SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第三十三話 高遠玲子 刈割/廃倉庫 初日/二十三時四十五分十八秒

 刈割の丘のふもとで、小学校教師・高遠玲子は、教え子の四方田春海と共に、道端の古びた倉庫に身を隠していた。丘の上には眞魚教の教会がある。そこならば安全だと思い、二人で避難しようとしていたのだ。丘を上がる道の途中には鉄格子の門がある。教会の敷地であることを示すためのものなのだが、閉ざされ、鍵がかけられてあった。門は高く、よじ登ることはできない。この門は、夜の十時から朝の六時までは閉めるようになっているが、避難してくる人がいるかもしれないこの状況で、求導師様や求導女様が閉ざすとは思えない。屍人が閉ざしたのだろうか? 屍人は生前の行動を繰り返すようなので、その可能性は考えられた。ならば、六時になればまた開けるかもしれない。それまで身を隠す場所を探し、この廃倉庫を見つけたのである。

 

 春海は玲子のそばで小さな寝息を立てている。かなり疲れているだろう。小学校からこの刈割までは、大人でも歩いて四時間ほどかかる。子供の足ならその倍はかかるし、屍人の目を逃れながらではさらに倍以上かかる。遠回りし、時には戦い、時には逃げ、疲れたら休み……それを繰り返し、結局、ここまで来るのに二十時間近くかかってしまった。途中、春海は何度も弱音をはいた。何度も泣き出し、怖い、もうダメ、と言った。玲子は励まし続けた。大丈夫。教会まで行けば、求導師様が助けてくれる。だから、絶対に諦めちゃダメ。何度も何度も言い聞かせた。それは、春海ではなく、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。教会なら安全、求導師様が助けてくれる……そんな保証はどこにもない。教会だって小学校のように屍人に占拠されているかもしれないし、求導師様だって校長先生のように屍人になっているかもしれないのだ。それでも、この子を護るために、諦めてはいけないのだ。

 

「……おねぇちゃん……」

 

 春海がつぶやいた。まだ眠っている。夢でも見ているのだろう。玲子は、春海の頭を優しく撫でた。

 

「……あ……先生」

 

 春海は、小さく目を開けた。

 

「あ、ゴメン。起こしちゃったね」

 

「ううん。大丈夫」春海は目をこすって身体を起こした。「お姉ちゃんの夢見てた」

 

「お姉ちゃん?」首を傾ける玲子。春海は一人っ子だ。去年の三月、両親を事故で亡くし、現在は叔父の家にお世話になっているが、そこの子供は春海より年下である。夏休みだから、従妹が遊びに来ているのだろうか? それでも小さな村だから玲子の耳に入らないことはなさそうだが。

 

「みやちゃんっていうんだ、その子」春海は嬉しそうに笑う。「一人ぼっちだって言ったら、お姉ちゃんになってくれたの」

 

 みやちゃん……初めて聞く呼び名だった。

 

「みやちゃんは、白い犬を連れているの。ケルブって名前。おっきいんだけど、おとなしくて、すごくかわいいんだよ」

 

 白い犬、ケルブ……村に、そんな犬を連れた子供はいない。

 

 しかし、その話には心当たりがあった。春海が図画工作の授業で描いた絵だ。大部分が黒く塗りつぶされ、黒髪に黒い服の少女と、白い犬のような生物が描かれた、一見すると異様な絵。今の春海の話と合致する。

 

「あ、でも、先生、コレ、ナイショにしてね」春海は、口元に人差し指を当てた。「みやちゃんから、みんなに喋っちゃダメって言われてるの」

 

 もしかしたら。

 

 そのみやちゃんとケルブは、春海の空想が生み出した、現実には存在しない人物ではないだろうか? この年頃の子にはよく起こる現象だと、育児書で読んだことがある。

 

「みやちゃんのこと話したの、先生だけだからね」春海は笑顔で言う。「絶対、誰にも言わないでね」

 

「わかった。秘密のお姉ちゃんなんだね。じゃあ、先生は、春海ちゃんのお母さんになってあげる」

 

