作戦会議兼宴会の翌日。いいえ、もうすぐ日を跨ぐから……明後日の方が近いのかしら? 私と蓮子はとある高層ビルの屋上に立っていた。
連日熱帯夜が続いているけれど金網から吹き抜ける夜風で、随分と涼しい。微かに磯の香りも混ざっているけれど、残念ながら海は見えなかった。
「中々いい景色ね」
「出来れば高級フレンチでも食べながら見たいものだけれど……」
私は蓮子と冗談を言い合いながら眼下に広がる夜景を眺めていた。
ここなら目につかないし、戦いやすいという理由で紫に連れてきたのだけれど……むしろ狭いし、万が一の場合逃げ場がないんじゃないかしら?
そんな私の懸念を知ってか知らずか。給水塔の上に座っていた北斗が私達の隣に降りてくる。そしてわざとらしく息を一つ吐いてから、スキマの中の蓮子に話しかける。
「いいんだな、蓮子……」
「あれだけの啖呵切っておいて今更聞くの? 私の命預けたって言ったじゃない。私がどうなるかは北斗次第よ」
「……そうやってあっさり覚悟決められるのは羨ましいなぁ」
「何言ってんのよ……強がりに決まってるじゃない」
最後の言葉。隣にいる私にしか聞こえないほどの小さな声だった。この街に来てから、珍しい蓮子の弱気が何回も見ていた。弱い部分を晒してくれて嬉しいような、そんな気弱な蓮子見たくないような、何とも形容しがたい感情を抱いてしまう。
けれどそんなことを考えてる余裕、きっと今しかない。これから私達はメリーさん……もとい古明地こいしと戦わなければならないのだから。
「すぅ……はぁ……」
私は北斗の真似をするように深呼吸をする。
覚悟はしてきた……つもりだ。本来私は囮の役ではないので安全な場所で待っていた方がいいのはわかっているけれど……
蓮子だけに頑張らせたくない。だから北斗と紫に頼み込んでここにいさせてもらっていた。まあ、もう一つ理由もあるのだけれど。
「メリーも、安全な場所で待っていても……」
「私だけ仲間外れなんて嫌よ」
「さいで……」
私は北斗の勧告をぴしゃりと跳ね除けて腕を組む。
蓮子が命を張ってるのに、私が安全エリアから眺めているだけだなんて……そんなの対等じゃない。
そうだ、蓮子はきっと私と対等になりたいんだと思う。だったら私は私のやり方で彼女と対等でいるようにする。そうすればきっと……
山から海側へ吹き抜けていく風に帽子を取られないよう抑えながら考え込んでいると、北斗が軽く体を動かしながら言葉を続ける。
「一応言っとくが蓮子の『仕込み』がどこまで通用するかはわからないからな。過信はしないように」
「わかってるわ。けれど、過信しようとしまいと私達じゃなす術ないもの。蓮子も言っていたでしょう? 私たちがどうなるかは貴方次第だってね」
「いや、最悪の場合は逃げるなり何なりして欲しいから言ってるんだが……そんな気は無さそうだなぁ」
「「もちろん」」
私と蓮子が同時に言うと、北斗は諦めたように肩を竦めてから腰の刀を抜いた。準備万端といった感じかしら。
いよいよ始まる予感を覚え、身体が縮こまっていくのを感じる。
「だーれだ?」
「はっ!?」
そんな緊張のピークを見計らったように突然背後から話しかけられ、私は脊髄反射で振り向いてしまう。すると、プニッと右頬が潰された。
声の主は蓮子と同じ境目の中に立つ紫だった。満面の笑みで私と蓮子の頬に指を突き立てている。
「ふふ、まるで子羊みたく震えちゃって。安心しなさい、これでも北斗は頼りになるわよ」
「そんなことより貴女の悪趣味な悪戯に対して色々言いたいんだけれど!」
私は目くじらを立てて怒るけれど、紫はただ面白そうに眉を細めるだけだ。鈍感な蓮子も流石にイラッと来たようで、青筋を立てて紫を睨みつけていた。
北斗も呆れた様子で頭を抱えている。
「紫さん……時と場所を考えてください」
「あら、私は二人の緊張を解こうとしたのだけれど……」
「やり方が悪趣味すぎです。開始のタイミング、本当は蓮子に任せるつもりでしたけど紫さんのせいで完全にタイミングを逃してしまったじゃないですか。せめて空気くらいは読んでください」
「酷いわ、そんなに言わなくてもいいじゃない!」
よよよ、と紫が古臭い鳴きまねで茶化すと、北斗は諦めのため息を吐いた。
