SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第四十一話 美浜奈保子 蛭ノ塚/水蛭子神社湧水 第二日/三時三十三分三十三秒

 蛭ノ塚にある水蛭子神社のそばで、美浜奈保子は襲いくる化物相手に、一人で戦っていた。合石岳で拾った銃はすでに撃ち尽くしていた。他に武器はない。頼れるのは、Vシネマ『ヒットマン女豹』の撮影時からずっと続けている護身術だけだ。ナイフを持って襲ってくる男を背負いで投げ飛ばし、四つん這いで跳びかかってくるイヌ女の顔面を蹴り上げ、空から銃を撃ってくるハエ男には石を投げ、落ちてきたところに顔面パンチを叩き込む。それでも、化物は次々と襲いかかってくる。倒した化物もよみがえる。これでは、キリが無い。

 

 ――ボスは、ボスはどこ!?

 

 これまでの戦いから、イヌ女やハエ男、クモ男には、小学校にいた変態タコ男のようなボスがいて、そいつを倒せばみんな動かなくなることを知っていた。だから、何よりもボスを倒すことが先決なのだ。視界をジャックする能力でボスの存在は掴んでいるが、ここは初めて訪れる場所なので、どこにいるのか判らない。走り回って探しているが、見つからない。襲ってくるのはザコばかりである。

 

 赤い池がある広場にやって来た。すぐ近くに神社の社殿があり、その向こうには小さな祠のようなものもある。この近くにボスがいるはずだ。どこだ? 探す。社殿の陰から化物が飛び出してきた。鎌を振り上げている。人型の化物で、ボスではない。邪魔よ! 鎌をかわし、顔面に膝蹴りを叩き込もうとした。

 

 しかし。

 

 鎌をかわすことはできたが、その刃先が、奈保子のウエストポーチをかすめた。

 

 ポーチは引き裂かれ、中のビデオカメラが地面に転がる。

 

 しまった! すぐにカメラを拾おうと手を伸ばすが、化物が鎌を振り上げたので、反射的に間合いを取る。

 

 化物はさらに襲い掛かってくる。

 

 その右足が、カメラの上に来て。

 

 がしゃり、と、踏み潰される音。

 

「ああ――!!」

 

 声を上げる奈保子。

 

 カメラは、無惨にもバラバラになっていた。

 

「このぉ!!」

 

 もはや鎌をかわすのも忘れ、踏み込む奈保子。

 

 鎌が左肩に刺さったが、関係ない。怒りを込めた拳を、化物の顔面に叩き込む。化物は大きく吹っ飛んだ。

 

 ――DVD! 中のDVDさえ無事なら!!

 

 カメラの残骸を拾い、DVDを取り出すスイッチを押す。カメラは所詮録画機だ。中のDVDさえ無事なら、これまで録画した映像は、別の機械で見ることができる。

 

 しかし――。

 

 開かれたカメラの中のDVDは、真っ二つに割れていた。

 

 このDVDには、この二十四時間の出来事を記録している。合石岳で迷い、三隅鉱山で吉川菜美子ちゃんのランドセルを拾い、村のいたるところで化物に襲われた。

 

 その、全てを記録したカメラが、DVDが。

 

 壊れてしまった。

 

 これを東京に持ち帰る――それだけを目標に、ここまで、一人で戦って来たのに。

 

 奈保子は、崩れるように膝をついた。

 

 ――もうダメだ、あたし。

 

 左肩に刺さった鎌を引き抜いた。血が勢いよく噴き出すが、痛みは感じなかった。この程度の傷ならば、三十分もしないうちに治るだろう。

 

 だが、壊れてしまったカメラとDVDは、決して元に戻らない。

 

 悲しくはなかった。むしろ、おかしかった。こらえきれず、奈保子は笑う。これまでやって来たこと、そのすべてが、一瞬で無駄になった。それがおかしくて、笑った。笑って、笑って、涙が出るまで笑い続けた。

 

 ――あたし、何やってるんだろ。

 

 不意に、全てがバカバカしくなった。

 

