SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

63 / 78
第六十三話 牧野慶 大字粗戸/耶辺集落 第三日/十二時二十一分〇八秒

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 

 

 牧野慶は屍人の巣を離れ、上粗戸から下粗戸へと向かう山道にいた。夜明け頃から雨は小降りになっていた。代わりに、という訳でもないだろうが、周辺には濃い霧が立ち込めている。数十メートル離れた場所も霞んで見えないほどの濃霧だ。羽生蛇村は山間部に位置しているので霧が発生するのは珍しいことではないが、ここまでの霧は牧野も初めてだった。南に出現したという赤い海の影響もあるのかもしれない。

 

 緩やかな下り坂の先は霧に飲み込まれて見えないが、強い風が吹き渡り、一瞬、霧の切れ間に寂れた集落が見えた。下粗戸は近年の区画整理により道路が通るだけの寂しい地域となっている。集落があるということは、ここも、二十七年前の村――下粗戸ではなく、大字波羅宿ということだろう。牧野の読み通りだった。

 

 霧は再び集落を覆い隠した。牧野は、坂の上から霧の中の集落を見つめる。

 

 ――私が求導師(わたし)としてやるべきこと。

 

 強い決意を胸に、牧野は坂を下った。

 

 牧野が波羅宿に来たのには理由がある。屍人と戦う決意をした牧野だったが、そのための武器は、たまたま拾った拳銃と、弾が十発ほど。あとは、武器とは呼び難いネイルハンマーやラチェットスパナだけだった。これでは、あまりにも心許無い。神から授かった武器もあるにはあるが、これはまだ使えない。まずは、武器の調達が必要だった。

 

 この大字波羅宿には、旧日本軍が隠した武器が大量に眠っている、との噂がある。第二次世界大戦のさなか、当時の宮田医院が日本軍の指定病院に認定されたため、村には日本軍の兵士が多く出入りしていたのだ。今でも村には防空壕などの施設が残っており、戦時中の村を知る老人の中には、軍人が武器を持ち込んでいるのを実際に見た、と言う者もいる。真偽のほどは定かでない。と、言うよりは、都市伝説的な他愛のない噂話であるという見方の方が強い。

 

 だが牧野は、この話が真実では無いかと思っている

 

 この異界に来てから常々疑問に思っていた。村に、あまりにも多くの銃器が溢れている、と。

 

 村のどこに行っても猟銃や拳銃を持った屍人がいる。かつては山での猟が盛んだった村だから猟銃があるのは判るが、それにしても数が多すぎるし、拳銃が多く存在することの説明はつかない。

 

 また、旧日本軍がこんなへんぴな田舎村を指定病院に選んだことも疑問だった。村は都市部から遠く離れており、鉄道すら通っていない。今でこそそれなりに大きな国道が整備され、車による行き来が可能だが、当時はけもの道同然の細い山道があるだけの、かなり閉鎖的な村だったはずだ。

 

 だが牧野には、旧日本軍がこの村を選んだ理由にも心当たりがあった。

 

 屍人の軍事利用である。

 

 理由は定かではないが、屍人は時折、現世にも現れる。大抵は宮田医院の者に捕まって密かに監禁・処分されるのだが、その話をどこからか仕入れた旧日本軍――あるいは、村を発展させるために神代家の方から売り込んだか――は、屍人の力を軍事兵器へ転用することを考えたのだ。単なる推測でしかないが根拠もある。戦前、宮田医院は病床数十五の小さな病院でしかなかったが、軍の指定病院に認定された昭和十六年を境に、病床数六十六の大病院へと生まれ変わった。多額の資金援助がないと不可能な数であり、ただ指定病院に認定されたというだけでは説明がつかないのだ。

 

 屍人を研究すれば、不死の兵士で構成された部隊を作ることができる――軍の上層部が考えそうなことだ。

 

 もちろん、不死の兵士が完成したという事実は、(おおやけ)には無い。極秘裏に進められた作戦だったというのもあるだろうが、恐らく、計画がとん挫したのだ。当然だ。不死の兵士というと一見恐ろしげな印象を受けるが、世界規模の戦争で百人や千人程度が不死になったところで、いったいどれほどの戦果が上がるというのか。何十万規模の部隊を作り上げることができるならば話は別だが、それには莫大な労力と時間と金がかかる。旧日本軍がそのような効率の悪い兵器の研究に没頭している間に、アメリカはたった一発で都市を壊滅させる爆弾を作り上げた。

