SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第二十六話 志村晃 大字波羅宿/火の見櫓 初日/十六時五十三分三十七秒

 薄霧に覆われた大字波羅宿(おおあざはらやどり)の火の見櫓の上で、志村晃は眼下に広がる集落を眺めていた。棚田状になった山肌にへばりつくように広がる古い家屋。懐かしい光景だった。二十七年前、土砂災害で消滅する前の大字波羅宿だ。なぜ、消えたはずの集落が存在しているのか。志村はすでにその答えを悟っていた。自分は今、二十七年前に消えた羽生蛇村にいる。

 

 六時間ほど前、蛇頭(じゃこうべ)峠の山道で、派手な格好をした余所者の女と別れた志村は、村を出るために道祖神道を北へ進んだ。三時間も歩けば村の外へ出られるはずだったのだが、どういうわけか村に戻って来てしまったのだ。道を間違えたのだろうか? いや、猟師を生業にしている志村は、蛇頭峠のある合石(ごうじゃく)岳には若いころから通い詰めている。山は自分の庭のようなものであり、道を間違うことは考えにくかった。もちろん、猟師であるからこそ、山の怖さも十分知っている。獲物を追うのに夢中で気が付くと知らない場所に迷い込んでいたり、予期せぬ悪天候に見舞われ数日間身動きが取れなくなることは、決して珍しくはない。しかし、道祖神道は一本道であり、故意に道から逸れない限りは迷うはずがないのだ。山の経験が豊富な志村にも、何が起こったのか判らない。しいて理由を挙げるならば、村から出るとき、道端の道祖神像に祈りを捧げなかったことくらいだ。道祖神は旅の安全を祈願する神だ。それをないがしろにした志村は、神の罰を受けたのかもしれない。

 

 あるいは。

 

「……お前がわしを呼んだのか、晃一(こういち)……貴文(たかふみ)……」

 

 志村は、懐に大事にしまっていた古い写真を取り出した。この二十七年間肌身離さず持ち歩いていた写真は、すっかり色あせ、皺だらけになっているが、そこに写っている者の姿は、不思議なほどはっきりとしている。今は亡き志村の妻と、息子の晃一、従兄弟の貴文、そして、二十七年前まで家族ぐるみの付き合いがあった竹内という家族だ。三十年近く前、この大字波羅宿で撮影したものである。

 

 この写真に写っている者のほとんどが、二十七年前の土砂災害で亡くなった。つまりそれは、志村が今いるこの場所、二十七年前の羽生蛇村に飲み込まれた、ということである。

 

 二十七年前、晃一と貴文は、村の有力者・神代家と、その神代家が行う祭事に疑問を持ち、正体を探るために行動を起こした。

 

 ――お前たちは、わしを恨んでいるのだろうな。

 

 写真の息子と従兄弟を見つめる志村。二人からは「協力してほしい」と、何度も頼まれた。志村自身も神代家には思うところはあったが、生来の事なかれ主義であったため、ずっと見て見ぬふりをしてきた。だから、二人への協力も断った。恨まれても仕方がない。

 

 志村は、大きく息を吐き出すと。

 

 写真を、投げ捨てた。

 

 志村の手を離れた写真は、ふいに吹き抜けた強い風にさらわれ、あっという間に村を覆う薄霧の中に消えた。

 

 その瞬間、志村は、これで本当に天涯孤独の身になってしまったような気がして、自嘲気味に笑った。だが、これで良かったのだ。いまさらあの二人に合わす顔など無いし、自分にできることなど、何も無い。そもそも、ずっとあの写真を持っていたのは間違いだったのかもしれない。あんなものを持っていたからこそ、二十七年もの長い間、この村を去ることができなかったのだ。あの写真は、自分の心に残る未練の象徴だ。これでもう、本当に、村に未練はない。

 

 志村は、この場を去ろうとした。

 

 と、写真が飲み込まれた薄霧の中から。

 

「――ちょっとちょっと、いいかげんにしてくださーい。しつこい男は、女の娘に嫌われますよー」

 