 自分は、今まで何を必死になっていたのだろう? もう、判らなくなった。一体なぜ、こんなことになってしまったのか? 自分はただ、神代家の秘祭というのを取材しようとしただけだ。途中から目的が失踪した吉川菜美子ちゃんの捜索や、村で起こっている怪異を全国に伝えることに変わったが、本来は、ただ、ダークネスJAPANを少しでも良い番組にするために、できる限りのことをしようと思っただけだ。それがいけなかったというのか? 番組のプロデューサーは、秘祭の調査などする必要はないと言った。事前に用意したヤラセを撮影するだけで、それ以上のことをするつもりはなかった。少しでも面白い番組にしようという気持ちなど無かった。それが正しかったということなのか? あの時、あたしも秘祭の撮影などしようとせず、山を下りなければ、こんな怪異に巻き込まれることはなかったかもしれない。あたしが、少しでも良い番組にしよう、なんて余計なことを考えなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。

 

 思えば。

 

 これまでの人生、ずっとそうだった。

 

 あたしがどんなに努力をしても、それが報われたことは、無い。

 

 ダークネスJAPANの出演が決まった後、時間がある時はオカルトや民俗学について勉強した。ロケの前日には入念に事前調査をし、撮影に備えた。だが、それが役に立ったことは一度もない。どんなに知識を披露しても、そのほとんどがカットされ、放送で使われることはまずない。プロデューサーがあたしに求めているのはそんなことではないのだ。ギャラの安さと、用意されたシナリオを忠実に実行することと、少しの色気、それが全てだ。所詮はくだらないバラエティ番組だ。それ以上のことは必要ない。なのに、あたしは何を必死に勉強していたのだろう?

 

 四年前に出演したVシネマ『ヒットマン女豹』の時もそうだ。アクション映画ということで、アクションを猛勉強した。武術を習い、何本もアクション映画を観て研究し、海外で射撃訓練も行った。だが、それも役に立つことはなかった。スタントマンを立てずにすべて一人で演じ切ったが、公開後、待っていたのは批判の嵐だった。「素人が軽い気持ちで手を出すな」「あの程度でアクションやった気になってんじゃねーぞ」「BBAがムリして痛々しい」……ネットを中心にさんざんバッシングされた。当然だろう。素人が数ヶ月で身に着けたアクションなど、プロのアクションには遠く及ばない。なのに、無理矢理でしゃばって、結果的に作品のクオリティを下げてしまったのだ。あたしなんかがやるよりも、普通にスタントマンを立てた方が良かったのだ。そうすれば、バッシングされることもなかっただろう。実際、主役の若いアイドルは、アクションどころか演技すらまともにできなかったが、それでもその可愛らしい笑顔が好評だった。そのアイドルは続編にも出演したが、あたしに出演のオファーが来ることはなかった。なのに、あたしは何を必死にアクションの練習を続けていたのだろう?

 

 ――努力は必ず報われる。どんな時でも前に向かって進め。

 

 十年ほど前、奈保子が所属していたアイドルグループのリーダーが言っていた言葉を思い出す。この言葉を信じ、くじけそうなときは、いつもこの言葉をつぶやいていたが。

 

 ずっと、心の奥底では思っていた。そんなことは嘘だ。

 

 どんなに努力しても報われることはない。どんなに前に向かって進もうとしても無駄だ。もう、どっちが前かも判らない。

 

 そう、努力なんて無駄だ。

 

 アイドル時代、あたしは何の努力もしていなかった。歌もダンスも演技も適当だった。それでも仕事は勝手に舞い込んできた。

 

『ヒットマン女豹』で主演を務めた娘もそうだ。アクションもせず、演技もせず、ただ笑っているだけで評価された。

 

 今のあたしと、何が違うというのだろう?

 

 判っている――若さだ。

 

 アイドル時代のあたしは、若かったから、努力せずとも仕事に溢れていたのだ。

 

『ヒットマン女豹』で主演を務めた娘も、若かったから、何もせずとも評価されたのだ。

 

 若さは、努力を上回る――それが、芸能界という場所なのだ。

 

 その若さを失ったあたしは、もう、どんなに努力しても無駄なのだ。

 

 オカルトや民俗学を学んでも、武術を習っても、アクションを勉強しても、そんなのは誰も見ていない。誰も評価してくれない。誰も望んでいない。

 

 全てが、無駄なことだったんだ。

 

 それが今、ハッキリと、判った。

 

 だから笑った。笑うしかなかった。

 

 どれくらい、笑い続けたか――。

 

 ふと、赤い泉を見た。

 

 ――永遠に若き女。

 

 小学校の図書室で読んだ民話集を思い出す。

 

 年老いた女が、村に湧いた赤い水を浴び、若い姿を取り戻した。

 

 あたしも、あの赤い水を浴びれば、若返ることができるだろうか? 若返ることができたら、十年前のキラキラした人生を、もう一度味わうことができるだろうか?

