SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第三十二話 美浜奈保子 羽生蛇村小学校折部分校/体育館 初日/二十二時十一分〇八秒

 美浜奈保子は体育館内の光景に驚き、呆然と立ち尽くしていた。避難して来た村人が不安と恐怖に震えている――そんな姿を想像し、この羽生蛇村小学校の体育館を訪れたのだが、中に人の姿はなかった。それだけなら別の場所に避難したと思うところだが、体育館内は、壁や扉、天井など、いたるところに鋼鉄のワイヤーロープのようなものが張り巡らされてあり、ちょっと正常な状態とは思えなかった。誰が、なんのためにこんなことをしたのだろう。判るはずもない。だが、とにかくカメラを回さなければ。奈保子はポーチからビデオカメラを取り出し、録画ボタンを押した。

 

「現在、夜の十時十二分。羽生蛇村小学校の体育館と思われる建物内に入りました。村の人たちが避難しているかと思ったのですが――見てください。体育館中に、ワイヤーロープのようなものが張り巡らされて言います。いったいどういうことなのでしょう? 誰が、なんのために、こんなことをしたのでしょう? 調べてみます」

 

 カメラを構えたまま、ワイヤーが張り巡らされている壁に、ゆっくりと近づいていく。

 

 びくん、と、身体が震え、一瞬、カメラを構える自分の姿が見えた。

 

 すでに何度も体験している現象だった。他人の視界が見える特殊能力である。村を徘徊しているゾンビのような化物に見つかったのだ。ああ、もう! カメラをポーチに収め、身構える奈保子。化物の気配を探る。正面から近づいてくるようだ。数は二つ。恐らく銃は持っていないだろう。ならば、こちらも銃を使うまでもない。護身術で撃退できるだろう。奈保子は冷静に状況を分析し、闇から化物が姿を現すのを待った。ここに来るまで何度もあの化物に襲われている。拳銃や猟銃で武装している化物にも何度も襲われた。だから、体育館内に屍人がいても、もう驚くことはなかったのだが。

 

 ――って、何、あれ?

 

 闇の中から現れた化物の姿を見て、奈保子は後退りする。現れた化物は、四つん這いでこちらに向かって来ていた。一見すると人の姿をしているが、顔は短い毛に覆われ、大小さまざまな大きさの黒い眼球があり、口からは牙のようなものも生えている。手足の先は長く鍵爪のようになっており、クモを思わせるような化物だ。

 

 クモの化物は右の鍵爪を振り上げて奈保子に襲い掛かる。一瞬驚きはしたが、すぐに冷静さを取り戻した奈保子は、半歩身を引いてその一撃をかわすと、左足で相手の顎を蹴り上げた。のけ反るクモ男。軸足を変え、今度は側頭部に右の回し蹴りを叩き込む。クモ男は耳障りな金切り声を上げると、そのまま動かなくなった。続けてもう一体がこちらに向かって来る。奈保子の前で大きく跳躍し、跳びかかってきた。奈保子は慌てない。跳びかかってきた相手の襟を取ると、身体を反転させ、相手の勢いを利用して背負い投げの要領で床に叩きつけた。悲鳴を上げることもなく動かなくなるクモ男。

 

 ふう。軽く息を付く。初めて遭遇する化物だったが、問題なく撃退することができた。今までの人型の化物と比べて身体能力は上がっているようだが、それでも数が少なければ銃を使うまでもないだろう。鉱山の倉庫で拳銃と大量の銃弾を確保していた奈保子だったが、ここに来るまでにかなりの量を使ってしまい、もう弾は二十発ほどしか残っていなかった。補充できる見込みは今のところない。襲ってくる化物はなるべく護身術で撃退し、銃はいざという時のためにとっておかなければならない。

 

 また、身体が震えた。まだいるの? 身構える奈保子。闇の中に、ひとつ、ふたつ、みっつ、と、気配が増えていき――。

 

 ……ちょっとちょっと、いったい、何人いるのよ?

