SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第十三話 牧野慶 蛭ノ塚/県道333号線 初日/十一時五十九分三十三秒

 羽生蛇村の南東に位置する地域、蛭ノ塚(ひるのつか)蛭子命(ひるこのみこと)を奉った水蛭子(みずひるこ)神社があり、その歴史は眞魚教よりも古く、かつては村人の信仰のよりどころとして栄えていた。しかし、村に眞魚教が広まると、次第に人は寄り付かなくなり、寂れていく。そして、二十七年前の土砂災害により、その大部分が消滅した。近年の区画整理でも積極的な再開発はされず、神社こそ再建されたものの、それ以外は県道333号線が通るだけの寂しい地域である。

 

 その蛭ノ塚の県道を、眞魚教の求導士・牧野慶は、前田知子を連れ、屍人から逃れるために走っていた。幸い襲って来た屍人は銃を持っておらず、足も遅い。振り返ると、屍人の姿は無かった。ここまで来ればもう大丈夫だろう。

 

「――振り切ったみたいだ。もう安心だよ、知子ちゃん」

 

 牧野は足を止め、知子に向かって優しく言った。知子は乱れた息を整える。だが、屍人に襲われた恐怖がよみがえってきたのか、あるいは両親と離れ離れになって不安なのか、涙を流し、嗚咽を洩らし始めた。

 

 前田知子は羽生蛇村立中学校の二年生だ。役場に勤める前田隆信と真由美の一人娘で、週に一度は一家そろって必ず礼拝のため教会に訪れる。まだ少女だが、熱心な信者の一人である。

 

 六時間ほど前、大字粗戸の商店街を何とか脱出した牧野は、刈割(かるわり)の教会へ戻ろうとしていた。教会ならば安全だろうし、もしかしたら求導女の八尾比沙子も戻って来ているかもしれない。しかし、刈割への道中には多くの屍人がいた。農作業や大工仕事をしている屍人がほとんどだったが、拳銃や猟銃を持って見張りをしている屍人も多く、それらを避けているうちに、刈割とは正反対の蛭ノ塚付近まで来てしまったのだ。前田知子と出会ったのは一時間ほど前だ。道端で一人、めそめそ泣いていたのを保護したのである。

 

 県道を南へ向かって歩く牧野。その後ろを、やや遅れて知子がついて来る。中学校指定の赤色のジャージの袖で涙を拭きながら歩く知子。涙は止まりそうにない。

 

 ――泣きたいのはこっちだ。

 

 牧野は知子に悟られぬよう、小さくため息をついた。

 

 前田知子を保護した牧野だったが、本音を言えば、保護などしたくなかった。立場上、保護せざるを得なかったのである。生きている人間を見かけると問答無用で襲いかかってくる連中が村中を徘徊しているのだ。十四歳の少女が一人で泣いていれば、保護するのが大人の務めだろう。しかし、今の牧野には、そんなことに気を使う余裕は無かった。一刻も早く八尾比沙子を探さなければならない。いま村で何が起こっているのか? これは儀式に失敗したからなのか? これからどうすればいいのか? 比沙子に訊かなければいけないことは山ほどある。子供のお守りをしている場合ではない。牧野にとって、前田知子は邪魔者でしかなかった。自分の代わりに屍人と戦ってくれるならまだ連れていく価値もあるというものだが、十四歳の少女ではそれも望めないだろう。だからと言って放っておくわけにもいかない。知子も立派な眞魚教の信者であり、牧野は眞魚教の最高責任者だ。信者を見捨てた、などとあらぬ噂が立てば、求導士としての牧野の面目は潰れてしまう。そんなことになれば、比沙子に厳しく咎められるだろう。知子をどこか安全な場所まで連れて行くしかない。

 

 ――まったく。とんだお荷物を抱え込んでしまったものだ。

 

 牧野はもう一度ため息をついた。

 

 県道を歩く牧野と知子。この先には眞魚川を越える橋があり、村の南部の集落へと続いている。かなり遠回りにはなるが、そこから教会へ向かうことができる。

 

 だが、眞魚川に掛かる橋を前にして、牧野と知子は言葉を失った。

 

 橋は途中から崩れ落ちていた。それだけならば深夜の地震の影響とも考えられるが、問題は、橋の向こうに存在するはずの村が、消滅していることである。それも、地震の影響で土砂に飲み込まれたというのではない。橋の先に広がっているのは、広大な赤い海だった。まるで、村が津波に飲み込まれてしまったかのようである。羽生蛇村は山奥の村だ。津波が到達するなどありえない。ならば、この赤い海は何だ? 牧野は自分の持っている知識の中から答えを探る。眞魚教の聖典・天地救之伝(てんちすくいのつたえ)によれば、村の赤い水は、神王の流した血であるとされている。ならば、この海すべてが、神の血だというのだろうか?

