SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

9 / 78
第九話 須田恭也 刈割/切通 初日/八時十分二十四秒

 須田恭也は、長い黒髪の少女と共に、丘を登る砂利道を急ぐ。少女は泣き続けている。少し前、(くわ)を持った屍人に襲われ、飼い犬を殺されてしまったようである。亡骸に顔をうずめ、その場から動こうとしなかったのを何とか説得し、安全な教会へ向かっているところだった。

 

 恭也は足を速めた。丘の斜面には棚田が広がっており、農作業をしている屍人が何人かいる。見つかれば、ヤツらは襲ってくるだろう。一刻も早く教会へ着きたかった。だが、少女の足は重い。と、言うよりは、明らかにおぼつかない足取りだった。まるで、暗闇の中を歩いているかのように、一歩一歩、ゆっくりと、探るように足を出している。見ていて危なっかしい。案の定、小さな石につまずき、転びかける。

 

「大丈夫?」恭也は少女に駆け寄る。

 

「――見えない」少女は視線を地面に向けたまま、つぶやくように言った。

 

「え?」

 

「もっと、ゆっくり歩いて」

 

「あ、ゴメン」

 

 恭也は少女と歩調を合わせ、ゆっくりと歩いた。もちろん、周囲の警戒は怠らない。いつ屍人が襲って来るか判らないから当然だった。油断なく、辺りを見回す。

 

 と、また、少女がつまずいた。

 

「――おっと」

 

 とっさに恭也が支えたので、転ぶことはなかった。

 

「ホントに大丈夫?」恭也は、少女の顔を心配げに覗き込んだ。この砂利道は舗装された道路とは違い、歩きにくいことは確かだ。しかし、そう何度もつまずくほど危険でもない。何か理由があるように思えた。

 

「やっぱり、ケルブじゃないとダメ……」少女はまた、つぶやくように言った。その視線は、恭也の背後を向いている。

 

 恭也は、少女と初めて会った時から奇妙な違和感があった。その理由がいま判った。少女は、恭也と目を合わせようとしないのだ。そしてそれは、恥ずかしがり屋であるとか、決して性格的なモノではないことも悟る。

 

「君、ひょっとして、目が……」

 

 恭也の声に、少女は反応しない。しかし、おそらく間違いのないだろう。

 

 少女は目が見えない。なのに、あの儀式が行われた広場からここまで、飼い犬と一緒にやって来た。それは、盲導犬のように、犬の身体に取り付けたハーネスによって導かれてきたのではない。あの犬には盲導犬用のハーネスはおろか、リードさえ付けられていなかった。恐らく少女は、あの白い犬の視界を幻視で見ていたのだろう。そういえば、初めて広場で出会った時、少女は恭也の姿を見ることなく、村人ではないことを見抜いていた。あれも、犬の目を通して恭也を見ていたからだろう。

 

 ――いや、まてよ。

 

 少し考え、それはおかしいことに気が付いた。

 

 求導女の比沙子が言うには、幻視の能力は、赤い水を体内に取り込んだ結果起こる特殊能力らしい。村の水が赤く染まったのは、今日の深夜〇時以降。あの、サイレンが鳴り響いた後だ。少女と出会ったのは昨日の朝だ。あのとき幻視を行っていたのなら、少女はこの怪異が始まる前から幻視ができたことになる。

 

「ねえ、君。昨日の朝――」

 

 恭也が理由を問いただそうとした時、少女の表情が怯えたものとなった。屍人か? 振り返る恭也。

 

「――美耶子。探したぞ」

 

 幸い、現れたのは屍人ではなかった。ワイシャツにスラックス姿の若い男。見覚えがある。確か、儀式の場にいた男だ。

 

 男は少女に視線を向け、高圧的な口調で言う。「お前の役割はまだ終わってないだろ? お前が戻らないと、儀式が再開できない。早く戻るんだ」

 

 少女は後ずさりし、恭也の後ろに隠れる。男を恐れているように見えた。

 

 男の視線が恭也に移った。探るように、恭也の姿を見つめる「余所者か……あっち側へ行くのも、時間の問題のようだな」

 

「あっち側……?」何のことか判らない恭也。

 

 男は、フン、と、鼻で笑った。「まあ、妹が世話になったようだから、一応、礼は言っておくよ」

 

