蛭ノ塚から刈割へと向かう県道333号線には、途中、眞魚川にかかる大きな橋がある。今は崩れ落ち、その先には、広大な赤い海が広がっていた。安野依子は崩れた橋の前に立ち、眼下に広がる赤い海を見下ろしていた。波打ち際に大勢の屍人の姿が見える。看護師の服を着た若い女、警官姿の男、頭の禿げ上がった小太りの中年男性……皆、海から陸へと上がっている。
「……あれって、何をしてるんですかね?」安野は、さっき大字波羅宿で知り合った村の猟師に訊いた。
「海還りだ」猟師は、独り言のように言った。
「うみがえり?」
「海送りに海還り……村に伝わる、古い風習だ」
猟師は、ゆっくりとした口調で語る。
旧暦の大みそか、黒装束に身を包んだ村人が、一年の罪や穢れを祓い清めるため、眞魚川に身を沈める。これが、海送りの儀式。そして、罪や穢れを洗い流した村人が、年が明けると同時に岸へ上がる。これが、海還りの儀式だ。常世と呼ばれる理想郷へと旅立つための儀式とされている。
「――山の中で海など無い村なのに、妙な風習があるものだと思っていたが、こういうことだったのか」
猟師の言葉に、安野は大きく頷いた。
海から上がった屍人は、神の祝福を受けたことになる。常世という場所に、より近づいた存在になったということだ。
安野の思った通り、屍人たちは、その姿を大きく変えていた。
四つん這いになり、獣のように走る屍人、蜘蛛のように糸を吐き、切り立った崖を上って行く屍人、頭部に大きなこぶがいくつもぶら下がった屍人、背中にトンボのような羽が生え、宙を飛ぶ屍人までいた。あれが、より常世に近い存在となった屍人の姿なのだろうか?
常世とは、古事記や日本書紀などに登場する神の領域だ。『永久』を意味し、決して年を取ることの無い、不老不死の楽園とされている。
広大な赤い海を見る安野。この海の向こうに、永遠に歳を取らない楽園があるというのだろうか? 海送りと海還りを繰り返せば、人も、その楽園に行くことができるというのだろうか?
「……この村は、もう終わりだ」安野の背後で、猟師がつぶやくように言った。「せめて、わしは、化物になる前に、逃げ出すとしよう」
「……え? 村から逃げ出すことができそうなんですか?」
安野が振り向くと。
猟師は、猟銃の銃口を、口に咥えていた。
「――――!?」
安野が手を伸ばすよりも早く。
猟師は引き金を引いた。
まるで、頭の中に小型の爆弾が仕掛けられていたかのように、猟師の後頭部が爆発する。
そして――ゆっくりと、地面に転がった。
安野はただ、その場に立ち尽くしていた。
どれくらい、そこに立っていたか――。
安野は泣いた。
冷たい
悲しかったからではない。
悔しいのだ。
少し前、安野は、猟師に頬をはたかれた。
そのことに対して反感は持っていない。屍人を前に危険な行動をした自分を戒めるためのことだったと理解している。
だが、今の猟師の行動は、許せなかった。
この村はもう終わりだ――猟師はそう言った。確かにそうかもしれない。もう、この村からは逃げられないのかもしれない。死は、この恐怖から逃れる唯一の方法なのかもしれない。
だが、それでも安野は、自ら命を絶った猟師を、許すことができなかった。そんな安易な方法で村を逃げ出した猟師を、許すことができなかった。
自ら命を絶った者に、危険な行為を戒められたことが、悔しかった。
あなたは間違っている。あなたなんかに叩かれるいわれは無い――そう言ってやりたかったが、どんなに叫んでも、もうその言葉は届かない、それが悔しかった。
安野は泣いた。だた、泣き続けた。
村に、サイレンが鳴り響く。
安野は涙を拭い。
猟師の躯に、冷たい視線を向けた。
――あたしは、あなたのようにはなりませんよ。
心の奥で、猟師に向かって言う。
村から逃れることはできない……猟師の言う通りかもしれない。
だが、それでも、あたしは決して、生きることを諦めない。
絶対に――絶対に、生き抜いてみせる。
あなたが間違っていたことを、証明してみせる。
安野は、猟師に背を向けると。
――あたしは死なない。あたしは諦めない! どんなことをしても、あたしは、生きて、生きて、生き抜いてみせる! 最期まで、絶対に、絶対に、諦めるもんか!!
強い決意と共に、その場を去った。
もう二度と、ここに戻ることはないだろう。