「あー、はいはい。気を使ってくれたことには感謝してますから……もう時間も遅いです。さっさとやってしまいましょう。蓮子、メリー、準備は?」
「さっきのデモンストレーションのおかげでいつでも大丈夫よ。ね、メリー」
蓮子が皮肉を言いながら私に左手を手を差し出してくる。意外と小さく細い手に指を絡ませると、しっかり握り返してくれた。
私は指先越しから伝わる体温を感じながら、横目で頷き合う。恐怖は熱に溶けてもうなくなった。大丈夫だ、蓮子が私の手を取ってくれている限り……
「大丈夫、かしら?」
「当たり前よ……離さないでね」
「もちろん」
私はそっと蓮子の手を引っ張る。すると蓮子は逆らうことなく……一歩踏み出した。スキマからこちらの世界に降り立つ。右手にはペン型のスマホを持っていていつでも着信に応じられる状態だ。
北斗と紫はただ口を噤んだまま、眼下に広がる夜景を金網越しに見つめている。二人とも緊張の様子もなく、構えすらない。場数の違いに感じられて頼もしいような悔しいような複雑な気分になる。
着信はすぐさま来る……わけもなく、私達は張り詰めた空気にずっと晒される羽目になった。
まるで心をジワジワと炙られているような焦燥感に駆られてしまう。きっと蓮子の手を取っていなかったら耐えられなかったかもしれない。私はそんな空気を紛らわそうと、空を見上げるが……
「星、見えないわね」
「……そうね。流石の私も月だけだじゃあ場所しかわからないわ」
この町の明かりは、高層ビルの上であろうと星の輝きをかき消せるほど眩しい。薄暗い夜空には月が孤独に光るばかりだ。駅の裏の神社では鮮明に見えたというのに……まるで同じ世界じゃないみたいね。
不思議な気分だ。秘密を探しに七代市まで来て、本当に巻き込まれることになって……今この瞬間だって実感が湧いてなかった。
実は蓮子の仕掛けたどっきりで、全部嘘でしたなんて言われた方が納得できるかもしれない。その時は蓮子が泣いて謝るまでぶってやるけど。
「はぁ……」
思わず口から吐息が漏れる。
これが私が……蓮子が望んだこと、なのかしら? わからない。もしかしたらこの一連の謎に終止符を打つことができたら、その答えが見つかるかもしれない。
今の私は何もできないけれど、せめてこの手だけは離さないでいよう。
そう心に決めたその時、静寂を切り裂くように蓮子のペン型のスマホが鳴動する。個性も何もないデフォルトの着信音。
来た……! 蓮子は右手で帽子を直してから、意を決して電話に出る。
「待たせたわね……貴女は何者、かしら?」
蓮子が余裕を装ったような言葉を紡ぐ。電話の声は聞こえない。分かるのは蓮子の手の震えだけだ。
「そ、けど私の後ろは危ないわよ?」
蓮子がそう言うが早いか、私達の後ろで甲高い金属音が鳴る。
後ろを振り向くと、ナイフを振り下ろそうとする緑髪のメリーさん……こいしと、その腕を掴んで止める北斗の姿があった。
北斗の左手には腰の大刀ではなく小太刀が握られているが、それを振るおうとはしなかった。きっとこの小太刀でナイフを弾いて防いだのだろう。
「また邪魔するの、おにーさん。しつこい人は嫌いだよ!」
「あいにくと……諦めの悪さは筋金入りでね!」
そう言いながら北斗は力任せに振り下ろそうとしていたこいしの腕を引く。そしてわざと空振りさせ、よろめいたところに体当たりをかました。
そのまま二人は団子になるように金網にぶつかりにいく……と思ったその時。
「紫さん!」
北斗が紫の名を呼んだ瞬間、フェンスに穴……違う、境目が開く。そして二人は勢いそのままにらその中へ落ちてしまった。
「北斗!」
蓮子が声を上げるけれど、返事が聞こえる前に境目が閉じられる。もしかして北斗と紫は最初からこれを狙っていたのかしら? 確かに紫の作ったスキマの中なら私達に危害は加えられないはずだ。
いや、むしろこのまま幻想郷に返すことができるんじゃ……
「二人とも、気を抜かないように。境界に入ることはできなくても、外に出ることはできる可能性があるわ。私は北斗のサポートに向かうけれど……油断大敵よ」
まるで心を見透かしたかのような紫の注意が飛んできて、私は緊張が緩みかけていたことに気付く。声の方を向くと、紫がスキマに飛び込みながら私達にウィンクを飛ばした。
