SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第七十七話 須田恭也 大字粗戸/耶辺集落 後日/四時四十四分三十九秒

 須田恭也は、一人、村を歩いていた。

 

 いや、一人ではないかもしれない。そばにはずっと、美耶子がいる。

 

 彼の後ろには、焼け落ちた集落がある。多数の屍人の焼死体もある。煉獄の炎に焼かれた屍人は、もう二度と、よみがえることはない。

 

 後、何人の屍人を殺せばいいだろう? これまでも、多くの屍人を葬ってきた。元々人口の少ない村だ。二・三日で、全て終わるだろう。

 

 

 

 ――あいつらも……この村も……全部消して。

 

 

 

 美耶子の声が聞こえたような気がした。

 

 空を見上げる恭也。

 

 濃い雲に覆われているが、雨は降っていない。

 

 ただ、空の向こうに、屍人がいるような気がした。

 

 

 

 

 

 

 行かなくては。

 

 消さなくては。

 

 すべて、終わらせなければ。

 

 美耶子との……約束だから……。

 

 

 

 

 

 

 殺戮は、終わらない。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 その、数日後――。

 

 

 

 

 

 

 安野依子は、大字粗戸の小さな丘の上にある古い民家の前にいた。引き戸の玄関と小さな自転車、鉢植え、そして、柱の表札には『竹内』と、ある

 

 ――ふうん。これが、先生の実家か。なかなか趣がありますな。

 

 安野はバットを肩に置き、幻視を行った。家の中に竹内の気配がある。泥人形のような屍人の膝を枕にし、もう一人の泥人形に肩を抱かれ、「多聞、今日の夕飯は、何がいいかしら?」「うーんとね、ボク、ハンバーグが食べたい」「はっはっは。多聞は、母さんのハンバーグが好きだなぁ」などと、一見すると家族団らんな様子だ。

 

 ……何をやってんだあの男は。ドルオタの上にマザコンと来たか。はあ。ため息が出る。今回の村の調査に同行したのは間違いだったかもしれない。研究家としては優秀で、大学に入る前から尊敬していた先生だけに、こんな情けないプライベートの姿は見たくなった。

 

 まあいいや。とりあえず、ここから連れ出さなければ。

 

 安野は玄関から中に入り、居間の襖を開けた。

 

 安野の姿を見た泥人形と竹内は、脅え、後退りする。

 

 安野は、バットを振り上げた。

 

 ――が。

 

 静かにバットを下ろす。泥人形屍人を殴って竹内を連れていこうと思っていたが、こんな姿をしていても先生のご両親だ。先生本人を殴るなら何のためらいもないが、親御さんを殴るのはさすがに気が引けた。

 

 安野は畳の上に正座すると、バットを置き、両手をついて頭を下げた。「お父様、お母様、はじめまして。私、竹内先生の優秀な助手をしてます、安野依子と申します。先生にはいつもお世話になり、それ以上に世話を焼かされています」

 

 顔を上げる安野。相変わらず竹内と両親は怯えている。まあ、それも仕方がないだろう。今の三人には、安野の姿が化物に見えるのだ。

 

 安野は立ち上がった。「スミマセン。ちょっと大事なお話があるので、先生、お借りしますね」

 

 そう言って竹内の手を取り、連れ出そうとした。が。

 

「ええい、離せ! 化物! 貴様のような助手を持った覚えはない! 私はここで、お父さんお母さんと暮らすのだ!」

 

 安野の手を振りほどき、また泥人形に抱きつく。

 

 ……やれやれ。しょうがないヤツだ。このまま殴ってムリヤリ連れ出すのもテだけど、ここは、とっておきのヤツを使おう。

 

 安野はポケットから注射器を取り出した。中には赤い液体が入っている。

 

 針を覆っているカバーをはずし、ぷす、っと、竹内の首筋に刺した。赤い液体を注入する。

 

「――うん?」

 

 突然キョロキョロと辺りを見回しはじめる竹内。そばにいる泥人形の両親を見て、「うわっ!」と、驚きの声を上げた。泥人形の両親も、竹内の姿を見て「ああ! 多聞が! 化物に!!」と、怯えはじめた。

