SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第十八話 高遠玲子 羽生蛇村小学校折部分校/図書室 初日/二時十八分三十四秒

 日付が変わるころ降り始めた雨は次第に強くなり、羽生蛇村小学校折部(おりべ)分校の木造校舎の屋根を容赦なく叩いていた。その雨音にも怯える四方田(よもだ)春海(はるみ)高遠(たかとお)玲子(れいこ)は、春海の小さな肩を抱きしめた。雷鳴が鳴り響き、春海は小さな悲鳴を上げた。

 

「大丈夫。大丈夫よ、春海ちゃん。ただの雷だから」春海を恐がらせないよう、優しい声で言って、背中をなでる玲子。

 

「先生……あたし……怖い……もうダメ……ダメだよ……」弱音を吐き、泣きだす春海。

 

「何言ってるの。諦めちゃダメよ。大丈夫。ここで待っていれば、すぐに、校長先生が助けに来てくれるから。それまで、ガンバろう。絶対に、諦めちゃダメよ。ね?」

 

 力強い言葉で励ます玲子。だが、その玲子の手も震えている。春海を怖がらせてはいけない。なんとか震えを止めようとしているのだが、意思でどうにかなるものではない。玲子も怖い。これからどうなるのか、玲子にも判らない。助けなど、来ないかもしれない。

 

 それでも。

 

 ――この子は……この子だけは、絶対に護らなければ。

 

 胸に、強い想いだけはあった。

 

 

 

 

 

 

 高遠玲子は羽生蛇村小学校折部分校の三・四年生クラスを担当している教師だ。羽生蛇村は子供の数が少なく、折部分校では二学年を一クラスとしている。それでも一クラスあたりの児童の数は十人にも満たず、年度によっては新入学生が一人もいないということもあった。

 

 四方田春海は玲子のクラスの四年生だ。児童数の少ないこの小学校においても目立たないタイプの子で、理科が得意で体育が苦手ではあるものの成績は極めて平均的。授業を受ける態度はまじめで、忘れ物もほとんど無い。問題点を上げるとすれば内向的な性格で積極性に欠けるというくらいの、教師にとっては非常に理想的な児童であった。

 

 しかし、春海は今、心に深い傷を負っていた。去年の三月、事故により、両親を亡くしてしまったのである。

 

 春海は村内に住む親戚の家に引き取られたが、関係はあまりうまくいってないようである。春海の父の兄にあたるらしいのだが、両親の介護の問題で兄弟仲があまり良くなかったのだ。春海のことは、他に引き取り手が無かったので仕方なく引き取ることになった、という感じであった。虐待やネグレクトほどの大きな問題は無いものの、春海の心のケアや育児にはそれほど積極的ではない。以来、春海は教師やクラスメイトに対してもすっかり心を閉ざし、ふさぎ込んでしまっていた。授業も上の空になり、休み時間や放課後にクラスメイトと遊ぶこともなくなった。現在、玲子が最も気にかけている児童である。

 

 昨日の夜、学校で『星を見る会』という行事が行われ、玲子と春海はそれに参加していた。その日は三百三十三年ぶりに飛来するという彗星が見られる日で、四月の初めより企画されていた行事だった。児童と教師ほぼ全員が参加する予定だったが、直前になって、役場からその日の夜は外出しないようにとの通達がされた。村の有力者である神代家が、何やら祭事を行うというのである。子供たちには関係の無いことであったが、親はそうはいかない。神代家の言うことには逆らわない方がいい。次々と不参加の申し出があり、結局参加希望は春海一人だけになった。事故で両親を亡くした春海には、強く反対する者がいなかったのだ。本来ならば中止すべきだったが、両親を亡くして以来、ずっとふさぎ込んでいた春海が楽しみにしていた行事だった。玲子は校長の名越(なごし)と相談し、春海と玲子、名越の三人で星を見る会を行うことにした。神代家が祭事を行う眞魚岩の広場は小学校から遠く離れているし、その日は学校に泊まることにして、日付が変わる前に屋内に入っておけば何の問題もないであろう。春海の保護者である親戚の許可も得ることができた。