胡散臭いけれど、意外と気が回るというか……本当に雲を掴むような性格の人だ。
「行っちゃったわね……」
「ええ……」
茫然と呟いた蓮子の言葉に、相槌を打つ。先ほどの瞬く間の戦闘が嘘のように、静かだった。まるで、あれは夢だったんじゃないかと思わされるほどだ。
北斗と紫、そしてこいしがスキマの中に消え、屋上には私達しかいない。まるで何事もなかったような空虚感に襲われる。残っているのは北斗の体当たりでひしゃげた金網ぐらいだ。
そんな中、蓮子は豪胆にも欠伸をして私の手を握ったまま伸びをしていた。
「ふぅ……油断するなって言われても、以外とあっさり囮役が終わっちゃったわ。多少脱力するのは仕方ないわよね……」
「そんなこと言って、また電話掛かってきてテンパらないでよ」
「はいはい、大丈夫だって。けれどあのこいしって子……やっぱり普通に見えていたわね」
「そうね……」
私達は昨日のうちに二人……特に北斗から、こいしに関する情報をいくつか得ていた。彼女の『無意識を操る程度の能力』は人に見られなくなる……といういうより見ても気にしない、知覚できなくなる力を持っているらしいけれど……
「少なくとも背後に立ったその時から、私達はこいしを認識できていた。もしそうじゃなかったら、今頃蓮子の腹にナイフが生えてたでしょうね」
「私は鉢植えじゃないわ。けれど、これで可能性が出てきたわね……」
「ええ、『こいしは覚妖怪として信じられている』んじゃなくて、『都市伝説メリーさんとして信じられている』可能性がね」
私達は謎を解き明かす一歩手前まできたことが嬉しくて、ついお互いの顔を見遣って不敵に笑う。予想が当たれば優越感があるものね。
現代は妖怪を信じるものはほとんどいない。特に覚妖怪なんて、マイナーな妖怪は特に、だ。
そもそも心を読むという行為自体はコールドリーディングやらマインドコントロール等のある種のテクニックであると立証され始めている。
そして無意識の行動に対しても研究は進んでいて、脳科学、心理学の観点から様々なアプローチをされているわ。
かく言う私の専攻の相対性精神学も意識、無意識についての研究を行っているのだけれど。つまり何が言いたいのかというと……
「現代では心を読むことも、無意識の行動も、科学で暴かれつつある。だとしたらこいしは瞳を閉じた覚妖怪として現代で生きることはできないはずだわ」
「ええ……ならこいしは、どうやってこの現代で存在できているかが疑問になるわけだけど……それは簡単に想像できる」
「彼女は都市伝説のメリーさんになることで……都市伝説の正体になることで、自分の存在を維持したってことね」
「その通り」
私達は手を握り続けたまま、眼に良さそうにない夜景を見つめながら、『答え合わせ』をしていく。
オカルト話なんてただの妄想、与太話だと言えるけれど……それでもネットの片隅で密かに噂され、信じられてきた。さながら、密教の神のように。
特にこの土地……七代市はここ最近不思議な噂の絶えない、今一番熱いオカルトスポットだ。この街に……都市伝説への信仰が集まっている。きっとこいしがメリーさんとして存在できるには十分な材料でしょう。
「……ま、ここまでの推理は殆ど蓮子の推測であって今答えあわせの真っ最中な訳だけれど」
妖怪の正体にすら根拠を求めるのは本当に蓮子らしいわ。そんな名探偵蓮子は手の甲を口元に添えながらまた思考に耽り始めた。
「それにしてもこの街から……都市伝説メリーさんの噂から切り離されたスキマ空間の中で、こいしはメリーさんとして存在し続けられるのかしら?」
「大丈夫よ。多分、ね……」
私は適当に流しながら持て余した時間を埋めるように懐中時計を手に取る。
思ったより時間が経っていない。確か心拍数が速くなるほど感じる時間は早くなるんだったかしら? まあ、ゾウの時間の感じ方とネズミの時間の感じ方は違うかどうかなんて、ゾウにもネズミにもなれる人間がいないとわかり得ないことだけれど。
そんな現状に関係のない雑多なことを考えていると、ふと以前から思っていた疑問を思い出す。この際だ、また忘れないうちに聞いておこう。