 

「先生。目が覚めましたか?」安野は、竹内の後ろから声をかけた。

 

「おお。安野。なんだ? 私は今まで、何をしていたのだ」状況が把握できないのか、相変わらず周囲を見回す。

 

「まあ、御両親が怯えていますので、話は外でしましょう。行きますよ」

 

 安野は竹内の手を引いて、家の外に出た。

 

 

 

 ☆

 

 

 

「……それで、安野。私に何を注射した。ヤバイ薬ではないだろうな」

 

 家を出た竹内多聞は、首筋をさすりながら安野に訊いた。目覚める前、何か赤い液体を注射された記憶がある。

 

 安野は、空の注射器を取り出し、ドヤ顔で言った。「あたしが開発した屍人ワクチンです。これは、ノーベル医学賞モノですよ?」

 

「屍人ワクチン、だと?」

 

「はい。『RHマイナスへの4番』と名付けました」

 

「名前はどうでもいい。それより、成分は何なんだ」

 

「いい名前だと思うんですけどねぇ? ま、いいですけど。これは、あたしの血です」

 

「安野の、血?」

 

「はい。つまり、恭也君の血であり、元々は神代美耶子ちゃんの血です」

 

「神代の……血……だと?」

 

「そうです。これを体内に入れると、決して屍人化することはありません。さっきの先生のような、ギリギリ屍人さんじゃない状態なら、まだ間に合います。残念ながら、完全に屍人さんになってしまうと、効果はありません」

 

 神代の血……そうか。神代の娘は決して屍人にならない。同様に、その血を体内に取り込んだ者も、屍人にはならない。神代美耶子が自分の血を須田恭也に分け与え、須田恭也の血が安野に輸血され、そして、今度は安野の血が私に入ったのか……竹内はそう考えた。

 

 そして、自分が完全に屍人にならなかった理由も判った。数日前、八尾比沙子に囚われた時、自分と恭也は赤い水たまりの中にいた。あの時、恭也も自分も怪我をしていた。恭也の流れ出した血が、赤い水を通じて自分の体内に入ったのだろう。だが、それがかなり微量だったため、人と屍人との間で苦しみ続けていたのだ。

 

「ちなみに――」と、安野が続ける。「この薬、ちょっとした副作用もあります。いえ、大したことはありません。ちょっと、死ねなくなるだけです」

 

 安野は、さらりとした口調で言った。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……そうか。それは確かに、ちょっとした副作用だな」

 

「そうですね」

 

 ため息をつく竹内。神代の娘は決して死なない。死ぬことができない。血を共有した者も同じだろう。

 

 安野があごに指を当てる。「あ、でも、死ねないとは言っても、精神的なものなので注意してください」

 

「精神的なもの?」

 

「はい。簡単に言うと、心は不死身ですが、身体は不死身ではありません。身体が死んでも、心は生き続けます。まあ、治癒能力も上がってるので、歳をとることも、大きな怪我で死ぬこともないですが、即死ダメージや治癒が追いつかないほど継続してダメージを受け続けると、身体は死んじゃいます。なので、頭を撃たれたり、全身に火を点けられたりするのはヤバイです。その点だけは注意してください」

 

 身体が死に、精神だけが生き続ける……それがどういうものなのかは竹内にも判らない。だが、いずれは竹内達の身にも起こることになるのかもしれない。

 

「まあ、今はあんまり気にしてもしょうがないので、気楽に行きましょう」安野は、のんきな声で言った。「それより、神様と、八尾比沙子さんなんですが」

 

 竹内は身を乗り出した。「そうだ。あいつらはどうなったんだ?」

 

「数日前、恭也君に会って話を聞きました。神様は、恭也君が倒しちゃったそうです」

 

「あの少年が? いったい、どうやって?」

 

「宇理炎っていう神の武器で焼いて、焔薙っていう神代家の宝刀で首を斬り落としたそうです」

 