 妹と呼ぶからには、この男は少女の兄だろうか? その割にはあまり似ていないな、と、恭也は思った。

 

「さあ、美耶子。一緒に来るんだ――」

 

 男が、視線を再び美耶子に向けた瞬間。

 

 ガツン、と、男の頭に、太い木の枝が叩きつけられた。

 

 驚いて後ろを見る恭也。木の枝は、少女の手に握られていた。

 

 少女に殴られた男は、うめき声をあげ、地面に膝をつく。

 

「美耶子……お前……」恐ろしい目で睨む。立ち上がろうとするが、脳震とうを起こしたらしく、うまく立てない。

 

 少女は木の枝を投げ捨てると、恭也の腕を引いた。「早く! 連れてけ!」

 

 あまりに突然のことに状況が理解できていない恭也だったが、少女の引かれるままに、その場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 男から逃れ、丘を登る二人。しばらく進むと、道は左右に分かれていた。教会へ通じているのは左の道だ。恭也が左へ進もうとすると。

 

「待て。どこへ行く?」少女が足を止めた。

 

「どこって、教会だけど」不思議そうに答える恭也。少女は村の人だから、当然、この先に教会があることは知っているものと思っていた。

 

「イヤだ。教会には行きたくない」怯えたような表情。

 

「え? でも、教会は安全だって、求導女の比沙子さんが言ってたよ? これから村の人たちも避難してくるみたいだし」安心させようと、優しい口調で言う恭也。しかし。

 

「イヤだ。絶対に、教会には行かない」少女は、何度も首を振って拒否する。「どうしても行くのなら、お前一人で行け」

 

「俺一人って……君はどうするの?」

 

 少女はうつむき、少し迷っていたようだったが。「あたしは……村から出る」

 

「村から出る? そんな、君一人じゃムリだよ」

 

「……うるさい。とにかくあたしは、教会には行かない」

 

 そう言って、少女は教会とは反対の道を進もうとするが、またすぐにつまずいてしまう。慌てて支える恭也。

 

 少女は恭也の手を振り払った。「離せ。お前の世話にはならない」

 

 恭也はしばらく考え、やがて言った。「……判った。じゃあ、俺も一緒に行くよ」

 

「……え?」意外そうな顔をする少女。「いいよ。教会は安全なんだろ? お前は、教会へ行け」

 

「女の娘一人放っておいて、そんなワケにはいかないよ。さあ、行こう」

 

 恭也は教会とは反対側の道を進んだ。しばらく立ち尽くしていた少女だったが、恭也が振り返ると、後を追って来た。

 

 右の道は、左手側に棚田を見上げる形で緩やかに下っていた。しばらく進むと、道に沿って細い川が流れていた。なんとなく川を見る恭也。川幅は二メートルほど。水量は多く、流れは早い。深さは一メートル以上はありそうだ。

 

「おい、お前」少女が呼ぶ。

 

「あ、ゴメン。歩きにくかった?」恭也は視線を川から道へ戻した。少女は恭也の視界を介して歩いている。じっと川を見ていては歩きにくいだろう。

 

「そうじゃない。お前、なんで理由を訊かないんだ」

 

「理由?」首を傾げる恭也。

 

「そうだ。あたしはあの男をいきなり殴り倒して、その上、お前が安全だと言う教会に行くのを拒否した。おかしいと思わないのか」

 

「思うけど、理由を訊いたら、教えてくれるの?」恭也は、イタズラっぽく言う。

 

「……いや、言わないけど」

 

「じゃあ、訊いてもしょうがないじゃん」

 

「…………」

 

 黙り込む少女。その姿が可愛らしくて、恭也は小さく笑った。

 

 少女がなぜ教会に行くのを嫌がったのか、恭也には、なんとなく察しがついていた。

 

 求導女の八尾比沙子は、教会は安全だと言っていた。確かに、教会周辺に屍人はいなかった。屍人は生きている人間を見つけると襲って来るが、それは、屍人が自分たちの生活を護るためであり、人殺しが目的というわけではないのだ。だから、生きている人間を積極的に探して殺すようなことはしない。教会に隠れていれば安全というのは間違いないだろう。少女は、なぜそれを拒否するのだろうか? それも、目が見えないのに一人で行動するという危険を冒してまで。

 

 恐らく、少女は村人に会いたくないのだ。

 

