SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第四話 須田恭也 大字粗戸/眞魚川岸辺 初日/二時二十八分十三秒

 雨は、降り続いている――。

 

 

 

 須田恭也は、真冬の雪山に放り出されたかのような耐えがたい寒さで目を覚ました。身体を起こす。衣服が異常に重かった。ねっとりと身体にまとわりついている。水に濡れているようだ。足元は、スネの近くまで水の流れを感じる。どうやら、川の中にいるようである。

 

 それで、思い出した。

 

 自分は、頭のおかしな警官に追われ、銃で撃たれて、崖下に落ちたのだ。

 

 だが、不思議なことに、痛みを感じない。

 

 撃たれたはずの胸に手を当てる。傷は、無い。撃たれたと思ったのは気のせいだったのだろうか? その割には、銃弾が命中した時の強烈な痛みをハッキリと思い出せる。それに、傷こそないものの、シャツの胸の部分には大きく穴が開き、その周囲は血で染まっていた。それはまるで、撃たれた後、傷がすぐに治ったかのようだ。訳が判らなかったが、とりあえず無事だったことに安心する。

 

 ぶるっと、身体が震えた。寒い。腕時計を見ると、二時半少し前だ。二時間半ほど、川の中で気を失っていたことになる。今が八月で良かった。真冬なら、間違いなく凍え死んでいただろう。

 

 とりあえず川から上がろう。前を見ると、川辺にライトが落ちていた。恭也は川の水を蹴るようにして歩き、ライトを拾った。

 

 ライトが、水面を照らす

 

 ――え?

 

 川の水は、真っ赤に染まっていた。

 

 深い、あまりにも深い、赤。

 

 それは、血の色に似ていた。

 

 ――血塗れの集落。

 

 その言葉が、頭をよぎる。自分がこの村に来た理由を思い出す。

 

 ……朽ち果てた家屋が立ち並ぶその村には、いたるところに血まみれの着物が散らばっている……血まみれの幽霊を見た……三十三人殺し……土砂災害で消滅した村……。

 

 この川の赤い水は、まさか、本当の、血――?

 

 言い知れぬ恐怖に襲われ、恭也は走り出した。血の川から少しでも遠ざかりたかった。森の中をがむしゃらに走った。

 

「――――っ!」

 

 また、あの、頭を引き裂かれるような痛みに襲われる。

 

 走っていられなくなり、頭を抱えてひざまずく。

 

 そして、また感じる。自分を見ている他人の意識が、脳内に流れ込んで来る、あの感覚。

 

 ――いや。

 

 今度は、はっきりと見えた。

 

 苦しそうに頭を抱え、ひざまずく少年の姿。その服装は、恭也が着ているものと全く同じだ。背を向けているから顔は見えないが、恐らく恭也自身だろう。背後から誰かがビデオカメラで撮影している映像を、モニターで見ている、そんな感覚だ。

 

 がさり、と、草を踏む音とともに、背後に人の気配を感じた。

 

 まさか、あの、頭のおかしな警官が追って来たのか!?

 

 弾かれたように振り返る。同時に、頭の痛みは消え、背を向けていた自分の姿の映像も消える。

 

 現れたのは警官ではなかった。赤い修道服にベールをかぶった女性。見覚えがあった。たしか、森の中で奇妙な儀式をしていたあの村人たちの中にいた。この人も、儀式を邪魔されたことに怒り、自分を射殺するために追って来たのだろうか。

 

「あ、あの……俺……何も知らなくて……だから……」

 

 許しを請う恭也。

 

 だが、修道服の女は顔を覆うベールを取り、怯える恭也に対し、優しく微笑みかける。

 

「落ち着いて。大丈夫だから」

 

 そのほほ笑みは、慈愛に満ちた聖母のようだった。恭也の恐怖心を一瞬にして取り除くほどに。

 

 安堵感から全身の力が抜けた。立っていられなくなり、その場にへたり込む。

 