 宇理炎に焔薙。ふたつとも、古くから村に伝わる神具だ。まさか、神をも葬るほどの力があったとは。

 

 安野は話を続ける。「それで、八尾比沙子さんの方なんですけど、神様の首を持って歩いてたら、地面が割れて、その裂け目に落ちて行ったそうです」

 

「地面の裂け目?」

 

「はい。恭也君が言うには、『奈落』だとか」

 

 奈落? 地獄と同義の言葉だ。眞魚教の経典では、常世の地の底にあると言われている。

 

 竹内は安野を見た。「恭也君はどこにいる? 詳しく話を聞きたい」

 

「ああ。ムリです」安野は右手をひらひらと振った。

 

「無理? どうしてだ?」

 

「奈落に落ちた比沙子さんを追いかけて、別の次元に行っちゃいました」

 

「別の次元?」

 

「はい。『美耶子と約束したから、屍人を全部倒すんだー!』って、ずいぶん張り切ってましたよ」

 

「安野。何を言ってるか判らん。もっと、詳しく説明してくれ」

 

「そう言われても、あたしも確かなことは判らないんです。まあ、想像の話ならできますけど」

 

「それでいい。話せ」

 

「えーっとですね、この世には、たくさんの世界があると思うんです」

 

「たくさんの世界?」

 

「はい。まず、あたしたちが元いた『現世』。そして、今いる『異界』――」

 

 安野は、バットで土の地面に絵を描きながら説明する。

 

「――そして、恭也君が神様と戦った『常世』。常世の地の底にある『奈落』。いま確認できているだけで、これだけの世界があるんですが……」

 

 安野は、異界の絵のそばに、もうひとつの絵を描いた。

 

「別の次元に行けば、また、別の異界があると思うんです」

 

「別の異界?」竹内は目を丸くした。「パラレルワールドというヤツか?」

 

「そうですね。今いるあたしたちの世界とは、ほんのちょっと違う世界――例えば、先生が一人で村に来た世界とか、逆に、あたしが友達を何人も連れて来た世界とか、あるいは、なぽりんが今でも売れっ子アイドルを続けている世界とか」

 

「そんな世界があったら、ぜひ行ってみたいが……いや、私は、今のなぽりんが好きなのだ。どんな逆境であっても、諦めず、夢を追い続けるなぽりんこそが真のなぽりんであり……だがしかし、あの時アイドルグループからの卒業という選択肢を選ばなかったなぽりんも、それはそれで――」

 

「何気ない例え話です。先生が別世界に行かないでください」

 

「……悪かった。続けてくれ」

 

 一度大きく息をついた安野は、さらに絵を描きながら続ける。「――で、この世界での神様の復活に失敗した比沙子さんは、別の世界で神様を復活させようと思ったんじゃないでしょうか?」

 

「――――」

 

「この世界で神様を迎える儀式が失敗したのは、神の花嫁・神代美耶子ちゃんが、御神体……いわゆる神様の首を壊してしまったためです」

 

「そうなのか?」

 

「はい。恭也君が言ってました」

 

「ふうむ」

 

「でも、その後、比沙子さんの手により、儀式は再開されました。詳細は比沙子さんにしか判りませんが、おそらく、別の次元から、誰かが神様の首を届けに来たんだと思います」

 

「神の首を届けに来た……『うつぼ船』か!?」

 

「さすが先生。その通りです」安野は、パチッとウインクをした。

 

 うつぼ船とは、羽生蛇村に伝わる伝承のひとつだ。昔、川上から、お椀にガラスの蓋をしたような形の船が流れて来て、中には、眉と髪が白く、目が赤みがかった、異様な風体の女がいた。その女は、奇妙な蛮字が書かれた箱を大事そうに抱えていた。と、いう話だ。村の歴史を研究している者の中には、その箱に書かれてあった蛮字は『首』という意味だ、と、言う者もいる。

 

 安野はさらに話を続ける。「その後、届いた首を使って比沙子さんは儀式をしましたが、なんやかんやあって、神様は首を落とされ、儀式は、永遠に失敗してしまったわけです。でも、手元には首がある。これを別次元に届ければ、その次元で、儀式を続けられる……」

