夕暮れが校舎も人も真っ赤に染め上げている。
鍵を返却しに行った雪ノ下と別れ、自転車を押して駐輪場を出る。
さきほどの雪ノ下との会話を思い出しながら学校の外に出ると、少し離れたところに見慣れた顔があることに気付いた。
歩いて近づいて行くと、向こうもこちらに気が付く。
「なにしてんだ、こんなところで」
「あ、ヒッキー」
由比ヶ浜結衣が立ち尽くしていた。
十分ほど前に別れたはずの彼女は、夕日のせいで赤く色を付けられている。
「バスがちょうど先に行っちゃってさ」
ついてなかったよー、と残念そうに笑う。さっき奉仕部を出て行ってから急いでバス停まで来たのだろうが、目の前で先に行かれてしまったというわけか。確かについていない。
由比ヶ浜の家は駅から歩いて数分のマンションの内の一つだったはずだ。
「バス、次はいつ来るんだ」
「あと十分ないくらい。だいたい十分間隔で運転してるから」
その程度であれば、次に来るバスを待って帰った方が、歩いたり走ったりするよりは確かに早そうではある。とはいえ待つ時間は退屈だろうが。
暇つぶしくらいは付き合ってやろうか、とふと思う。
「ヒッキーは? もう帰り?」
「ああ、別に依頼も来ないだろうしな」
「そっか。あ、そういえば前、ヒッキーと一緒に帰ったね」
生徒会選挙の時のことだろう。
雪ノ下に引き続き、由比ヶ浜が生徒会長に立候補する、と言い出した時のことだ。
あの時も、こんな夕日が落ちていた時だった記憶がある。
「……ほんのちょっと前のことのはずなのに、ずいぶん時間が立ったような気がするな」
呟くように言うと、目の前の彼女も首肯する。
この少しの間に色々な変化があった。俺の中では俺自身の変化も大きな割合を占めているが、彼女たちにもきっと変わったことはあるだろう。俺から見てもいくらかの変化は見てとることができる。きっと由比ヶ浜はそこも含めて頷いているはずだ。
自転車に触れた手に視線を落とす。
俺の中での色々な変化にまつわる出来事に、少なからず、いや、かなり大きな範囲で彼女たちは関わってきている。
由比ヶ浜を見ていると、正月のあの日が思い起こされた。
雪ノ下、葉山、陽乃さんの過去。
由比ヶ浜の中学時代。
折本との再会。
小町に見抜かれた心境。
思えばここ最近の俺は、あの日から「拒絶のライン」に怯えて暮らしていた気がする。
「なあ、由比ヶ浜」
どうしたの、と彼女がこちらを見上げる。
俺は自転車のハンドルを握りなおした。
∴
「珍しいね」と背中越しに声が聞こえてくる。
真正面から襲ってくる風を肩で切りながら、「なにが」ととぼけた。
「ヒッキーがこういうの、自分から言ってくれることだよ」
はにかんだ笑みで出したような声で、由比ヶ浜が言った。
以前二人で歩いた公園の脇を抜けて、その先へと自転車のペダルを踏み出す。
二人乗りは小町と時々しているので慣れていた。
「それよりさ、今日、部活に行く前になんか言おうとしてただろ」
由比ヶ浜の質問に真面目に返すのも気恥ずかしく、話題を無理矢理変える。
危ないので後ろを向くことができないため、気持ち大きな声で話しかけた。
「あれ、なんだったんだ」
問うと、あーあれねー、と少し答えにくそうな声が返ってきた。
まあ別に答えてもらわなくとも良い。話題を変えたかっただけだし、あの時の由比ヶ浜の様子からして、きっと伝えなくとも問題があることではないのだと思う。
少し待っていると、由比ヶ浜がまあいっか、と口を開いた。
「正月からヒッキーの様子が少し変だった気がして、それを聞こうと思ってたんだよ」
ペダルに乗せた足ががくっと外れそうになった。
なんでそんなにばれてるんだ……。一色に雪ノ下に由比ヶ浜に……。いや、由比ヶ浜は正月のあの日のある意味直接の原因だったから、本人が一番気付きやすいんだろうけど。