 修道服の女を見る。年齢は三十代だろうか? 優しさに溢れた笑顔に、恭也は心を奪われそうになる。

 

「あなた、村の人じゃないでしょ?」修道服の女は、微笑んだまま言う。「どこから来たの?」

 

「あ、えっと……東京から来ました。夏休みを利用して、自転車旅行に」とっさに嘘をついた。インターネットのくだらない怪談話の確認に来たとは、言えなかった。

 

「それで、たまたま広場の儀式を見たんだ」くすりと笑う女。どこか、あどけない姿だった。さっきは三十代くらいに見えたが、今は、二十代、いや、恭也と同世代にも見える。

 

「すみません。邪魔をするつもりはなかったんですけど……」

 

「いいのよ。あなたに悪気があったわけではないし」女はほほ笑みを浮かべたまま言う。どうやら、怒ってはいないようだ。「でも、村の人たちはかんかんよ? あなたに見られたせいで、儀式が失敗したんじゃないか、って」

 

「儀式が失敗? そんな……」

 

「気にしないで。よその人に見られたくなかったのは確かだけど、それで失敗するようなものではないから」

 

 そう言われ、恭也は安堵の息を洩らした。

 

「でもね――」修道服の女の表情が、少し曇る。「ちょっと、困ったことになってるの」

 

「困ったこと……なんですか?」

 

 恭也の問いに、女は応えなかった。逆に問いかけてくる。「怪我をしてるようだけど、大丈夫?」

 

「これ、ですか」恭也は胸を触る。「拳銃で撃たれたと思ったんですけど、傷が無くなってて。でも、服は破れてるし、血が出たあともあって、もう、何が何だか……」

 

「撃たれた……誰に?」

 

「若い、男の警官でした」

 

「若い男の警官……石田さんだわ」あごに手を当てる女。どうやら知っている人らしい。

 

「あの人、絶対おかしいですよ!」警官の狂行を思い出し、興奮してくる恭也。怒りをぶつけるように言う。「気味の悪い笑い声をあげてて、いきなり、拳銃を撃って来たんですよ!? きっと、危ない薬をやってるに違いないです!」

 

「落ち着いて」笑顔を向ける女。「石田さんは、この村の駐在員なの。ちょっとお酒好きで、酔っぱらうと人に絡む悪いクセがあるけど、普段は仕事熱心で、優しい人よ。それが、いきなり銃を撃ってきたなら……もう、人間じゃないのかもしれない……」

 

 また、女の表情が曇る。人間じゃないのかもしれない。その言葉の意味が、恭也には判らなかった。

 

「どこで撃たれたの? 場所は、判る?」女が言う。

 

「判りません。でも、儀式をやっていたあの広場からは、そんなに離れてないと思います。川沿いの、工事現場みたいでした……」

 

眞魚(まな)川の護岸工事の現場ね。ここから、そう離れていないわ。彼、まだ近くにいるかもしれない」

 

 彼――あの頭のおかしな警官が、まだ近くにいる。また、胸に恐怖がよみがえる。

 

「待って、調べてみる」女はそう言うと、目を閉じた。

 

 そして、そのままじっとしている。

 

「あの、調べてみるって、どうやって――」恭也が訊いたが。

 

「静かに」

 

 そう言われ、恭也は口をつぐんだ。

 

 女はしばらく目を閉じたままじっとしていた。まるで、周囲の気配でも探っているかのようだ。真剣な表情。そこに、さっきまでの慈愛に満ちた表情や、子供のようなあどけなさは無い。こうして見ると、年齢は三十代よりもっと上のようにも思える。四十代、あるいは、五十代に見えなくもない。どうも、年齢のはっきりしない人だ。

 

 やがて、女は目を開けた。「――近くにいるわ。ここにいると、見つかってしまうかも」

 

 近くにいる? 恭也は慌てて周囲を見回した。

 

 だが、樹々が生い茂るだけで、人の姿は見えない。気配も感じない。

 