 何とも場違いなことを言いながら、黒縁の眼鏡をかけた若い女が走って来た。その後ろには、包丁を持った屍人もいる。追われているようだが、女の口調には切羽詰った様子はない。むしろ、余裕さえ感じられた。顔に見覚えはない。と、いうことは、村の者ではないだろう。少し前に蛇頭峠で会った女も村の者ではなかった。随分と余所者がまぎれ込んでいるようである。この羽生蛇村は観光するような場所などないが、二十七年前の土砂災害や小学生失踪などの怪事件が多発しており、怪しげな噂を聞きつけて好奇心で訪れる者や、テレビや雑誌の取材などで来る者は少なくない。恐らく、この女もその一人だろう。不届きな理由で村を訪れ、勝手に巻き込まれた者を、志村が助けてやる道理はないが、目の前で殺されそうな者を見捨てるのも気が引けた。志村は猟銃を構え、屍人に照準を合わせた。引き金に指を掛け、撃とうとしたとき。

 

 ――ほほう。

 

 女の姿に感心し、志村は銃を下ろした。

 

 女は、一メートルほどの高さの棚田をひょいっと登ると、近くにあった得物を手に取り、追って棚田を上ろうとする屍人の頭を殴った。下に落ちる屍人。だが、一撃で倒すことはできなかった。起き上がった屍人は、また、棚田を上ろうとする。女はまた屍人の頭を殴る。下に落ちる屍人。再び起き上がり、崖を上ろうとする――これを、さっきから何度も繰り返している。棚田を上ろうとするたびに殴られて下に落ちる屍人だが、屍人は上るのをやめようとしない。愚直な屍人の行動を上手く利用した戦い方だ。

 

 だが、志村が感心したのは、その戦い方ではなく、女が手にした得物だった。漢字の生の字をひっくり返したような看板――眞魚教のシンボル・マナ字架だ。この村の信者にとっては命よりも大事な物であり、それで何かを殴るなど、神への冒涜だ。もし村人に見つかれば袋叩きにされるだろう。まさに、神をも恐れぬ所業である。

 

 女は屍人を殴り続ける。看板は軽く、一発一発は大した威力ではないが、それでも、続けていればそのうち倒せるだろう。

 

 だが、女の背後から、鎌を持った別の屍人が近づいていた。女は目の前の屍人を叩くのに夢中で気づかない。

 

 志村は再び銃を構え、鎌を持つ屍人に照準を合わせる。そして、屍人が鎌を振り上げた瞬間、引き金を引いた。銃弾は見事に命中し、屍人はその場に倒れた。銃声に振り向く女。周囲を見回し、志村に気が付いたようだ。大きく手を振っている。

 

 志村はそれに応えず、無言で櫓の梯子を下りた。思わず助けてしまったが、はたしてそれが正しかったのかは判らない。ここで死をまぬがれたとしても、どの道もうこの村からは出られないだろう。遅かれ早かれ、命を落とすはずである。ならば、あのまま屍人に襲われて死んでいた方が、結果として長く苦しまずに済んだかもしれないのだ。

 

 まあ、所詮は余所者のことだ。自分には関係ない。櫓の下に降りた志村は、今度こそ本当にこの場を去ろうとしたが。

 

「――いやあ、危ないところでした。ありがとうございます」

 

 背後から声を掛けられる。

 

 振り返ると、さっき助けた女がいた。にっこりと笑い、親しげな口調で話す。「あたし、安野依子って言います。東京で大学生してるんですけど、その大学の講師が、なんか、この村の調査をするって言うんで、連れて来られたんです。そしたら、地震は起こるは津波に襲われるは頭のおかしな人たちに追いかけられるわで、もう、大変だったんですよ。でも、良かった。この村にも、ちゃんとした人がいたんですね。あ、先生は、この先の、蛭ノ塚、でしたっけ? そこで、調査してます。そうそう、聞いてくださいよ! その先生、こんな危険な場所に、こんなカワイイ教え子を一人残して、勝手に調査を始めちゃったんですよ? ヒドイと思いません? まったく、だからあの先生は――」

 

 何も訊いていないのに勝手にペラペラと話し出す女。志村が最も嫌うタイプの人間のようだ。志村でなくても、猟師は皆、お喋りな者を嫌う。志村は、黙って立ち去ろうとした。

 

「あ、待ってください」女が呼び止める。「これ、さっき風に乗って飛んで来たんですけど、ひょっとして、おじいさんが落としたものじゃないですか?」

 

 驚いて振り返る志村。

 

 女が差し出したのは、さきほど櫓の上から捨てた写真だった。

 