 

「八尾比沙子自身がうつぼ船に乗って首を届けに行ったのか!?」

 

「はい。そういうことではないかと。あくまでも推測ですが」

 

「と、すると、恭也君は、八尾比沙子を追って……」

 

「そうです。恭也君は、比沙子さんが首を届けた世界に行って、そこにいる屍人をぶっ殺すつもりなんでしょう」

 

「し……しかし……それでは……」

 

「はい。恭也君が次の世界で屍人を滅ぼしても、その間に、また比沙子さんが別の世界に首を届けているんです。恭也君は、その世界にも屍人を滅ぼしに行くでしょう。でもその間に、また別の世界に首が届いている……以下繰り返し、です。これが普通の人間ならいつかは寿命が尽きて終わるんですが、残念ながら、首を届ける人も、屍人を滅ぼす人も、永久に死なない人なんです。いつまでたっても終わりません。まさに永久ループ。これ、ハッキリ言って、笑えません」

 

 永遠の命を持った者が新たな世界を作り、永遠の命を持った者がそれを滅ぼす。それが、永遠に続く。

 

 ――虚母ろ主(うろぼろす)の輪。

 

 眞魚教の経典・天地救之伝にある言葉だ。ウロボロスとは、古来より世界中の神話や宗教に登場する考え方のひとつで、自分の尾を噛んで輪となったヘビ、もしくは竜のことだ。ヘビは不老不死の象徴とされ、それが尾を噛む姿は、始まりと終わりという概念が無い物の象徴とされている。眞魚教もこの考え方を取り入れ、虚母ろ主(うろぼろす)の輪という字をあてたのだろう。

 

 須田恭也と八尾比沙子は、この、虚母ろ主の輪に取り込まれてしまったのではないだろうか?

 

 本来、この世界は『神代美耶子が神の首を破壊し、神迎えの儀式が失敗』ということで、時間が進むはずだった。

 

 だが、八尾比沙子が神の首を持って奈落に落ち、首を必要としている全ての世界に届けることで、『首が届くことで儀式を行い、神が復活するが、須田恭也に首を落とされ、八尾比沙子が首を別の世界に届ける』という出来事が、永遠に繰り返されることになった。

 

 まさしく、虚母ろ主の輪だ。そこには、始まりも、終わりも、存在しない。永久に抜け出すことはできないだろう。

 

 安野は、大きくため息をついた。「あたし、一応、恭也君に今の説明をして、止めたんですよ。いつまでたっても終わらないミッションだからやめとけって。でも、『屍人も村も全部消すって美耶子と約束したから』って、聞かないんです。あれ、美耶子ちゃんに憑りつかれてますね」

 

「憑りつかれる?」

 

「はい。美耶子ちゃんって、神様の生贄にされちゃいましたけど、身体は死んでも心は死にません。たぶん、今も恭也君のそばにいて、あれをしろ、これをしろ、って、いろいろ命令してるんだと思います。恭也君、なんか、ときどき空を見上げて、ぶつぶつ独りごと言ってましたから」

 

 神代美耶子が須田恭也のそばにいる――確かに、神代の娘なら、それはありうることだろう。神代の娘は、身体が滅びても精神は滅びない。

 

 だが、そのせいで恭也が抜け出すことのできない永遠の輪の中に入ってしまったのなら。

 

 それは、もはや呪いだ。神代の娘の呪い。

 

 安野は、竹内がこれまで見たことないような怖い顔になった。「……あたし、美耶子ちゃんって娘には会ったことないですけど、ちょーっと、友達にはなれないと思いますね」

 

 人懐っこい安野が、これほどまでに嫌悪感を表すとは、よほど気に入らないのだろう。

 

 だが、またすぐに、いつもののほほんとした顔に戻る。「――まあ、恭也君の命は恭也君本人のものですからね。どう使おうが、彼の自由でしょう。彼がそれでいいと言うのなら、あたしたちが無理に干渉することではないかもしれません。行っちゃったものはしょうがないので、あたしたちは、あたしたちのやるべきことをやりましょう」