「大丈夫。まだ、見つかるような距離ではないから」女はまたほほ笑んだ。

 

 近くにいるのが判るのに、まだ見つかるような距離ではない? どういうことだろう? 恭也には、意味が判らなかった。

 

「詳しいことは後で説明するわ。とにかく、ここは危険だから、行きましょう。ついて来て」

 

 女は歩き始めた。判らないことだらけだったが、またあの警官に会うのはごめんだし、修道服の女は悪い人ではなさそうだ。恭也は、彼女について行くことにした。

 

 修道服の女は、八尾(やお)比沙子(ひさこ)と名乗った。眞魚(まな)教の求導女(きゅうどうめ)だと言う。眞魚教というのは、羽生蛇村に古くから伝わる独自の宗教で、求導女とは、他の宗教で言うところの修道女のような存在であるらしい。

 

 比沙子は暗い森の中を、明かりも持たずに先導して歩いていた。時間は深夜二時。雨が降り続いているから空は雲に覆われているだろうし、そうでなくても木々の生い茂る森の中だ。明かりが無い状態では真っ暗で何も見えなくなるはずだが、比沙子はためらうことなく進む。木や岩などの障害物にぶつかることもない。まるで、全てが見えているかのような足取りだ。試しに、恭也もライトを消してみた。一瞬真っ暗になったが、すぐに、ぼんやりと周囲の様子が見えてくる。はっきりと見えるわけではないが、注意すれば、十分歩けるだろう。しかし、なぜだ? 周囲に明かりらしきものは何も無い。こんな暗がりで、見えるはずがないのだが。

 

 やがて二人は森を抜け、川沿いのちょっとした河川敷のような場所に出た。コンクリートで舗装された細い道があり、その横には、三メートルほどの高さの堤防がある。

 

 恭也はライトを点け、川の水面へ向けた。血のように赤い水が流れている。さらに恭也は、降り注ぐ雨も、川の水と同じように赤い色をしていることに気が付いた。赤い川に、赤い雨。これは、一体なんなのだろう?

 

「あの、この川、どうしたんですか? それに、雨も」恭也は比沙子に訊いてみた。しかし。

 

「しっ。静かに」人差し指を鼻に当てる比沙子。「ライトも消して」

 

 言われるままにライトを消す恭也。

 

 比沙子はまた目を閉じ、何かを探るように、集中する。

 

「ダメだわ。ここも、ヤツらでいっぱいみたい」目を開けた比沙子が言った。

 

「あの、さっきから、それ、何をしてるんですか?」

 

「うーん。これは、ちょっと説明が難しいんだけど……」困ったよう比沙子の顔が、何かを思いついたような表情になる。「そういえばあなた、さっき、あたしと共鳴したわよね?」

 

 共鳴? 何のことだろう? 判らないので黙っている。

 

「頭が痛そうだったけど、あの時、なにか、おかしなものが見えなかった?」

 

 比沙子の言葉には思い当たることがあった。そうだ。あの、強烈な頭痛に襲われた時、頭をおさえて苦しむ自分の姿が見えた。あれは一体なんだったのか。そして、比沙子はなぜ、おかしなものが見えたのを知っているのだろう?

 

「……そう、見えたのね」戸惑う恭也の表情を見て、比沙子は悟ったらしい。一瞬、残念そうな顔になるが、すぐにまた笑顔に戻る。「それは、『幻視(げんし)』という能力よ」

 

 幻視? 能力? この人は、何を言っているのだろう?

 

「実際にやってみるといいわ。目を閉じてみて」

 

 訳が判らなかったが。恭也は比沙子に言われた通り、目を閉じた。

 

「そのまま、意識を、あたしに集中してみて」

 

 その通りにする恭也。目を閉じたまま、比沙子の気配を探るように、集中する。

 

 すると、突然、目の前に自分の姿が映った。

 

「――え!?」

 

 驚いて目を開ける。優しく微笑む比沙子がいる。

 

 今のはなんだ。もう一度目を閉じる。やはり見える。目を閉じた自分自身の姿が。

 

「それが、幻視よ」比沙子が言った。「あたしが見ているものが、あなたにも見えるの」

 

 比沙子の見ているものが、俺にも見える? そんなバカな?

