村に、サイレンが鳴り響く――。
屍人の巣の浅い場所で、竹内多聞は通路にうずくまり、苦しんでいた。サイレンが鳴り響いている。南の海へ行かなければならない、赤い海に身を沈めなければならない――サイレンの誘惑は、もはや耐えがたいものとなっていた。あと少し、あの水が体内に入れば、私は屍人と化すだろう。私にはもう、よみがえった神と、八尾比沙子を止めることはできないかもしれない。巣の中枢へ向かった須田恭也に託すしかない。
――私が人としての意思を保っている間に、どうか。
苦しみに耐えながら、祈る竹内。
「あ! いた!! 先生! 大変です!!」
なじみのある声がした。教え子の安野だろう。私と同じくらい赤い水を浴びているはずなのに、なぜあんなに元気なのだろうか。竹内は苦笑いし、顔を上げた。
「――――!!」
息を飲む竹内。
細い通路の向こうから、手を振りながら、安野が走って来る。
左手に、金属バットを持っていた。
その手は、血の通っていない、くすんだ灰色で。
顔も、同じ色をしていた。
血の涙は流していない。だが、それも時間の問題だろう。
ああ、なんということだ――。
安野が……屍人となってしまった……。
悔やむ竹内。
村に安野を連れて来るべきではなった。大学では変人扱いされている私を何故か慕い、今回の調査に無理矢理同行してきた。だが、殴ってでも、置いて来るべきだった。私のせいで、可愛い教え子を――いや、うるさいだけでなんの可愛げも無いが――こんなことに巻き込んでしまった。うるさいヤツだったが、優秀な教え子だった。めんどくさいヤツだったが、頼りになる助手だった。許せ、安野。今はせめて、私の手で葬ってやろう。鉄パイプを握りしめて立ち上がる竹内。ああ、これで、ようやく静かな日常が戻って来る。研究にも集中できる。なぽりんグッズの収集もコソコソしないですむ。なんとバラ色の日々だろう。
安野が立ち止まった。キョロキョロと、周囲を窺っている。やがてバットを振り上げ、地面に叩きつけた。その衝撃で床が抜け、安野は下の階層へ落ちて行った。
……何をやっとるんだアイツは。屍人と化しても、ワケが判らんことをするヤツだ。
――と。
安野が消えた通路の奥から、何か向かって来る。宙を飛んでいる。羽根屍人ではない。人よりも数倍大きい身体。その身体は半透明で、内部が透けて見える。飛んではいるが、背中に羽は生えていない。まるで空中を泳ぐように飛ぶ、異形の者。
『神』だ。
神は竹内の頭上で静止すると、品定めでもするかのように、じっくりと竹内を見る。
後退りする竹内。神を倒すことが竹内の目的だが、鉄パイプごときで何ができるだろう。だが、やるしかないのか。
何かが壊れるような音がした。最初は遠くで聞こえていたその音は、どんどん近づいて来る。同時に、地面が揺れる。小さかった揺れがどんどん大きくなり、地響きとともに、巣の全体が揺さぶられ、立っていられないほどのものになる。なんだ? 何が起こっている!?
次の瞬間。
巣の壁を突き破り、大量の赤い水が流れ込んできた。
竹内と、そして、神の身体をも飲み込む。
赤い水は巣を丸ごと破壊するほどの大きな流れとなり、海へと向かって行く。
☆
神は、赤い水の流れから脱出した。
その瞬間、天から降り注ぐ光が、神の身体を焼く。
神は、炎に包まれ、悲鳴を上げた。