 玲子は、春海を優しく抱きしめた。

 

 春海も、玲子の胸に顔をうずめる。

 

 その姿が。

 

 ――お母さん。

 

 娘の姿と重なった。

 

 ――ああ……めぐみ……。

 

 胸の奥で、もう二度と抱きしめることのできない娘の名をつぶやいた。

 

 

 

 

 

 

 高遠玲子には、かつて、めぐみという二歳の娘がいた。

 

 今はもういない。二年前の夏、事故で亡くなったのだ。

 

 夫と娘、家族三人で訪れた海水浴での事故だった。突如発生した高波に、娘だけでなく、海辺にいた多くの子供たちが飲み込まれた。

 

 玲子は、子供たちを助けるため、夫や他の親たちと一緒に海へ飛び込んだ。大学時代に教育学部の体育系コースを選択していた玲子は水泳が得意だった。意識を失って海中を漂っていた二人の子供を救助したが、娘のめぐみを救うことはできなかった。

 

 三日後、海水浴場から五十キロ以上離れた、とある漁村の船着き場で、めぐみの遺体が発見された。

 

 この事故が原因で夫婦仲はうまく行かなくなり、間もなく離婚。当時勤務していた中学校を辞め、遠く離れたこの羽生蛇村の小学校へ赴任したのである。

 

 ――めぐみ……ごめんね……。

 

 春海を抱きしめる――娘の代わりに。

 

 あたしは、教師失格だ。

 

 春海に、娘の面影を重ねている。

 

 春海を、娘の代わりにしようとしている。

 

 ずっと前から判っていたことだった。あたしは、春海を特別視している。決して多くはない羽生蛇村小学校の児童の中で、春海だけを、特に気にかけている。事故で両親を亡くし、心に深い傷を負っている春海に、自分の心の傷を重ねている。

 

 春海を救うことで、めぐみを救えなかった罪を償おうとしている。

 

 そんなことは何の贖罪にもならない――判っている。

 

 春海はめぐみではない――判っている。

 

 それでも。

 

 この子は、護らなければならない。

 

 なんとしても。

 

 玲子は、強く、強く、春海を抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 獣の遠吠えが聞こえた。

 

 顔を上げる玲子。

 

 春海の笑顔が恐怖に染まる。小さな身体が震えだす。

 

 玲子は幻視で外の気配を探った。鎌を持った屍人の視点が見つかった。砂利道を歩いている。道の先には古びた倉庫が見えた。まずい。この近くに来ている。

 

 だが、幸い倉庫までは来なかった。十メートルほど離れた場所で立ち止まり、そこで、道端の草を刈り始めた。ひとまずは安心だが、いずれ見つかってしまうかもしれない。このまま門が開くまで隠れているのは難しいだろう。教会へ向かうのはいったん諦め、どこか、他の安全な場所へ移動しよう。どこがいいだろうか? 考え、少し北に行ったところにある田堀地区がいいのではないかと思った。数年前に区画整理がされた地域で、現在は数軒の民家が建つだけの寂しい地域だ。人が少ないなら、屍人も少ないだろう。

 

 倉庫からそっと顔を出し、外の様子を窺う。田堀へと向かう道は緩やかな下り坂だ。草を刈っている屍人は田堀方面とは反対側にいる。作業に没頭しており、そっと移動すれば気づかれることはないだろう。

 

 倉庫の奥に戻り、脅えている春海に向かって優しく言う。「春海ちゃん、この倉庫にいると危ないみたいだから、ちょっと、移動しようと思うの。北にある田堀まで行けば安全だから。頑張れるわよね?」

 

 春海はしばらく玲子を見ていたが、やがて視線を落とし、小さく首を振った。「あたし、行きたくない」

 

 またか……胸の内からもどかしさが湧きあがる。小学校からここまで来る間にも、春海は、何度も玲子の言うことに反抗した。怖いのは判るが、言う通りにしてもらわないと、もっと危険なことになる。そのことが判らないのだろうか?