 

 とても信じられなかった。だが、実際に目を閉じると、自分の姿が見えるのだ。

 

「すべて、この赤い水のせいよ」比沙子は川に手を向けた。「この赤い水が身体の中に入ると、こういった、不思議なことが起こるの。銃で撃たれた傷が治ったのも、水の力だと思う。流れた血の分だけ、水が、あなたの身体に入ったんだわ」

 

「この水は、何なんですか……?」目を開け、川を見る恭也。

 

「それはあたしにも判らない。ただ、傷が治るとはいえ、これ以上は水を体内に取り込まない方がいいわ。さもないと……」声のトーンが下がる比沙子。しかし、すぐに元の声に戻る。「ううん、何でも無い。それより、あたしの他にも、いくつか気配を感じなかった? 探ってみて」

 

 他の気配? 恭也は再び目を閉じた。比沙子から意識を外す。すると、目を閉じた自分の姿は消え、何も見えなくなった。

 

「そのまま、遠くに意識を送ってみて」

 

 比沙子の言葉通りにする。それは、アナログのラジオのチューナーを合わせる作業に似ていた。しばらくは何も見えなかったが、まるで周波数が合ったかのように、ぱっと、映像が浮かび上がった。音も聞こえる。雨の降り注ぐ音、風の吹きぬける音、そして、獣のような、荒い息づかい。

 

 そこは、古びた家屋が立ち並ぶ広い道路だった。家屋はすべてシャッターで閉ざされている。タバコ屋や食堂などの看板が出ているので、お店のようだ。どこかの商店街らしい。この村にある商店街は、昼間、恭也が立ち寄った上粗戸(かみあらと)だけだ。どうやらあの商店街らしい。ならばこの映像は、商店街の人の視点か。

 

 相変わらず荒い呼吸を繰り返す音が聞こえる。この視点の主のようだ。何やら、かなり興奮している様子だ。

 

 ――え?

 

 それを見て、恭也は思わず声を上げそうになった。

 

 その人の右手には、包丁が握られていた。

 

 そこが、屋内の台所だというのなら判る。料理をしているのだろう。だが、視点の主がいるのは、道路の真ん中だ。包丁を握って立っていると、ちょっと問題がありそうだ。視点の主は荒い呼吸を繰り返し、時折唸り声をあげたり、奇妙な声で笑ったり、意味をなさない言葉をつぶやいたりしている。それは、恭也に向かって銃を撃ってきた、あの警官の様子に似ていた。

 

「見えたみたいね」比沙子が言う。「彼らはもう、人間じゃない」

 

 まただ。また、人間じゃないと言う比沙子。人間ではないのなら、いったい、何なのか。

 

 疑問に答えるように、比沙子は続けた。「――屍人(しびと)よ」

 

「しびと?」

 

「ええ。(しかばね)に、(ひと)と書くわ。文字通り、人の姿をした屍よ」

 

 屍――死んだ人の身体。まさか、一度死んだ人間がよみがえったとでもいうのだろうか? そんなバカな。冗談を言っているものと思い、恭也は笑った。つられて比沙子も笑う。そう思った。

 

 しかし、比沙子は真剣な表情のままだ。冗談を言っているようには見えない。

 

「――まあ、すぐに信じられないのも、無理はないわ」比沙子は視線を足元に落とした。「今は信じなくてもいい。ただ、危険な相手だということだけは、覚えておいて」

 

 確かにその通りだった。ヤツらが生きているか死んでいるかは問題ではない。重要なのは、ヤツらは頭がおかしいということだ。

 

 比沙子が、一瞬だけ目を閉じた。「マズイわ。石田さんが来てる」

 