 

 こうして、玲子と春海、校長の三人で、彗星を観測していたのだが。

 

 深夜〇時。村に、サイレンが鳴り響いた。

 

 直後に、大きな地震と激しい頭痛に襲われ、玲子たちは気を失う。一時間後、先に目覚めた春海に起こされた玲子が見たものは、武器を持って襲い掛かってくる村人たちだった。なんとか校長と三人で校舎に逃げ込み、二階の一番奥にある図書室へと隠れたのだ。

 

 

 

 

 

 

「――あたし、前にミヤちゃんから聞いたことがある……あれ……しびとだ……」

 

 春海が独り言のように言った。

 

 屍人……玲子も、昔話で聞いたことがある。言うことを聞かない子供を怖がらせるための作り話だと思っていたが、まさか、本当に存在するというのだろうか? 判らない。

 

「大丈夫だよ。相手が屍人だって、校長先生がみんなやっつけてくれるから」

 

 春海を励ます玲子だが、その可能性は低いと思わざるを得なかった。様子を見て来ると言って、校長が図書室の外に出てから、もう一時間以上経っている。心配する春海には、村に助けを呼びに行った、と説明したが、二人を危険な場所に置いたまま、何も告げず学校を後にするとは思えなかった。もう、校長は帰ってこない。そう考えた方がいいかもしれない。あたしが何とかしなければ。

 

「春海ちゃん。先生、ちょっと、校長先生が戻って来ていないか確認してくるから、ここで待っててね」

 

 玲子は春海を図書室の隅に残し、出入口のそばに移動する。そこで、目を閉じ、意識を外に集中させる。すぐに、自分の視界とは違う映像が浮かび上がった。幻視の能力だ。これも、昔話で聞いたことがあった。目が覚めた時からこの能力が使えるようになっていたのだ。原因は判らないが、今は、有効に使わせてもらおう。

 

 玲子は慎重に校舎内の気配を探る。三人の屍人が侵入しているようだ。二階の階段のそばに一人。ハンマーと釘を持ち、窓に板を打ちつけている。残る二人は一階だ。一人は包丁を持ち、トイレや教室を巡回している。最後の一人は何と拳銃を持っており、廊下に仁王立ちしていた。ダメだ。こんな状況で、無事に外に逃げ出すなんて、できるわけがない。

 

 ううん。諦めちゃダメ。絶対に、諦めちゃダメ!

 

 大きく首を振り、パンパンと頬を叩いて気合を入れる。諦めちゃダメ。今さっき春海に言ったことであり、そして、常々玲子が児童たちに教えて来たことだった。

 

 玲子は静かにドアを開け、直接自分の目で外の様子を窺った。二階には三つの教室がある。一番奥にあるこの図書室の他には、すぐ隣の予備教室、そして、階段のそばの五・六年生の教室だ。釘を打っている屍人は五・六年教室の前にいた。作業に没頭しており、こちらの方は見ようともしない。予備教室までは行けそうだ。この校舎の教室は、図書室や職員室を除き、教室内のドアで隣の教室と繋がっていた。教室間の移動は廊下に出ずとも可能だから、予備教室から五・六年教室へ行くことはできる。しかし、階段を下りるには、どうしても屍人の背後を通らなければならない。作業に没頭しているとはいえ、気付かれるか気付かれないかは微妙なところだ。自分一人なら試しても構わないが、春海がいるから無茶はできない。何か、良い手はないだろうか。周囲を見回す。廊下にあるのは、火災時用の非常ベルくらいだ。子供たちには「ボタンを押すとベルが鳴ると同時に消防署に連絡が行くから、イタズラするとすごく怒られる」と教えてあるが、実際にはそんな機能は付いていない。子供たちがイタズラをしないためのウソである。繋がっているのは一階と隣の体育館にある非常ベルまでで、一つを押すと全てのベルが鳴り始める。だから、校内に非常事態を知らせることはできるものの、校外へ助けを呼ぶことはできない。