 

「やるべきこと?」

 

「はい。恭也君がこの世界の屍人さんをほとんどやっつけてくれたんで、ずいぶん行動しやすくなりました。さ、行きましょうか」

 

 安野は、まるで遠足にでも行くかのような明るい声で言い、歩きだした。

 

 だが、竹内はその場に立ち尽くす。

 

 安野が振り返った。「あれ? どうしたんです先生? ぼーっと突っ立っちゃって」

 

 竹内は、大きく首を振った。「ダメだ、安野。逃げ場は、もう無いんだ」

 

「はい? 逃げ場?」

 

「ああ。私たちはもう、元の世界には戻れない」

 

 竹内は、膝から崩れ落ちた。

 

 安野は、無言で竹内を見つめる。

 

 あの赤い水を体内に取り込んでしまったら、決して、この世界から逃げることはできない。もう、元の世界には戻れない。死ぬこともできない。永遠に、この異界をさまようしかない。

 

「すまない……安野……君を、こんなことに巻き込んでしまって」

 

「…………」

 

 安野はきょとんとした顔をしている。事態が深刻過ぎて理解できていないのかもしれない。

 

「安野……君はもう……帰れないんだ……本当に……すまない……」

 

 竹内は、地面に頭を擦り付けた。

 

 私はまだいい。私は、自分で望んでこの村に戻って来たのだ。泥人形のような姿になってしまったが、家族もいる。だが、安野には、何も残されていない。私が、安野を巻き込んでしまった。やはり、連れて来るべきではなかったのだ。悔やんでも悔やみきれない。

 

 だが、安野は。

 

「なに言ってんですか先生。あたし、まだ帰る気なんて無いですよ?」

 

 明るい声で、言った。

 

 顔を上げる竹内。

 

 安野の顔には、絶望も、後悔も、怒りも無かった。それは、いつも通りの――何も考えていないような、のほほんとした安野の顔。

 

「帰る気が無い……だと……?」

 

「はい。当然ですよ。だって、この世界には、羽生蛇村一三〇〇年分の謎が、ててんこ盛り盛りに詰まってるんですよ? 研究者のはしくれとして、それらの謎を解かずに帰るなんて、あり得ないでしょ?」

 

 安野は、当然のように言った。

 

「謎を、解き明かす?」

 

「そうです。あたしたちがこの数日の間に解いた謎なんて、村の歴史からすれば、ごく一部なんですから。解かなきゃならない謎は、まだまだ沢山あります。ぼーっとしてる時間は無いですよ? なんせ、一三〇〇年分の謎ですからね。時間がいくらあっても足りないくらいです。ま、時間はいくらでもあるんですけどね。なんてったってあたしたち、不死身ですから」

 

「……し……しかし……」

 

 顔を伏せる竹内。確かに、まだこの村に謎なことは多い。だが、どんなに調べても、調べ終わることはないだろう。なぜなら、謎は、これからも増え続けるからだ。村の呪いはこれからも続く。謎は、これからも増え続けるのだ。永遠に増え続ける謎に、永遠の命を持った者が挑む。それでは、八尾比沙子や須田恭也と同じだ。永久にループし続ける。私たちも、虚母ろ主の輪に取り込まれてしまう。

 

 だが、それでも安野はのほほんとした顔をしている。「――それに、あたしが調べた限り、赤い水を体内に取り込んでも現世に帰った人、いますよ?」

 

「――――?」

 

 顔を上げる竹内。

 

 赤い水を取り込んで、現世に帰った人、だと?