 石田さん。あの警官だ。恭也は意識を背後に向けた。しばらく探る。いた。拳銃を持ち、森の中を進んでいる。

 

「危険だけど、進むしかないわね。この向こうの通りを抜けて、西へ進めば教会があるの。そこなら安全だと思うわ。ついて来て」比沙子が走り始めた。恭也は目を開け、後を追った。

 

 しばらく走ると右手側に階段があり、堤防の上にあがれるようになっていた。比沙子に続いて階段を上がる恭也。しかし、比沙子は階段を上がりきらず、身を屈めて目を閉じた。ヤツらの気配を探っているのだろう。恭也も目を閉じる。さっきの包丁を持った屍人の映像が見えた。場所を移動したようで、家屋のそばの堤防の上を見ている。

 

 あの堤防は、いま自分たちがいるこの堤防だろうか? そうだとしたら、このまま階段を上がると、見つかってしまう。

 

「通りは進めないわね」比沙子が言った。「裏道があるから、そこから行きましょう」

 

 比沙子はそのまま目を閉じている。恭也も意識を集中する。

 

 しばらくすると、包丁を持った屍人の視線が堤防から外れ、反対側を向いた。

 

「今よ」

 

 比沙子が走り出す。堤防を越え、道路を渡り、正面の食堂らしき建物のそばの細い道に入る。恭也も目を開け、比沙子の後を追う。なんとか見つからずに移動できた。

 

 と、食堂の建物を見て、恭也は違和感を覚えた。

 

 建物が、あまりにも古い。

 

 上粗戸の商店街は、旧大字粗戸(おおあざあらと)の商店街が二十七年前の土砂災害で消滅し、その後、区画整理で今の商店街が作られた、と、インターネットには書いてあった。できてからまだ十年ほどしか経っておらず、建物は皆、比較的新しく、コンクリート製のものがほとんどだった。

 

 しかし、いま恭也のそばにある食堂は、今にも崩れそうな古い木製の建物だ。そう言えば、さっき包丁を持った屍人の視点で見た商店街も、全て、同じように木製の古い家屋ばかりだった。昼間見た光景と、あまりにも違うように思う。

 

「あの……」比沙子に訊いてみる。「ここって、上粗戸の商店街ですよね?」

 

「そうよ。よく知ってるわね」

 

「村に来る前に、インターネットでいろいろ調べたんです。でも、俺、昼間ここに来たんですけど、こんな古い商店街じゃなかったと思うんですけど」

 

「そうね。あたしも、この商店街に来たのは、二十七年ぶりだわ」

 

 二十七年ぶり……土砂災害のあった年だ。しかし、あの災害で、旧大字粗戸の商店街はすべて土砂に飲み込まれたと聞いている。どういうことだろう? 相変わらず、比沙子の言うことは判らない。

 

「ごめんなさい。話すと長くなるから、詳しくは、教会に着いてからね」

 

 歩きはじめる比沙子。疑問は尽きないが、確かに、今は安全な場所へ移動する方が良いだろう。

 

 食堂の横の細い道は、そのまま表の道路と並行するように続いていた。比沙子と二人で進んで行く。

 

 比沙子が立ち止まった。「――この先にも一人、いえ、二人いるわね」

 

 恭也は目を閉じ、気配を探った。すぐに見つける。一人は、畑のような場所にいる。鎌を持ち、草を刈っているようだ。もう一人は、商店街を見下ろす高い場所にいた。その手には、なんと、猟銃が握られている。羽生蛇村は山奥の村だから猟師がいても不思議ではないが、驚かずにはいられない。あんなもので襲われたら、ひとたまりもないだろう。

 

「見つかると厄介だから、慎重に行くわよ」比沙子が言った。

 

 言われるまでもない。どちらの視点の主も、石田という警官や、通りにいた包丁を持ったヤツと同じく、興奮気味に大きく息をし、時折笑ったり意味不明な言葉を口にしたりしている。どう考えても関わらない方がいい。