 

 奈保子は、ふらりと立ち上がると。

 

 誘われるように、赤い泉へと歩いていく。

 

 永遠の若さ……永遠の若さ……。

 

 呪文のようにつぶやく。

 

 泉に足を浸した。ひんやりと冷たかったが、何か、力が体内に入って来るような気がした。さらに進む。膝まで泉に浸かった。この泉の奥に、ずっと探し求めていた永遠の若さがある。そう信じて、さらに進む。腰まで浸かり、胸まで浸かり、そして、顔まで浸かり――。

 

「――こんばんは。暑いですねぇ?」

 

 ふいに。

 

 後ろから、声を掛けられた。

 

 振り返ると。

 

 泉のそばに、黒縁の眼鏡をかけた、若い女が立っていた。

 

 二十代前半……学生だろうか。じーっと、こちらを見ている。

 

「暑いから、泳ぎたくなる気持ちは判るんですけど、この水、汚いですから、やめておいた方がいいですよ? さあ、早く上がりましょう」

 

 そう言って、手を伸ばす。

 

 何が起こっているのか判らず、呆然としていた奈保子だったが。

 

「ね?」

 

 女がにっこりと笑った。

 

 その笑顔に惹かれたのか、奈保子は、女の手を取った。

 

 ぐいっと引っ張られ、陸へ上がる奈保子。

 

「ふう。良かった」

 

 女はそのまま奈保子の手を引き、泉の近くにある東屋まで連れて行ってくれた。

 

「全身ずぶぬれになっちゃいましたね。まあ、暑いですから風邪をひくことはないでしょうし、もし風邪をひいてもすぐ治りますから、たぶん、大丈夫でしょう」

 

 そう言って、女はまたにっこりと笑う。

 

 何と答えたらいいか判らず、奈保子は黙っているが、女はそんなことは全く気にしていないかのように、一人で話し始める。

 

「あたし、東京で大学生してるんですけど、そこの講師が、村で何か調査するとかで、助手として、無理矢理連れて来られたんですよ。お姉さんも、村の人じゃないですよね?」

 

 眼鏡の女は、覗き込むように奈保子の顔を見た。

 

「え……ええ……」曖昧に返事を返す。

 

「そうだと思いました。お姉さん、すごくキレイだから、こんな田舎の村にはちょっと場違いだなーって。東京から来たんですか? お仕事、何してるんですか?」

 

 ずいぶんと人懐っこい性格のようだ。奈保子は、苦笑いを返すことしかできない。

 

「――おい、勝手に動くなと言っただろう」

 

 社殿の方から男の人の声がした。

 

「あ、先生。お疲れ様です」眼鏡の女がペコリと頭を下げた。そして、奈保子に向かって言う。「さっき言った、大学の先生です」

 

 男がこちらへやって来た。「まったく……何をしているんだ」

 

「スミマセン。ちょっと、屍人さんじゃない人を見つけたので、お話ししようと思って」眼鏡の女は、奈保子を男に紹介する。「こちら、さっき友達になった方です。名前は、えーっと……まだ聞いてなかったですね?」

 

 奈保子にしてみれば友達になったつもりなど無かった。面倒だな。あたしは早く永遠の若さを手に入れたいのに。奈保子は、黙って立ち去ろうとした。

 

 男が、はっとした表情になる。

 

「な……なぽりん……」

 

 懐かしい名で呼ばれ、思わず足を止める奈保子。

 

 なぽりんとは、アイドル時代の奈保子の愛称だ。メンバーやファンからそう呼ばれ、親しまれていた。今、この名で呼ばれることはまず無い。二十八歳にもなってなぽりんもないだろうし、そもそもアイドル時代の奈保子を知っている人も少ないのだ。

 

 あたしのことをなぽりんと呼ぶ。それは、アイドル時代のあたしを知っているということだ。

 

 眼鏡の女が男に不審そうな目を向ける。「……はい? なぽりん? 先生、なにを言って――」

 

 眼鏡の女をぐいっと押しのけ、男が前に出た。「お久しぶりです、なぽりん。まさか、こんな田舎村で、あなたに会えるとは」

 

 戸惑う奈保子。お久しぶり? 何処かで会ったことがあるだろうか? 思い出せない。

 

「ああ、失礼。混乱させてしまいましたね。あなたは、私のことを覚えていなくて当然です。最後に会ったのは、もう何年も前のことですし。それに、私にとってあなたは特別な存在だが、あなたにとって私は特別な存在ではない。いや、決して、特別な存在であってはならないのです。それが、アイドルとファンの関係というものですから」