 

 いつの間にか、目の前には数十体のクモ男が忍び寄って来ていた。ダメだこりゃ。さすがにこの数を素手で相手するのはムリだ。銃を使うのももったいない。一人一発で倒せたとしても、銃弾は尽きてしまう。

 

 先頭の一体が跳びかかってくる。

 

 奈保子はくるりと背を向け、走り出した。

 

 それを合図にしたかのように、数十体のクモ男は、一斉に奈保子に襲い掛かってくる。

 

 ――ああ! もう! 何なのよこの村は!! これだから田舎はキライなのよ!!

 

 心の中で悪態をつきながら、奈保子は走る。

 

 

 

 

 

 

 二十七年前に消えたはずの三隅鉱山のトンネルを通り、二十時間以上迷い続けた合石岳を抜け出した奈保子。山を下り、村へ向かおうとしたが、道中も血の涙を流す化物でいっぱいだった。戦ったり逃げたりを繰り返し、ようやく学校らしき場所にたどり着いた。古い木造建ての校舎と体育館があるだけの小さな小学校だったが、村人たちが避難している可能性が高いと思われた。さっそく取材をするために中に入ろうとしたのだが、校舎の入口は堅く閉ざされていた。単に鍵がかけられているというだけではない。内側から多数の板が釘で張り付けられてあり、完全に封鎖されているのである。玄関だけでなく、全ての窓にも同様に板が打ち付けられていた。その時点でイヤな予感がしたのだが、もしかしたら、避難した村人が化物の侵入を阻止するためにやったとも考えられる。奈保子は学校中の出入口を探り、体育館の裏口が開いているのを見つけ、入ることができた。ようやくまともな人に会うことができる――淡い期待は見事に裏切られ、進化した蜘蛛型の化物と戦うハメになったのである。

 

 

 

 

 

 

 クモ男から逃げる奈保子は、校舎へと続くと思われるドアを見つけた。素早く外に出て扉を閉ざす。細い渡り廊下だ。よし。ここなら、一斉に襲われることはないだろう。一体一体相手にしていけば、何とかなるかもしれない。奈保子は身構えた。

 

 しかし。

 

 ――なにしてんだ。早く来いよ。

 

 ドアがどんどん叩かれるが、クモ男がドアを開ける気配は無かった。やがて、ドアは静かになった。視界をジャックする能力で体育館の中の様子を探る。ドアを叩くのをやめたクモ男は、まさにクモの子を散らすように元いた場所に戻って行った。ドアを開けることができないのだろうか? 山で遭った人型の化物は、知能は低そうだったがドアを開けることはできた。クモ男は人型のヤツよりもさらに知能が低いのかもしれない。なんにしても助かった。ホッと胸をなでおろす奈保子だったが。

 

 ……でもコレ、どうやって脱出すればいいんだろ?

 

 化物が徘徊している以上、もうこの学校に用はない。一刻も早く立ち去りたいところだが、入って来た体育館の裏口付近にはたくさんのクモ男が待機している。数が多く、見つからずにドアまで行くのは不可能だろう。校舎の方へ行くしかない。さっき外から調べた限りどこも開いていなかったが、内側からなら開けられるかもしれない。奈保子は、校舎へと向かった。

 