 

 身を屈め、ゆっくりと進んで行く比沙子。恭也もそれに倣う。食堂の隣は生垣になっていた。しゃがんでいるから向こう側は見えないが、幻視をしなくても、あの狂ったような笑い声が聞こえる。どうやら、鎌を持った屍人はこの向こうにいるようだ。息を殺し、進む恭也。なんとか気づかれず、生垣のそばを通り抜ける。その先には十メートルほどの高さの(やぐら)が見えた。猟銃を持っている屍人は、あの上にいるようだ。再び幻視を使う恭也。幸い、猟銃を持った屍人は遠くを見張っているようで、足元には注意していない。二人はそのまま進み、櫓のすぐ下を通り抜けた。

 

 やがて、裏道は表通りと合流する。この先には、もう気配を感じない。安堵する恭也。比沙子の顔にも笑顔が戻る。

 

 しかし、通りを進んだ二人は、驚いて立ち止まる。

 

 道が、たくさんの板を張り合わせて作ったバリケードで塞がれていたのだ。

 

「ヤツらが作ったのかしら」比沙子がバリケードに触れる。「とても進めそうにないわね」

 

 バリケードの高さは五メートル以上あるだろう。乗り越えられる高さではない。戻るしかないのだろうか? この村の地形には詳しくないが、恐らく教会へは遠回りになるだろう。もちろん、今やり過ごしたヤツらのそばを、また通らなければならない。それは、あまりにも危険だ。

 

 比沙子は道路の横を見ている。そこは、コンクリートで舗装した三メートルほどの高さの崖になっており、その上はフェンスで囲まれている。フェンスの向こうは木々が生い茂る山だ。

 

「……確かあの頃、子供たちが、近道だって、言っていたわね」つぶやくように言う比沙子。「この上に、上がれないかしら?」

 

 恭也は崖を見上げる。三メートルの高さのコンクリートの壁を上るのは難しい。だが、子供たちが近道だと言っていたなら、簡単に上れる場所があるのかもしれない。周囲を見回した。少し離れたところにバス停があり、そのそばに、トタンでできた小さな小屋があった。そこから上がれるかもしれない。やってみよう。恭也は小屋の屋根に手をかけ、懸垂の要領で屋根の上にあがった。そこから崖の上を見ると、フェンスに大きな穴が開いており、その向こうには細い山道が続いている。

 

「ここから行けそうです」小屋の下の比沙子に向かって言う。

 

「良かった。あたし一人じゃ上がれないから、引き上げてくれる?」

 

 恭也は、屋根の上から比沙子に向けて手を伸ばした。

 

 その時。

 

 身体が、ビクンと、大きく震えた。

 

 そして、一瞬だけ、別の映像が見える。

 

 それは、トタン製の小さな小屋の屋根の上の少年が、下にいる修道服姿の女性を引き上げようとしている姿。

 

 ――まさか!?

 

 周囲を見回す恭也。さっきの包丁を持った屍人が、こちらに向かって来ていた。マズイ! 見つかった!!

 

「早く引き上げて!」叫ぶような声の比沙子。

 

 恭也は比沙子の手を握り、力を込めた。

 

 しかし、一瞬遅かった。

 

 包丁を振り上げ、比沙子に斬りつける屍人。

 

「きゃあ!!」

 

 比沙子は手を離し、身をひるがえす。なんとか屍人の包丁をかわし、距離を取る。

 

 しかし、彼女の修道服の右袖の二の腕の部分が、大きく切り裂かれていた。そこから覗く白い肌に、細く赤い線が走る。線はじわじわと広がり、やがて、どろりとした液体が流れ落ちた。比沙子の顔が恐怖に歪む。

 

 血を見て興奮したのか、屍人は、まるで獣の遠吠えのように、空に向かって吠えた。その顔色は土のように暗く、目からは、血の涙を流している。あの石田という警官と同じだ。屍人は再び包丁を振り上げた。助けなければ! こちらはほとんど丸腰だが、見捨てて逃げ出すわけにはいかない。屋根から飛び降りようとした時。

 

 また、身体が大きく震えた。

 

 そして今度は、高い場所から恭也を見下ろす映像が見えた。櫓の上の、猟銃を持った屍人だ!