 写真に写る晃一と貴文が、志村をじっと見ている。

 

 困惑を隠せない志村。

 

 その表情をどう思ったのか、女は首を傾ける。「あれ? 違いましたか? でも、ここに写っている人、おじいさんにそっくりだと思うんですけど」

 

 志村は、ゆっくりと口を開いた。「――そうだ。それは、わしの写真だ。写っているのは、わしの家族と友人だ。二十七年前に、見捨てたんだ」

 

「――――?」

 

「写真は落としたのではない、捨てたのだ。未練がましくずっと持っていたが、わしが持っていてはいけないものだった。ようやく手放すことができたのに、まさか、戻って来るとは……」

 

「植草杏の砂時計的なヤツですね」

 

「結局、そういう運命なのかもしれんな」

 

「そうかもしれません。杏も結局、最後は大悟と結ばれましたから」

 

 自嘲気味に笑う志村。女が何を言っているのかは判らなかったが、はっきりと悟った。わしは、この村を出ることはできない。晃一と貴文が、どうあっても逃がしてくれないだろう。

 

 ならば、やることはひとつだ。 

 

「――蛭ノ塚にいた、と言ったな」志村は女の顔を見る。

 

「あ、はい。そうです。先生には動くなって言われてるから、すぐに戻らないと、怒られるんですけどね」

 

「ならついて来い。こっちだ」

 

 志村は写真を受け取らず、蛭ノ塚の方へ歩き始めた。

 

「あ、待ってください。戻る前に、探してる物があるんです。良かったら、一緒に来てくれませんか?」

 

 女はそう言うと、志村の返事も聞かず、蛭ノ塚とは反対の方向へ歩き始めた。やれやれ、やっかいな女と関わってしまった。だが、こうなってしまった以上、放っておくわけにもいかないだろう。志村は女を追った。

 

 女が向かったのは小さな広場だった。中央に井戸があり、少し離れたところに廃屋と小さな祠がある。女は、まっすぐに廃屋へと向かって行く。

 

 ――まさか、またここに来ることになるとはな。

 

 胸の奥で呟く志村。すっかり荒れ果てているが、その家は、志村の古い記憶と一致する。従兄弟の貴文の家だった。女が何の目的でこの家を訪れたのかは判らないが、驚きはしなかった。そういう運命なのだと、すでに悟っているから。

 

「――えーっと、ここらでチラッと見かけたような気がするんですけどね」

 

 廃屋の中に入り、何かを探す女。部屋の隅に机とタンスがあるだけの殺風景な部屋だ。女は押し入れを開け、中をあさり始めた。志村も部屋を見回す。机の上に手帳が置かれてあるのを見つけた。貴文のものだろうか? 手に取り、中を見た。

 

 

 

 昭和四十一年六月二日。

 

 誰もあの女の本当の姿に気がつかない。あの女は化け物だ。ずっとこの村を見張っている。年をとることも無く変わらぬ姿で。あの女は必ず災いを呼ぶ。

 

 

 

 日記のようだった。ページをめくる。次の日も、同じような内容が書かれてあった。さらにページをめくるが、書かれてある内容に変わりはない。あの女は化物だ、あの女は年を取らない、誰もそのことに気付かない――狂気を感じる内容だった。実際貴文は、狂人と思われ、強制的に宮田医院へ入院させられた。この事を日記に記すだけでなく村中に言い回ったためだ。重度の精神病と診断された貴文は、家族さえ面会が許されなかった。そして、二十七年前の災害で、病院と共に土砂の中に飲み込まれた。

 

「――ああ、ありました。これを探してたんですよ」

 

 女が押し入れから出てきた。カセットコンロとやかんを持っている。なぜそんなものを探していたのかは判らないし、興味もなかった。志村は手帳を机に戻すと、「行くぞ」と短く言って、廃屋を出た。

 

 広場から出て南へ向かう志村。女は後ろで相変わらずよく判らないことを喋っている。志村は無言を貫き通しているが、女には関係ないようだった。

 

「ところでおじいさん、あたし、昨日ここに来た時から不思議に思ってたんですが――」女は、道端の崖を指さした。「この辺って、洞窟みたいなのが多いですけど、あれ、何なんですか?」

 

 女が指さした崖には、直径二メートルほどの穴が開いていた。金網で閉ざされているため入ることはできないが、かなり奥が深い穴だ。

 

