払え。代償を払え。代償を払え。代償を……」
黒ローブは燃え盛る部屋の中で立ち尽くし、同じ言葉を何度も繰り返す。その異様な光景に妙な既視感を覚えて、私はこめかみを抑える。息苦しいの炎が作る煙のせいか、頭が割れるように痛かった。
「代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え」
「……それはこっちの台詞だ。俺の腕も、願いも……蓮子もメリーも! 全部返した上で懺悔しろ!」
噛み潰した苦虫を吐き捨てるように、おにーさんが叫ぶ。それが私の耳に届くや否や、黒ローブの空虚だった腕から無数の右腕が伸びる。
凄まじい勢いで部屋中に炎が舞い上がり、ついに黒ローブにも火が移る。深く被っていたローブが飴細工のように溶けていき、素顔があらわになった。
桃色のショートヘア、如何にも他人に厳しそうな瞳、そして頭には……二本の角。
「腕を寄越せ」
女性とは思えないしゃがれた低い声が火の音に紛れて聞こえる。それを皮切りに部屋中が無数の右腕と広がる炎に埋め尽くされる。
「逃げろこいし!」
そう言うとおにーさんは刀を捨て、私の手を取ろうと必死に手を伸ばしてきた。私も無意識にその手を取ろうとする。けれど私の指先とおにーさんの指先が触れた瞬間、指先に痺れる様な痛みが走った。私は正体不明の痛みに、思わず手を引っ込めてしまう。
その僅かな隙間が、仇となった。
無秩序にのたうち伸び回る右腕の束に、私とおにーさんは逃げる暇もなく飲み込まれてしまう。無数の手が私の肩を、腕を、髪を、足を、首を掴む。そのどれもが氷のように冷たく、肉のすえた匂いを帯びていて、鳥肌が立った。
これは死、そして欲望そのものだ。どうしようもなく嫌いで、ずっと目を逸らしたものが、今、私を捕まえ引き摺り込もうとしていた。
……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!
「いやああああぁぁぁぁっっっっ!!!!」
思わず私は目を瞑って叫んでしまう。頭にモヤが掛かり、記憶がフラッシュバックする。ナイフを振るう腕に絡みつく腕。爪を立てられ、血と血が混じり合う。何度も、何度も、何度も、無限にフラッシュバックが続く。
「こいし!」
脳内で繰り返される映像、それを遮ったのはおにーさんの必死な声だった。身体中を掴む腕とは違う、一本の暖かい腕が私の肩を抱き寄せる。
刹那、私を掴んでいた腕の感触が搔き消え、鼓膜が破れそうなほどの轟音が鳴り響く。勇気を出して目を開くと、目の前に夜空の星が広がっていた。
気付けば私はおにーさんにお姫様抱っこされながら、海に落ちようとしていた。塔の壁には穴が空いている。誰が空けたかわからないけれど、あそこから落とされたのか。
「飛べない……! 掴まってこいし!」
私は言われるがままおにーさんの首元にしがみついた。その間も水面がみるみるうちに近付いていく。つい抱きつく腕に力が篭る。
落下の衝撃が背中を叩いた。冷たい水の感触が服に染み込んでいく。海の水は思った以上に塩辛かった。
身体がフワリと浮き上がるが、それもほんの少しだけ。私とおにーさんはお互いを抱きしめ合ったまま、暗い海の底に沈んでいった。