「ごめんね八幡、急に呼び出して」
家のリビングでメールをもらってから数十分後、俺と戸塚は学校の近くの本屋に来ていた。
俺が自転車のスタンドを立てるのを待って、戸塚は店内へ歩き出す。
「学校で言おうと思ってたんだけど、忘れちゃってて」
「いや、大丈夫だ。後輩のプレゼントを買うんだろ?」
メールの内容は、テニス部の後輩の誕生日プレゼント選びを手伝ってほしい、というものだった。
小説好きの後輩のためにプレゼントを選びたいのだが、本を読まない自分では選びにくいということ、そして買うタイミングはすでに今日しかないとのことで、急きょメールで呼び出されたのだった。後輩もそうだが、友達などがいると大変である。すなわちぼっちこれ最強。
「ありがとう、八幡。お礼はするからね!」
ぱっと笑う笑顔が眩しい。網膜に焼き付けて永久保存したいレベル。戸塚と同じ墓に入れるなら死んでも良い……。
店の中に足を踏み入れようとした時、ふと視界の端に見慣れた制服を発見した。
本屋から大通りを挟んで向かい側、着ているのは二人の女子だ。服装から中学生なのだとわかる。なにせその制服は、俺の中学校の服装なのだから。
「八幡?」
声をかけられ振り返る。そうだ、本を買いに来ていたのだった。
「悪い、今行くわ」
このあたりには店がいろいろとあるので放課後に遊びに来ているのだろう。わかるわかる、俺も放課後は良く友達と……友達いなかった。わかるわけない。まあ何かしらの用事があってこのあたりまで来ていたのだろう。ただの偶然だ。
本屋は比較的広かった。本棚が二十ほど並べられ、それぞれでコーナー分けされている。平日午後のこの時間帯は仕事上がりの社会人たちがちらほらと見受けられた。
コミックや雑誌が平積みされた入り口付近を抜け、戸塚はまず文庫本コーナーに向かった。
「あんまり知らないけど、たぶん喜ぶのはこのあたりだと思う」
文庫本コーナーには新刊が積まれているほか、人気作家の作品が目立つ配置をされている。「映画化決定」の帯や、「○○賞受賞」などの文句が目に飛び込んでくる。
「文庫本は読みやすいしプレゼントとしては無難なところだな。どんなジャンルが好きなのかは知ってるのか?」
言ってから、既視感を覚える。つい最近も似たようなことを考えた。
そうだ、年始の雪ノ下の誕生日プレゼントを買った日だ。
「ミステリー系が好きって言ってた。映画化されてるのはだいたい読んでるんじゃないかな」
人の好みを考えて、その人に喜んでもらうためのプレゼントを選ぶこと。
友達がいると大変だ、とさっきの思考がまたよぎった。それならぼっちの俺はなんなんだ?
戸塚は後輩のためにプレゼントを選んでいる。俺はどうだっただろう。由比ヶ浜に連れられ、当たり前のように雪ノ下の眼鏡を買い、当たり前のように彼女に手渡した。
なんのために選んだのだろう。まさか自分のためなんてこともない。しかし、雪ノ下には友達になれないとはっきり言われた。ならばなぜ?
「じゃあ、こっちの方かな。この作家はマイナーだけど面白いぞ。お、こっちはその作者の新刊だな」
「それならそれにしようかな。八幡が選んでくれたなら間違いなさそうだね」
屈託なく笑い、戸塚は本棚に手を伸ばす。俺が選んだならばと戸塚は言った。それはどういう意味なのだろう? 理性の化け物が体を揺する。
戸塚は本を持ってレジに並ぶ。二、三人の客が並んでいるため、会計が終わるまで少し暇だ。
ふらりと本棚の奥を眺めると、一冊の本が目に留まる。
俺はそれを手に取って開いた。小さいころ読んだ本だ。フランス生まれの作家の名作、『星の王子さま』。きっとまだ家の本棚の奥に眠っている。
開いたページは、王子さまとキツネが出会う有名なシーンだった。文庫本の半ばを過ぎたその見開きでは、童話らしさを感じさせる優しく親切な大きい文字が駆けまわっていた。
“「きみとは遊べない」キツネは言った。「なついていないから」
「ああ、失礼!」王子さまは言った。
けれど、しばらく考えてから、こうたずねた。
「『なつく』って、どういうこと?」”
既視感はあるのに記憶とは違うシーンだった。
もしやと思い表紙を見る。おぼろげな記憶だが恐らく、以前俺が読んだそれとは訳者が違っていた。
しかし好きな一幕なのでここは良く覚えている。確か俺が読んだ本では『飼いならす』と訳されていたはずだ。
その言葉は、「仲良くする」という行為を端的に、また現実的に表現している。
人と仲良くするために問題を起こさないよう空気を読み、それをお互いに強要する。まるで飼い慣らされているがごとく、人と人は仲良くなればなるほど、お互いがお互いの拒絶に踏み込まず、波風立てないように接するのだ。
そう思っていた。
本の中ではキツネの語る言葉を王子さまが一つ一つ理解する。
キツネはそんな王子さまを見て、なつかせてくれと頼みこむ。「なつく」って、どういうことだっけ? 「飼い慣らす」という言葉の印象の強さに記憶を持っていかれており、本編で語られている本当の意味を失念してしまっていた。以前の俺が感じた「仲よくなる」ではない、本当の意味を。
“「ずいぶん忘れられてしまってることだ」キツネは言った。”
ページをめくっていく。
「おまたせ」
昔読んだ本をさかのぼる、言わばある種の時間旅行は戸塚の声で中断された。やだ時間旅行に例えるなんて八幡ロマンチック! ステキ! とつかわいい!