 

 その、キザったらしい口調に、心当たりがあった。

 

 そうだ。思い出した。アイドル時代、握手会やコンサートなどに、必ずと言っていいほど駆けつけてくれた人だ。当時、奈保子のファンクラブでリーダー的存在だった人でもある。髪が伸び、十年分歳を取り、雰囲気がだいぶ変わったが、間違いないだろう。名前は確か……。

 

「……TMNさん?」

 

 記憶の奥底から掘り起こした名を言う。ブログなどにコメントしてくれるとき、そのハンドルネームを使っていたように思う。握手会などでも、その名で会話していた。

 

 奈保子の言葉に、男の顔はパッと明るくなった。「ああ! まさか、なぽりんに覚えていただいていたとは! 光栄です。もう、天にも昇る心地ですよ」

 

 TMNの顔とは対照的に、眼鏡の女の顔はどんどん暗くなっていた。不審そうに男を見ていた目は、軽蔑するような目に変っている。「……先生、さっきから何言ってるんですか? その女の人、知り合いなんですか?」

 

「バカモノ! なぽりんだ! かつて、あの国民的アイドルグループの人気メンバーとして名をはせた美浜奈保子を、知らんというのか!?」声を上げるTMN。

 

「はい、知りません」眼鏡の女はキッパリと言った。

 

「バカな! 十年前だぞ? 貴様は十歳くらいのはずだ! ちょうど、女性アイドルに憧れる年頃だろう? 当時、テレビで何を観ていた?」

 

「えーっと、十歳の頃なら、セーラームーンとか、ミラクルガールズとかですね」

 

 TMNは大げさにため息を付き、頭を抱えた。「まったく……貴様には失望したぞ」そして、再び奈保子を見る。「失礼。できの悪い教え子なもので。後できつく叱っておきます」

 

「あ……いえ、そんな……」大きく手を振る奈保子。奈保子が人気だったのはもう十年も前の話であり、今の若い娘が知らないのは当然だった。

 

 それにしても、参ったな。まさか、こんなところで昔のファンの人に会うとは。

 

 昔のファンの人に会う。これは、奈保子にとってうれしいことでもあり、同時に、苦痛でもあるのだ。

 

 と、いうのも。

 

「ところで、こんなところで、何をされているのですか?」

 

 TMNが首を傾ける。

 

 ああ、やっぱり、そうなるよね。心の中でため息をつく奈保子。

 

 昔のファンの人に会うのは珍しいことではない。今は落ちぶれたと言え、昔は超売れっ娘アイドルで、当時のファンクラブの会員数だけでも十万人を超えていたのだから当然だ。

 

 しかし、昔はファンだった、ということは、今はもうファンではない、ということでもある。現在の奈保子を知っている人はほとんどいない。だから、昔のファンに会うと、必ずと言っていいほど「今、何をしてるんですか?」と訊かれる。現在、奈保子が持っている唯一のレギュラー番組はダークネスJAPANだけだ。そう答えるしかない。当然のごとく、CSの深夜にやっているマイナー番組を知る者もほとんどいない。相手は戸惑い、憐れむような、蔑むような目で見て、「じゃ……じゃあ、ガンバってくださいね」と、気まずそうに去って行くのだ。その度に、落ちぶれた自分が情けなくなってくる。かつて応援してくれた人に落ちぶれた姿を見られ、恥ずかしくなってくる。あんなに応援してくれたのに、その期待に応えることができず、申し訳なく思えてくる。

 

 もう、あたしなんて誰も見ていない、誰も知らない。

 

 そのことを、イヤというほど思い知らされる。

 

 それが、たまらなくつらい。

 

 だから、うつむいたまま、何も答えることができない。

 

 しかし。

 

「あ、まさか、ダークネスJAPANの撮影ですか!?」

 

 思わぬ言葉に、顔を上げる奈保子。

 

 TMNは、目を子供のようにキラキラと輝かせていた。

 

「あ……えっと……」奈保子は、言葉を選ぶように、ゆっくりと言う。「TMNさん、ダークネスJAPANのこと、知ってるんですか?」

 

「当たり前ではないですか! 毎回、楽しみにしています。観るだけじゃなく、全部録画し、保管してありますとも! あれは、素晴らしい番組です」

 

 当然のことのように言うTMN。

 