 校舎もまた体育館と同じく異様な雰囲気だった。全ての窓に板が張り付けられ閉ざされている上に、廊下には、机や椅子、跳び箱やマットなどが積み上げられ、それに鋼鉄のワイヤーロープのようなものを巻きつけたバリケードで封鎖されていた。何のためにこんなことをしているのだろう? 想像もつかない。まあ、化物のやることなど気にしても仕方がない。奈保子は脱出できそうな場所がないか探す。体育館の出入口の正面は職員室で、そのすぐ隣に玄関があったが、板が張り付けられてあり、奈保子の力で剥がすことはできない。玄関の隣は教室だが、そこの窓も同じだった。廊下はバリケードで閉ざされており、奥に進むことはできない。だが、幸い教室内はドアで繋がっており、隣の教室へは移動することができた。そこを通ればバリケードの向こう側へも行くことができが、恐らくあの化物どもがいるのだろう。視界ジャックの能力を使い、廊下の様子を探る。一体クモ男の気配を見つけた。なんと、鍵爪を使って天井に張り付き、教室の出入口を見張っている。ホントにクモみたいだな。どうしよう? クモ男はじっと出入口を見張っており、目を離しそうにない。戦うしかないか。覚悟を決め、そっとドアを開けた。そのまま待ち伏せする。クモ男が様子を見るために中に入ってきたところを一撃で仕留めるつもりだった。

 

 だが、クモ男はじっと扉を見つめたまま動かない。逆に待ち伏せするつもりか? やっかいだな。仕方がない。奈保子は、しゃがみ歩きで静かに外に出た。天井を見上げる。いた。じっと、こちらを見ている。しかし、それでもクモ男は動かなかった。ただじっと、様子を探るようにこちらを見ているだけだ。どういうことだ? 明らかに目が合っているのに、襲い掛かって来ない。ひょっとして、目が悪いのだろうか? あり得ることだった。クモは目がほとんど見えない動物で、獲物の捕獲は、空気の動きを体毛で感知するなど、触感に頼っているという話を聞いたことがある。恐らく、こちらの存在を認識してはいるものの、距離があるため、仲間なのか敵なのかの判断がつかないのだろう。なら、あえてこちらから手を出す必要もない。奈保子はそっとその場を離れた。クモ男は、結局動かなかった。

 

 一階の一番奥までやって来た。二階へ続く階段と、その正面にトイレがある。残念ながらトイレの窓も塞がれているため脱出はできない。階段の横には小さなドアがあった。倉庫のようだが、ドアに鍵がかけられてあり、中に入ることができなかった。

 

 これで、一階はすべてチェックした。脱出する場所はない。二階へ行くしかなさそうだった。もしかしたら非常階段や救助用シュートがあるかもしれないし、最悪の場合窓から飛び降りることもできるだろう。視界ジャックで二階の様子を探ってみる。三体の化物の気配を見つけた。そのうち二体はクモ男だが、残る一体は人型の化物のようだ。二足歩行で、左手にライト、右手にバットを持っている。だが、どうもこれまでのヤツとは違うような気がする。何やらほわんほわんと電波のようなものを飛ばしている雰囲気だ。さらには、「はるみちゃああぁぁん。どこにいったのかなあぁぁ。せんせい、さみしいよおぉぉ」と、場所が小学校であることを考えると変態としか思えないことをつぶやいている。できればお近づきになりたくないが、行かないわけにもいかない。萎えそうになる気持ちを奮い立たせ、奈保子は階段を上がった。

 

 二階の廊下にバリケードは無かった。クモ男二体は廊下を徘徊しており、変態男は教室にいるようである。二階には三つの教室があるようだが、どこの教室にいるのかまでは判らない。ヤツらに見つからずに調査するのは不可能だろう。今度こそ戦うしかない。まずは、どちらを相手にすべきか。廊下の二体のクモ男と、教室の変態男。散々迷った挙句、奈保子は教室へ向かうことにした。変態とは言え一対一の方が戦いやすい……と思う。

 

 階段のすぐそばのドアを開け、教室へ入る。誰もいない。耳を澄ますと、隣の教室から、あのほあんほあんという音が聞こえて来た。変態男は隣にいるようだ。ひとまず放っておいて、教室内を調べてみる。だが、やはり窓には板が張り付けられていて、脱出できそうにない。

 

 この教室も、一階と同じく教室同士がドアで繋がっており、廊下へ出なくとも隣へ移動できるようだ。奈保子は隣へ繋がるドアの前に立つ。この向こうに変態男がいる。こちらの存在には気付いていないようだ。できれば気付かれる前に片づけたい。相手が扉に背を向けた瞬間踏み込んで、振り返る前に倒してしまおう。視界ジャックで様子を窺う。しばらくして、変態男の注意が廊下側へ向いた。今だ! 奈保子は隣の教室へ踏み込むと、一気に間合いを詰めた。気配を感じた変態男が振り返る。その側頭部に、右のハイキックを叩き込もうとして。

 

 ――え!?

