本を閉じて伸びをした。
サン=テグジュペリの名作は、さして厚くもない上に字が大きい。さくさくと読み進めて、目当てだった王子様とキツネの話までで栞を挟んだ。新品の表紙はさらさらと手触りが心地よい。
コーヒーでも淹れようかとソファから立ち上がる。日はとっくに沈み、窓の外は真っ暗になっていた。
時間は遅行性の毒だ、と窓の奥の暗闇を見ながら思い出した。映り込んだ自分の瞳が見つめ返してくる。
人が心を動かした出来事に忍び寄り、誰の関心も捉えないただの過去にする。良い思い出も、悪い思い出も、この毒には分別がない。
だから以前の俺はこの毒に助けられてきた。中学時代、辛い思い出を過去にしてもらってきた。人に拒絶された時間を忘れることで、へこんで沈み込んでも立ち上がることができた。
しかしつい最近、奉仕部が取り繕った空気にさらされて、始めてこの毒が恐ろしいと思った。
今回俺が気にしているのは、以前の奉仕部に流れた空気のように、関係性が崩壊するほどのことではない。俺個人だけの問題であり、もっと些細なものだ。
今俺が何もしなくとも、きっと雪ノ下とも由比ヶ浜とも気まずくなって話せなくなるようなことはないだろう。現実として、二人のどちらとも普段通り話すことが出来ている。
ではなぜ俺は、由比ヶ浜の発言でへこんだのだろうか。
暗闇の中の自分の瞳の奥に、過去の自分が潜んでいる。
お前はまだ逃れられてはいない、時間に任せて逃がすような真似は絶対にしないぞと睨まれているようだ。
毒はまだ、俺のトラウマまで過去にはしてくれていない。
俺には選択肢が二つある。
一つは、時間が俺の傷を侵し、流してくれるのを待つこと。
もう一つは、それに立ち向かうこと。
あの物語の中で、キツネは何を思っていたのか。
きっとそれが、俺のすべきことのヒントなのだ。
問はすでにある。三浦を拒否する葉山を見て思ったことだ。
“「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」”
机の上に置いた本を見て、キツネの台詞が頭に思い浮かぶ。
葉山と雪ノ下と陽乃さん。彼ら彼女らは、幼いころともに過ごした過去があった。俺と由比ヶ浜は、俺たちではけして入ってはいけないそれを目の当たりにした。今現在、昔ほど仲良くしているわけではないのだろうが、そこには確かに費やした時間があった。
しかし、いたずらに時間を費やしても、必ずしも良い関係を作れるわけではない。
時間は積み上げてきた峰である。だが溝にもなり得る。
折本と俺の関係がそれだ。折本が溝を感じているかどうかはともかく、少なくとも中学時代、折本と俺の間には、告白を受け入れてもらえない程度には溝があったことは事実だ。
きっとその溝は、時間を正しく費やせば峰となりえたのだろう。よしんば中学校に戻れたとしても、俺にそれができるとは思えないが。
そして溝があるうちは、人は他者を拒絶する。
それでなければ俺はいまごろぼっちなんてやっていない。溝を作っている原因はきっと俺にあるのだろうが、歩いて渡ってくれる人がいるのならば、友達の一人や二人作っている。
だがその拒絶とは、どんな人間でもすることなのだ。そう、どんな人間でも。
葉山隼人は進路選択の質問に答えることをかたくなに拒否している。普段あれだけ同じグループで時間を過ごしている三浦からの質問であってもだ。それはあのグループが偽物の関係だからという理由ではまるでないことは俺が身をもって知っている。何故かはわからないが、拒絶の一種であることだけは確かだろう。
由比ヶ浜結衣は良く知らない人間から告白されることを迷惑だと感じた。これは当たり前と言っても良い。俺のトラウマにかすって俺が勝手にへこんだだけで、普通に考えればそうなのだ。「普通、良いなあと思っている人に告白されたら嬉しいに決まってます」。一色はそう言った。つまりそうでなければ手放しに喜べる類のものではないのだろう。海老名さんも戸部の告白を未然に防いでほしがってたし。
そして……比企谷八幡も。
由比ヶ浜との一件でトラウマが顔を出していたからとはいえ、中学の頃のことに踏み込まれることを恐れていた。由比ヶ浜本人に折本のことを尋ねられた際、「普通だよ、普通」とそれ以上は話さないことを示し、一色に対しては完全に話すことを拒否した。
その挙句、彼女たち二人にはそれを察してもらって、それ以上の追及をされずに済んで安堵している始末だ。
さらに葉山の質問に対しては真っ向から拒否している。これはトラウマからくるものではないが、いずれにせよ俺自身人を拒絶するという証明の一つだ。
だが、戸塚は、俺なら大丈夫、と教えてくれた。
人は拒絶をする。しかし、繋がっていれば、絆を結んでいれば。拒絶は限りなく少なくなる。
この前提のもと、俺と小町ならば何をしても大丈夫だと言った。それは少なからず十五年間ともに過ごしてきた妹とのことだから、納得するのは難しくなかった。
しかし戸塚は、俺は自分で思っているよりも、みんなと繋がっていると言ったのだ。もちろん程度の差はあるだろうが、俺にも、小町以外のみんなと過ごしてきた時間があるのだと。言われてみれば俺は、由比ヶ浜がお団子を触るときは気分が揺れたときであるとか、雪ノ下を困らせたら彼女は眉間をおさえるとか、そういうことを知っている。
なによりその証明は、俺の独り言を見事見破ってくれた、その戸塚自身がしてくれているのだろう。
問と、解くための要素はこれで揃った。
あとは、答え合わせをするだけだ。
小町の分も淹れてやるか、とカップを二つ用意した。
キッチンの角度からは、窓の外の自分は見えなくなっていた。
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