遠くで、何かが爆発したような音が聞こえた。
田堀にある廃屋の廊下で、神代美耶子はその爆発音を聞き、顔を上げた。目が見えない美耶子は視力以外の感覚が優れている。その音を聞いただけで、爆発があった方角と、おおよその距離が判る。今の爆発は、刈割の方から聞こえて来た。丘のふもとに古い給油車があったが、恐らくあれが爆発したのだろう。爆発の理由までは判らない。村人が巻き込まれていなければいいが……。
大きく首を振り、考えを振り払う美耶子。この村の連中がどうなろうと、あたしの知ったことではない。村人は、村を守るために、あたしを犠牲にしようとしたのだから。
暗闇の中、両手で壁を触りながら、ゆっくりと進んで行く。廃屋には電気が通っているため明かりを点けることは可能だが、目が見えない美耶子にとって、それは意味の無いことだった。常に美耶子のそばにいて目の代わりになってくれた愛犬のケルブはもういない。昨日から一緒に行動している余所者の少年・恭也も、今は部屋で眠っている。廃屋内には他に人はいない。真の意味での闇だった。
だが、不思議と。
恭也のいる場所だけは、判った。
美耶子が左手で触れている壁。この向こうの部屋で、恭也は眠っている。
そこに、ぼんやりとした光が見えるのだ。
生まれながらに盲目だった美耶子。誰かの存在が光って見えるなど初めての経験だった。理由は判らない。初めて恭也と会った時から、彼の姿は輝いて見えた。
美耶子は、恭也から発せられる光を頼りに、手探りで廊下を進む。手のひらの感触が壁から障子へと変わった。障子を開け、部屋の中に入る。
恭也は、眠りながら苦しそうにうめき声を上げていた。額に汗を浮かべ、胸をかきむしり、もがき苦しんでいる――そのような姿が想像できた。酷い悪夢にうなされているような姿。
だがそれは、決して悪夢を見ているのではないということを、美耶子は知っている。
外ではサイレンが鳴っている。恭也は、その音に強く反応しているのだ。屍人化が始まっている兆候であった。
恭也は昨日、屍人と化した警官に銃で撃たれ、眞魚川に転落したと言っていた。その時、川の赤い水が、傷口から体内に入ったのだろう。赤い水を一定量体内に取り入れた者は屍人となる。そして、サイレンに導かれて赤い海へ入り、さらに水を体内に取り入れることで、より常世へと近い存在へと姿を変えてゆく。銃で撃たれて川に転落し、赤い雨に打たれ続けた恭也が屍人と化すのは、もう時間の問題だ。
美耶子は、苦しむ恭也のそばに座った。
美耶子の右手には太く長い釘が握られている。長さは十五センチほど。いわゆる五寸釘と呼ばれるもので、庭にある離れから持ってきたものだ。
その刃先を、自分の左の手のひらに当て、軽く引っ掻いた。
わずかな痛みと共に、傷口から血が流れ出す感触。
美耶子は恭也の左手を取ると、同じように釘の刃先を当て、軽く引っ掻く。
そして、自分の手のひらと、恭也の手のひらを、合わせる。
美耶子の傷口から流れ出した血が、恭也の傷口へ流れ込んでいく。自分の血が、恭也の血と混じって行く。やがて、恭也の声が穏やかになっていった。もがくのをやめ、荒い息づかいが静かな寝息へと変わる。
これは、血の杯、あるいは、永遠の血の契約と呼ばれる、神代家に伝わる儀式だった。
神代家の血を引く者は、決して屍人にはならない。同様に、神代の血が混じった者も、決して屍人になることはない。
だから、これで、もう恭也が屍人になることは、決して、ない。
だが――。
それが、彼を救うことになったのかは、美耶子にも判らない。
恭也が屍人になることはない。しかし、それは同時に、美耶子と同じ永遠の苦しみを、恭也にも背負わせることになる。
屍人になる苦しみは一瞬だ。順調にいけば、一週間もしないうちに常世へと旅立つことができ、苦しみから解放される。いや、屍人になる苦しみという考え方自体、生きている人間が勝手に思っていることだ。屍人となった者は、恐らく苦しんでなどいない。だからこそ、生きている者を襲い、殺すことで、仲間にしようとするのだ。屍人にとっては生者こそ苦しみであり、死は、理想郷へと旅立つ準備なのだ。
それに対し、美耶子の苦しみは、決して終わることはない。
それが判っていても、美耶子には、こうすることしかできない。
恭也を屍人にさせないためには、こうするしかない。
あたしは、酷く自分勝手な人間だと思う。恭也を屍人にさせたくない、その想いから、永遠の苦しみを与えてしまった。今回の、村の怪異もそうだ。自分が助かりたい、その一心でご神体を破壊し、神迎えの儀式を失敗させた。その結果、多くの村人が犠牲となった。
だが――こうするしかなかったのだ。
「……ごめんね……せっかく、綺麗だったのに……」
独り言のようにつぶやいた。
美耶子は恭也の隣に横になり、手のひらを合わせたまま、眠った。