 

 ――――。

 

 玲子は、春海の元に戻った。

 

「いい、春海ちゃん。これから先生と一緒に、あいつらに見つからないよう注意しながら、校舎の外に出るから。ガンバれるわよね?」玲子は春海の肩に手を置き、同じ目線にしゃがんで、まっすぐに目を見て言った。

 

「ええ? そんなの、ムリだよ。春海、怖いし、絶対に見つかっちゃう……」

 

「大丈夫! 先生がついてるんだし、怖くないよ。がんばろう、ね?」

 

 弱気な春海を何とか励ます玲子。正直に言えば、玲子も怖い。だが、自分がやらなければ、誰がこの子を護るのだ。やるしかない。

 

 玲子はライトを持ち、春海を連れ、静かに廊下へ出た。予備教室はすぐ隣だ。ドアを開け、素早く中に入る。釘打ち屍人には気付かれなかった。ここまでは問題ない。

 

 玲子は黒板の前で春海を待たせると、再び廊下に出る。そして、非常ベルのボタンを押した。

 

 けたたましいベルの音が鳴り響く。

 

 玲子はすぐに教室に戻った。目を閉じ、幻視を行う。

 

 釘を打っていた屍人がベルの音に気付いた。作業を中断し、ボタンのところまでやって来て、そのままじっと見つめている。

 

 玲子は一階の屍人も幻視する。包丁屍人も拳銃屍人も音に気が付いたが、二階に移動することはなく、連動して鳴り始めた一階の非常ベルを見ている。狙い通りだった。

 

「さあ、春海ちゃん、行くよ」

 

 玲子と春海は黒板横のドアを通り、隣の五・六年生の教室へ移動する。そして、そこから廊下へ出て、素早く階段を下りた。一階の屍人も廊下の非常ベルに注目している。そのまま階段そばの三・四年教室に入り、後ろのロッカーのそばにあるドアを抜け、一・二年教室へ移動し、教室の後ろから廊下に出て、校舎の玄関まで移動した。やった! うまく行った!! これで脱出できる! そう思ったが。

 

「きゃあ!」

 

 春海が悲鳴を上げる。幸い非常ベルの音にかき消されて屍人に聞かれることはなかったが。

 

 目の前に、ふたつの人影が見えた。

 

 バカな! 一階の屍人は廊下にいる。他に気配は無かったのに!

 

 春海をかばって前に立つ玲子。

 

 だが、目の前の人影も玲子と同じ動きをした。一人をかばって前に出る。

 

 よく見ると、その人影は玲子と春海だった。

 

「……大丈夫。これ、鏡だよ」

 

 玲子の言葉に、安堵の息を洩らす春海。それは、玄関のそばの壁に取り付けられた大きな姿見だった。深夜二時に鏡の前に立つと未来の自分の姿が見えるとか、もう一人の自分が現れて鏡の世界に引きずり込まれるとか、子供たちがいろいろとウワサされている姿見だ。この学校には、他にもいろいろと怪談話がある。一階の一番奥のトイレに花子さんが出る、とか、山で神隠しに遭った子供が深夜妖怪になって図書室に本を返しに来る、など、『羽生蛇村小学校七不思議』などと言われ、子供たちからは怖がられているが、今はそんな非現実的な怪談話などかわいく思えてしまう。

 

 非常ベルが止んだ。屍人が止めたようだ。こうしてはいられない。玲子は玄関から外に出ようとしたが。

 

「……そんな」

 

 玄関を見て、玲子は絶句した。ドア中に板が張り付けられてあり、押しても引いてもビクともしなかった。これでは出られない。どうにかしなくては。玲子は慎重に板を探った。一ヶ所だけ、釘の打ち付けが甘いところがあった。しかし、玲子の力では引きはがすことはできなかった。これはムリだ。巡回している屍人がそろそろ戻ってくるかもしれない。ここにいたら見つかってしまう。玲子は春海とともに一旦玄関を離れ、隣の職員室に逃げ込んだ。

 

 職員室には窓があるが、そこにも板が打ち付けられている。そう言えば、ここまで通ったすべての窓にも板が打ち付けてあった。二階にいた屍人がやったのだろうか? 何のためにそんなことをやっているのだろう? まさか、あたしたちを逃がさないようにしているのか? その割には、積極的に探そうとしているような様子はない。いったい、何が目的なのだろう?