 

 思わずためらい、足を止めてしまう。

 

 灰色の肌に血の涙を流す目――これが、いままで見た人型の化物の顔だ。

 

 だが、目の前の化物の顔は、肌の色こそ同じだが、目はなく、頭からタコの足のようなものがいくつも生え、うねうねとうねっていた。蹴るのをためらったのは、驚いたというよりは気持ち悪かったからだ。

 

 相手がバットを構えたので、一旦距離を離す奈保子。くそう。仕留めそこなった。タダでさえ気持ち悪いのに、正面から戦わなければいけない。

 

 が、奈保子の思いに反して、変態タコ男はくるりと奈保子に背を向ける。そのまま廊下側のドアを開けると、走って逃げて行った。

 

 ……何だったんだろう? 首を傾げる奈保子。ここまでたくさんの化物と戦って来たけど、逃げたヤツは初めてだな。なにより、あの頭は何だったんだ。触手が生えていたように見えたけど、教室内は暗いし、見えたのも一瞬だったから、ああいうカツラだったのかもしれない。

 

 まあ、何にしても余計な戦いをしないですんだのは良かった。奈保子は教室内を見回す。残念ながらこの教室の窓もすべて塞がれていた。これはダメかもしれない。二階の残る教室はひとつ、一番奥の教室である。残念ながらこの教室から直接つながっていないようなので、奈保子は視界ジャックの能力で廊下のクモ男の様子を探りながら、隙をついて後ろのドアから外に出て、一番奥の教室へ入った。

 

 一番奥の教室は図書室だった。沢山の本が入った本棚、そして、机といすが並んでいる。最後の教室だったが、奈保子の予想通り、ここも窓に板が打ち付けられていた。すぐに脱出できそうなところはない。ならば、危険を覚悟でクモ男が大量にいる体育館へ戻るか、板をはがす道具を探すかだろう。そういえば一階の階段のそばに小さな倉庫みたいなのがあった。鍵がかかっていたが、板は張り付けられていなかった。なんとかして入れないだろうか? 行ってみよう。移動しようとしたが、ふと、立ち止まる。

 

 ――そう言えば、羽生蛇村小学校って、二十七年前に行方不明になった吉川菜美子ちゃんが通ってた学校だよね?

 

 三隅鉱山の廃ビルでの出来事を思い出す。地下で見つけたランドセルの中に、図書室の貸し出しカードが入っていた。この村に小学校はひとつだけだから、ここで間違いないだろう。

 

 ――羽生蛇村小学校の図書室って、何か、怪談話があったような……?

 

 奈保子は、ダークネスJAPANの撮影前、村のことをネットで詳しく調べている。その中に、『羽生蛇村小学校七不思議』というのがあった。一階のトイレの一番奥には花子さんがいる、だの、深夜二時に玄関にある姿見の前に立つと未来の自分の姿が見える、など、どこの学校にもあるたわいのない怪談話だった。だから、あまり詳しくは調べなかったのだが、その中に、山で神隠しに遭った少女が、深夜、四つん這いの化物になって図書室に本を返しに来る、という話があったように思う。いま思えば、あれは吉川菜美子ちゃんのことではなかったのだろうか? さらに、四つん這いの化物なら、いままさに学校内をうろついている。絶対に何か関係がありそうだ。でも、怪談話の詳細は思い出せない。くそ。もっと、ちゃんと調べておくべきだった。

 