 後ろにいる眼鏡の女がTMNに向ける視線は、軽蔑するような目から、汚いものを見る目に変っている。「えー、ダークネスJAPANって、ときどきCSの深夜にやってる、くっだらないオカルト番組でしょ? 先生、あんなの見てるんですか?」

 

 TMNは、鬼のような形相で眼鏡の女を見た。「くだらない番組だと? 貴様、なんということを」

 

「だって、ホントのことじゃないですか。あの番組でやってることって、都内のマンションに住む口裂け女に会いに行くとか、虫取り網でスカイフィッシュを捕まえるとか、そんなのばっかりでしょ? で、口裂け女はただ口が大きなおばさんだったし、スカイフィッシュだってよく見ればただの模型だし、ヤラセもいいとこですよ」

 

「くだらないと言うワリには、ちゃんと観ているようだな?」

 

「うるさいですね。深夜で他に観る番組が無いから、仕方なく観てただけですよ」

 

 TMNは、両手を広げ、大げさに首を振った。「やれやれ。コレだから素人は困る。いいか。確かに、あの番組で取り扱う内容はくだらない。しかし、番組の本質はそんなことではないのだ。あの番組になぽりんがどれだけ情熱を注いでいるのか、貴様には判らないのか? 私には判る。なぽりんは、ときどき、鋭い洞察や、深い知識を披露することがある。口裂け女の回では、口裂け女のルーツとなった滋賀県や岐阜県の昔話を披露したし、スカイフィッシュの回では、ハエがビデオに映ることで未知の生物に見えるメカニズムを紹介した。ああいった知識は一朝一夕で身に付くものではない。オカルトや民俗学、現地の事前調査を入念に行って、初めて身に付く知識だ。それは、少しでも良い番組にしようというなぽりんの気持ちの表れなのだ! ダークネスJAPANはオカルト番組ではない。どんな事にも全力で取り組むなぽりんの姿を見て、努力することの大切さを学ぶ番組なのだ!」

 

「……あらら。語り始めちゃったよこの人」

 

「なぽりんの努力を語る上で欠かせないエピソードがある。『ヒットマン女豹』というVシネマを知っているか?」

 

「あ、それは知ってます。あの映画の主演の娘、カワイイですよね」

 

「フッ……だから貴様は素人だというのだ。確かに主演の娘はカワイイが、『ヒットマン女豹』の見どころはそこではない。あの映画で、なぽりんがスタントマンを使わず、すべてのアクションを一人でこなしたのは有名な話だ。それがどれだけ難しいことなのか貴様には判るか、いや、判るまい。いいか。アクション映画だけでなく、特撮ヒーローもののメンバーやヒロインを演じる女優は星の数ほどいるが、そのほとんどが、アクションシーンではスタントマンを立てている。オーディションでは『ずっとアクションに興味がありましたぁ。アクションをやってみたいんですぅ』と調子のいいことを言っても、実際撮影になるとアクションなどやらないのだ。と、言うよりは、事務所がやらせないのだろう。怪我でもしたら大変だからな。女優がアクションをやるのは、それだけ大変で、覚悟がいることなんだ。私には判るぞ! なぽりんは、反対する事務所を説得し、武術を習い、アクション映画も何本も観て研究し、恐らく海外で射撃の訓練もしたのだろう。あの映画を観ていると、なぽりんがどれだけ努力をしたかが伝わってくる。その努力が認められ、監督から『新作を撮る時は必ず声を掛ける』と言われたんだ。日本を代表するアクション監督に認められたんだぞ? これほど光栄なことはないだろう。素人が数ヶ月でそこまでアクションを極めるとは、並大抵の努力ではないはずだ」

 

 TMNは語る。

 

 奈保子のことを。

 

「――なぽりんが努力家なのは、今に始まったことではない。アイドル時代からずっと努力家なのだ。アンチのバカどもは、アイドルは何もせずに仕事が舞い込んでテレビで適当に笑っていればお金がもらえると思っているようだが、そんなワケないだろう。少し想像力を働かせれば判りそうなものだがな。歌を一曲歌うにしても、歌詞と振り付けを覚えなければならん。約五分の振り付けを覚えるのに、どれだけ時間がかかるのか。それを、何曲も、何十曲も覚えるんだぞ? コンサートでは一日で数十曲歌って踊るのだ。体力だって並大抵のものではない。にも関わらず、ステージ上では何も無かったように笑顔で過ごすのだ――」

 

 アイドル時代の奈保子のことを。

 