 

 映像は消え、銃声が鳴り響く。同時に、トタン屋根の一部が弾け飛んだ。狙撃された! とっさに身を屈める恭也。それで身を隠せたのかは判らないが、二発目の銃声は鳴らなかった。弾を込めているのか、あるいは、櫓を降りているのかもしれない。何にしても身動きが取れない。包丁を持った屍人は、今にも比沙子に斬りつけようとしている。一か八か、跳びかかるしかないのか?

 

 ――と。

 

 怯えた比沙子の表情が、変った。

 

 冷たく、鋭い目で、包丁の男を睨む。

 

 その姿に、さっきまでの優しく微笑む比沙子の面影は無かった。屈強な男でさえすくみ上がってしまう、そんな、鋭い視線だ。包丁を振り上げた屍人の足が止まる。恭也さえも、思わず動けなくなってしまった。

 

 比沙子は、その華奢な身体からは想像もつかないような、低く、恐ろしい声で、言う

 

「立ち去りなさい……今すぐに!!」

 

 屍人は、包丁を振り上げたまま後退りする。震えている。比沙子に対し、恐怖を感じているようだ。

 

 屍人は、比沙子から十分に距離を取ると。

 

 背を向け、早足で、川の方へ戻っていった。

 

 ふうっ、と、大きく息を吐き出す比沙子。表情は、さっきまでの、優しい笑顔の比沙子に戻っていた。呆然とその姿を見つめる恭也。

 

「恭也君? 大丈夫?」

 

 不思議そうな顔で見上げている。

 

「あ、え……と……はい。俺は大丈夫です」思うように声が出てこない恭也。「その……比沙子さんの方こそ、ケガは、大丈夫ですか?」

 

「ケガ? ああ、これね」比沙子は、右腕を見せた。斬り裂かれた袖の間から見える二の腕には、べっとりと血が付いている。しかし、比沙子が左手で血を拭うと、その下からは、傷一つない肌が出てきた。「かすっただけよ。この程度の傷なら、すぐに治るわ。赤い水の力で、ね」

 

 何と言っていいか判らず、恭也はただ黙っている。

 

「ゴメン。ヤツらが戻って来るといけないから、早く引き上げてくれる?」笑顔で言う比沙子。

 

 恭也は、言われるがままに、比沙子を引き上げた。

 

「ありがとう。さあ、行きましょう」

 

 比沙子は屋根からフェンスの穴を潜り、何事も無かったかのように歩き出す。

 

 しばらく立ち尽くしていた恭也だったが、我に返り、後を追った。

 

「――あの、比沙子さん」後ろから声をかける。

 

「何?」立ち止まり、振り返る比沙子。

 

「さっきのは、一体……?」

 

「さっきのって?」

 

 訊いていいものかどうか迷う恭也。恐る恐る、口にする。「その……あいつら、どうして、急に逃げ出したんですか?」

 

「驚かせちゃったかしら? ごめんなさい。あたし、怒ると結構怖いって、みんなからよく言われるの」

 

 比沙子は、おどけたように笑った。

 

 恭也はあいまいに笑う。怒ると怖い……そんなレベルではなかったように思う。あの時の比沙子は、豹変していた。まるで、別の人格が乗り移ったかのようだった。

 

 比沙子は相変わらず聖女のような笑顔を浮かべている。さっきまでは、求導女という名にふさわしい、慈愛に満ちた笑顔だと思っていたが、今は、その笑顔に、得体の知れない恐怖を感じる。

 

「教会はまだ遠いから、急ぎましょう」

 

 再び歩き出す比沙子。恭也は、黙って後を追った。

 

 

 

 

 


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