 女の言う通り、ああいった穴は、この大字波羅宿には無数に存在する。崖に掘られた大きなものだけでなく、民家の庭などにも、小さなものが多数あるはずだ。

 

「あれは防空壕だ」志村は、短く答えた。

 

「あ、ナルホド。テレビで見たことあります。戦争中、空襲警報が鳴ると、みんなでそこに逃げ込むんですね」

 

「そうだ。まあ、ここいらで空襲警報が鳴ったことは、一度も無かったがな」

 

「そうなんですか? そのワリには、数が多いような気がします」

 

「戦時中は、北の合石岳に錫の採れる鉱山があった。それで、空襲されるのではないかと警戒したんだろう。街から日本兵もやって来て、何やら大量の武器を持ち込んでおったよ。もっとも、錫を運び出している様子は無かったが」

 

「なぜです?」

 

「さあな。詳しくはわしも知らんが、おそらく、錫が軍事用に適さなかったのだろう。この村の錫は、かなり特殊なものらしいからな」

 

「と、言いますと?」

 

「例えば、村の錫で楽器を作ると、音が安定せず、鳴らすたびに全く違う音が鳴るそうだ」

 

「あ、なんかそれ、ネットで見たことがあります。羽生蛇トライアングル、ですね」

 

「そうだ。一般的な錫と成分が違うので、そういったことが起こるらしい」

 

「ふーん。そうなんですね」女は感心したように頷いた。「ところで、羽生蛇トライアングルって、バミューダトライアングルと、なんか響きが似てますよね? そう言えば、この村も、バミューダトライアングルと同じように、突然行方不明になる人が多いって聞いてますけど、あれって、何か関係が――」

 

 急に話が飛んだので、志村は再び口をつぐんだ。柄にもなくしゃべりすぎた。どうも、昔のことになると口が軽くなる。やはり、わしも歳を取ったということか。志村は苦笑いした。

 

 しばらくすると県道に出たので、左へ曲がる。このまま進めば眞魚川があり、コンクリート製の橋が架けられてあるはずだ。それを渡って北東方面へ進めば、水蛭子神社がある蛭ノ塚だ。

 

「あ、ちょっと待ってください」と、女。「……橋の先に、猟銃を持った屍人さんがいますね」

 

 女にそう言われ、県道の先を見る志村。年齢の割に目は良い方だが、屍人の姿はおろか橋すらまだ見えない。どうやら女は、幻視の能力を使って屍人の存在を察知したようである。志村も目を閉じ、前方の気配を探った。すぐに見つけることができた。女の言う通り、橋の向こう側で、猟銃を手に警戒している。橋から目を離そうとはしない。このまま進んでいたら、撃たれていただろう。

 

「そう言えば、おじいさんも猟師さんなんですよね?」女が志村の銃を見た。「どうです? あの屍人さんと撃ち合って、勝てそうですか?」

 

 難しいだろうな、と志村は答えた。猟師が獲物を撃つ時は待ち伏せが基本だ。こちらから獲物の方へ近づいて行って撃つことなどまず無い。野生の獣は感覚が鋭い。動けばそれだけ気付かれる可能性が高くなるのだ。だから、獲物を見つけてもむやみに近づかず、気付かれない位置に陣取り、獲物の方から近づいてくるのを待つのである。

 

「と、いうことは……」女はあごに手を当てて考える。「屍人さんの方から近づいて来てもらえばいいんですね? 判りました。いいアイデアがあります。ちょっと遠回りになりますが、あっちから行きましょう」

 

 女は志村の返事も待たず、来た道を戻り始めた。どうするつもりだ? 後を追う志村。貴文の家の前を通り、さらに進むと眞魚川のそばに出た。県道の橋からは北に三百メートルほど離れている場所だ。川には、今にも崩れ落ちそうな木造の橋が架かっており、向こう側へ渡ることができる。女は橋を渡ると、川沿いの砂利道を南へ下って行く。やがて県道が見えてきた。かなり大回りして川を越え、県道まで戻って来たことになる。右にはコンクリート製の橋がり、左に曲がれば、さっきの猟銃屍人がいるはずだ。

 

「では、あたしが囮になって屍人さんをおびき出しますので、おじいさんはここで待ち伏せして、撃ち殺してください」

 