 奈保子はウエストポーチを開け、廃ビルから持ってきた貸し出しカードを取り出した。棚番号386、羽生蛇村民話集、とある。あまり期待はできないが、もしかしたら何か手がかりがあるかもしれない。奈保子は386番の棚を探した。

 

 ……384……385……386……コレだわ。

 

 奥の棚で目的の本を見つけた。本棚から取り出してみる。かなり傷んでおり、慎重に取り扱わないとすぐにバラバラになりそうだった。まあ、吉川菜美子が借りていたということは、少なくとも二十七年以上前からあったということだから、ボロボロなのも当然かもしれない。ページをめくる。タイトル通り、羽生蛇村に伝わる民話を集めた本だった。奈保子はその中から適当に一本選び、読んでみた。

 

 

 

 空から降ってきた魚

 

 むかしむかし、日照りが続き、ひどい飢饉が村を襲った。

 

 村の娘が飢えに苦しんでいると面妖な魚が空から降ってきた。娘がこらえきれずその魚を口にしたところ、たちまちに空が曇りて天から大きな音が鳴り響いた。

 

 娘は悔いて謝り、これから一匹ずつ魚を天に返すので許して欲しいと神に乞うた。

 

 

 

 コレは興味深い話だな。空から魚が降ってきた……ファフロツキーズ現象じゃないか。

 

 ファフロツキーズ現象とは、空から魚やカエルなどのあり得ない物が降ってくる怪現象である。最近になってネットなどを中心に話題なっているが、古くは千年以上も前の日本の文献にも同じような現象が記されている。原因は、竜巻によるものや、鳥が吐き出したもの、飛行機から落下したものなど、様々な説がある。それらで説明がつく事件もあればつかない事件もあり、大きな議論となりつつあるのだ。いずれダークネスJAPANでも取り上げるのではないかと思っていたところだ。村の民話集に登場するということは、昔この村で同じような現象が起こっていたのかもしれない。役に立つかもしれないから、念のため撮影しておこう。奈保子はポーチからカメラを取り出すと、民話集を読むシーンを撮影しておいた。

 

 他に面白い話はないかな? 奈保子はさらにページをめくる。

 

 ……うん? 永遠に若き女?

 

 気になるタイトルだった。自分がもうすぐ三十路を迎えるから、というのもあるが、お昼に合石岳で会った猟師から聞いた話を思い出したからだ。

 

 ――あの女のせいだ。昔と寸分に違わない姿……あれは……八百比丘尼(やおびくに)だ。

 

 八尾比丘尼――人魚の肉を食べ、八百歳まで生きた女の話だ。日本各地に伝わる伝承だが、この羽生蛇村には海が無い。人魚は、一体どこから出てきたのだろう? 気になった奈保子は、その話も読んでみることにした。

 

 

 

 永遠に若き女

 

 むかしむかし、村に年老いた女がいた。女は、若い頃は美しく、村の男たちを魅了していたが、年を負うごとに美しさは失われ、いつしか村の誰からも相手にされなくなっていた。

 

 ある日、女が水蛭子神社を訪れると、そばにある泉が赤く染まっていた。蛭子様が怪我をしたのかもしれない。驚いて赤い水を手ですくってみると、不思議なことに、年老いて皺だらけいた肌が、みるみる若い頃の艶めきを取り戻していく。喜んだ女は全身に赤い水を浴び、若い頃の姿を取り戻した。

 

 若さを取り戻した女は、村を離れ、どこかへ旅立って行った。

 

 

 

 ……想像してたのとだいぶ違うな。人魚も何も出てこないじゃないか。赤い水を浴びて若返る……これじゃあ、エリザベート・バートリーの血のお風呂だよ。

 

 エリザベート・バートリーとは、十六世紀から十七世紀にハンガリーに存在した伝説の悪女だ。若い女の血には肌を若返らせる効果があると信じ、自分が治める領地に住む娘を次々と誘拐し、拷問の末に殺害。その血を湯船に浸し、全身に浴びることで若さを保とうとしたそうだ。その手にかかった娘は六百人とも七百人とも言われている。

 

 ――そう言えば、昨日の夜から赤い雨が降ってて、水たまりが血の池みたいになってたよね。この民話って、もしかしたらあの赤い水が元になって作られたのかな?