 アイドルを卒業した時の奈保子のことを。

 

 現在の奈保子のことを。

 

「――そもそも、そのコンサートだって最初から何万人も動員できたわけではない。なぽりんが所属していたアイドルグループは国民的アイドルと言われていたが、デビューした当時、コンサートに集まったのはたった七人だと言われている。時には関係者以外一人も集まらなかったこともある。それでも、彼女たちは諦めず、ステージ上で歌い続けたのだ。当時、自ら路上でビラを配って客を呼ぼうとしたのはファンの間では有名なエピソードだ。そういった地道な努力を続けた結果、七人から、七万人以上のファンを集めるまでに――」

 

 時には、奈保子本人でさえ忘れているようなことも。

 

 TMNは、それが自分のことであるかのように、語る。

 

 眼鏡の女は、冷めた目でTMNを見ていた。「……なに異界の中心でアイを叫んでるんですか。先生、キモいですよ?」

 

「フッ……なんとでも言え。貴様に話したのは間違いだった。所詮ドルオタとアニオタは似て否なるもの。決して相容れない存在なのだ」

 

 TMNは奈保子を見た。

 

「なぽりん、お見苦しいところをお見せしました。あのバカの言うことは、気にしないでください」

 

「あ、いえ、そんな」

 

「ところでなぽりん。すでにお気づきかと思いますが、この村は少しおかしなことになっています。血の涙を流す化物がうろついているのは、もう見たでしょう。一人でいるのは危険です。ここから西に、眞魚教という宗教の教会があり、恐らくそこなら安全でしょう。少し遠いので、ご案内します」

 

「ちょっと、先生何言ってるんですか!」眼鏡の女が声を上げた。「これから、北の合石岳に行くんでしょ? 教会なんか行ってるヒマはないですよ!」

 

「予定変更だ。なぽりんを教会まで送り届ける。今はそれが最優先だ。いや、むしろそれこそが私の使命だ。私はなぽりんを護るためにこの村に来たのだからな」

 

「ダメです。予定通り、合石岳に行きます。なぽりんさんでしたっけ? 残念ですが、ここでお別れです。教会へは、一人で行ってください」

 

「何と冷酷なことを! 貴様には人の心が無いのか? こんな危険な場所にか弱い女性を一人きりにするなど、人として許されることではないぞ!」

 

「あたしの時は容赦なく八時間以上も一人きりにしたじゃないですか!」

 

「貴様となぽりんでは話が全然違う。さあ、なぽりん。コイツのことは無視して大丈夫ですので、行きましょう」

 

 奈保子は、二人のやり取りを見て、こらえきれず笑った。

 

「――なぽりん?」

 

「ごめんなさい。二人とも、仲がいいんですね」奈保子は小さく咳ばらいをした。「TMNさん。あたしは大丈夫ですから、予定通り、彼女さんと合石岳に行ってください」

 

「なっ! 何を言ってるんですか! こんなヤツは彼女なんかじゃありません! 私の心は、いつもなぽりんと共にあるのです! アイドルが恋愛禁止ならファンも恋愛禁止を守る! それが鉄則です!」

 

「別にファンの人まで恋愛禁止を守る必要はないんですよ? それに、あたしはもう恋愛禁止じゃないですけどね」奈保子はフフッと笑い、今度は眼鏡の女を見た。「――さっきは話しかけてくれてありがとう。助かったわ。二人の邪魔しちゃ悪いから、あたしはそろそろ行くね。大丈夫。もう、池で泳いだりしないから、安心して。デート、楽しんできてね」

 

「デートじゃありません! 調査です!!」

 

 ぶんぶんと手を振る眼鏡の女を見て、奈保子は、もう一度笑った。

 

「しかし、なぽりん」と、TMN。「やはり、一人では危険です」

 

「心配いりません。あんな化物、あたしの敵じゃないですから」

 

 奈保子は、拳を突き出し、続いて右のハイキックを打つ真似をした。

 

「おお! さすがは一流アクション女優。頼もしい限りだ。ぎゃーぎゃー騒ぐだけで役に立たない自称助手とは大違いですよ」

 

「TMNさん。今日は、会えて、本当に良かったです」

 

「いえ、私の方こそ、会えて光栄です」

 

「お忙しいようですから、もう行ってください。あたしは、本当に大丈夫ですから」

 

「いえ、そういうわけには――」

 

「はい! じゃあ先生、行きますよ!」眼鏡の女が割って入り、TMNの腕を強引に引っ張った。

 