 

 屍人を軍事利用する計画は闇に葬られたのだろうが、旧日本軍が出入りしていたならば、武器が密かに運び込まれていても、何ら不思議はない。

 

 この波羅宿地区は、防空壕施設が多く点在している地域だ。武器が隠されているならば、ここしかない。

 

 集落に下りた牧野は、幻視で様子を探った。猟銃・拳銃を持った屍人が多数徘徊していた。犬屍人や羽根屍人、農具で武装した人型の屍人も多い。大字波羅宿は蛭ノ塚と同じく村の南部に位置しており、赤い海に最も近い地域のひとつだ。海送り・海還りをするため、必然的に屍人が多くなるのだろう。こちらにも銃があるとはいえ、弾数は少ない。なるべく戦闘は避けたいところだ。まずは、頭脳屍人を見つけよう。そいつを倒せば、犬屍人と羽根屍人の動きは停止し、探索が楽になるはずだ。幻視を続ける牧野。集落の中央付近にある櫓の上に、それらしき姿を見つけた。武装はしていないが、護衛なのか、猟銃を持った羽根屍人が周囲を飛んでいた。一体だけなら何とでもなるだろう。牧野は銃を構え、慎重に櫓へ向かった。

 

 櫓が近づくにつれ、羽根屍人の羽ばたく音が聞こえて来る。牧野は櫓近くの家屋の陰に身を隠し、様子を窺った。櫓の上の頭脳屍人は周囲を見回すように警戒しており、その周りを、羽根屍人が円を描くように飛んでいる。牧野が隠れている民家の付近も時折見ているが、まだ気付かれてはいない。奴らが背を向けた瞬間に出て行って、櫓の下から頭脳屍人だけを撃つのが良さそうだ。幻視を続けながらタイミングを計る牧野。羽根屍人が家屋から離れ、頭脳屍人が背を向けた。今だ。牧野は家屋の陰から飛び出し、銃を構えた。

 

 ――くそっ。

 

 心の中で悪態をつく牧野。拳銃でも十分狙える距離だったが、思った以上に霧が濃く、狙いが定まらない。射撃の腕には自信があるが、これでは外す可能性もある。もっと近づくしかない。だが、ビクン、と身体が震え、羽根屍人が猟銃を構える視点が見えた。見つかったか。牧野はいったん頭脳屍人を撃つのを諦め、走った。銃声が鳴り、牧野のそばの地面が弾けた。相手の銃の腕前は判らないが、空を飛びながらでは、走っている者に狙いを定めるのは簡単ではないはずだ。すぐに弾切れになるだろうから、そこを狙うつもりだった。しかし、二発目の銃弾が、牧野の右腿をかすめた。膝をついて倒れる牧野。油断した。相手は、かなりの銃の腕前らしい。見上げると、銃口が完全に牧野を捕えていた。これまでか……。

 

 だが。

 

 羽根屍人は引き金を引かず、銃口を上げた。撃つのをためらっているのか? 理由は判らないが、この瞬間を見逃す牧野ではない。牧野は拳銃を羽根屍人に向け、連続で引き金を引いた。距離があり、霧も濃く、拳銃では狙いも定めにくいが、六発の内二発が命中した。羽根屍人は地面に落ちた。

 

 だが、倒すべきは羽根屍人ではない。頭脳屍人を見る。櫓の梯子を下り、逃げようとしている。見失うと厄介だ。しかし、銃弾は撃ち尽くしてしまった。リロードしている暇はない。牧野は腿の傷もいとわず走り、銃をネイルハンマーに持ち替え、下りてきた頭脳屍人に殴りつけた。二発、三発と頭を殴り、頭脳屍人は動かなくなった。

 

 大きく息を吐き出す牧野。周辺の屍人を幻視する。犬屍人と羽根屍人は停止していた。人型の屍人はまだ動いているが、数体だから大した脅威ではないだろう。これで、探索はかなり楽になる。

 

 それにしても。

 

 羽根屍人を見る。ヤツは、なぜ撃つのをためらったのだろう。情けをかけたのだろうか? 屍人が人に対してそんな感情を抱くだろうか?

 

 ――うん?

