SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第六十九話 竹内多聞 屍人ノ巣/第三層付近 第三日/二十二時十三分三十三秒

 突如押し寄せた濁流により、屍人の巣は崩壊した。

 

 

 

 

 

 

 水が引いた屍人の巣で、竹内多聞は地面にうずくまり、苦しんでいた。心の奥底を黒い蟲がうごめき、這いずり出てようとしているのを、必死に抑えている――そんな気分。

 

 屍人化の兆候が始まってからもう二十時間近く経つが、竹内は、まだ人と屍人の間をさ迷っていた。赤い濁流に飲み込まれ、さらに多くの赤い水を体内に取り込んだはずなのに、それでも、まだ人としての理性をぎりぎり保っていた。なぜ、まだ屍人にならないのかは判らない。屍人にならないのは幸運なのか、それとも、屍人になれない苦しみが続くのは不幸なのか。判らない。これからどうすればいい。おとなしく屍人になるのを待つか。屍人にならない方法を探すか。神を倒す手段を探すか。判らない。もう、何も判らなかった。

 

 ……多聞……。

 

 声が聞こえた。女の声だ。耳で聞こえた声ではない。心で聞こえた声。優しさがにじむような声。誰だ? 周囲を見回すが、半壊した屍人の巣が広がるだけだ。

 

 ……多聞……。

 

 また聞こえる。今度は男の声だ。威厳に満ちているが、どこか、気づかいが溢れるような声。

 

 声は、断続的に聞こえる。何度も竹内の名を呼ぶ。女の声も、男の声も、はるか遠い昔に聞いた覚えがあるように思う。

 

 竹内は立ち上がった。波間に浮かぶ小さな舟の上に立っているような気分だが、それでも一歩踏み出し、声の方へ進む。声の正体は判らない。ただ、私が人としての命が尽きる前に、声の元へ行かねばならないと思った。

 

 歩き始めて、ライトを失っていることに気が付いた。陽は沈んでいる。昨日は点いていた街灯も、巣の崩壊とともに消えてしまった。街一体をアーケードのように覆っていた屋根もほとんど流されてしまったため、空が見える。雨は小降りになっていた。薄い雲の向こうにぼんやりと見える月の明かりだけが頼りだった。竹内は、鉄パイプを握りしめて進んだ。

 

 ブロック塀に挟まれた細い通路を歩く多聞。地面は水浸しだ。かなり深い水たまりで行く手が阻まれている場所もある。今、自分がどこにいるのかは判らない。濁流に飲み込まれ、流されはしたが、大字粗戸からはそう離れていないはずだ。何か、場所を特定できるものはないだろうか。周囲を見回しながら進むと、やや広い通りに出た。誰かの気配がする。通路の隅、ゴミが大量に積みあがった所に、四つん這いの獣のような姿。犬屍人だ。ゴミをあさっているのだろう。相手もこちらの気配に気づき、振り返った。牙を剥き出し、低い唸り声を上げて威嚇する。カールがかかったボサボサの長い髪、薄汚れた花柄のキャミソールにジーンズ姿。肌の露出が多く、身体のラインが強調される服装だ。今は醜い屍人だが、人であった頃はかなりの美人だったのかもしれない

 

 犬屍人は空に向かって一声吠えると、こちらに向かって走って来る。できれば戦いたくはないのだが、屍人が襲ってくるということは、私はまだ人間だということでもある。ありがたいんだかありがたくないんだか。竹内は鉄パイプを握りしめる。気分は最悪だが、犬屍人の一匹くらい、なんとかなるだろう。犬屍人が鉄パイプの間合いに入った。竹内は、渾身の力を込めて振り下ろした。

 

 がつん! と、あまりにも硬い手応え。完全に屍人の脳天を捕えていたはずの鉄パイプは、アスファルトの地面を叩いていた。屍人の姿が消えた。どこへ行った? 左側に気配を感じた。見ると、犬屍人は二メートルはあるかという高さのブロック塀の上にいた。ひと跳びであの高さまで跳んだというのだろうか? 恐ろしい跳躍力だ。竹内は塀の上の犬屍人に向かって鉄パイプを振るうが、またも屍人の姿が消え、硬いブロック塀を叩いていた。今度は後ろに気配を感じる。振り返るが、その瞬間、反対側の壁を蹴った屍人の左の回し蹴りが、竹内の右側頭部に向かって飛んでくる。なんとか腕を上げてガードするが、大きく吹き飛ばされ、竹内は水浸しの地面に倒れた。

 

 ――屍人の分際で三角跳び蹴りとは生意気な。

 