「そういえば……蓮子、今更だけど聞いていいかしら?」
「あら、てっきり私の事は何でも知ってると思っていたのに」
「そんな訳ないし、そこまで蓮子に興味ないわよ。メリーさんで思い出したのだけれど、蓮子、どうして私の名前をメリーって略したの?」
「あれ、言わなかったかしら? それはね……」
蓮子が答えかけたところで、無機質な着信が割り込んでくる。蓮子の驚きと震えが手から伝わってきて、思わずその手を強く握りしめた。
その場には北斗も紫もいない。この状況で蓮子は電話を取るべきなのか。このまま待っていた方がいいのか……判断に迷う。
「蓮子……」
私は蓮子の前に回り込んで名前を呼ぶ。蓮子はただスマホを見つめていたけれど……微かな溜息を吐いてから、私の目を見つめてくる。
「……さっきの話、これが終わったら話すわ」
その一言で、いろんなことが伝わった。怖い気持ち、逃げたくない意地、格好つけたい見栄、そして……私を頼ってくれていることも。
ずっと私の手を引いてくれた蓮子が、私に手を引いてほしいと思ってくれている。
気付けば私と蓮子は額を合わせていた。気恥ずかしい距離。だけど、お互いを支え合えているようで……今なら何が起きても大丈夫な気がした。
「ん、わかった。それじゃあ……」
「行くわね」
蓮子は顔を上げるとペン型のスマホを耳に当てる。さっきは聞こえなかったけれど、今ははっきりと聞こえた。電話越しの幼い女の子のたどたどしい声。
『もしもし、わたしメリーさん。いまあなたのうしろにいるの』
それは一瞬、なんて感覚じゃない。今までそこにいたのに何故か気付かなかった、みたいな認識のずれ。
彼女は……メリーさんは蓮子の背後にいた。ケタケタと壊れたブリキ人形のような笑顔を浮かべながら、ナイフとレトロな受話器を持って立っていた。
「わたし、メリーさん」
「……そう、私もメリーよ」
「わたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたし……」
……昔壊れたCDプレイヤーを触ったとき、こんな音を出していたなぁ。なんて暢気な感想を思い浮かべる。
彼女がどうなっているのか、北斗達がどうなったのかは私にはわからない。ただメリーさんはナイフを振りかざし、大振りに薙ごうとしているのが視界に映る。蓮子は振り向きもしない。私も……情けなくも足が動かなかった。
このままじゃ蓮子はあのナイフの餌食になる。けれど、私は信じていた。私達が出来ることを、私達が突き止めた真実が……
「わたしは、だあれ?」
……正しいことを。
振るわれたナイフは蓮子に……私達に届かなかった。メリーさんも呆けたように私達を見つめている。何が起こったのか、それは私にもわからない。けれど……どうして『私達にナイフが当たらなかったのか』、それだけはわかっていた。
訳も分からず茫然と立ち尽くすメリーさん。その後ろ、ちょうど月を隠すような位置にスキマが現れる。それが開くが早いか、中から漆黒の影が飛び出す。
「戻ってこい……こいし!」
その影……北斗の周りに光り輝く七つの球体が現れる。
人工に作り出された無数の光よりも太古からある夜の光より眩しく闇を照らすそれは、北斗の周りを天体の様に回転してからメリーさんに向けて殺到した。
メリーさんは振り返ることもできない。その時、光に飲み込まれていく彼女と目が合う。
「やだ……私を、一人に……しないで……」
「わかるわ。一人は怖い、よね」
誰か、私と一緒にいてほしいと哀願するような震える深い翡翠色の瞳。
……都市伝説のメリーさんは捨てられた人形だ。元の家に、大事にしてくれた女の子の元に戻ろうと、何度も何度も電話して確かめながら、帰ろうとする。
それは本当に呪い……捨てられた復讐のためなのかしら? ただ寂しいから。一人は嫌だから。必要とされたいから。だから帰ろうとしただけじゃないのかしら?
怖いオチを勝手にでっち上げられて、彼女を面白おかしくオカルト話にしたのは私達人間なのかもしれない。
けど、もう大丈夫。貴女はもう、メリーさんじゃない。貴女は……
「こいしちゃん、でしょ?」
私は蓮子と二人で、北斗の腕の中で横たわる彼女に向かって……微笑みかけた。