 

「それは……誰だ……?」竹内は恐る恐る訊いた。

 

「吉川菜美子ちゃんです」

 

「吉川菜美子……だと……?」

 

「はい。吉川菜美子ちゃんは、二十七年前の七月――前の怪異が起こる一ヶ月前ですね――に、合石岳に出かけたまま行方不明になっています。この辺のことは、先生の方が詳しいでしょう。なんてったって、当時村にいたんですから」

 

 その通りだった。当時竹内は七歳。吉川菜美子とは歳が離れていたから一緒に遊ぶことはほとんどなかったが、村に子供自体少なかったので、よく知っている。失踪直後は、子供たちの間で、神隠しに遭っただの、UFOにさらわれただの、いろいろと話題になった。

 

 安野はゆっくりとした口調で話す。「先生は土砂災害の後村を出たから知らないかもしれませんけど、その後、菜美子ちゃんは羽生蛇村小学校七不思議のひとつになってまして」

 

「羽生蛇村小学校七不思議?」

 

「はい。神隠し騒動から数年後、学校の図書室で本の整理をしていた先生が、吉川菜美子ちゃんと同じ服を着た四つん這いの老婆を見た、というものです。その老婆は、当時吉川菜美子ちゃんが図書室で借りていた本を返すと、関節バキバキ折りながら姿を消しました。その後どうなったかは不明ですが、今も特別な病院で生きている……と、こんな感じの怪談話ですね。この話、詳しくはネットで読めますので、良かったらググってみてください。まあ、この村のパソコンがネットに繋がっていれば、ですけど」

 

 安野の話を聞き、はっとする竹内。四つん這いの老婆……特別な病院……?

 

「気が付きましたか?」安野は、満足そうに頷いた。「菜美子ちゃん。神隠しに遭ったというのは、異界に取り込まれたと見て間違いないと思います。神隠し事件は土砂災害が発生する前ですが、この村では昔から行方不明者が多いことで有名ですから、何かの拍子に異界に行ってしまうのは、珍しいことではないんでしょう。で、怪談話に出てくる四つん這いの老婆というのは、犬屍人さんになった吉川菜美子ちゃんで、特別な病院というのは、宮田医院のことだと思います。宮田医院の求導師先生にも聞きました。宮田医院は、現世に現れた屍人さんを密かに捕えて、地下牢に閉じ込めたり、処分したりしてるって。その中に、子ども服を着た関節バキバキの犬屍人さんもいたそうですよ? 求導師先生が子供の頃、解剖したことがあるそうです」

 

 確かに、それならつじつまが合う。屍人が現世に現れている、というのも、十分あり得る話だった。現世の羽生蛇村でも、屍人や幻視のことは広く知れ渡っている。村に伝わる伝承のようなものだが、実際現世に屍人が現れなければ、このような伝承も生まれないだろう。宮田医院が屍人を処分していたならば、異界から現世に戻った者は、案外多いのかもしれない。

 

「まあ、どうやって帰るのか、までは、まだ判りませんけどね」安野はあごに指を当てた。「調べてみる価値はあると思いますよ?」

 

「異界から……帰れる……」竹内は、なんと言っていいか判らなかった。「いや、しかし……それはあくまでも、特別な例かもしれない。我々が帰れるという保証は、何も無い」

 

「もちろんです。だから、今から調べるんじゃないですか」

 

「――――」

 

「ま、先生が『帰れない』と主張するのなら、それはそれで構いません。でも、どんなに有力な説でも、証明しない限りは仮説のひとつにすぎませんから、あたしは認めません。あたしを納得させたいなら、帰るためのあらゆる方法を全て試し、どんな方法を使っても絶対に帰れないということを証明してください。そうすれば、先生の説が正しいことを認めます」

 

 安野は、胸を張って言った。

 

 説の証明――それは、研究者の誰もが目指すところだ。竹内は学会において多くの説を唱えてきたが、荒唐無稽で話にならないと、常に嘲笑されてきた。だが、その多くは正しかったと、今も確信している。この、異界の存在も、そのひとつだ。

 

 安野が挑戦的な視線を向けた。「どうします? 羽生蛇村一三〇〇年の謎に挑みますか? それとも、家に帰って家族ごっこを続けますか?」

 

 竹内は顔を伏せ、フフッと笑った。「……まったく、楽観的でいいな、貴様は」

 

「そうですか? ま、それだけが、あたしの取柄ですし」

 

 そんなことはない――と、竹内は心の中で呟く。

 