「実はゆきのんにもちょっと相談してたんだけどね。でも、最近のヒッキーはいつも通りに見えたから、やっぱり言わなくてもいいかなって思ったの」
……今日の雪ノ下が鎌をかけてきたのはそういうことだったのか。別に様子が変だったことに気付かれてたわけじゃなかったのね。
考えてみれば妙にピンポイントな言い方だとも思ったんだよなー。ちょっと安心しました。
「俺はいつも通りぼっちだから。なんなら未来永劫変わらないまである」
「それは変えた方が良いと思うよ!?」
一つ先の信号が赤いので少しスピードを落とす。
このくらいゆっくり行けば、横断歩道にたどり着くころには青くなっているだろう。
「でも、今日のヒッキーは自分から二人乗りするかなんて言ってくれたから、そこは変かも」
くすくすと少し嬉しそうな笑い声が聞こえてくる。
確かにプロぼっちを自称する人間がこんなことを自分から言い出すようではいけないな……。もっとストイックに! もっと自分に厳しく! ……これはどっかの意識高い系だ。ストイックって元の意味は「禁欲的な」らしいけど。
「今日はサブレがお腹空かせるとかわいそうだからな、一日限定だ」
「一日限定の優しさなんてあるの!?」
「あるある。なんなら俺に向けられる優しさは一日限定どころか一回限定だし」
由比ヶ浜はたははと呆れたように笑う。実際、他に帰宅する生徒がたくさんいる時間帯だと二人乗りなどやっていたかどうかわからない。
建物の影のかからない場所に出ると、夕日に赤く染められ、冬を忘れるような温かさを感じた。彼女も感じているのだろうか。
「じゃあ、一日限定なら、このままディスティニーランドまで行ってもらおうかな、せっかくだし」
「十二月にも行ったのにまた行くのかよ……」
「あ、じゃあシーの方行こうよ! そっちはいつか行くって言ったじゃん」
「いつかだろ……ていうかサブレ放っといて良いのかよ」
言い返すと、えー、と由比ヶ浜がむくれる。
由比ヶ浜との会話は、以前よりこんな感じだった。それが少し懐かしく感じてしまう。
あの日由比ヶ浜と感じた距離感は、どちらがとったものなのだろうか。
きっと俺だろう。顔を出した中学のトラウマが、俺をいつもより臆病にさせた。
由比ヶ浜はきっといつでもいつも通りだった。いつでも俺と話してくれている。
目の前の信号が思ったより長いこと赤色を灯していて、もう少しブレーキに力を込める。
LED光源の赤色は夕日のそれに溶け込んで、いっそう強く、「止まれ」と主張しているようだった。
たくさんの人に、色々なことを教えられた。
俺の中に潜む何かの化け物は、きっとこれからもずっと、少なくともしばらくの間は居座り続けるのだと思う。感情の理解できない、人未満の存在であり続けるのかもしれない。
でもきっと、俺が願うものは変わらない。キツネが願ったあの時間を、俺も変わらず求め続ける。
ゆっくりゆっくり、倒れないように自転車を進ませる。
真っ赤に染め上げられた横断歩道に差し掛かった。歩行者用の小さな信号機は、相変わらず赤色のままだ。
完全に止まろうとブレーキを握りかけたその瞬間、暖かな夕日の赤色の中で、一際目を引く青色が、「進んでも大丈夫」と教えてくれた。ペダルを踏み込むと、心地よい風が俺たちを歓迎した。
<了>
ここまで読んでいただきありがとうございました。
ちなみに原作では由比ヶ浜とヒッキーは「シー」と明言せず、「(ディスティニーランドの)隣」と表現しておりましたが、このシーンで「隣」と表現するのも変かと思いこのような会話にしました。
今回話を書くにあたって参考にしたのは新潮文庫、河野万里子訳の『星の王子さま』です。