宮田司郎は病棟一階の廊下を走っていた。先ほど、院内に火災報知機の警報が鳴り響いた。恩田理沙が鳴らしたのだろう。恐らく屍人が侵入したのだ。宮田は求導師の牧野慶と手分けして理沙を探したが、運が悪いというべきか、先に理沙を見つけたのは牧野だった。
廊下を走る宮田。階段の手前に三つの人影が見える。牧野慶と恩田理沙、そして、もう一人は、ナース服を着た屍人だ。いや、それが屍人なのかどうかは宮田にも判らない。身体は人の姿を保っているが、顔は醜く変貌している。額から垂れ下がるいくつもの大きなこぶに、目も鼻も埋もれている。化物と呼ぶしかない姿だ。
屍人は右手に大きなシャベルを持ち、牧野の方へ近づいていく。牧野も鉄パイプのようなものを持ち、構えているが、その手は震えている。腰も引けており、遠目にも怯えていることが判る。あれでは戦うことなど不可能だろう。
「お姉ちゃん、やめて!!」
理沙が、祈るように叫んだ。
――お姉ちゃん、だと?
宮田は思わず足を止めてしまう。あの醜い化物が、美奈だというのか。
屍人の顔が、牧野から理沙に向く。ゆっくりと近づいていく。まるで、理沙のことを求めているかのように。
理沙は――そして牧野も――脅え、震えることしかできない。
宮田は走った。白衣のポケットの中から透明の液体が入った小瓶を取り出し、それを、屍人に投げつけた。瓶が割れ、中の液体が屍人の全身にかかる。
屍人が悲鳴を上げた。液体を浴びた場所が、まるで炎にさらされたかのように焼け爛れていく。液体は、高濃度の硫酸だった。治癒能力の高い屍人にはそれほど効果はないだろうが、とりあえず撃退するには十分だろう。思った通り、屍人は耳障りな金切り声で叫びながら、階段を上がって逃げて行った。
牧野が鉄パイプを下ろし、宮田を見た。「宮田さん……すみません」
「仕方ないですよ。牧野さんは、こういうことに慣れてないでしょうから」
皮肉を込めたつもりだったが、牧野には通じなかった。「ありがとうございます」と、頭を下げる牧野。まあ、理沙を置いて逃げ出さなかっただけ上出来だろう。
「先生! お姉ちゃんが!!」理沙が宮田の腕にすがりついた。
「あれは、やはり美奈さんなんですね?」宮田はできるだけ優しく訊いた。
「はい……あたし、お姉ちゃんに呼ばれてる気がして……お姉ちゃんが病院に来てる気がして、探してたら……あんな姿に……」
理沙の声は嗚咽に変わる。そのまま宮田の胸に顔をうずめ、泣き崩れた。
優しい言葉を掛けてあげるべきかと思ったが、自分にそんな資格はないだろう。宮田は理沙の肩に手を置き、
「牧野さん。理沙さんを頼みます」
冷たく引き離すように、理沙を牧野に預けた。
牧野は困惑の目を向ける。「どうするのですか?」
「後を追ってみます。二人は、診察室に戻っていてください」
短く言って、階段を上った。
「あ、先生――」
理沙が呼び止める。
振り返る宮田。
「お姉ちゃんを……美奈を、助けてあげてください」
理沙は、深く頭を下げた。
助けてあげる――不可能だと思った。屍人を元の人間に戻すことはできない。それは、死者をよみがえらすようなものだ。神にしかできないだろう。いや、神が死者をよみがえらせた姿が屍人なのかもしれない。その神秘的な領域に、人踏み込めるはずがない。
だが、恐らく理沙にもそれが判っているのだろう。
顔を上げた理沙の目には、強い覚悟が表れていた。
助ける、とは、美奈を元の人間に戻すことではない。
美奈を、今の苦しみから解放することだ――そう思った。
「――判っています」
理沙の目を真っ直ぐに見て、宮田は力強く答えた。
階段を上る。
美奈を人間に戻すことはできないが、美奈を苦しみから解放することはできるかもしれない。
そして、それができるのであれば、自分がしなければいけないとも思う。
美奈があのような姿になってしまったのは、自分に責任があるのだから。
宮田は、自分の両手を見た。
美奈の首を締めた感覚は、今もこの手のひらに残っている。