 

 玲子は胸のもどかしさを抑え、春海の顔を覗き込んだ。「どうして? なんで、行きたくないの?」

 

「だって……外はしびとがたくさんいて危ないし……ここにいれば安全だって、玲子先生言ったもん」

 

 もどかしさがさらに湧き上がるが、何とか抑える。「ごめんなさい。確かに、さっきはそう言ったけど、でも、状況が変わったの。ここは安全じゃないかもしれないから、一緒に田堀まで行こう? ね?」

 

 春海は大きく首を振った。「いやだ。絶対行かない」

 

 もどかしさは、徐々に苛立ちへと変わる。「お願い、春海ちゃん。ワガママ言わないで? すぐそこに屍人が来てるの。春海ちゃんも幻視をして、気付いてるでしょ? 今ならまだ逃げられるから、早くしよう?」

 

 それでも春海は言うことをきかない。「ヤダ。行かない。ここに隠れてたら大丈夫。先生そう言ったもん」

 

 なぜ、ここが危険だと判らないのだろう? なぜ、言うことを聞いてくれないのだろう?

 

 苛立ちは、徐々に、怒りへと変わる。「お願い春海ちゃん。先生を困らせないで!」

 

「やだ! どこにも行かないもん!! ここに隠れてるんだもん!!」

 

 怒りは。

 

 黒い感情へと変わった。

 

「いい加減にしなさい!! 言うことをきかない子は――!!」

 

 手のひらを振り上げた。

 

 小さな石のように身を強張らせる春海。

 

 その姿が。

 

 ――いい加減にしなさい!! いつまでも泣いてる子は――!!

 

 娘の姿と重なった。

 

 我に返り、右手を振り上げている自分に気が付いた。

 

 ――あたし……あたしは……何を……?

 

 泣きだす春海。

 

「ご……ごめんなさい、春海ちゃん。ごめん、先生、どうかしてた……」

 

 優しく抱きしめようとしたが。

 

「――いや!!」

 

 どん、と、子供とは思えない力で突き飛ばされた。

 

 春海は倉庫の隅にしゃがみ込み、泣く。

 

 ああ、あたしは、なんということを……後悔の念が湧きあがる。

 

 びくん、と、身体が大きく震え、一瞬、倉庫の奥で泣いている子供と、それを呆然と眺める女の後ろ姿が見えた。

 

 玲子は振り返る。鎌を持った女の屍人が、倉庫の入口に立っていた。見つかった!

 

 獣の遠吠えのような声を上げる屍人。まずい。あれは、近くの仲間に危険を知らせるための屍人の合図だ。あれを聞いたら、周囲の屍人が集まってくる。

 

 玲子は、小学校から持ってきたバールを取った。

 

 ――春海ちゃんに近づくな!!

 

 倉庫に入って来た屍人に向かって行った。

 

 屍人が鎌を振り上げるよりも早くバールを振り下ろす。よろめいた屍人の頭に、さらに渾身の力で叩きつけた。ぐしゃり、と、骨の砕ける音がして、崩れ落ちる屍人。

 

 とたんに、火がついたように泣きはじめる春海。

 

 もう、春海が言うことをきくのを待ってはいられない。さっきの雄叫びを聞いた周辺の屍人がすぐに集まって来るだろう。仮に誰もいなかったとしても、いずれこの屍人はよみがえる。その前に逃げなければ。

 

 春海に近づき手を取ろうとした。泣き叫び、手足を振り回して暴れる春海。だが、構ってはいられない。いやがる春海を無理矢理抱き上げ、泣き叫ぶ口を押さえ、廃倉庫から出て、田堀方面へと走った。

 

 しばらく走ると、道端に古いライトバンが放置されていた。周囲に屍人の気配は無い。玲子は一度ライトバンの陰に隠れ、春海を下ろした。

 

 春海はまるで屍人から逃げるかのように玲子から離れ、また、泣きはじめる。

 

 何もできなかった。玲子はただ、泣き叫ぶ春海に近づかず、「ゴメン、ゴメンね」と、ただ謝り続けた。

 

