羽生蛇村の南に位置する大字波羅宿の県道で、八尾比沙子は赤い海の波打ち際に立ち、水平線の彼方を眺めていた。かつてこの場所からは山のふもとに広がる街を見下ろすことができたが、今は赤い海の中に消えている。いや、あの赤い海の下に街は存在しない。村が赤い海の異界に飲み込まれたと言った方が正しいだろう。
比沙子の足元には繰り返し赤い波が打ち寄せている。波の音を聞きながら、比沙子は、海を見つめる。
なぜここに来たのだろう? せっかく保護した前田知子を放っておいて。自分でも、よく判らない。
思えば、このところずっとそうだった。自分が何をしたいのか、判らない。
村人を救わなければ。そう思う一方で、村人なんてどうなってもいいと思う自分がいる。
村に迷い込み、怪異に巻き込まれた少年を哀れに思い、助けたが、一方で、あんな余所者、助ける必要など無かったと思う自分がいる。
神の花嫁・神代美耶子に関しても、同じだ。
御印が下り、神の花嫁として捧げられると決まった美耶子を哀れに思い、数日前、比沙子は、儀式から逃れる術を、美耶子に教えた。
眞魚岩の祭壇に収められた御神体を壊せばいい。それで、儀式は失敗する。美耶子様は、自由になれる。
美耶子は比沙子の言葉を信じ、儀式の前日、神代の家から密かに抜け出し、御神体を破壊したはずだ。
だから、儀式が失敗した。村は異界に飲み込まれ、多くの村人の命が犠牲になったが、美耶子様が助かるならば、それでいい。そう思う。
一方で。
何としても儀式を成功させなければと思う自分がいる。そのために、牧野慶を一人前の求導師に育てたのだ。牧野を探し、儀式を再開すれば、この怪異は終わるかもしれない。そうすれば、村は救われる。いや、御神体を失った今、儀式を続けることはできない。怪異は止められず、村は救われない。だが、それでもかまわない。
――判らない。自分が何をしたいのか、判らない。村を救いたいのか、村を滅ぼしたいのか、村なんてどうでもいいのか……。
まるで、自分の中に何人もの八尾比沙子がいるような感覚。そのどれもが自分であり、自分でない。判らない。どれが、本当のあたしなのだろう? あたしは、何がしたいのだろう? あたしは、何をしなければいけないのだろう?
あたしは、何のために生きているのだろう?
海の向こうに問いかけるように、ただ、見つめる。
赤い波は、途切れることなく繰り返し打ち寄せている。
その、波の狭間に。
生物の首が、流れ着いた。
比沙子は、首を拾い上げる。
それは、この地球上に存在する、どの生物の首でもなかった。
一般的な成人男性の首よりも、ひと回り小さい。その半分以上を占めているのが、かっと開かれた左右ふたつの目だ。眼球は無い。闇よりも暗い虚ろな穴が開いているだけ――あるいは、その闇こそが眼球だとも思える。目から下は不自然なまでに細くなっており、口は、存在するのかどうか判らないほど小さい。そして、後頭部の周りには、小さな突起物がいくつもある。
それは、神の首だった。
眞魚岩の祭壇に奉られている――そして、儀式の前日、神代美耶子が破壊したはずの、御神体。
――どうしてここに……これが……。
比沙子は、赤子をあやすように御神体を抱きしめ、そっと撫でた。
突然、雨が止んだ。
――目覚めよ。
海の向こうから、誰かが呼び掛けている――そう感じた。
「……誰?」
御神体を抱いたまま、海の向こうにいる何者かに問う。
「……復活の時……?」
海の向こうの者の声が、心の中に響いている。
「……永遠の狭間で……始まりと終わりは……ひとつとなる……」
判らない……どういうことだ……判らない。
海の彼方で、光が生まれた。
海から生まれた光は、空へ向かって伸びていく。輝きを増し、太く、まぶしくなっていく。
それは、海の底に住む龍が、天へと昇る姿に似ていた。
理尾や丹――聖典・天地救之伝に登場する、災いをもたらす海龍だ。
天へと昇る海龍の姿を、比沙子はじっと見つめる。
天空では、海龍を迎え入れるかのように、神が、大きく手を広げていた。
――いや、あれは、あたしたちが信仰している神ではない。
そう思った。あれは、神よりもさらに上の者。
なぜ、そんなことを思ったのかは判らない。眞魚教の経典にも、神の上に存在する者のことなど書かれていない。ただ、はるかな記憶の奥底から、もう一人の誰かが、そう教えてくれたのだ。
――儀式を続けなさい。
別の声が聞こえた。
誰? 比沙子は、天へ向けていた視線を落とす。
目の前の波の狭間に、一人の女性が立っていた。
眞魚教の求導女しか着ることの許されない――つまり、自分しか着ることの許されない赤い法服を着ている。髪は長い白髪で、老婆のような外見であるが、顔は、不自然なまでに若い。
女は、木箱のようなものを大事そうに胸に抱き、比沙子に向かってほほ笑んでいた。
比沙子は。
――あなたは誰?
胸の中で、女に問いかけた。
――私は、あなた。
女が答えた。
――なにをしに来たの?
さらに問う。
――首を届けに。
女は答える。
どこへ行くの?
必要としている、全ての場所へ。
いつまで?
命の続く限り。
それが、あなたのすべきことなの?
そう。
あたしは、何をすればいいの?
儀式を続けなさい。
いつまで?
命の続く限り。
それが、あたしのすべきことなの?
そう。
あたしは、誰?
――――。
最後の問いには、答えてくれなかった。
どれくらいの時間が流れたのか、比沙子は御神体を抱え、赤い海の波打ち際に、一人、立っていた。
海の彼方の光の柱は消えている。首を届けに来た女も消えている。赤い雨は降り続いている。
残されたのは、神の首と、そして、自分がすべきこと。
――そうだ。あたしは、儀式を続けなければいけない。
その瞬間。
遠い――本当に遠い記憶の彼方に沈んでいた自分が、目覚めた。
比沙子は、笑みを浮かべる。
そこに、村人から『慈愛に満ちた聖女』と呼ばれる八尾比沙子の優しさは、無かった。