 立ち上がる竹内。犬屍人が向かって来る。今度こそ外さない。鉄パイプを構えた竹内だったが、犬屍人は竹内の間合いに入る前に地面を蹴り、大きく跳んだ。竹内の頭上を越え、背後に着地すると同時に、右の回し蹴りが頭部に向かって来る。竹内はとっさにしゃがんでかわしたが、屍人は蹴りを放った右足を軸足に変えると、今度は身を低く沈めながら、地面を這うような後ろ回し蹴りを打ってきた。足を払われた竹内は倒れそうになる。そこへ、また蹴り足が軸足に変わり、右の回し蹴りが飛んでくる。顔面に蹴りを喰らった竹内は、大きくのけ反り、背中からブロック塀に叩きつけられた。後頭部も強く打ち付け、一瞬意識が飛ぶ。屍人がさらに襲い掛かって来るのが見えた。もうろうとする意識の中、それでも竹内は鉄パイプを振るう。が、犬屍人は、今度は竹内の鉄パイプを左手で受け止めると、右手で襟を取り、身体を反転させて竹内の身体を投げた。地面に叩きつけられると同時に、犬屍人は両足で竹内の右腕を挟み込み、両手で手首を持つと、お腹を支点にして、関節を逆に曲げた。腕ひしぎ十字固め。バキリ、と、骨が砕ける音と共に激痛が走る。犬屍人は後方に大きく飛び、間合いを開けた。

 

 激痛に耐えながら、なんとか左手で鉄パイプを拾う竹内。犬屍人は相変わらず歯をむき出しにして威嚇している。この屍人は元プロの格闘家か、それとも、軍の特殊部隊にでもいたのか。今まで会ったどんな屍人よりも手強い。ダメだ。鉄パイプごときで迎撃できそうにない。たとえ拳銃があったとしても、あの速さに対応できるかどうか。

 

 犬屍人が向かって来る。到底勝てる見込みは無いが、それでも左手で鉄パイプを振るう竹内。勢いのないその攻撃は、虚しく空を切る。犬屍人は右の塀の上に飛び乗ったかと思うと、次の瞬間には反対側の塀に飛び移り、振り向いた瞬間には背後にいる。もはや目で追うこともできない。

 

 犬屍人の拳が飛んでくる。顔面と、お腹と、あごに喰らった。後ろに大きくよろめいたところに、勢いの付いた前蹴りを胸に喰らう。竹内は吹き飛ばされ、叩きつけられるように地面に倒れた。

 

 その、衝撃で、胸ポケットから何かこぼれ落ちた。

 

 意識を半分失いながらも、竹内は顔を上げ、ポケットから落ちた物を見た。昨日、蛇ノ首谷の電話ボックスで拾った、美浜奈保子の限定テレホンカードだった。この世に二枚しかない貴重な宝物。

 

 犬屍人が跳躍した。とどめを刺そうとしている。

 

 竹内は、美浜奈保子のテレカに手を伸ばした。

 

 そして、愛する者をかばうかのように、懐に入れ、うずくまる。

 

 たとえこの身を砕かれようとも、テレカだけは護るつもりだった。使い古されたゴミのようなテレカでも、私にとっては命よりも大事なものだ。テレカに価値があるのではない。なぽりんを護ることに価値があるのだ。言わば私は、愛に生き、そして、愛に死ぬのである。私は死など恐れない。なぽりんを護ることができるのならば、何を恐れることがあるだろう。さあ、屍人よ! 私を殺せ! TMNは死すとも愛は死なぬ!!

 

 …………。

 

 ……何も起こらない。屍人は襲ってこない。なぶり殺しにでもするつもりか? 趣味の悪いヤツだ。

 

 竹内は、そっと顔を上げた。

 

 犬屍人は、塀の上から竹内を見下ろしていた。

 

 歯をむき出しにし、低い唸り声をあげ、威嚇している。

 

 だが、その顔には、ためらいと、わずかな悲しみが混じっているように見えた。

 

 犬屍人は、空に向かって吠えると。

 

 大きく跳躍し、後ろの廃屋の屋根に飛び移り、そこでもう一度跳んで、闇の中に消えた。

 

 ……何だったのだ? とどめを刺すことは簡単だったはずなのに、逃げて行きおった。私となぽりんの愛に怖気づいたのだろうか? いや、まさかな。考えて、すぐに思い当った。今、この瞬間、私は屍人になってしまったのだ。屍人は屍人を襲わない。だから、去って行ったのだろう。

 

 ……多聞……。

 

 竹内を呼ぶ声は相変わらず聞こえている。

 