 

 ふと、そう思った奈保子。

 

 ならば、あの赤い水を浴びれば、自分も十代の頃のピチピチした肌を取り戻せるのだろうか?

 

 十代の頃。それは、奈保子の絶頂期だ。当時大人気だった国民的アイドルグループの主要メンバーとして活動し、視聴率30%を超える月曜九時のドラマで主演を務め、CM契約は二十社以上だった。月に一度CSで放送されるくだらないオカルト番組が唯一のレギュラーである今とは大違いである。一体なぜ、こんなことになってしまったのか? あの時と今と、何が違うというのか? 考えるまでもない。アイドルグループを卒業してしまったからだ。何もせずとも自動的に仕事が舞い込んで来たのは、奈保子があのアイドルグループの人気メンバーだったからだ。グループを卒業してしまった今の奈保子には、なんの価値もない。卒業したのは間違いだった。そう思うことはある。だが、卒業しなかったところで、同じだっただろう。奈保子が卒業を決意したのは、年齢的にアイドルとして活動することに限界を感じたからだ。二十歳を過ぎるとアイドル特有の可愛らしいフリフリのドレスや制服などの衣装を着るのが苦痛になって来る。奈保子が所属していたアイドルグループはどんどん若い娘を加入させたからなおさらだ。若いメンバーと同じステージに立つたびに公開処刑させられている気分になる。それでも図太く居座ることもできたが、そうしたところで、若さを失えば人気も失うことは目に見えている。結局、卒業しようとしまいと同じだったのだ。若さはアイドル最大の武器であり、それを失った時点で、奈保子はこうなる運命だったのだ。だから、永遠に若さを保つことができれば、アイドルグループを卒業する必要もなく、今も、人気メンバーでいられたのかもしれない。

 

 ――なんてね。バカバカしい。

 

 肩をすくめる奈保子。そんなのは言い訳だ。確かに若さはアイドルの最大の武器かもしれないが、あたしの夢はアイドルではなく女優だ。アイドルとして活動したのは、そのステップのひとつにすぎない。若い頃はアイドルとして活動し、その後女優に転身し、成功した人は沢山いる。あたしがそうなれないのは、きっと、努力が足りないからだ。

 

 ――努力は必ず報われる。どんな時でも前に向かって進め。

 

 かつて所属していたアイドルグループのリーダーが常々言っていた言葉だ。くじけそうなときは、いつもこの言葉をつぶやく。若さが失われたのなら、別のことで努力すればいい。だから奈保子は、いくつものオーディションを受け、かつて仕事をした監督やプロデューサーに頭を下げ、演技力を磨き、Vシネマ『ヒットマン女豹』への出演が決まった時はアクションを猛勉強し、『ダークネスJAPAN』の仕事がある時はオカルトや民俗学の勉強をしたのだ。いつか、この努力が報われる時が来ることを信じて。

 

 でも。

 

 ――その努力が報われるのはいつだろう。もしかしたら、永遠に来ないのかもしれない。

 

 そういう思いは、いつも胸の奥底で疼いている。

 

 考えを振り払うように、ぶんぶんと頭を振る奈保子。ダメだ。ネガティブになってはいけない。諦めなければ、チャンスはきっと来る。

 

 それに。

 

 今のあたしには、この村で起こっていることを世間に知らせるという使命がある。

 

