――八尾さんが……まさか……八尾さんが……。
求導師・牧野慶は、屍人の巣の中を、一人、さ迷い歩いていた。うわ言のように、求導女の名をつぶやく。脳裏を駆け巡るのは、八時間ほど前に見た彼女。牧野抜きで儀式を行い、神を迎えた比沙子は、神代家の長女・亜矢子を焼き殺した。信じられなかった。あの、慈愛に満ちた聖女のような人が、人の命をゴミのように扱ったのだ。
八尾比沙子は、自分が教会に引き取られた時からずっとそばにいてくれた。求導師という重すぎる責務の中、八尾比沙子の優しさだけが唯一の救いだった。それなのに……。
昨日までの八尾比沙子は、一体なんだったのか。
八尾比沙子にとって、私はなんだったのか。
私は、これからどうすればいい。
判らない。私を常に導いてくれた
牧野は、ただ歩く。どこへ向かっているのかも判らないまま、歩き続けた。
大きな通りが交差していた。陽はとっくに昇っているはずだが、屍人たちが村を増築し、一帯はすべて屋根で覆われているため、陽の光は届かない。赤信号が明滅し、その度に、交差点を赤く染めている。
――うん?
街灯の下に誰かうずくまっている。屍人ではない。子供のようである。誰だ? 牧野は近づいてみる。子供がその気配に気付いた。屍人と思ったのか、逃げるように街灯から離れ、そばの壁の下に開いていた小さな穴の中に姿を消した。穴は小さく、牧野の身体では通れそうにない。もっとも、仮に通れたとしても、追いかける気など無かった。そのまま交差点を通り抜けようとする。
まぶしい光に顔を照らされた。
交差点の向こう側からだ。誰かいる。ライトの明かりをこちらに向けているのだ。牧野は手で光を遮り、指の隙間からライトの持ち主を見た。
「――牧野さん」ライトが下げられた。宮田司郎だった。「随分と探しましたよ。今まで、どこにいたんですか」
「わ……私は……」
言葉に詰まる牧野。何から説明していいのか判らない。多くのことが起こりすぎて、自分でも整理がつかない。
ただ、ひとつだけ言えることがあった。
牧野は、宮田から視線を外した。「……私は、ただの道化だった」
「――え?」
「村に必要とされていると思っていました……でも、私なんて必要じゃなかった……求導師なんて、ただの飾りだったんです」
「何を言ってるんですか。今こそ、村にあなたが必要なんじゃないですか」
励ますようなことを言う宮田だったが、その言葉に感情は込められていなかった。この男は、とっくに気が付いていただろう。私が、何もできない哀れな男だということに。
それに。
本音を言えば、村などどうでも良かった。村に必要な存在になりたかったわけではない。ただ、八尾比沙子に必要とされたかっただけだ。
牧野は、自嘲気味に笑った。「私にできることなんて、何もありませんよ。私は、ただ、与えられた役割を、何も知らずに演じていただけだった」
宮田は、大きく息を吐き出した後、「私は、あなたが羨ましかった」と、続けた。
「――え?」
「あなたは村の人に慕われ、頼りにされていた。村の人から避けられている私とは大違いだった。私は、あなたになりたかった。同じ双子なのに、なぜ、こんな違いができてしまったのか」
「逆だったら、良かったのにね」牧野は、独り言のようにつぶやいた。
牧野にしてみれば、何の悪意も無く言ったことだったが。
それが、宮田の心に黒い炎を灯していた。
☆
――逆だったら、良かったのにね。
牧野が発した言葉を、宮田は地面に投げつけ、踏みにじりたい気分だった。よくも、そんなことが言えるものだ。
牧野の顔を見る宮田。自分と同じ顔。元は双子の兄弟だ。それが、兄は教会に、弟は病院に引き取られた。どういう理由で選ばれたのかは判らない。恐らく、理由など無いだろう。たまたまそうなっただけだ。逆だったら、どうなっていただろうか? 自分が求導師なら、すべてうまく行ったのだろうか? 牧野が医者なら、すべてうまく行ったのだろうか? 判らない。うまく行ったかもしれないし、同じ結果かもしれない。どちらにしても、もう、今さらどうしようもない。
交差点の赤信号が明滅し、二人の身体を赤く染める。しばらく沈黙が続いた。
「――そうだ。渡す物があるんでした」宮田はポケットに手を入れ、中の物を取り出した。「これを、あなたにと、頼まれていましてね」
二体の人形だった。土をこねて焼き上げた土偶で、一方は剣、もう一方には盾の紋様がある。
目を細め、怪訝な表情をしていた牧野だが、人形を受け取った瞬間、大きく目を見開いた。「これは……
「病院の地下室に拘束された人が持っていました。その人が誰なのかは判らなかったんですが、それを使って、村を救えと言われましてね。しかし、それは私の役目じゃないから、困ってたんですよ。ようやく、牧野さんに渡すことができた」