 人でなくなってしまったのは残念だが、どの道長くはなかっただろう。それに、屍人になっても、まだしばらくは人の意思を保っていられるはずだ。その間に、この声の元にたどり着かなければ。竹内は左手で鉄パイプを持ち、折れた右腕をかばいながら、声のする方へ歩いた。

 

 しばらく歩くと、また、誰かの気配がする。通路の奥に、誰かいる。

 

「……春海ちゃん……春海ちゃんどこ……? 出てきて……お母さん……先生……もう怒ったりしないから……ごめんなさい……めぐ……春海ちゃん……お願いだから……出てきて……めぐみ……」

 

 女性の人型屍人だった。血の涙を流し、右手に持つバールを引きずりながら歩いている。誰かを探しているようだ。娘とはぐれたのだろうか? しばらく様子を見ていると。

 

「……出て来なさいて言ってるでしょう!! どうしてお母さんのいうことが聞けないの!! うるさい! 泣くな! 泣いたら許されるとでも思ってるの!! あんたなんて産まなきゃよかった!! そうやっていつまでも泣いてる子は!!」

 

 突然ヒステリックに叫び出し、バールで壁や地面を叩きはじめる。かと思うと。

 

「……ごめんなさい……めぐみ……お母さん……またやっちゃったね……今度こそ約束する……お母さ……先生……二度と怒ったりしない……絶対に叩いたりしない……だから……めぐ……春……海ちゃん……出てきて……先生を……一人にしないで……お願い……」

 

 急に泣きはじめ、辺りを探し始める。そして、また怒り、暴れ出す。

 

 ……子供を虐待する母親の典型的行動パターンだな。できれば近寄りたくはないが、他に道は無い。幸い、私も屍人になっているから、刺激しなければ襲われることはないだろう。竹内は構わず通り抜けようとした。

 

 だが、竹内の気配に気づいた屍人は。

 

「……春海ちゃんに近づくなぁ!!」

 

 バールを振り上げ、襲い掛かって来た。

 

 襲われると思っていなかった竹内。不意を突かれたが、なんとか鉄パイプでバールを受け止めた。だが、女とは思えないほどの力だった。左手の握力では受け止めきれず、鉄パイプを落としてしまった。拾おうとする。その背中に、バールが振り下ろされる。強い衝撃。息がつまり、地面に倒れ込む。そこに、さらにバールが振り下ろされる。

 

「春海ちゃんのお母さんになるんだぁ! 誰にも邪魔させない……誰にも邪魔させない! 春海ちゃんはあたしのもの! あたしの娘えぇ!!」

 

 意味不明なことを叫びながら、屍人は何度もバールを振り下ろす。竹内にはもう抵抗すべき力が無かった。これまでか……。まあ、すでに屍人になっているのだから、殺されてもよみがえることができるだろう。いや、屍人に襲われたということは、私は屍人ではなかったのだろうか? 判らない。どちらにしても同じだ。ここで死ねば、どのみち私は屍人となってよみがえる。ああ、死ぬ前に、もう一度なぽりんの勇姿を見たかった。いつか制作されるであろう美浜奈保子主演のアクション映画を観ることができないのが、唯一の心残りである。

 

 竹内が、死を間際になぽりんに思いを馳せていた時。

 

 夜空に、獣の遠吠えが響き渡った。

 

 屍人の振り上げたバールが止まる。周囲を見回している。

 

 竹内も顔を上げた。

 

 何か来る。通路の向こう。ものすごい速さで近づいて来る。闇の中から現れた者は、竹内達の前で大きく跳躍すると、矢のように鋭い跳び蹴りを屍人の胸に打ち込んだ。屍人は大きく吹き飛んで行く。

 

 闇から現れた者は竹内と屍人との間に着地する。薄汚れた花柄のキャミソールにジーンズ。さっきの格闘系犬屍人だった。

 

 犬屍人は獲物を前にした狼のように前かがみの四つん這いになり、バール屍人に向かって低い唸り声を上げた。まるで、竹内を護ろうとしているかのようである。

 

 バール屍人が起き上がった。「春海ちゃんに手を出すなぁ!! あたしが春海ちゃんを護る!! あたしの娘に手出しさせなぁい!!」

 

 バールを振り上げ、犬屍人に襲いかかる。

 

