SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第五十五話 神代美耶子 眞魚岩 第二日/十五時三十三分〇八秒

 神代美耶子は夢を見ていた。

 

 

 

 夢――だと思う。夢でないとあり得ない事だ。いや、あり得ないとは言い切れないかもしれない。それでも、あってはならない事だろう。もし、このようなことが現実に起こっていたとしたら、恐ろしい罪である。きっと、神が――美耶子は神など信じていないが――許しはしない。

 

 

 

 美耶子は地面に倒れていた。身体を起こそうとしても、できなかった。指一本、動かすことができない。わずかに動くのは首のみで、かろうじて、周囲を見回すことだけはできた。そばに、巨大な三角錐の岩があった。表面は鏡のように磨かれており、陽の光を反射し、輝いている。あれは眞魚岩だ。羽生蛇村の中央に存在し、神と共に天から降って来たとされる巨大な岩。村人たちの信仰の対象だ。これがあるということは、ここは、上粗戸の森の中にある広場なのだろうか? だが、さらに周囲を見回し、美耶子は息を飲む ここはどこだ? 眞魚岩のある広場は、豊かな森の中にある。樹々が生い茂り、鳥や小動物が住む、生命に溢れた場所だ。しかし、美耶子が見たのは、生命の息吹など感じることができない光景だった。森など、存在しなかった。地面からは、いくつもの木が生えているが、そのどれもが死んでいた。空を覆い、降りそそぐ陽の光を遮るかのように生い茂っていた緑の葉は、一枚も存在せず、枯れた枝が細く伸びているだけだ。厳しい冬を乗り越えるため葉を落としたわけではない。刺すような陽射しは決して冬のものではないし、地面には枯葉一枚落ちていなかった。雲ひとつ浮かんでいない青空が一面に見渡せ、そして、遮るものが無くなった森の中に、陽の光は容赦なく降りそそぐ。足にまとわりつくように生い茂っていた下草も生えていない。わずかな水分さえも失い、ひび割れた茶色の大地がむき出しになっていた。

 

 死んでいる。

 

 この森は、死んでいる。

 

 こんな所にいては、自分も、死んでしまう。

 

 助けて。

 

 誰か、助けて。

 

 美耶子の思いは、決して、声になることはない。ただ、死肉を喰らう黒い鳥の鳴き声が、死の森に響き渡るだけだ。

 

 それでも美耶子は、助けを求める。鳴き声が響く。

 

 ふと。

 

 森の中に、何者かの気配が生じた。

 

 誰かいる。周囲を見回す美耶子。枯れた木の陰。二人……いや、三人か。わずかに顔を出し、こちらの様子を窺っている。

 

 助けて――声にならない。鳥の鳴き声が響く。

 

 木の陰から、一人が姿を現した。こちらに向かって、ゆっくりと、歩いてくる。

 

 屍人――その姿を見た時、最初、美耶子はそう思った。生きている人には見えなかった。

 

 だが、近づくにつれ、それは屍人ではないことに気が付く。目から血の涙は流れていない。しかし、目の周りは大きく落ち窪み、そのせいで、眼球が大きく飛び出ているように見える。目の下の頬骨も飛び出していた。いや、これも、頬が大きく落ち窪んでいるせいで、飛び出しているように見えるだけだ。頭髪はほとんど抜け落ちている。その顔はまるで、頭蓋骨の上に皮をかぶせただけのように見えた。身体も同様だった。ぼろ同然の衣服から伸びるように出た手足も、骨の上に直接皮をかぶせているだけだ。腹だけが異様に突き出ていた。もちろんそれは、満たされた食事をしたからではないだろう。栄養が失われたため、腹に水が溜まっているのだ。

 

 最初の一人に続き、一人、さらに一人と、木の陰から姿を現す。三人とも、同じような姿をしていた。ただ、最後に出てきた一人だけは、頭に長い髪がわずかに残っていた。もっとも、大部分は抜け落ち、残った髪も極めて細いため、頭皮は丸見えだった。

 

 三人が近づいてくる。助けてくれる、とは思えなかった。三人が自分を見る目は、動けない少女を哀れんでいるのでは、決してない。己の欲望を満たすものを見つめる目だった。

 

 長い髪の者が美耶子のそばに立ち、腹に触れた。掴み、あるいは、ゆっくりと撫でる。まるで、肉の感触を確かめているかのように。

 

 しばらく腹を撫でていた手が止まった。

 

 代わりに、顔を近づけて来る。

 

 黄ばんだ汚らしい歯をむき出しにして。

 

 そして――。

 

 美耶子の腹に、喰らい付いた。

 

 歯が、腹の肉を裂く。喰らいついた者は、頭を勢いよく上げた。ぶちぶちと繊維が切れる音と共に、美耶子の腹の肉は、大きく喰いちぎられた。肉が失われた部分から血が滴り落ちる。そこに、もう一人の者が顔を近づける。美耶子の血で喉の渇きを潤すかのように、溢れ出た血をすする。そして、喰らいつく。肉を引きちぎる。残りの一人もやって来た。だが、顔は近づけない。代わりに、二人が喰いちぎった腹の傷に、手を突っ込んだ。獲物の逃げ込んだ穴蔵を探るかのように、美耶子の腹の中をかき回す。やがて、探していた物を見つけたのか、中の物を掴み、引きずり出した。美耶子の腹から、内臓がだらりと垂れ下がった。それに喰らいつく。初めの二人も、喰らいつく。大事な食糧を奪われてなるものかと、我先に、腹に喰らいつき、肉を喰いちぎり、血をすすり、内臓を(むさぼ)る。

 

 痛みは感じない。だが、恐怖は感じる。生きたまま食べられている。恐ろしいことだ。

 

 助けて。

 

 誰か、助けて――。

 

 声は出ない。死の鳥の声が響くだけ。

 

 美耶子の肉を喰らう者の一人が、こちらに顔を向けた。頭にわずかばかり髪の毛が残った者。

 

 じっと、こちらを見ている。笑っている――のだろうか。

 

 その顔には見覚えがあった。

 

 だが、喰われている美耶子に、それを思い出す余裕は、無かった。

 

 

 

 

 

 

 ――夢だ。

 

 そう。これは夢だ。

 

 現実ではない。

 

 美耶子の身に起こったことではない。

 

 そもそも美耶子は目が見えない。見えたとすれば、それは、別の誰かが見た光景だ。

 

 こんなことはあってはならない。許されることではない。神が、許すはずがない。

 

 だが、もし、本当に起こったとしたら。

 

 神は、彼らにどんな罰を与えるのだろう――。

 

 

 

 

 

 

 美耶子は、眠り続ける。

 

 

 

 

 


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