 

 ……いや。今は屍人の目的などどうでもいい。問題は、どうやって脱出するかだ。

 

 窓の板を確認する玲子。ここもしっかりと打ちつけられてある。脱出するなら玄関の打ち付けの甘いところしかない。道具があればなんとかなるかもしれない。確か、体育館の倉庫に、作業用の工具がいろいろ置いてあるはずだ。体育館は、玄関の反対側のドアから出て渡り廊下を進めばすぐそこだ。鍵は職員室にある。行ってみよう。だが、春海はどうすべきか? 廊下には拳銃を持った屍人と、巡回している屍人がいる。春海をこれ以上危険な目に遭わせたくはない。幸い、屍人は職員室の中までは確認してはいないようだった。ここにいた方が安全だろう。

 

「春海ちゃん。先生、体育館に行って、道具を取って来るから、ここに隠れてて。いいわね」

 

 また、しっかりと目を見て言う。一人になることに不安そうだったが、小さく頷いて返事をする春海。

 

 玲子は、体育館の鍵を取った。

 

 廊下に出ようとして、ふと、自分の机に目をやる。

 

 そこには、春海が図画工作の授業で描いた絵が置いてあった。

 

 異様とも言える絵だった。大部分が黒く塗りつぶされており、右端に、黒髪に黒い服の少女と、白い犬のような生き物が描かれている。他の色は使われていない。小学四年生の女の子ならば、もっといろんな色を使って、カラフルな絵を描くだろう。この絵は、両親を亡くした四方田さんの心の闇を表している、すぐにカウンセリングを受けさせた方がいい――他の教師はそう提案した。玲子も、絵を見ただけならば、同じように思ったかもしれない。しかし、その絵を描いていたときの春海は、とても嬉しそうに笑っていたのを、玲子は見ていた。両親が亡くなって以降、少なくとも学校では見せたことのない笑顔だった。大人の常識で子供の感性を推し量ってはいけない、そんな気がした。玲子はその絵に、クラスで一番大きな花丸を付けていた。

 

 ――春海ちゃん。先生が、絶対に助けてあげるからね。

 

 もう一度胸に誓う。そして、幻視で外の様子を窺った。拳銃屍人はこちら側に背を向けており、包丁屍人は階段付近にいるようだ。玲子は廊下に出た。すぐ正面のドアの鍵を開ける。渡り廊下を進み、体育館のドアの前に来た。そこで、幻視を行う。体育館の中にも二人の屍人がいた。入口からは離れた場所にいて、気付かれずに倉庫まで行けそうだった。鍵を開け、中に入る。体育倉庫は左手側だ。屍人は右手側にいる。

 

 しまった、と、思った。体育館には裏口があるのだ。この出入口の、ちょうど反対側。ここから確認する限り、板で封鎖されていないようだ。失敗した。春海を連れてくれば、そこから脱出できたのに。後悔しても遅い。最初の予定通り、工具を持って戻るしかない。玲子は屍人に気付かれないよう倉庫へ移動した。ボールや跳び箱などが整理されて置かれている。その奥の棚に、目的のものはあった。長さ七十センチの大型のバールだ。これなら、玲子にも板をはがすことが可能だろう。

 

 そして。

 

 いざという時は、これで戦うこともできる。

 

 非常に重量があるものだ。殴れば、ひとたまりもないだろう。

 

 もちろん、屍人相手とは言え、そんなことはしたくない。しかし、いざとなったらやるしかない。春海を護るために。

 

