村を、酷い飢饉が襲っていた。
春から、ずっと、雨が降らない。もう、一〇〇日を超える。村に蓄えていた食料はとうに底をつき、田畑で育てていた作物は枯れ、家畜は死に、山や森の木々も枯れ、川は干上がり、熊も、鹿も、猪も、兎も、魚も、全て、死に絶えた。
村人も死んだ。わずかばかりの食料を奪い合って死に、食料とも言えぬ枯草や腐臭を放つ死骸のために争って死に、そして、村人の死体すらも奪い合って、死んだ。食べられるものは全て食べた。それでも、雨は降らない。
多くの人々が暮らしていた村は、今や、二人の男と、一人の女だけとなった。
天から、巨大な三角錐の岩と共に、異形の生物が降ってきたのは、そんな時だった――。
男の一人は、神の恵みだ、と言った。天の神が、我らを救うために、食べ物を授けてくれたのだ。食べるべきだ、と。
もう一人の男は、この異形の生物こそが神だ、と言った。神が、我らを助けるためこの地に降りたのだ。食べるなど、とんでもない、と。
女は何も言わず、ただ、異形の生物を見つめた。
身体が、まるで炎で焼かれたかのように赤くただれていた。死んではいないが、かろうじて息をしているだけだった。放っておくと、すぐに死ぬだろう。
殺して食べるべきだ、と、一人は言う。
治療して崇めるべきだ、と、もう一人は言う。
女は――。
どちらでもなかった。食べ物かもしれないし、神かもしれない。どちらであろうと関係ない。ただ、食べなければいけないと思った。食べるしかないと思った。自分が、生きるために。
女は、異形の生物の腹に顔を近づけると。
その、丸く膨らんだ肉に喰らい付き、噛み千切った。
異形の生物が、森の奥に潜む鳥のような鳴き声を上げる。
構わず、女はさらに手を伸ばす。腹の中に手を入れ、柔らかい内臓を引きずり出し、そして、喰らいついた。
言い争っていた男たちも、女が手を付けると、先を争って、異形の生物を食べ始めた。一度食べたら、もう、神であろうとなかろうと、どうでも良かった。
腹を喰い、足を喰い、首を喰い、背中を喰った。
異形の生物が、ひときわ高い鳴き声を上げた。
男が、頭をおさえ、うめき声を上げた。
もう一人の男も、同じように苦しみ始める。
頭が痛い、割れる、悲鳴を上げる。
女も、頭を引き裂かれるような痛みに襲われた。
やがて、男たちは、目から、鼻から、耳から、口から、血を吹き出し、息絶えた。
女は――。
それでも、異形の生物を食べ続けた。死ぬことはなかった。死ぬわけにはいかなかった。
ただ、食べなければいけなかった。
愛する者を、護るために。
生まれてくる者と、生きるために。
☆
――――。
――ああ。
神よ。お許しください。
罪深き私を、お許しください。
天から降臨されたあなた様は、まぎれもなく、神。
神の御身に、我々下賤の者が手を付ける。なんと罪深いことでしょう。
ですが、お許しください。
私は、死ぬわけにはいかないのです。
我が身に宿った、新たな命のために。
生まれてくる、この子のために。
私は、生きなければなりません。
だから、お許しください。
あなたの身体に手を付けることを、お許しください。
それがどんなに罪深いことでも、許されないことでも。
私は、母として、その罪を犯さなければなりません。
私は、あなたを食べなければなりません。
例え、神の命を糧にしてでも。
私は、生きなければなりません。
――その代わり。
もし、無事に、この子が生まれ、育ち、私の手を離れたら。
神よ。私はその後、あなたのために生きましょう。
神よ。私は、残りの命を、あなたのために捧げます。
私は、ご恩を忘れません。
我が子を救ってくれたご恩を、決して、忘れません
だから、私は、あなたのために生きましょう。
あなたの恩に報いるために
あなたの偉業を称えるために。
あなたの存在を伝えるために。
この罪を、償うために。
私は、あなたのために、生きていきます。
命が続く限り、この罪を償い続けます。
犯した罪の大きさは、私のような短い命では、償いきれないかもしれません。
私の命で足りぬのならば、私の子孫の命も捧げます。
たとえ何十年、何百年、何千年かかろうとも、この罪を償い続けます。
私は、今日、あなたから頂いた恩を、決して忘れない。
我が子を救ってくれた恩を、決して忘れない。
ああ、神よ。
ありがとうございます――。
☆
女は食べる。
神の身体を。
生きるために。
我が子のために。
神に、感謝の祈りを捧げながら。
神が悲鳴を上げた。命が尽きる時の、最後の叫び。断末魔の悲鳴が、空に響き渡る。
☆
村に、サイレンが鳴り響く――。
(『SIREN(サイレン)/小説』 終わり)