 大地震、赤い雨、死んでもよみがえる化物、他人の視界をジャックする能力――間違いなく、世紀の大スクープだ。あたしは一躍有名になり、再ブレイクを果たすことができるだろう。村の事件を売名行為に使うのは申し訳ないと思うが、ここまで、まさに命懸けで取材したのだ。それくらいの見返りがあってもいいだろう。そのためには、なんとしても、生きて東京に帰らなければ。改めて強く決意し、本を元の場所に戻した。

 

 と、ガラガラとドアが開き、ビクンと体が震える。誰か来た! カメラをポーチにしまう。入口を見ると、さっき逃げて行った変態タコ男が立っていた。その後ろには、クモ男を三体引き連れている。一人では敵わないと見て仲間を引き連れて来たのか。なかなか頭がいいようである。四対一ではさすがに分が悪い。奈保子はためらうことなく銃を抜いた。銃弾は少ないが、使うところでは使わなければ。温存しすぎてやられてしまっては意味がない。銃口を化物達に向ける。バットを振り上げ向かって来る変態タコ男に向けて引き金を二度引いた。胸が小さく爆発し、変態タコ男は後ろによろめいた。しかし、倒れない。踏みとどまり、また襲いかかってくる。さらに二回引き金を引く。一発は外れたがもう一発は命中し、変態タコ男はうめき声を上げながら倒れた。その身体を越え、三体のクモ男が襲い掛かってくる。舌打ちする奈保子。変態タコ男に四発も使ってしまった。奈保子の持つ銃の装弾数は六発なので、後二発しか残っていない。敵は素早く、リロードするヒマはないだろう。一体を残りの銃弾で倒し、二体は素手で倒すしかない。そのためには、最初の一体を確実に仕留めなければ。銃を構えたまま、クモ男が近づいてくるのを待つ。今だ。引き金を引こうとしたとき。

 

 ――あれ?

 

 首を傾げる奈保子。クモ男は、奈保子が引き金を引くよりも早く、うめき声を上げながら倒れ、そのまま動かなくなった。それも、最初の一体だけでなく、三体すべてが。しばらく銃を構えたまま様子を窺ったが、動き出す気配は全く無い。

 

 ――どういうことだろう? 変態タコ男が倒れ、後を追うようにクモ男も倒れた。ひょっとして、この変態タコ男は化物たちのボスで、クモ男はボスに操られていたのだろうか? ほわんほわんと電波みたいなのを飛ばしていたのはそのためか。

 

 なんだかよく判らなかったが、とにかく動かないのならこれ以上構う必要はない。今のうちに探索を続けよう。校舎内に脱出できそうな所はないから、なにか道具を見つけて、入口や窓を封鎖している板をはがすしかない。まずは倉庫に行ってみよう。奈保子は図書室を出ようとして、倒れた変態タコ男のそばにキラリと光る物を見た。近づいて確認すると、鍵のようである。

 

 ――あれ? この鍵、もしかしたら……。

 

 鍵を拾い、廊下へ出る。そのまま一階へ下り、階段側にある小さなドアの前に来た。さっきは開かなかったが、拾った鍵を差し込み、ひねってみると、かちゃりという音がして回った。ラッキー。思った通り、このドアの鍵だったようである。倉庫のようだから、中に役立つものがあるかもしれない。ドアを開ける。六畳ほどの狭い部屋だ。木製の大きな棚があり、奥にはダンボールがいくつも積み上げられている。役に立ちそうなものがありそうだが、何よりも奈保子の目を引いたのは、右側にあるドアだった。板で封鎖されていない。鍵はかけられているが、内側からなら開けることができる。ドアを開けると、校庭が広がっていた。よし! 思わずガッツポーズをする奈保子。これで脱出できる。

 

 ――大丈夫。あたしはまだ頑張れる。大勢の化物に襲われたけど、また生き残ることができた。大丈夫だ。あたしは死なない。絶対に生きて帰る! そして、この村で起こっていることを、世界中に伝えるんだ!!

 

 奈保子は、強い決意と共に、赤い雨が降り続く闇の中へ走って行った。

 

 

 

 

 


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