 玲子は、バールを持って倉庫の外に出た。

 

 その時である。

 

 

 

《先生!! 助けて! 先生!!》

 

 

 

 春海の声がした。校内放送だ! 助けを求めている。職員室は安全だと思ったが、甘かったのか。玲子は、屍人に見つかるのもいとわず、体育館の出入口へ走った。

 

 その前に、誰かが立ちはだかっていた。

 

 思わずバールを構えるが、顔を見て安堵の息を洩らした。頭の薄くなった小太りの中年男性。なじみ深い笑顔。校長の名越だった

 

「ああ! 校長先生、無事だったんですね!」喜んで駆け寄る玲子。「助けてください。今、校内放送で、春海ちゃんが――」

 

 言葉を失う玲子。

 

 校長は、目から血の涙を流しており、顔は、どす黒い土のような色をしている。校内をうろついている屍人と同じだ。その右手には、金属バットが握られてある。

 

 校長は、バットを振り上げた。

 

 反射的に校長を突き飛ばす玲子。校長は尻餅をついて倒れた。その隙に、渡り廊下に出た。立ち上がり、向かってくる校長の前で、ドアを閉ざして鍵をかけた。ああ、何ということだ。やはり、校長先生も屍人になっていた。だが、嘆いているヒマはなかった。一刻も早く春海の元へ向かわなければ。屍人となった校長はドンドンとドアを叩いている。向こうから鍵を開けることは可能なのだが、屍人がそれに気付くのには時間がかかるだろう。玲子は渡り廊下を駆け抜け、職員室へ戻った。

 

「春海ちゃん!! 春海ちゃんどこ!?」

 

 職員室内を見回す。春海の姿はない。どこかへ逃げたのだろうか? でも、どこへ? 玲子は幻視を使い、春海の気配を探した。すぐに見つかった。一階の階段の手前、女子トイレだ。奥の個室で小さく震えている。玲子は廊下に飛び出し、女子トイレへ向かおうとした。が、屍人のことを思い出し、立ち止まった。急ぐあまり屍人に見つかり、あたしが殺されてしまっては元も子もない。慎重に行かなければ。心を落ち着かせる。二体の屍人はさっきと同じく廊下にいた。玲子は、来た時と逆に、まず一・二年教室へ入り、そこから三・四年教室へ移動して、廊下へ出て女子トイレへ入った。奥の個室は鍵がかけられてあったが、外から呼びかけると、ドアが開き、春海が泣きながら胸に飛び込んできた。

 

「先生……ごめんなさい……しびとが職員室にはいってきて……あたし……怖くて……ごめんなさい……」

 

 泣きじゃくる春海を、玲子は優しく慰める。「いいの……いいのよ。先生の方こそ、春海ちゃんを一人にしてごめんなさい。でも、よく逃げたわね。ガンバったガンバった」

 

 春海が落ち着くのを待ち、玲子は再び移動を始めた。拳銃屍人と包丁屍人の動きは変わらない。トイレを出て、すぐ側の三・四年教室に入った。このまま隣の教室へ行き、そこから廊下に出て、職員室へ行けるはずだった。

 

 だが、隣の教室には。

 

「はるみちゃああぁぁん、どこにいるのかなあぁぁ?」

 

 屍人と化した校長が、春海の姿を探し、徘徊していた。体育館から出てきたのだ。

 

 校長の異常に、春海も気付いたようだった。怯え、震えている。

 

「んんん? はるみちゃんのにおいがするよおぉぉ? ちかくにいるのかなあぁぁ?」

 

 校長は隣の教室を徘徊し続ける。こちら側に来るのも時間の問題だった。

 

 ……もう、他に手は無い。

 

 そう思った。

 

 玲子は春海の目線にしゃがみ、また、まっすぐに目を見た。「春海ちゃん。先生、ちょっと、校長先生とお話ししてくるから、そこに隠れて、待ててくれる?」

 