 いつ命を失うかもしれない状況でも冷静に行動し、私と別れた後も一人でこれだけのことを調べた安野。非常にデキのいい教え子だ。近い将来、私などとは比べ物ならないほどの優秀な学者になるだろう。こんな小さな異界の村でくすぶらせておくには惜しい逸材だ。絶対に現世に戻らねばならない。そして、学会のマヌケどもに一泡吹かせてやろう。

 

 竹内は顔を上げた。「――よかろう。羽生蛇村一三〇〇年の謎、解いてやろうじゃないか」

 

「やったぁ。さすが先生。そう来なくちゃ」安野は手を叩いて喜んだ。

 

「そうと決まればぐずぐずしておれん。行くぞ、助手よ!」

 

 スーツの襟元を整え、歩き出す竹内。

 

「はいはーい。どこまでもお供しますとも」

 

 安野は、いつものように手を挙げ、子供のような調子で応えた。

 

 そうだ。私たちは、立ち止まっているヒマはない。

 

 全ての謎を解くまでは。

 

 神が死に、八尾比沙子が奈落に消えても、まだ終わったわけではない。

 

 そう――俺たちの戦いは、これからだ!

 

 

 

「…………」

 

「…………」

 

「……安野」

 

「……はい」

 

「何だ、この打ち切りの少年マンガみたいな終わり方は」

 

「ま、イイじゃないですか。さ、行きますよ」

 

「……まったく」

 

 

 

 ☆

 

 

 

 その、数日前――。

 

 

 

 四方田春海は、瓦礫と化した村を歩いていた。

 

 今、どこにいるのか判らない。知らない場所だ。たとえ知っている場所だとしても、どこを見ても崩れた家屋や建物でいっぱいだ。もう、ここは、春海の知っている村ではない。

 

 一人で、ずっとここまで歩いてきた春海。

 

 怖かった。心細かった。

 

 でも、もう泣かなかった。

 

 玲子先生と約束したから。もう泣かない、もうあきらめない、と。

 

 雨は降っていない。空には、雲ひとつ無かった。

 

 時々、パラパラというプロペラの音が聞こえる。ヘリコプターが飛んでいるのだ。無線で会話するような、ノイズ交じりの声も聞こえる。

 

 誰かの気配がした。

 

 春海の方に近づいて来る。

 

 とっさに、瓦礫の陰に身を隠す春海。

 

「――大丈夫だよ」

 

 低い、ガラガラの声だった。男の人のようだ。

 

「おじさん、みんなを助けに来たんだ。怖がらなくていいから、出ておいで」

 

 春海が隠れたのを見て、気を使っているのだろう。決して、向こうから近づこうとはせず、その場で待っている。

 

 春海は、ゆっくりと、瓦礫の陰から出た。

 

「こんにちは」

 

 見たことがない男の人が、にっこりと笑っていた。緑と黒の迷彩柄の服を着て、頭にヘルメットをかぶっている。クマみたいに大きな男の人だった。笑っているが、なんとなくぎこちない。普段は笑うことなんてない、いつも、怒ったような顔をしている人なのかもしれない。

 

 でも、不思議と春海は、怖いとは思わなかった。このおじさんは、宮田先生と同じだ。見た目は怖そうでも、本当は、優しい人。

 

 おじさんは、春海と同じ目線にしゃがんだ。「おじさん、『みさわたけあき』っていうんだ。お嬢ちゃんの名前、教えてくれるかな?」

 

「四方田……春海です」

 

「ありがとう、春海ちゃん。どこか、ケガをしたり、痛い所とか、ある?」

 

「大丈夫、です」

 

「そうか。それは良かった。じゃあ、春海ちゃんの、住んでるお家の住所とか、学校のクラスとか、判るかな?」

 

「おうちは、刈割の教会の近くの、叔父さん叔母さんの家です。学校は、羽生蛇村小学校・折部分校の、三・四年クラスです」

 

「うん。偉いね。春海ちゃん、ちょっと、待っててくれるかな」

 