「これが、病院の地下室に……? なぜ……そんなところに……」
宮田は眉をひそめた。「牧野さん。私には判らないんですが、それは、何なんです? それを使って村を救うとは、どういうことですか? 何か、知ってるんですか?」
「宮田さん、知らないんですか? 宇理炎のことを」
「村の郷土資料館に保管されていた重要文化財で、二十七年前の土砂災害の前日に盗まれた物と聞いています」
「そうか……盗まれたのは儀式の前だから……あなたに知らされていなくても無理はない……」
「どういうことですか? 牧野さん。それはいったいなんなんですか?」
牧野は、少し迷ったような目をした後、ゆっくりとした口調で言った。「……眞魚教の教えでは、宇理炎は、神から授かった武器とあります」
「神から授かった武器?」
「はい。不死なる者を無に返す煉獄の炎を降らせる、と」
「――――!?」
言葉に詰まる宮田。
不死なる者を無に返す――それはつまり、屍人を永久に葬ることができるということなのか。
牧野は、さらに続ける。「しかし、宇理炎は、命の炎とも呼ばれています。煉獄の炎と引き換えに、自らの命をも燃やしてしまうとも」
「命を燃やす……」ようやく言葉を発することができた宮田。「それは、使用した者は死ぬ、ということでしょうか?」
「恐らく」
「ですが……なぜ、そんな物が、病院の地下にあったのでしょう?」
「宇理炎は、二十七年前の土砂災害の前日、何者かによって盗まれ、犯人の手掛かりは無しとされていますが……本当は、あの日、神迎えの儀式から逃げ出そうとした先代の神の花嫁が盗み出したのです」
先代の……神の花嫁……!?
二十七年前の土砂災害が起こったのは、先代の神の花嫁が逃げ出し、神迎えの儀式が失敗したからだ、というのは、宮田も聞いていた。しかし、逃亡の詳細については聞かされていない。行方不明になり、今もどこかで静かに暮らしていると思っていた。
だが、花嫁が宇理炎を盗み出し、そして、それが宮田医院の地下にあったということは――。
息を飲む宮田。
病院の地下で、宇理炎を差し出した者の姿を思い出す。
拘束され、骨と皮だけの
あれが、先代の神の花嫁なのか。
ならば、あの木乃伊は、屍人などではない。
神代の娘は屍人にはならない。死ぬことができない。
そう――あの木乃伊は、生きていたのだ。
宇理炎を授けるために、ずっと、病院の地下室から呼びかけていたのだ。
だが……。
それが、なぜ、私なのだろう。
なぜ、牧野ではないのだろう。
村を救うのは私ではない、牧野だ。
村を救うのは宮田医院の役目ではないではない。求導師の役目だ。
私は村の暗部で、牧野は村の光だ
それなのに、なぜ……。
宮田は、顔を上げた。「牧野さん。ひとつだけ、訊いてもよろしいですか?」
「なんでしょう」
「昨日、病院にいた時、誰かの声を聞きませんでしたか?」
「誰かの声? どのような声でしょうか?」
「女性の声です。『助けて』とか、『村を救って』とか」
「い……いえ……聞いていないですが……」
「そう、ですか」
再び目を伏せる宮田。
牧野は、神の花嫁の声を聞いていない。
神の花嫁は、牧野ではなく、私に助けを求めたのだ。
宮田は目を閉じた。美奈の顔が浮かぶ。屍人ではない、生きていた頃の美奈。宮田が、心から愛した美奈。
美奈は今、どこにいるだろう? まだあの病院にいるだろうか? それとも、私を探して村をさ迷っているのだろうか?
宇理炎を牧野に渡したら、美奈の元に行くつもりだった。もう、村での私の役目は終わるはずだった。今度こそ、本当に。
だが。
――すまない、美奈。どうやら私は、まだ君の所へは行けないようだ。
宮田は、心の中で美奈に詫びた。
「――宮田さん? どうかしましたか?」牧野が、怪訝そうな声を出した。
目を開ける宮田。心は、もう決まっていた。
宮田は首を振った。「……いえ、何でもありません。とにかく、その宇理炎は確かにお渡ししましたよ」
「いや……私に渡されても、困ります」
予想通りの反応をする牧野。さっきまでの宮田なら憤りを感じただろうが、今はもう、何も感じない。ただの哀れな男にしか見えない。
宮田は、牧野の言葉を無視して続ける。「さて。これで、村での私の役割は終わりです。一足先に、退場させてもらいますよ」
「退場……? どういうことですか?」
言葉の意味を計りかねている牧野を前に、宮田は、胸ポケットに手を入れ。
そして、拳銃を取り出した。
息を飲む牧野。
宮田は、その銃口を――。
自分のこめかみに、当てた。
「宮田さん……何を……」
怯えた声の牧野。
「化物役だけは、御免ですからね」
宮田は、最後に少しだけ笑い。
「――さよなら、兄さん」
生まれて初めて、牧野のことを『兄』と呼んだ。
そして、宮田は。
――――。
引き金を引いた。