ロマンチックな俺は本棚に本を戻した。口に出してなくても普通に恥ずかしいですね。ロマンチックな俺ってなんなんだ。とつかわいい。
「星の王子さま、読んでたんだ」
「知ってるのか」
「うん、だって文化祭でやったから」
ああ……やってましたね。海老名超プロデューサーの台本で演劇してましたね。あれはひどかった、そもそもなんで葉山と戸塚が主役なんだ、よりにもよって葉山などと……。例え葉山でなく戸部であっても許さないがな。つまり誰であっても許しませんね。
戸塚ははにかんだか苦笑したのか判然としない笑みを浮かべ、「原作も読んだけど、けっこう好きだったな」と呟いた。
「あれから自分でも買ったんだよ。八幡から借りたのとは別の訳だったけど」
そういえば文化祭の時に俺が貸していたっけ。ボロボロに擦り切れた文庫本は人に貸すべきではなかったと感じた覚えがある。
そりゃ良かった、と返事をし、俺は体を出口へと向ける。
「帰ろうぜ」
本の中身について話さず、俺は歩き出した。戸塚もその後についてくる。
「なつく」とはどういう意味だったか戸塚に聞けばすぐにわかりそうな気もするが、なんとなく気が引けた。
店の外に出ると、冷たい風が頬を切っていった。思わず身をすくめる。「寒いね」と戸塚が言った。
ふと、さきほどの場所に目をやった。
「さっきの女の子たち、知り合い?」
無意識の視線で気付かれたようで、戸塚が訊いてきた。するどすぎやしませんかね。
「いや、全然。俺の中学校の制服着てたから」
正確にはその理由ではないが、それを隠すためにマフラーで口を覆う。自転車の鍵を挿し込み、スタンドを上げた。まあ、なんなら別に嘘もついてないから問題ない。多分。
「そうなんだ。八幡の中学の頃ってあんまり想像できないなあ」
一瞬安心した。戸塚は俺の中学校の頃のことを尋ねてはこなかった。単に感想をもらしただけ、そのことがとてもありがたかった。
なんせここ最近色々と思うところが多かったのであんまり良い気分ではない。折本とか折本とか折本とかな。
自転車を押し、歩き始める。
「そういえば最近、小町ちゃんはどう? 受験生だよね」
「けっこう、頑張ってるみたいだぞ。最近は家に帰ってもいつも勉強しているな。今日もだった」
というより、今も部屋にこもって勉強しているのだろう。先ほど小休止でリビングにやってきた小町を思い出した。
そういえば、と戸塚に尋ねる。
「戸塚は受験勉強してる時、どういう話題を振られると話しやすかった?」
良い機会だから、小町との会話をつつがなくできるよう話を聞いておこうと思った。あまり参考にできる人間がいない分、機会は貴重である。
戸塚は一瞬きょとんとして
「小町ちゃんと何話せば良いのかってこと? 八幡と小町ちゃんなら何話しても大丈夫だよ」
くすっと笑いながら、俺の悩みを見破ってストレートで返してくる。さすが天使、俺ごときの悩みなどお見通しである。大天使トツカエルに隠し事はできない……。
俺はマフラーを上げて口元を隠す。恥ずかしいやら照れてるやらの微妙な表情をしているのを見られたくはない。
「まあ、それはわかってるんだけどよ、一応さ、気にしておきたくて」
「僕は、勉強の話題は別に問題なかったけど、テニスができなかったから、友達がテニスの話をしてたりするとつい食いついちゃってたよ」
八幡は良いお兄ちゃんだね、と戸塚はにこりと笑う。
「小町ちゃんのためにいろいろ気を遣ってるのはとても良いことだと思う。でも、小町ちゃんからしたら、そんなに気を遣われ過ぎても辛いんじゃないかな」
「そうなのか?」
「そうだと思う。だって、自分の好きな人が自分のために気を遣ってくれるのは嬉しいことだけど、その人がそれで悩んでいると嬉しくはないでしょ? それは自分のせいで悩ませているようなものだからね」
戸塚は先ほど買った小説をきゅっと握る。かさりと紙袋の音がした。
プレゼント選びもそうなのかもしれない。戸塚が誕生日プレゼントを選ぶのに、本人が辛くなるほど悩むのであれば、誕生日プレゼントを受け取る側も素直には喜べないのかもしれない。
いつぞや平塚先生に言われた言葉を思い出す。「君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいるということにそろそろ気付くべきだ」。
戸塚はにこりと笑って、教えてくれた。他の誰でもない、過去を積み重ねてきた俺と小町なら大丈夫なのだと。
「だから、八幡が小町ちゃんにしてあげられることは、いつも通りに接してあげることだよ。だって、二人は仲の良い兄妹だからね」
遠くの夕日が音も立てずに沈んでいくように、彼の言葉が耳に沁みた。
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