 そう言うと、おじさんは横を向き、肩に取り付けてあるトランシーバーみたいな機会に向かって、いま春海が話したことをそのまま告げた。トランシーバーからは《了解》と、ノイズ交じりの返事が返ってきた。

 

 おじさんは、また春海を見た。「春海ちゃんは、いま、ひとりかな?」

 

 春海は、黙ってうなずく。

 

「おじさん、みんなを助けに来たんだ。大きな地震が起こって、村の人が困ってると思って。春海ちゃん。もし、話したくないならいいんだけど、お父さんお母さんや、近所の人や、友達とか先生は、どこにいるのか判るかな?」

 

「お父さんお母さんは、去年、交通事故で死にました。叔父さん叔母さんは、判りません。近所の人やともだちも……」

 

「そうか……ごめんね……イヤなこと訊いて」

 

 春海は、小さく首を振った。「大丈夫。おじさんに、聴いてほしいから」

 

「……そうか」

 

「玲子先生は、地震が起こった後、あたしを護ってくれたの。校長先生が死んで、村のみんなもいっぱい死んで、しびとになって追いかけて来たけど、ぜんぶ、先生がやっつけてくれた」

 

「――――?」

 

「でも、教会から田堀に行く途中で、玲子先生も死んじゃって、しびとになって、あたしを追いかけて来た。知子ちゃんも、前田のおじさんおばさんも、村のみんな、全員」

 

 おじさんは、春海の話を、頷きながら聞いていた。余計なことは何も言わず、ただ、笑顔で聞いている。

 

「最後に、校長先生が追いかけて来たけど、玲子先生が、元の優しい玲子先生に戻って、助けてくれた。だから、あたしは、ここにいるの」

 

 おじさんは、優しく春海の頭を撫でてくれた。「――怖い思いをしたんだね。頑張った」

 

 春海は、大きく頷く。「一人で怖くて、寂しくて、何回も泣いたけど……でも、もう泣かないの。玲子先生が、また怖い人になって、追いかけて来ちゃうから」

 

「……大丈夫。もう、怖いことなんて無いからね」

 

「あたしが泣くと、玲子先生は心配する。それじゃあ、ダメなの。玲子先生が、めぐみちゃんの所に行けない。怖い人になって、また、戻ってきちゃう。めぐみちゃんが、また泣いちゃう」

 

「――うん」

 

「だからあたし、もう泣かないの。あきらめないの。どんなに怖くても、どんなに寂しくても、絶対泣かない。玲子先生との約束だから」

 

 春海は、そこで、言葉を止めた。

 

 おじさんは、笑顔のまま、春海の言葉を待っている。

 

「でも……」

 

 春海に向かって優しく微笑むおじさんの顔が、ぐにゃりと、歪んだ。

 

「でも……もう……玲子先生には、会えないんだよね」

 

 いつの間にか、目に、涙がいっぱい溜まっていた。

 

「玲子先生にも、校長先生にも、クラスのみんなにも、叔父さん叔母さんにも、知子ちゃんにも、宮田先生にも、美奈お姉ちゃんにも、志村のおじいちゃんにも、求導師様にも、みやちゃんにも、もう、会えないんだよね」

 

 頬を、涙が伝う。

 

 おじさんは何も言わない。否定も、肯定も、しなかった。

 

 泣いちゃダメだ。泣いたら、玲子先生が心配する。玲子先生と約束したんだ。絶対絶対絶対泣かないって、約束したんだから。

 

 でも、一度こぼれ落ちた涙は、もう止まらない。

 

 おじさんが、春海を、そっと抱きしめてくれた。

 

 春海は。

 

「――――」

 

 声を上げて、泣いた。

 

 泣いちゃダメだ。泣いちゃダメだ。泣いちゃダメだ。

 

 そう、思えば思うほど、涙が止まらない。泣き続ける。もう、二度と会えない、大切な人たちのことを思って。

 

 春海は泣いた。泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 泣きながら、空を見た。

 

 

 

 

 

 

 赤い雨が上がった空は、どこまでも青く澄み渡っていた。

 

 

 

 

 

 


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