 

 羽根屍人が顔を上げ、こちらを見た。まだ動けるようだ。頭脳屍人の影響を受けていないのかもしれない。狙撃されると厄介だ。牧野はとどめを刺そうと、ネイルハンマーを握りしめ、近づいた。

 

 ――――。

 

 静かにハンマーを下ろす牧野。この屍人がなぜ私を撃つのをためらったのか、判った。

 

 その顔には見覚えがあった。屍人化が進み、顔の下半分は昆虫の顎のように変異しているが、間違いない。合石岳に一人で住む老人・志村晃だ。

 

 志村は、牧野の顔を見つめると。

 

「うああをたのうむおがういけをぞぞぞ」

 

 顎を動かし、声を発した。すでに人語を喋ることはできないようだが、「村を頼むぞ」と、言われた気がした。志村は他の村人とほとんど接することはなく、特に眞魚教の人間を嫌っていた。それなのに、求導師である私に村を任せた。心の奥では、誰よりもこの村を愛していたのかもしれない。

 

 牧野は力強く頷いた。

 

 それを見た志村は、目を閉じ、動かなくなった。牧野の思いが通じたのかは判らない。ただ、その表情は、どこか満足気であった。

 

 櫓を離れ、集落の中央にある広場へ向かう牧野。先ほど幻視をした際、気になる視点をひとつ見つけた。岩に囲まれた洞窟のような場所に、屍人がいるのだ。防空壕、もしくは地下にいるのかもしれない。それが、この広場の辺りなのだ。

 

 だが、広場には井戸しかなく、あとは、近くに廃屋同然の民家が建っているだけだ。井戸に近づく牧野。この中にいるのだろうか。石を拾って投げ入れてみる。かつん、という、乾いた音が返ってきた。水は無いようだ。下りてみるか。井戸には桶を上げ下げするための滑車台がある。桶にはロープが付いてあるが、牧野の体重を支えるには少々問題がありそうな強度だった。もっとしっかりとしたロープがいる。牧野は周辺を探してみることにした。

 

 広場の近くにあった廃屋に使えそうなものは無かったため、牧野は広場を出て、眞魚川沿いに建つ民家へ向かった。かなり古いが、先ほどの廃屋ほど荒れている様子は無い。玄関には表札があり、わずかに『吉村』と読めた。

 

 ――――。

 

 牧野は玄関を開け、中に入った。家の中を探る。すぐにロープを見つけた。強度も長さも十分な物だったが、牧野はさらに部屋を探った。そして、寝室のタンスの引出しに、古ぼけた一枚の写真を見つけた。二人の赤ちゃんが写っている。額には、墨でマナ字架が描かれていた。これは、生まれたばかりの赤ん坊に行う村の古い風習で、魔よけを意味している。裏を見ると、昭和51年6月30日とあった。牧野、そして、宮田の誕生日である。

 

 この家の表札には『吉村』とあった。牧野と宮田が教会と病院に引き取られる前の名字だ。二人の家は、二十七年前の土砂災害で消えた大字波羅宿にあったことも聞いている。

 

 間違いないだろう。ここは、牧野と宮田の家なのだ。

 

 牧野は、しばらく写真を見つめていたが。

 

 元にあった場所に戻し、静かに引出しを閉めた。

 

 特に何かの感情が湧くことはなかった。牧野たちが生まれたすぐ後に土砂災害があったため、この家や集落に関する記憶は何も無い。牧野は家を出ると、広場に戻った。

 

 ロープを滑車台の柱にしっかりと結び付けると、井戸の中へ入った。

 

 下まで降りると、やはり水は無く、暗い横穴が西の方向へ続いていた。どうやらアタリだったようだ。ライトで照らし、奥へと進む。すぐに、上へと続く梯子があった。この上に屍人がいる。なぜこんな所にいるのかは判らない。さらに謎なのは、屍人は猟銃を持っており、ノイズしか流れない壊れたラジオを楽しそうに聞いていることである。まあ、屍人のやることなど気にしても仕方ないだろう。牧野は静かに梯子を上ると、ラジオに夢中になっている屍人の背後に忍び寄り、ハンマーで殴って倒した。

 

 そこには、埃をかぶった古い木箱があった。もう、間違いないだろう。旧日本軍の武器だ。牧野は木箱を開けた。

 

 中には、十センチほどの長さの金属製の筒が無数に入っていた。上部には信管が取り付けられてある。手榴弾のようだ。それ以外の物は、何も無かった。

 