 やがて、春海が落ち着きを取り戻してくる。泣きわめく声が、すすり泣きへと変わってくる。

 

「本当にゴメンなさい、春海ちゃん。先生、もう二度と怒ったりしないから、許して……」

 

 今度こそ、優しく抱きしめた。

 

 春海も、もう抵抗はしなかった。「あたしの方こそごめんなさい。ワガママ言って、先生を困らせて」

 

 ――本当にゴメン、めぐみ。お母さん、もう二度と叩いたりしないから、許して……。

 

 娘の姿と重なる。

 

 どんなに怒っても、どんなに叩いても、謝り、抱きしめると、許してくれためぐみ。大きすぎる後悔が押し寄せてくる。

 

 大きく首を振る玲子。昔のことを思い出している場合ではない。今は、春海ちゃんを護ることだけを考えなければ。

 

 玲子は春海を連れ、田堀方面へと向かう。しばらく進むと、用水路が道を分断していた。木製の小さな橋が架けられていたようだが、崩れ落ち、渡ることができない。川幅は三メートルほどある。玲子だけなら飛び越えることもできただろうが、小さな春海には無理だろう。用水路を覗き込んだ。上流で水門が閉ざされているのだろうか、水は流れていない。高さは二メートルほどだ。これも、玲子一人なら一度下りてよじ登ることもできるだろうが、春海には無理だ。どうやって向こう側へ渡ろう? 考え、さっき道端に放置されてあった古いライトバンを思い出した。戻って確認する。ドアを引いてみるが開かない。窓越しにライトで運転席を照らしてみた。キーは刺さっていなかった。運転するのは無理だろう。だが、この道は下りで、用水路まではまっすぐ続いている。サイドブレーキを下ろせば走り出すはずだ。このライトバンを川に落とし、渡ることができないだろうか? やってみよう。玲子は春海を少し下がらせると、バールで窓ガラスを叩き割った。鍵を開け、中に乗り込む。サイドブレーキを下ろすと、ぐらり、と、大きく揺れ、ゆっくりと前に進み始めた。ある程度進んだところで車から降りる。ライトバンはそのまま進み、用水路へ転落した。これで渡れるだろう。玲子は春海の手を引き、ライトバンの屋根の上を進んで、用水路を渡った。

 

 さらに進むと道が北と西の二つに分かれていた。道のそばには石灯籠が置かれてあり、その近くに古いトラクターと給油車が停められてある。西の道は丘の上へと続いている。田堀地区へ向かうには北へ向かわなければいけない。玲子は北の道を進もうとしたが。

 

「――春海ちゃん、隠れて」

 

 トラクターの陰に身を隠す。

 

 道の先に、猟銃を持った屍人がいたのだ。最も厄介な屍人だ。幸い見つからなかったが、猟銃屍人は見張りをしているようだ。田堀へ向かうには、あの屍人をどうにかしなければならない。バールで戦うのはあまりにも危険だろう。隙をついて通り抜けるのも同じく危険だ。どうすればいい? 玲子は、幻視で屍人の様子を探る。

 

 しばらく道の真ん中に立っていた屍人は、北に向かって歩き始めた。どこかへ行くのだろうか? 期待とは裏腹に、屍人は道端の石灯籠の前に立った。さっき見た三叉路の石灯籠とは別のものだ。屍人は石灯籠をじっと見つめている。この辺り一帯には、道に沿って四つの石灯籠が立てられてあり、屍人が見ているものには獅子の頭が浮き彫りにされてあった。さっき見た三叉路の石灯籠には、雄牛の頭が浮き彫りにされてある。他に、人の頭と、鷲の頭が浮き彫りにされたものがある。

 

 しばらく石灯籠を眺めていた屍人だったが、その視線が、ふいにこちらを向いた。息を殺す玲子。大丈夫。隠れているから見つかりっこない。思った通り、屍人の視線に自分たちの姿は映らない。屍人は、そのままじっとこちらを見ていたが、しばらくして、また北に向かって歩き始めた。十メートルほど歩くと立ち止まり、北の方を見ている。そして、また獅子の石灯籠の所に戻って来た。そのまま石灯籠をじっと見つめた後、こちらを向いた。じっと見つめる。さっきと同じだ。何を見ているのだろう? 屍人の視線の先には、トラクターと、給油車と、三叉路の石灯籠。

 

 ――ひょっとして、木る伝(きるでん)解放の儀式をやろうとしてるのかしら……?