 村人たちは、村で起こっている怪異を、儀式が失敗したことが原因だと思っている。恐らくそれは間違いのないところなのだろう。そして、儀式が失敗したのは、少なからず少女が関係しているはずだ。恭也が初めて少女を見かけた時、広場の祭壇の前で、少女は何かを壊していた。何をしていたのか知りたいという思いはもちろんある。しかし、今は訊かない方がいい。訊くと、少女は心を閉ざしてしまう。なんとなく、そんな気がしたのだ。

 

 川沿いの道をしばらく進むと、道の右側に古いトタン製の小屋があった。長年使われていない倉庫のようである。そのそばを通り過ぎようとした時、恭也の身体が大きく震える。屍人に見つかったようだ。周囲を見渡す。丘の上の方。鎌を持った屍人が、棚田を飛び下りながら向かって来る。

 

 少女が息を飲む。怯え、震えている。

 

「大丈夫、あの倉庫の裏に隠れよう」

 

 恭也は落ち着いた声で言い、少女を連れ、廃倉庫の裏に身を隠した。

 

 少女の震えは止まらない。白い犬が襲われた時のことを思い出しているのかもしれない。恭也は少女の手を取り、「大丈夫、大丈夫」と、言い続けた。少女も、恭也の手を握り返す。

 

 大丈夫と言うのは気休めではなかった。恭也は、八尾比沙子と一緒に教会へ向かう間に、屍人の行動パターンをかなり把握していた。屍人は生きている人間を襲うが、襲うことに執着しているわけではない。こうやって隠れていれば、積極的に探そうとはしないのだ。また、かなり頭が良くないようで、しばらくすると、自分が何をしているのか忘れてしまうのか、何事も無かったかのようにそれまでしていた作業に戻るのである。

 

 恭也は幻視で屍人の様子を探る。棚田を飛び下りる屍人。棚田の高さは一メートル以上あり、飛び降りるたびに転んでいる。三回ほど転んだところで、恭也の思った通り、何をしていたのか忘れてしまったようだ。しばらく周囲を見回した後、元いた場所に戻って畑仕事を再開した。恭也と少女は大きく息を吐き出した。少女の震えも、やがて治まっていく。

 

 と、少女が顔を赤らめる。慌てて握っている手を離した。

 

「い……行くぞ……」倉庫の裏から出ようとする少女。

 

「あ、待って、美耶子ちゃん」呼び止める恭也。

 

 すると、少女は目を丸くし、ますます顔を赤らめた。

 

「あ……ゴメン。さっき、お兄さんって言ってた人が、そう呼んでたから」思わず美耶子ちゃんなどと呼んでしまったことを謝る。「イヤなら、別の呼び方するけど」

 

 少女は顔を赤らめたまま、首を振った。「いや、美耶子でいい……名字で呼ばれるのは、好きじゃない……」

 

「なら、良かった」恭也はそこで、まだ自己紹介をしていないことを思い出した。「あ、俺、須田恭也。俺も、恭也でいいよ」

 

「お……お前なんか、お前で十分だ」美耶子は恥ずかしそうに顔を背けた。「それより、何だ? 早く行かないと、あいつがまた来るかもしれない」

 

「うん。でも、慎重に進まないと」

 

 恭也は目を閉じ、屍人の気配を探った。さっきの鎌を持った屍人は畑仕事に戻っている。こちらに背を向けて作業をしているから、しばらくは大丈夫だろう。別の気配を探る。いた。道を進んだ先。道端に、廃車となったライトバンの自動車が停められてあり、その前に、猟銃を持った屍人が周囲を警戒していた。危なかった。そのまま進んでいたら、狙撃されていたところである。

 

 恭也はしばらく様子を見続けたが、猟銃屍人がその場を離れる気配は無い。どうやら見張りをしているようである。このまま進むことはできない。何か方法を考えなければ。すぐに思いついたのは、川の中を進むという方法だ。だが、川は深く、流れも速い。自分一人ならともかく、目の見えない美耶子には危険だ。

 

 ……待てよ。

 

 恭也は美耶子を残し、倉庫の裏から出て川を見た。棚田の横を流れる川。これは、川というよりは用水路だ。田んぼに水を引くために人工的に作られたもの。だとしたら、どこかに流れを調整するための水門があるのでは? それを閉じることができれば、用水路の中を進むことができる。

 