「ああ! なぽりん! 本当にお気をつけて! またファンレターを書きます。ブログにもコメントします! 握手会だって駆けつけます! あなたが努力し続ける限り、私はずっと応援し続けますよ――」

 

 TMNは、ずるずると眼鏡の女に引きずられ、闇の中へ姿を消した。奈保子は、笑顔で手を振り続けた。

 

 ――本当に、会えて良かった。

 

 心の底からそう思う。

 

 あたしは、何を勘違いしていたのだろう。

 

 あたしのことなんて誰も見ていない。あたしの努力なんて誰も評価してくれない。

 

 ずっと、そう思っていたが。

 

 とんでもない間違いだった。

 

 あたしには、彼のような人がいる。

 

 あたしにも、まだ、応援してくれる人がいる。

 

 確かに、十年前のアイドル時代と比べ、その数は少なくなったかもしれない。

 

 それでも。

 

 ブログを更新すると、必ずコメントをしてくれる人がいる。仕事が決まると、自分のことのように喜んでくれる人がいる。それがどんなにくだらないバラエティ番組でも、どんなに出番が少ない映画でも、あたしが出演しているというだけで、全てを観てくれる人がいる。

 

 こんなあたしにも、応援してくれるファンの人が、確かにいるのだ。

 

 彼らは言う。「なぽりんの笑顔に癒される」「美浜さんの頑張ってる姿に勇気を貰っている」「奈保子さんのおかげで明日も頑張れる」

 

 逆だ。

 

 ファンのみんなが応援してくれるおかげで、あたしは頑張れるのだ。

 

 こんなに、ありがたいことはない。

 

 TMNさんは言った。あなたが努力し続ける限り、私はずっと応援し続けます、と。

 

 ならば、あたしは、応援してくれる人がいる限り、努力し続けよう。

 

 赤い泉を見る。

 

 さっきは、泉に永遠の若さがあると思い、誘われるように、身を沈めようとしていたが。

 

 今はもう、何も感じない。

 

 若さはアイドルの最大の武器――それは確かだ。

 

 でも、あたしはもうアイドルではない。

 

 女優なんだ。

 

 あたしはもう二十八歳だ。十代の若さはない。

 

 でも、それがなんだ?

 

 十代には無い、二十八歳の魅力も、たくさんあるはずだ。

 

 失われたものを嘆いてもしょうがない。今あるもので勝負しよう。

 

 十代のなぽりんではなく、二十八歳の美浜奈保子を応援してくれる人がいるのだから。

 

 あたしはもう、決して、あきらめない。

 

 応援してくれる人がいる限り。

 

 あたしはずっと、女優・美浜奈保子だ。

 

 

 

 

 

 

 奈保子は、無惨に割れたDVDとカメラを見た。とても再生できそうにないが、一応、持ち帰ろう。もしかしたら、データを修復する方法があるかもしれない。

 

 それに、まだ撮影する方法はある。

 

 ポケットから携帯電話を取り出す。これのカメラ機能を使って撮影できるじゃないか。圏外で繋がらないからずっと電源は切っていた。バッテリーはまだ残っているはずだ。さっき泉の中に入ったからびしょ濡れだが、防水仕様だから大丈夫だ。山や海などのロケで、水辺での撮影が予想される場合、いつでも水の中に落ちることができるよう、服の下に水着を着て、財布やケータイは身に付けないか完全防水しておく。それが、バラエティ番組の常識なのだ。

 

 そうだ。あたしはまだ頑張れる。あたしはまだ戦える!

 

 絶対に、絶対に! 生きて帰るんだ!!

 

 強く誓う。

 

 自分自身への誓いではない。

 

 ファンのみんなへの誓いだった。

 

 携帯電話を開き、電源を入れた。

 

 ――あ、そうだ。マネージャーからメールが入ってたんだった。

 

 メールボックスを開く。送られて来たのは二日の二十三時〇三分。地震が起こる少し前だ。ちょうど、合石岳の森の中でダークネスJAPANの撮影をしていた時で、後で読もうと思い、そのまま忘れていた。

 

 ちなみに、マネージャーは今、東京にいる。大手芸能事務所で専属マネージャーがつくのはよほどの売れっ子だけであり、ほとんどの場合、一人のマネージャーが複数のタレントを兼任している。ダークネスJAPANのような小さな番組のロケに同行することはまず無い。

 

 奈保子はメールを開いた。なになに……香港の映画会社から、新作映画のヒロイン役オーディションを受けてみないか、という誘いが来ている、か……。

 

 …………。

 

 なんですとおぉぉ!!