 

 木る伝解放の儀式とは、羽生蛇村に伝わる民俗行事のひとつだ。旧暦のお盆、この刈割にある四つの石灯籠に火を灯し、村人が順に祈りを捧げて行くという儀式である。眞魚教の聖典・天地救之伝によると、木る伝とは、海の向こうにある楽園・常世を守護する聖獣で、獅子、雄牛、人間、鷲、の四つの頭と、それと対をなす四対の羽を持つという。かつては合石岳に住み、村に下りては人を襲い、作物を荒らす魔獣として恐れられたが、眞魚教の神の力により、この刈割の地に封印された。それから五百年が経ち、罪を悔い改めたと見た神代家の当主は木る伝を解放し、常世を守護することを命じたそうだ。木る伝は神代に感謝し、この命を護るため、常世へと旅立って行ったという。

 

 木る伝解放の儀式は、この伝説を再現したものである。四つの石灯籠に浮き彫りにされた、獅子、雄牛、人間、鷲の顔は、木る伝の姿を表しており、灯篭に火を灯すと、木る伝に力を与えるとされている。所定の順序に従って火を灯すことで、この地に封印されている木る伝を解放し、常世へ送ることができるのだそうだ。

 

 屍人は獅子の石灯籠をじっと見ている。ロウソクは立っているが、火は灯されていない。隙をついて火を灯せば、屍人は祈りを捧げ、次の、三叉路にある雄牛の石灯籠に移動するのではないだろうか? 残り二つの石灯籠は、西の丘を登る道の途中にある。それにも火を灯せば、うまく屍人を誘導できるかもしれない。

 

 しかし、問題がひとつある。火を点ける道具がない。どこかで、マッチかライターを入手できないだろうか。

 

「……先生、これ」

 

 春海が、小さな声と共に手を差し出した。その中には、使い捨てのライターがあった。

 

「春海ちゃん? これ、どうしたの?」

 

「さっきの倉庫の中で拾ったの。役に立つかと思って」

 

 一瞬、叱るべきかとも思った。子供がライターを拾うのは、どう考えても良いことではない。だが、今は緊急事態だし、確かに役には立つ。

 

「ありがとう、春海ちゃん。でも、次は、勝手に拾っちゃダメよ?」

 

 笑顔でライターを受け取った。何度かボタンを押すと、ちゃんと火も点いた。よし。これで、ロウソクに火を灯せる。後は、猟銃屍人の隙をついて石灯籠へ行くだけだが……。

 

 春海は、どうすべきだろう?

 

 獅子の石灯籠に火を灯すためには、屍人が北へ向かったわずかな隙を突かなければならない。その後も、三叉路の雄牛の石灯籠と、丘の道を上がり、残りの二つにも火を灯す必要がある。春海を連れて歩くのは危険だ。どこかに隠れていた方が安全だろう。周囲を見回す。トラクターの後ろには小さな荷台が取り付けられてあり、ブルーシートで覆われていた。あの中に隠れていれば、しばらくは安全だ。玲子は春海に隠れているよう言った。一人になることに不安そうだったが、なんとか納得してくれた。

 

「先生、早く帰って来てね」

 

 シートの下に隠れる春海。玲子は、笑顔で応えた。

 

 猟銃屍人の様子を窺う。相変わらず、獅子の石灯籠を見、その後、三叉路の石灯籠を見て、移動を繰り返している。玲子は、屍人が北に向かったのを確認し、トラクターの陰から走り出した。素早く灯篭の中のろうそくに火を灯し、元の場所に戻る。直後に振り替える屍人。うまく行った。後は、屍人がどう行動するかだ。

 

 獅子の石灯籠の前に戻った屍人は、火が灯されたロウソクをじっと見ている。不審に思い周囲を警戒するだろうか? いや、大丈夫だ。屍人は頭が悪い。きっと、うまく行くはず。

 

 思った通り、屍人は、石灯籠に向かって手を合わせ、祈りを捧げ始めた。うまく行った!