 恭也は美耶子の元に戻った。「ゴメン。あの川の上流に行ってみようと思うんだ。水の流れを止めることができれば、安全に進むことができると思うんだけど、どうかな?」

 

 美耶子は少し考えていたが。「……お前に、任せる」

 

「よし。じゃあ、行こう」

 

 二人は道を少し戻る。川は、道端の立ち木の中に消えていた。さっき通った時は気づかなかったが、立ち木をどけると、その奥に細い道が続いていた。思った通り、水門がありそうだ。恭也が先に進み、後に美耶子が続く。今まで通っていた道も決して状態が良いわけではなかったが、この道はずっと細くて凹凸も激しく、進むのが困難だった。何度も転びそうになる美耶子を見かねた恭也は、美耶子の手を取って進むことにした。また顔を赤らめる美耶子だったが、今度は手を離したりはしなかった。

 

 そのまましばらく進むと。

 

「……待て」美耶子が立ち止まる。「この先に、ヤツがいる」

 

 どうやら歩きながら幻視を行って見つけたようだ。恭也も幻視で探る。片手用の小さな斧を持った屍人が歩いているのが見えた。こちらに向かっているようである。幸いまだ恭也たちに気付いた様子は無い。

 

「大丈夫、隠れよう」

 

 恭也は美耶子を連れ、道端のやぶの中に身を潜めた。しばらく待つと斧を持った屍人が現れたが、恭也たちには気付かず、そのまま通り過ぎた。

 

 やぶから出る恭也。思った以上に屍人の数は多いのかもしれない。これまではどうにかやり過ごしてきたが、常にうまく行くとは限らないだろう。いつかは戦わなければいけない。そのためには武器が必要だ。どこかで調達しなければ。

 

 恭也は美耶子の手を引き、さらに奥へ進んだ。しばらくすると小さな広場に出た。中央に井戸のような四角い石の囲みがあり。その上に、鉄のバルブがある。川はこの下を通っているようだ。あれが水門で間違いないだろう。その隣には焚き火の消えた後があり、薄い煙が一筋立ち上っている。

 

 水門を閉じようとした恭也だったが、焚き火のそばにある物が気になった。火をかき回すために使う棒だ。手に取ってみる。長さは一メートルほど。鉄製で、それなりに重量がある。何度か素振りをしてみる。少々頼りなさは否めないが、十分武器として使えそうだ。頂いて行くことにしよう。

 

 武器を確保した恭也は、改めて水門のバルブを調べてみた。錆びついており、かなり重い。だが、力いっぱい捻ると、耳障りな金きり音を上げながら、ゆっくりと回り始めた。そのまま回し続ける。徐々に、水の流れる音が小さくなっていく。回らなくなるまで回したところで、水の音は完全に消えた。これで、川を通れるようになるだろう。

 

「……マズイ。さっきのヤツが戻ってきた」美耶子が怯えた声で言う。

 

 恭也も幻視で気配を探る。美耶子の言う通り、さっきの斧を持った屍人が戻って来ている。バルブを回す音を聞かれたのかもしれない。武器は手に入れたが、できるだけ戦いは避けたい。恭也はまた隠れることにした。焚き火のそばのやぶの中に入る。

 

「……あれ?」

 

 やぶをかき分けると、その向こうにも小さな広場があった。その中央には、奇妙な看板のようなものが立てられてあり、花が添えられていた。看板は、支柱に細い板が四枚貼り付けられたもので、上の三枚は地面と平行になっているが、一番下の四枚目は、右に上がるように斜めになっていた。ちょうど、漢字の『生』の字を反対にしたような形だ。そう言えば、丘の上の眞魚教の教会でも、祭壇にこれと同じ形のものが掲げられていたように思う。眞魚教のシンボルみたいなものだろうか? もっと観察するために看板に近づく。一枚目の板に、文字が書かれていることに気が付いた。

 

「……竹……内……?」

 

 そう読めた。

 

 これが眞魚教のシンボル、キリスト教でいう十字架のようなものならば、恐らくこれは、誰かのお墓だろう。だが、どうしてこんなところにひとつだけぽつんとお墓があるのだろうか? まるで、人目を忍ぶようである。添えられている花は、まだ新しいようだ。

 

「来たぞ」

 

 美耶子が小さな声で言い、恭也は我に返った。今は、誰かのお墓などどうでもいい。息をひそめ、屍人の気配を探る。

 

 現れた屍人は水門の前に立った。そのまましばらく水門をじっと見ていたが、やがて、そばの焚き火の跡に目をやり、またじっと見る。

 

 マズイな、と、恭也は思った。ヤツらは頭が悪いと思っていたが、水門が閉ざされ、火掻き棒が消えていれば、さすがに怪しむだろうか?