 牧野は落胆を隠せなかった。これは、九九式手榴弾だ。旧日本軍の武器には違いないが、自動小銃や機関銃、あわよくばカノン砲などの重火器が欲しかった。もちろん、手榴弾は破壊力がある。屍人の集団や物陰に隠れている相手に対してはかなり効果的だが、そのような場面は数えるほどしかないだろう。また、空を飛ぶ屍人や狙撃手相手にはどこまで役に立つか判らない。はずれだったか。別の場所を探してみるか――そう思ったが。

 

 ――いや、待てよ。

 

 考える牧野。使い方によっては、屍人どもに大きなダメージを与えられるかもしれない。

 

 牧野は、持てるだけの手榴弾を持ち、その場を離れた。

 

 ロープを伝い、井戸から広場に戻ると。

 

「――あれ? お医者さんの方の先生じゃないですか?」

 

 何とも場違いな明るい調子で声を掛けられた。井戸のそばに、眼鏡をかけた女が立っている。「その節は、お世話になりました」と言って、ぺこりと頭を下げた。見覚えがある女だった。東京から来た大学生で、確か、安野依子という名だったか。

 

 安野は頭を上げた。「変なところで会いますね、先生。井戸の中なんかで、何してたんですか? 貞子(サダコ)的なヤツですか?」

 

 井戸を覗き込む安野。どうやら、牧野のことを宮田司郎と勘違いしているようである。顔は同じだが、求導師の服を着ているのだから間違うこともないだろうが。まあ、この女は余所者だから、牧野と宮田が双子であることを知らなくても無理はない。女が宮田にしか会っていないなら、服装が違っても宮田だと思うのは当然だ。

 

「失礼。私は、宮田ではないんだ」牧野は冷静に言った。

 

 安野は、きょとんとした顔になった。「――と、言いますと?」

 

「この格好を見たまえ。白衣ではなく、眞魚教の服を着ているだろう」

 

「そうですね」

 

「私は眞魚教の求導師・牧野慶だ。宮田とは双子の兄弟だから、村の者ではない君が間違うのも無理はないが」

 

 安野は、ぱちぱちと瞬きをした。「えーっと、よく判りませんが、判りました。先生がそう言うのなら、そういう設定にしておきます」

 

「設定というのが引っかかるが、まあよかろう」

 

「で、先生。井戸の中で何してたんです? お皿を数える趣味でもあるんですか?」

 

「求導師だ。何をしようと、私の勝手だ」

 

「まあ、世の中にはいろんな人がいますから、先生の趣味に口出しするつもりはないです。ちなみにこの中、猟銃屍人さんと壊れたラジオの他に、何かありました?」

 

 牧野は大きくため息をついた。やっかいな相手と関わってしまった。こんなことをしている場合ではない。サイレンの音が止んでいる。ここに来て、もう一時間以上経ったようだ。急がなければ。

 

「すまないが失礼するよ。時間が無いのでね」

 

「そうですか。判りました」

 

 牧野は安野に背を向け、広場から去ろうとしたが。

 

「そう言えば先生。ここって、小学校の放送が聞こえて来るんですよね」

 

 後から、安野が付いてくる。「二日前の夜中に、『先生助けてー!』って、放送が聞こえたんです。それで、あたし、助けに行ったんです。でも、誰もいなくて、そのまま帰っちゃいましたけど。あの時の子、大丈夫かな?」

 

「……君」

 

「……はい」

 

「なぜ、ついて来るのかね?」

 

「いけませんか?」

 

「別にいけなくはないが、私は急いでいるんだ」

 

「そうですか。判りました。どうぞどうぞ。あたしに構わず、行ってください」

 

 牧野は安野に背を向け、また歩き出したが。

 

「ところで先生。その小学校の図書室に、オバケが出るって話があるの、知ってます? あたし、この前ネットのオカルトサイトで見たんですけど、放課後、図書の先生が本の整理をしていたら、目の前に古い本が落ちてきて、上を見たら、天井に、子供の服を着た四つん這いの老婆が張りついてて、関節をバキバキ折りながら消えった、って、話なんですけど」

 

「君」

 

「はい」

 

「君は、よく人から、『空気を読め』とか言われないかね?」

 

「いえ、言われたことはないです。あたしほど空気が読める人もいませんから」

 