 教室の後ろにある掃除用具入れを指さす。あそこに隠れていれば、すぐには見つからないだろう。

 

「え……でも……」恐怖を隠せない春海。

 

「大丈夫。お話しするだけだし、すぐに戻って来る。だから、あそこに入って、目を閉じて、耳を塞いでて。絶対に、外に出たり、何かを見たり聞いたりしちゃダメよ? 判った?」

 

 いやがる春海を何とか説得し、掃除用具入れに隠れさせた。

 

 そして、玲子は胸に手を当て、大きく、息を付いた。

 

 ――よし。

 

 ドアを開け、隣の教室へ移動する。

 

 校長が、見慣れた笑顔をコチラに向けた。

 

 優しかった名越校長。子供たちだけでなく、教師へも思いやりがあった。児童たちのことで、何度も相談に乗ってもらった。今回の春海のことも。感謝しても、しきれない。

 

 だが――。

 

 校長が、バットを振り上げて向かって来る。

 

 ――たとえ校長先生でも、春海ちゃんに手出しはさせない!!

 

 玲子は、握りしめたバールを振り上げ。

 

 校長がバットを振り下ろすよりも早く、相手の頭に、バールを叩きつけた。

 

 硬い手応え。

 

 校長が、頭をおさえて後ずさりする。

 

 弱い! すぐにそう思った。あれでは倒せない。

 

 その通りだった。校長はまたすぐにバットを振り上げる。

 

 ――ためらうな! 春海ちゃんを護るんだ!!

 

 玲子はもう一度、バールを振り下ろした。

 

 今度は、全ての力を込めた。

 

 がつん!!

 

 さっきと違い、手応えは鈍かった。まるで、柔らかい体育のマットを殴ったかのように。

 

 だが、バールは、校長の頭にめり込んでいた。

 

 片膝をつく校長。

 

 普通ならば、もう立てないだろう。しかし、相手は屍人だ。また襲ってくるかもしれない。春海ちゃんを襲うかもしれない。

 

 玲子は、もう一度、バールを叩きつけた。

 

 校長がうつ伏せにたれる。

 

 そこに、さらにバールを振るう玲子。容赦はしない。ほんのわずかでも気を抜けば、それが春海への脅威となるかもしれないのだ。

 

 春海ちゃんを護る。

 

 春海ちゃんを護る

 

 春海ちゃんを護る護る護る!

 

 想いの数だけ、バールを振るい続ける。血が飛び散り、頭が潰れ、脳が飛び散り、肉塊と化しても、それでも玲子は、バールを振るい続けた。

 

 ――あさん?

 

 誰かに呼ばれたような気がして、玲子は手を止めた。

 

 足元には、頭が潰された無惨な校長が横たわっている。

 

 相手は屍人だ。頭を潰したからといって完全に殺したとは思えない。またよみがえるかもしれないが、これなら、しばらくは大丈夫だろう。

 

 教室には、他に誰も姿も無かった。誰かに呼ばれた気がしたが、気のせいだったのだろう。春海はまだ、用具入れに隠れているはずだ。

 

 玲子は隣の教室へ戻り、用具入れを開けた。

 

「……ごめんね、春海ちゃん。もう、大丈夫だから」

 

 怯えた表情の春海に、いつものように優しい笑顔で話しかける。

 

「玲子先生……校長先生は……?」

 

「大丈夫よ? ちゃあんと、お話ししたから。さあ、行こう?」

 

 春海を連れ出す。隣の教室へ移動しようとしたが、校長が倒れたままだ。無残な姿を、春海に見せるわけにはいかない。

 

「春海ちゃん。ちょっとの間だけ、目をつむっててくれるかな? 大丈夫。先生が、ちゃんと手を握ってるから」

 

 小さく震えながらも頷き、目を閉じる春海。玲子は手を取り、ドアを開けた。校長は倒れたままだ。なるべく近づかないように、大きく回り込んで、廊下側のドアへ向かう。玄関はすぐそこだ。張り付けられた板をバールではがせば、外に出られるだろう。ドアを開けた。

 

 ビクン、と、身体が震えた。

 

 すぐそばに拳銃を持った屍人がいて、こちらを見ていた。しまった。油断した! 背を向けていると思ったのに。

 

 銃口を玲子に向ける。

 

 だが、玲子には、それが春海に向けられたように見えた。

 

 ――春海ちゃんはあたしが護る!!

