その岩は、『
一見すると、それは、巨大なすり鉢状の岩に水が張られているように見える。喉が渇いた者がこの場所を訪れれば、岩の水を飲むため、両手ですくおうとするかもしれない。しかし、その水を飲むことは、決して叶わないだろう。
その岩の水は、どんなに風が吹こうとも、あるいは、大きな地震が起ころうとも、決して、水面がたゆたうことはない。なぜなら、岩には、水など張られていないからだ。水に見えるものは岩の表面である。美しく磨かれたダイアモンドや水晶よりも無色透明で、水面のような輝きを持ったその岩は、覗き込んだ者の姿を怪しく写し出す。ゆえに、『水鏡』と呼ばれているのだ。
しかし、この水鏡は、人の手によって磨かれたものではなかった。伝承によると、この地に神が舞い降りた時の衝撃によって岩が削られ、できたとされている。それはつまり、一三〇〇年以上前の天武の時代から存在するということであり、その間、ずっと水面のような輝きを保っているということでもある。到底、人の手のなせる業ではなかった。
水鏡と呼ばれる理由はもうひとつある。地上の人々には、この水鏡は美しい岩でしかないが、天に住まう神には、文字通りの『水鏡』なのである。神は、この水鏡の水をすくうことも、水の中に入ることも可能なのだという。また、水鏡は地上と楽園を繋ぐ扉であるとされている。水鏡に潜ることができれば、その向こうの楽園――常世へ行くことができるのだ。
神の力によって生み出され、そして、神のみが通ることができる楽園への扉。眞魚教においては、村の中心部にある巨石・眞魚岩と並んで信仰の対象とされるものだが、現在の羽生蛇村に、この水鏡を見た者はほとんどいない。村人はもちろん、村の有力者である宮田医院の者や、神代家の者、そして、眞魚教の求導師でさえ、水鏡については文献で読んだだけにすぎなかった。文献によると、水鏡は少なくとも千年以上も前の大地震によって地の底に埋まってしまったそうである。今となっては、どこに存在したのかも判らない。信仰心の無い者の中には、本当に存在したのかを疑問視する者もいた。
だが。
村に一人だけ、この水鏡が、今、どこに存在するのかを、知っている者がいた。
求導女の八尾比沙子である。
☆
水鏡からは、赤い水がとめどなく溢れていた。
水鏡の向こうは、常世のひとつがあるとされている。つまり、この赤い水は常世から流れて来て、村を満たしているのだ。
水鏡の前には祭壇が設けられ、その上に、神代美耶子が横になっていた。眠っているように見えた。あるいは、死んでいるのかもしれない。身動きひとつしない――呼吸の際に上下する胸の動きさえ無かった。だが、美耶子は生きていた。その顔に、死の影は宿っていない。肩を揺すればすぐに目を覚まし、つぶらな瞳を向けてほほ笑むだろう……そんなことを思わせる、生命の強さを感じる顔だった。死んだように眠っている――あるいは、そういうことなのかもしれない。
その、死んだように眠る神代美耶子のそばに、八尾比沙子は花を捧げていた。『純潔』を意味する白いユリの花。同時に、『威厳』を意味する花でもあった。一本、また一本、と、花を捧げる。祭壇に眠る美耶子は、百合の花に囲まれる。
眠る美耶子からは、強い力を感じる。『御印』と、比沙子は呼んでいる。代々神代に産まれた娘にはこの『御印』が宿っているが、この娘ほど、強い『御印』を持って産まれた者はいなかった。産まれつき目が見えず、そして、産まれつき幻視が行える者は、長い神代家の歴史の中でも、この娘が初めてだ。それは、この娘が、完全なる『実』であることを意味していた。
比沙子は、花を捧げ続ける。
この日が来るのを、ずっと、待っていた。
長い、本当に長い時だった。自分が何者かも忘れてしまうほどに。
もうすぐだ。
もうすぐ、解放される。
この村も。
あたし自身も。
この『実』を神に捧げれば、全て終わる。
神が、舞い降りる――。
比沙子は、花を捧げ続ける。