「そうか。君の周りの人は、よほど大らかなんだろうな」

 

「そういうワケではないと思います」

 

「まあいい。とにかく、私は急いでるんだ。ムダ話に付き合っているヒマはない」

 

「判ってます。あたしも、ムダ話をしているつもりはありません。ただ、怖い話をしているだけです」

 

「それをムダ話というんだ。ついてくるのは勝手だが、静かにしていてくれないか」

 

「あたしは、ずっと静かにしてると思いますけど、判りました」

 

 牧野は安野に背を向け、また歩き出したが。

 

「それで、その、関節バキバキの幼児服老婆なんですけど、昔、山で神隠しに遭った子供じゃないか、ってウワサなんです。なんでも、その老婆が持ってきた本が、神隠しに遭った女の子が借りてた本だったからって。ウケますよね? 神隠しに遭ったのに、図書室の本を返しに来たんですよ? どんだけ責任感強いのかって話ですよね」

 

「君」

 

「はい」

 

「私は急いでいる。怖い話を聞いているヒマも無いんだ」

 

「今のは怖い話じゃなくて、ウケる話です。その関節バキバキ幼児服老婆、いまも特別な病院で生きてるそうですよ? 何ですかね、特別な病院って? ウケませんか?」

 

「怖い話でもウケる話でも、どっちでもいい。とにかく私は、ムダ話に付き合っているヒマは無い」

 

「あたしも、ムダ話をしているつもりはありません。ワリと重要な話です」

 

「そうか。悪かった。だが、君にとって重要な話でも、今の私にとってはムダ話なんだ」

 

「主観の相違ってやつですね」

 

「判っているなら、少し黙っててくれないか」

 

「あたしは、ずっと静かにしています。あ、この会話、なんか前にしたことあるような? デジャ・ヴュってヤツですかね?」

 

 牧野は、ネイルハンマーで殴りつけたい気持ちを抑えるに必死だった。

 

 そんな牧野の気持ちなどお構いなしに、安野は続ける。「それで先生、あたし、この話について、訊きたいことがあったんです」

 

「そんな子供じみた怪談話のことなど、私は知らん。別の者に訊け」

 

 牧野は安野に背を向け、また歩き出したが。

 

「そんなこと言わずに、お願いしますよ、先生」やはり、安野はついてくる。

 

 面倒なヤツだ。本当にネイルハンマーで殴ってやろうか。それも、クギを抜く方で。いや、求導師として、そのような行為は慎むべきだろう。ここは、無視するよりも適当に答えた方が早いかもしれない。

 

「何について訊きたいんだ? 手短に頼むぞ」牧野が振り返って訊くと。

 

「――病院の地下室と、吉川菜美子ちゃんについてです」

 

 急に、安野の表情が変わった。

 

 全てを見透かすような、あるいは、挑発するかのような視線を、まっすぐに牧野に向けている。

 

 牧野も、表情が変わる。

 

 牧野は安野を睨み返した。視線がぶつかる。多くの修羅場を潜り抜けてきた牧野だ。女子供はもちろん、街のチンピラ程度ならひと睨みで追い払うことも可能だが、安野は動揺した様子もない。大した度胸だ。考えてみたら、銃器を所持した屍人が多く徘徊するこの危険な集落に、女の身一人で潜入するなど、簡単にできることではない。おそらく、偶然ここで会った訳ではないだろう。私を、私として追って来たのだ。

 

 牧野は、頬を緩めた。

 

「――先生?」安野も表情を崩し、顔を傾ける。

 

「君はなかなか見どころがあるな。とても、ただの大学生とは思えん。卒業後は宮田医院へ就職してみてはどうかね? 私が推薦しておこう」

 

「この就職難の時代にありがたい申し出ですが、お断りします。大学院に進んで、研究したいことがありますので」

 

「そうか。それは残念だな」

 

「質問、答えてくれますか?」

 

 牧野は、降参と言わんばかりに両手を挙げた。「判った。私の知っている範囲でよければ、なんでも答えよう」

 

「ありがとうございます」ぺこりと頭を下げる安野。

 

「だが、急いでいるのは本当なんだ。陽が暮れる前に、合石岳まで行かねばならん。歩きながらでも構わないかね?」

 

「もちろんです。さ、行きましょう」

 

 牧野は、安野と共に広場を後にした。

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。