 

 思わず大声を上げる奈保子。香港映画のオーディション? しかもヒロイン役? しかもしかも映画会社の方から誘いが? このあたしに? そんなバカな? ドッキリか? いや、ドッキリならメールを読んで驚くシーンも撮影しなければいけなから、地方の村でのロケ中に送信して来るのはおかしいだろう。続きを読む。香港の映画俳優が新作に出演するので、そのヒロイン役オーディションにぜひ挑戦してほしい、と、連絡があったそうだ。その映画俳優の名を見てさらに驚いた。香港映画はもちろん、かつてはハリウッド映画にも進出し、世界中に名の知れたアクションスターだった。Vシネマ『ヒットマン女豹』の映画監督と昔から交流があったそうで、新作のヒロインを探していると知った監督が推薦したそうだ。俳優や映画会社のスタッフも『ヒットマン女豹』を見て、奈保子にかなり期待しているそうである。

 

 ……マジかよ。監督、あたしのこと覚えていてくれたんだ。香港映画のヒロイン役。もちろん、出演のオファーではなくオーディションだから、まだ決定したわけではない。それでも、向こうから直々に審査したいと連絡があるなんて、とんでもなく光栄なことだ。世界的アクションスターとの共演だから、世界中からたくさんの人がオーディションを受けに来るだろう。あたしなんかより有名で、美人で、アクションの上手な女優は山ほどいるはずだ。受かるのは奇跡に等しいかもしれない。でも、やりたい。オーディションを受けて、奇跡を起こしたい! 推薦してくれた監督、ヒットマン女豹の撮影スタッフ、他の番組のスタッフ、事務所のスタッフ、そして、応援してくれるファンのみんなに、応えるために!

 

 よっしゃ、やるぞおおぉぉ!!

 

 奈保子は、空に向かって叫んだ。

 

 がさり、と、背後で草を踏む音が聞こえた。

 

 あれ? TMNさんかな? やっぱりあたしのことが心配で、戻って来たのだろうか? オーディションのこと、話しちゃおうかな? いや、ダメだ。こういうのは関係者以外に話すのはご法度だ。携帯電話を閉じ、笑顔で振り返った。

 

 灰色の肌をし、血の涙を流す化物が、鎌を振り上げていた。

 

 完全に油断をしていた。突き飛ばすか、身を引いてかわすか、一瞬の迷いが、致命的だった。

 

 鎌が、振り下ろされた。

 

 身を引いた。痛みを感じなかったので、かわしたと思った。

 

 だが、奈保子の喉から、赤い水が勢いよく噴き出した。

 

 ――え? これ、血?

 

 血って、こんなに勢いよく噴き出すんだ。まるで、壊れた水道のようである。そんなことを思った。でも、大丈夫だ。今は治癒能力が向上している。こんな傷、すぐに治るだろう。冷静にそう考え、化物の頭に右の回し蹴りを打ち込もうとした。

 

 軸にした左足が、ガクンと折れ、奈保子は地面に崩れ落ちた。

 

 ――あれ? あたし、どうしたんだろう?

 

 立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。喉から血が流れる。力が失われていく。

 

 化物が、また鎌を振り上げた。

 

 避けなきゃ――そう思うが、身体を転がすことができない。指一本動かせない。

 

 背中に鎌が刺さる。痛みは感じない。

 

 化物は、また鎌を振り上げ、奈保子の背中に振り下ろす。

 

 何度も。

 

 何度も。

 

 鎌が奈保子の背中に刺さり、引き抜かれるたびに、血が溢れ出す。喉の血も止まらない。地面の水たまりは、赤い雨なのか、奈保子の血なのか、もう判らない。

 

 ――大丈夫……大丈夫だよ……こんな傷……すぐに治るんだから……。

 

 溢れ出した血が、奈保子の意識を奪って行く。

 

 ――眠いな。当然だよね。昨日の夜からずっと寝てないもん。疲れちゃった。今日はこのまま寝て、明日になったら、また頑張ろう。大丈夫。目が覚めたら傷も治って、また元気に戦える。絶対東京に帰れる。ファンのみんなに、また会える。オーディションも受ける。あたし、頑張るんだから。待っててね、みんな……。

 

 化物が、鎌を振り下ろす。

 

 奈保子は、意識を失った。

 

 

 

 

 

 


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