 犬屍人は二本足で立つと、バールを持つ屍人の右手に向かって右の回し蹴りを打ち込む。バールは勢いよく回転しながら地面に落ちた。犬屍人はそのままくるりと回転して軸足を変えると、バール屍人の腹に左の後ろ回し蹴りを打ち込み、さらにもう一度軸足を変えて右足であごを蹴り上げた。大きくのけ反って後ろに倒れるバール屍人。犬屍人はバール屍人の上に馬乗りになると、顔面に向かって拳を振り下ろした。右、左、右……と、次々と拳を振り下ろす。血飛沫が飛び散り、バール屍人が動かなくなっても、殴り続ける。

 

 ……屍人が仲間を攻撃するのは初めて見た。あの犬屍人、よく判らないヤツだが、屍人の中にもおかしな行動をする者――いわば、奇行種とでも呼ぶべき者もいるのかもしれない。なんにせよ助かった。今がチャンスだ。

 

 竹内は鉄パイプを拾い、その場を離れた。

 

 しばらく通路を進むと、見覚えのある看板が見えた。車の整備屋の看板だ。先ほど街を襲った濁流の影響か、はずれかけている。わずかな風にもぐらぐらと揺れ、今にも落ちそうだ。

 

 この整備屋があるということは、ここは、二十時間ほど前、八尾比沙子に捕えられていた場所に近い通りだ。上粗戸の北地域あたりだろう。

 

 ……多聞……。

 

 竹内を呼ぶ声は南から聞こえて来る。

 

 南へ向かうには一度東へ抜け、眞魚川沿いの道を下らなければいけない。しかし、幻視で様子を探ると、川沿いの道には多くの屍人が徘徊していた。先ほど格闘系犬屍人に折られた右腕はまだ治っていない。戦闘は避けたいところだ。他に道は無いだろうか? 周囲を探る。抜け道は無かったが、整備屋の出入口の前に、北から南へ向けて大きな排水溝があるのに気が付いた。深さは四メートル、幅は三メートルほど。竹内でも十分通れそうな大きさだ。恐らく、南西の刈割方面の棚田に水を運ぶための用水路だ。水は流れていなかった。水門が閉じられているのかもしれない。

 

 だが、排水溝には木組みの枠がはめられていた。先ほどの濁流の影響か、ところどころ壊れてはいるが、小さな子供でもないかぎり下りられそうにない。何か強い衝撃を与えて、もう少し壊せば大丈夫かもしれない。竹内は鉄パイプで何度か叩いたが、力の入らない左手ではビクともしなかった。右腕の骨折が治ったとしても壊せるかどうか。何か他に方法は無いか? さらに周囲を探る。上を見ると、木組みの枠のちょうど真上に、さっきの看板があった。

 

 竹内は整備屋に入り、二階に上がった。通路に面した部屋の窓を開ける。身を乗り出すと、すぐ側に看板があり、風に揺れていた。接合部はほとんど壊れており、少しの衝撃でも落ちるだろう。竹内は看板を持ち、大きく揺すった。何度か力を込めると、接合部がはずれ、看板は下に落ちた。派手な音が周囲に響き渡る。再び一階に下りる竹内。看板は木組みの枠を破壊し、用水路に落ちていた。竹内は壊れた木組みの枠の間を通って用水路へ下り、南へ向かって進んだ。

 

 しばらく進むと、用水路の上を大きな橋が通っていた。そばには、上へあがるための梯子もある。竹内は梯子を上がる。橋の親柱に『三蛇橋』と書かれていた。上粗戸の中央交差点へと続く橋だ。

 

 ……多聞……。

 

 謎の声は、よりはっきり、より優しく、竹内を誘う。

 

 橋のそばには南へと続く小さな砂利道があった。その前に、誰か倒れている。警戒しながら近づくと、猟銃屍人だった。頭が完全に潰され、ピクリとも動かない。少し離れた場所にも、頭のつぶれた犬屍人が倒れていた。誰かが狙撃でもしたのだろうか? いや、この傷は遠距離用の猟銃では無理だ。至近距離からショットガンでヘッドショットでも決めない限り、こんな状態にはならないように思う。もしくは、何か鈍器のような物で何度も殴ったか。ただ、猟銃屍人に気付かれないように接近するのは、よほどのスピードがないと無理だろう。

 

 遠くで、犬屍人が夜空に向かって吠える声が聞こえた。

 

 見とれている場合ではない。なんであろうと、死んでいるのならそれでいい。さっさとこの場を離れよう。頭を潰したところで屍人はよみがえるし、いつ、他の屍人に襲われるかも判らないのだ。

 

 竹内はその場を離れ、南の小道を進んだ。

 

 やがて、犬屍人の遠吠えは聞こえなくなった。もう、二度と聞くことはないだろう――なぜか、そんな気がした。

 

 

 

 

 

 


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