 

 恭也の心配した通りになった。屍人は注意深く周囲を確認しはじめる。そして、乱れたやぶに気が付いた。やぶをかき分け、こちら側にやって来る。見つかった!

 

 恭也は美耶子をかばうように立つ。恭也たちを見つけた屍人は、獣の遠吠えのような声を上げる。こうなったら戦うしかない。火掻き棒を構える。相手が持っているのは小型の斧。あんなもので殴られたら無事では済まない。殺傷力は相手の方が明らかに高いが、リーチはこちらの方が上だ。

 

 大丈夫! なんとかなる!

 

 自分に言い聞かせる。

 

 屍人が斧を振り上げ、向かって来た。

 

 それが振り下ろされるよりも早く、恭也は火掻き棒を振り下ろした。

 

 がつん!

 

 鈍い音とともに、火掻き棒を持つ手に、イヤな感触が広がる。

 

 火掻き棒は、屍人の頭に沈み込んでいた。

 

 屍人の顔が奇妙に歪んでいる。だらり、と、血が流れ落ちる。

 

 屍人は、数歩後退りする。

 

 しかし。

 

 再び斧を振り上げた。

 

 恭也の一撃により、屍人の頭は陥没している。それほどの傷を負いながらも、まだ襲い掛かってくる。

 

 この時、恭也は初めて。

 

 ――殺される。

 

 そう、思った。

 

 屍人に襲われたのはこれが初めてではない。だが、これまではうまく隠れ、やり過ごしてきた。恭也はまだ、心のどこかで、自分が死ぬことなどありえないと思っていたのだ。甘かった。そんな訳は無い。あの斧が振り下ろされれば、自分はあっけなく命を失う。この村では、死は、あまりにも身近な存在なのだ。

 

 ――死にたくない。

 

 生者として当然の欲求が、胸の奥から湧き上がる。

 

 ――殺される前に、殺せ。

 

 誰かがそう言った気がした。

 

 死にたくない。殺されるわけにはいかない。殺されないためには、殺すしかない。

 

 そうだ。

 

 相手は、自分を殺そうとしている。生きるためには、相手を殺すしかない。

 

 恭也は、獣の咆哮を上げると。

 

 また、火掻き棒を振り下ろした。

 

 がつん! 屍人の頭を捉える。屍人が片膝をついた。まだ倒れない。もう一度振るう。血が飛び散る。うつ伏せに倒れた。だが、まだ起き上がって来るかもしれない。また火掻き棒を叩きつける。血が飛び散る。何度も、何度も、叩きつけた。やがて屍人は動かなくなった。それでも恭也は殴り続ける。大丈夫だ。コイツは死んだ。もう起き上がっては来ない。そう思う。だが、殴るのをやめない。今やめると、コイツは起き上がる。また襲ってくる。そう思えて仕方が無かった。だから殴る。殴り続ける。

 

「――おい!」

 

 背後で、少女が叫んだ。

 

「もういい。もう、やめろ」

 

 それで、恭也はようやく手を止める。

 

 むっとする血臭が辺りを漂っている。足元には屍人が横たわっていた。何度も火掻き棒を打ちつけられた頭部は、もはや原形をとどめていない肉片と化している。これは、俺がやったのか? 身体が震えている。大丈夫だ。もう、ヤツは死んだ。もう、起き上がっては来ない。そう、自分に言い聞かせても、震えは止まらない。屍人に対する恐怖ではない。自分のしたことへの恐怖だった。今、俺は、この手で人を殺したのだ。火掻き棒を握りしめる。仕方がなかったのだ。向こうから襲って来たのだ。殺さなければ、こちらが殺されていた。俺は、俺の命を護っただけだ。それに、屍人はもともと死んでいるのだ。だから、殺したことにはならない。自分に言い聞かす。震えは止まらない。命を奪われる恐ろしさと、命を奪う恐ろしさが入り混じり、恭也は、おかしくなりそうだった。