 

 玲子は再び走り、今度は三叉路に立つ雄牛の石灯籠のロウソクに火を点けた。ぼんやりと輝き始めたのを確認し、丘を上がる道を走る。しばらくすると人の顔が浮き彫りにされた石灯籠が見えてきた。立ち止まり、幻視で猟銃屍人の気配を探る。ちょうど、三叉路の石灯籠に祈りを捧げている所だった。玲子は人間の石灯籠にも火を灯すと、さらに丘を上り、最後の石灯籠までやって来た。鷲の顔が浮き彫りにされた石灯籠。ロウソクに火を点けると、小さく燃え上がった。

 

 と、ぼんやりとした炎の明かりが、突然、白くまぶしい光へと変わった

 

 ――え? 何?

 

 驚き、思わずバールを構える玲子。

 

 まぶしい光は球体へと変わり、煙のようにゆらゆらと揺れながら、空へ上がって行く。そこに、別の球体が近づいてきた。ふたつの球が並行して飛ぶ。そこへ、もうひとつ、さらにもうひとつ、光の球が飛んでくる。四つの光の球はお互いの存在を確認し合うかのようにぐるぐると周囲を回ると、そのまま天へと昇って行き、やがて闇夜の空に消えた。

 

 何だったのだろう? 判らない。後から現れた三つの光は、獅子と雄牛と人間の石灯籠から現れたのだろうか? 村の伝承が正しいとしたら、もしかしたらあれが、この地に封印されていた聖獣・木る伝なのかもしれない。

 

 誰かが近づいてくる気配がした。猟銃屍人だ。こうしてはいられない。玲子は道を逸れ、薮の中に身をひそめた。猟銃屍人がやって来て、最後の石灯籠に祈りを捧げる。玲子は隙をついて藪から出ると、三叉路へと走った。これで、刈割から脱出できる。春海は一人で震えているだろうか? すぐに戻るからね。走る玲子。

 

 ――――!?

 

 三叉路に戻った玲子は、思わず声を上げそうになった。

 

 トラクターの所に、どこから来たのか(くわ)を持った屍人がいた。給油車からトラクターへガソリンを給油している。まさか、トラクターに乗ってどこかに行こうとしているのだろうか? 玲子の思った通りになった。給油を終えた屍人はトラクターに乗り込み、エンジンをかけ、北の田堀方面へ向かい始めた。

 

 荷台から春海が顔を出し、玲子に気付いた。

 

 ――先生助けて!

 

 泣きそうな顔で、そう訴えかけている。

 

 だが玲子は、手のひらを前に出し、そのまま隠れていて、と、合図を送った。トラクターは田堀へ向かっている。今ヘタに逃げ出すよりは、このまま隠れていて、安全な場所まで行ってから脱出した方がいいだろう。玲子も、気付かれないように後を追おうとした。

 

 しかし――。

 

 南の空から、サイレンの音が鳴り響く。

 

 とたんに、頭が叩き割られるかのような頭痛に襲われる玲子。

 

 ――まただ……また、このサイレンの音……。

 

 頭をおさえる。今日は、六時間おきにこのサイレンが鳴っている。サイレンが鳴るたびに頭痛に襲われる。その頭痛は、時間を追うごとに耐えがたいものになっていく。

 

 春海を見る。春海は耳を塞いでいるだけだ。玲子と違い、頭痛には襲われていないようである。それが幸いだった、こんな痛み、春海には感じさせたくない。

 

 荷台の車輪が石に乗り上げ、大きく揺れた。

 

 その衝撃で、荷物がひとつ、道に転げ落ちる。

 

 屍人がそれに気付いた。トラクターを停め、荷物を拾おうとしている。まずい、このままでは春海が見つかる。バールを握りしめ、春海の元へ走ろうとした。だが、さらに大きな音でサイレンが鳴り響き、さらに強烈な頭痛に襲われる。たまらず膝をつく玲子。

 

 屍人が荷物を拾った。

 

「先生! 助けて!!」

 

 春海が悲鳴を上げた。

 

 その姿が――。

 

 ――お母さん! 助けて!!