 女はそう言うと、志村が何か言う前に県道に飛び出した。そして、道の真ん中で大きく手を振り、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。屍人が銃を構える気配がした。女は県道の向こう側へ走った。銃声が鳴るが、幸い弾は当たらなかった。女は道端に身を隠す。志村は幻視を行い、屍人の様子を窺った。屍人は銃を構えたまま、女が隠れた場所へ近づいていく。うまく誘い出せたようだ。幻視をやめ、銃を構える志村。じっと、屍人が現れるのを待つ。やがて、銃口の先に人が姿を現した。引き金を引く。銃声が鳴り響くとほぼ同時に、屍人は大きくのけ反り、ゆっくりと崩れ落ちた。

 

「やったぁ! うまく行きましたね」女が嬉しそうな顔で戻ってくる。「でも、一発で仕留めるなんて、さすがプロです。先生だったら、三発撃って一発当たればいい方ですよ。ホント、銃弾も限られてるのに、いっつもムダ弾を撃って、ヒヤヒヤします。先生も、おじいさんくらい銃の扱いがうまければいいんですけどねぇ。あ、良かったら、先生に銃の扱い方を教えてあげてください。先生の射撃のウデが良くなれば、あたしの苦労も、少しは軽くなると思うんですよね――」

 

 相変わらず何も訊いていないのにペラペラと喋り続ける女。

 

 志村は、右手を銃から離すと。

 

 ぱん、と、平手で女の頬をはたいた。

 

 何が起こったか判らない表情で、何度も瞬きをする女。

 

 志村は。

 

「――今のような危険な真似は、二度とするな」

 

 低い声でそう言った。

 

 そして、それ以上は何も言わず、蛭ノ塚方面へ向かって歩く。

 

 女はしばらく無言で立っていたが、やがて、志村の後を追って来た。

 

 囮となって獲物をおびき寄せる――これは、志村が最も嫌う猟の方法だった。

 

 野生の獣は人間を恐れている。人間の姿を見て近づいてくることなど、まず無い。基本的には臆病なのだ。だから、囮になっておびき出すことなど、まず不可能だ。

 

 だが、そんな臆病な獣も、時として、人間に襲い掛かってくることがある。

 

 ふいに出会った時、手負いになった時、そして、子供を連れている時。

 

 臆病な獣も、追い詰められれば、人間に牙を剥く。

 

 野生の獣は人間を恐れているが、決して、人間より劣っているわけではない。むしろ、まともに対峙すれば、人間が野生の獣に勝てるはずがないのだ。

 

 だから、人間は銃を持ち、獲物を見つけても不用意に近づかず、待ち伏せし、相手に気付かれる前に仕留めるのだ。

 

 人間は、銃を持つこととではじめて獣と五分に渡り合える。いや、例え銃を持ったとしても、山の中ではまだまだ分が悪いと言っていい。

 

 野生の獣とは、それほどまでに恐ろしい存在なのだ。

 

 囮になるとは、獣の前に自ら飛び込んでいくことだ。野生の獣の恐ろしさを知っている手練れの猟師なら絶対にしないし、誰にもやらせない。囮になると言い出すのは、決まって、獣の恐ろしさを知らない若い猟師だ。相手を見くびっているのである。それは、山では最も危険なことだった。

 

 屍人が相手でも、同じことが言えるはずだ。

 

 女は屍人を見くびっていた。だから、囮になる、などと言い出したのだろう。

 

 屍人は知能が低く、愚かである。それでも、決して見くびってはいけない。

 

 確かに、女が囮になったことで屍人を排除することができた。しかしそれは、たまたまうまく行ったに過ぎない。屍人の撃った弾が女に当たったかもしれないし、道端に隠れた女を屍人が追わなかったことも考えられし、隠れた先に別の脅威があった可能性もある。失敗することも、十分に考えられた。今回うまくったからと言って、次もうまく行くとは限らない。女がこんなことを続ければ、いずれ命を落とすだろう。

 

 女は余所者で、まだ若い。この村で育ち、もう十分に生きた志村とは違う。

 

 そう。村から逃れられない運命の自分とは、違うのだ。

 

 志村は、無言で蛭ノ塚へ向かって歩く。

 

 女も、もう無駄なお喋りをすることはなかった。

 

 

 

 

 


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