 

 その、恭也の手を。

 

 美耶子が、優しく握った。

 

「……大丈夫……大丈夫だから……」

 

 諭すような声。

 

 今までの少女とは違う、温かな声だった。

 

 優しい手と、温かな声に、不思議と、興奮と震えが治まってゆく。

 

 恭也は、美耶子に、身と、心をゆだねた。

 

 どれくらいそうしていたか。

 

「――ありがとう。もう大丈夫」

 

 落ち着きを取り戻した恭也は、美耶子を見つめ、笑顔でそう言った。

 

 美耶子は、またまた顔を赤らめると、ぱっと、手を離した。「……さ……さっきの、お返しだ」

 

 さっきの、とは、廃倉庫の裏に隠れていたときのことだろう。つっけんどんとしているが、可愛いところもあるようだ。

 

「それより、早く行くぞ」美耶子は屍人を指さした。「そいつ、そろそろ蘇る」

 

 蘇る? あれだけ頭を殴ったのに? 信じられない話だが、考えてみたら、それはあり得る話だった。求導女の八尾比沙子は、赤い水を体内に取り込んだ者は、生者も死者も大きな力を得ると言っていた。傷はすぐに治るらしい。実際に、比沙子の傷がすぐに治るのも見た。屍人を殺したと思っていたが、そもそも屍人は死んでいるのだ。それは単に動かなくなっただけで、時間が経てば傷が治り、また動き出すのだろう。現に、恭也が潰した頭は、元の形に戻りつつある。なんだか、罪悪感抱いて損をした気分だった。

 

 だが。

 

 逆に、これでもう、屍人を倒すことにためらいは無くなった。

 

「――行こう」

 

 恭也は美耶子の手を引き、その場を後にした。

 

 水門のある広場から川を覗くと、水はすっかり無くなっていた。これなら進めるだろう。だが、よみがえった屍人がまた水門を開けるとマズイ。開かないように壊しておいた方がいいだろう。恭也は火掻き棒で水門のバルブを叩いた。何度か叩くとすぐに変形し、回らなくなった。これでもう、水門は開けられないだろう。恭也と美耶子は慎重に川へ下り、下流へ向かって進んだ。

 

 川は予想以上に深く、二メートル以上あった。おかげで、しゃがみ歩きをしなくても身を隠すことができた。しばらく進み、廃倉庫があると思われる付近で再び幻視を行う。鎌を持った屍人は相変わらず畑仕事をしており、猟銃を持った屍人は周囲を警戒していた。どちらも川には注目していない。これなら行けるだろう。恭也と美耶子は、音を立てないよう、ゆっくりと進んだ。そのまま猟銃屍人から十分に離れた位置まで進み、周囲を警戒しつつ、川の上の道へ上がる。遠くに猟銃屍人の姿が見えた。相変わらず周囲を警戒しているが、こちらに気付いた様子は無い。

 

「やったな恭也! あいつらを出し抜いた!」美耶子の嬉しそうな声。

 

 恭也は美耶子を見る。それは、初めて名前を呼ばれ、そして、初めて美耶子の笑顔を見た瞬間だった。

 

「な……なんだ……?」恭也に見つめられていることに気付いたのか、戸惑ったような声の美耶子。

 

「いや、笑うとカワイイな、って思って」からかってみる。

 

 予想通り、美耶子は顔を真っ赤にする。「ばっ……バカなこと言ってないで、ほら、行くぞ!」

 

 美耶子はプイッと顔を背けると、そのまま歩き始めた。あれが、ウワサに聞くツンデレというヤツだろうか。実際に見るのは初めてだな、と、恭也は思った。

 

 ……などと、のんきなことを言っている場合ではない。

 

 道は、北の方角へ続いている。恭也が事前にインターネットで調べた情報によると、田堀という地域があるはずだ。かつては小さな集落だったが、ここも、二十七年前の土砂災害で消滅した地域である。今は区画整理が進んでいるものの、数軒の家が建つだけで、ほとんど何も無い地域のはずだ。

 

 しかし、八尾比沙子の言う通り、ここが過去と現在が入り混じった世界ならば、二十七年前に消えた集落が存在しているかもしれない。

 

 もちろん、屍人もいるだろう。

 

 恭也は、火掻き棒を強く握りしめる。

 

 そして、美耶子の後を追った。

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。