 

 娘の姿と重なった。

 

 激しく波打つ水面にかろうじて浮かぶめぐみ。襲い掛かる波が、めぐみを海の底へ引きずり込もうとしている、もがき、なんとかまた水面に顔を出す。

 

「お母さん、助けて!!」

 

 玲子に助けを求めるめぐみ。玲子に向かって手を伸ばすめぐみ。

 

 だが、玲子はめぐみに手を伸ばすことはできない。

 

 その両手は、すでに別の子供を抱いていた。もう一人を抱えて泳ぐことができるだろうか? 難しいだろう。ヘタをすると、四人とも溺れてしまうかもしれない。

 

 玲子は、決断を迫られた。

 

 そして。

 

「めぐみ! 待ってて! お母さん、すぐに戻って来るから! それまで、頑張って! 絶対に戻って来るから!!」

 

 玲子は、二人の見ず知らずの子供を抱き、娘のめぐみをその場に残し、岸へと戻った。

 

 再び海へ飛び込んだとき、めぐみの姿は、もう見えなくなっていた。

 

 ――ああ、そうか。

 

 玲子は気づいた。

 

 あの時、あたしは諦めたんだ。

 

 めぐみを救うことを。

 

 その気になれば、三人の子供を抱えて泳ぐことも、不可能ではなかったかもしれないのに。

 

 あたしは、めぐみを救うのを諦め、岸へ戻った。

 

 あたしに助けを求めるめぐみを、見捨てて。

 

 あんなに酷い目に遭わせたのに。

 

 あんなに酷い母親だったのに。

 

 それでもめぐみは、あたしに助けを求めて。

 

 あたしは、それを見捨てたんだ。

 

 めぐみを助けることを、諦めたんだ。

 

 あたしは――。

 

 ――――。

 

 屍人が、荷台のシートをめくった。

 

 あたしは、もう二度と、諦めない!

 

 玲子は、バールを強く握りしめ。

 

 給油車の窓ガラスに叩きつけた。

 

 ガラスの破片で傷がつくのもいとわず、車の中に腕を入れ、ハンドルの中央のボタンを押す。サイレンの音にも負けないほどの、けたたましいクラクションが鳴り響いた。

 

 トラクターの屍人だけでなく、周辺にいたすべての屍人が、クラクションの音に反応する。

 

 そして、玲子を見つけると、鍬を、鎌を、銃を持ち、玲子に向かって来る。

 

 ――そうだ……こっちへ……あたしの所へ来い!

 

 玲子はクラクションを鳴らすのをやめ、ふらつく足で給油車の後方へ回り込んだ。

 

 給油用のバルブがある。

 

 もうろうとする意識の中、玲子は、バルブを回した。

 

「待ってね……春海ちゃん……めぐみ……先生が……お母さんが……いま……助けるからね……」

 

 給油口からガソリンが流れ落ち、地面へと広がって行く。

 

 玲子は、ライターを取り出し、点火のスイッチを押す。

 

 屍人が武器を振り上げる。

 

 ライターの火を、足元に広がるガソリンへ近づけた。

 

 ――春海ちゃん。どうか……無事で逃げて。絶対に、絶対に、諦めちゃダメよ!

 

 心の中で、春海に最期の励ましの言葉を送り。

 

 玲子は、閃光と爆音に包まれた。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 八月四日、深夜〇時。

 

 

 

 村に、サイレンが鳴り響く――。

 

 

 

 

 


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