 

 相手が拳銃を持っていようと、もう、恐れはしなかった。玲子の胸にあるのは、ただ、春海を護るという強い想いだけ。

 

 玲子は、繋いでいた春海の手を離すと、バールを振り上げ、拳銃屍人に向かって行った。

 

 運動会の時によく聞いた火薬が鳴る音がして、同時に、左肩に鋭い痛みが走ったが、関係ない。

 

 春海ちゃんを護る!!

 

 バールを振り下ろす。

 

 もうすでに何度も振るっていたため、腕は限界を超えているのかもしれない。それでも関係なかった。春海を護るという想いが、玲子を突き動かす。

 

 何度バールを打ちつけたかは覚えていない。拳銃を持った屍人は、足元に倒れていた。

 

 また、身体が震えた。廊下の奥から、包丁を持った屍人が向かって来る。

 

 だが、今の玲子にとって、もはや脅威でもなんでもなかった。三度、バールを叩きつけただけで、包丁屍人は倒れた。

 

 玲子は大きく息を吐き出した。廊下に動く影は無い。二階の屍人はまだ釘を打っているようだった。下りて来ることはないだろう。教室へ戻る。春海は一人、震えていた。玲子の言いつけを守り、ちゃんと目を閉じている。ゴメンね、と、一言謝って、手を引いた。教室を出て、玄関へ向かう。

 

「春海ちゃん。もう、目を開けて大丈夫だよ」

 

 玄関まで来た玲子は、春海の肩に手を置いて言った。恐る恐る目を開ける春海。屍人は廊下と教室だ。玄関からは見えない。

 

「もうちょっと待っててね。先生が、いま、出られるようにするから」

 

 玲子は釘の打ち付け撃ちつけが甘いところにバールをさしこんだ。てこの要領で引くと、簡単に引きはがすことができた。そのまま周りの板も外していく。最後にバールで玄関のガラスを割った。五十センチ四方の穴が開く。やった。これで脱出することができる。

 

 玲子は、春海に手を差し伸べた。「さあ、春海ちゃん。ここから逃げよう?」

 

 だが――。

 

 春海は大きく首を振る。

 

「どうしたの? 早く逃げないと、また、屍人のおじさんたちが来るかもしれないから、ね?」

 

 玲子は、いつものように優しく微笑んだ。

 

 春海は、首を振り続ける。

 

「先生……あたし……怖い……」

 

 また、怯えた声。

 

「大丈夫だって。先生がついてるんだし。怖いことなんて、何も無いから」励ますように言うが。

 

 春海は、大きく首を振る。「そうじゃなくて……」

 

「何?」

 

 玲子は、少し苛立った声で言った。早く脱出しないと、いつ屍人がよみがえるか判らない。なのに春海は、いったい何を怖がっているのだろう?

 

 春海は、泣きだしそうな声で言った。

 

「あたし……玲子先生が……怖い」

 

「――――」

 

 言葉を失う玲子。

 

 ――あたしが、怖い?

 

 初めて言われたことだった。この学校に赴任してから、児童たちの間では、優しい玲子先生で通っているはずだった。もちろん、悪いことをした子はきちんと叱るが、それでも、児童たちに恐れられる教師では、決して、ない。

 

 雷鳴が轟いた。玲子が空けた穴から、一瞬、光が差しこむ。

 

 玲子のそばに、血の涙を流す人影が立っていた。

 

 屍人だ! 反射的にバールを振り上げる。

 

 だがそれは、屍人の返り血を浴びた自分が、壁の姿見に映っていただけだった。

 

 

 

 

 

 


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