 

「……求導師様……あれ……」

 

 知子が橋の下を指さした。

 

 赤い波が打ち寄せる岸辺に、数人の村人が立っていた。看護師の服を着た若い女、警官姿の男、頭の禿げ上がった小太りの中年男性。あれは、宮田(みやた)医院の恩田(おんだ)美奈(みな)看護師、駐在員の石田徹雄(てつお)巡査、羽生蛇村小学校の名越(なごし)栄治(えいじ)校長ではないだろうか? 残念ながら、彼らの肌の色は血の気の無い黒ずんだ色で、目からは血の涙を流している。すでに屍人と化しているようだ。

 

 その時。

 

 村に、サイレンが鳴り響く。

 

 深夜と同じ、いや、それ以上に大きな音。まるで、誰かの叫び声のようだ。聞いているだけで、頭が割れそうな痛みに襲われる。

 

「……求導師様……あたし、この音怖い……」

 

 両手で耳を塞ぐ知子。あまり効果は無いだろう。サイレンは、塞いだ手を通り抜け、容赦なく襲い掛かってくる。

 

 この音は一体なんなのだ? 牧野はこのサイレンを、深夜と、今から六時間ほど前の明け方にも聞いている。これで三回目だ。今、鳴り響いているサイレンの音は、これまでのものよりもはるかに大きい。まるで、海の向こうから聞こえて来るようである。

 

 と、橋の下の屍人が。

 

 サイレンに誘われるかのように、海へ向かって歩き始める。

 

 赤い水が、膝の上を越え、腰までつかり、胸の上まで来ても、屍人は進み続ける。

 

 やがて、屍人たちは完全に赤い海に飲み込まれてしまった。

 

「まるで、海送りみたい……」

 

 屍人の沈んだ海を見つめ、知子がつぶやいた。

 

 海送りとは、羽生蛇村に古来より伝わる民俗行事のひとつだ。旧暦の大みそか、黒装束に身を包んだ村人が、一年の罪や穢れを祓い清めるため、眞魚川に身を沈めるのである。由来は諸説あるが、常世へ向かうための儀式のひとつとされている。常世とは、海の向こうにある不老不死の理想郷である。もっとも、羽生蛇村には海が無いため、眞魚川を海と見立てている。村人は常世へと向かうため、眞魚川へ身を沈め、現世の穢れを洗い流す、というわけだ。

 

 屍人はなぜ、海送りのような儀式を行っているのだろう?

 

 これまで牧野が見てきた屍人は、皆、生前と同じような暮らしをしていた。詳しいことは牧野にも判らないが、屍人にも生前の記憶が残っており、それに従っているのだろう。だから、村の重要な行事のひとつである海送りを行っても別に不思議ではないかもしれない。しかし、今は真夏だ。海送りをする時期ではない。また、海送りは希望する村人数人が行う儀式であり、村人全員が参加するわけではない。駐在員の石田や校長の名越は参加したことはあるが、看護師の美奈は参加したことはないはずだ。生前の記憶に従って行っているものではないように思えた。

 

 海送りの儀式で眞魚川に身を沈めた村人は、年が明けると同時に岸へ上がる。これを、海還りという。海還りを終えた村人は、現世の穢れを洗い流し、常世の恩恵を受けた者として、村人たちに温かく迎えられる。

 

 では、赤い海に身を沈め、現世の穢れを祓い、常世の恩恵を受けた屍人は、何になって帰って来るのだろう?

 

 想像もつかない。ただ、恐ろしいことが起こる予感だけがした。この場にいてはいけない。一刻も早く、安全な場所へ避難しなければ。どうする? 考える牧野。教会へと向かう橋は赤い海へと消えている。この先へは進めない。安全と思える場所でここから最も近いのは、北の比良境(ひらさかい)にある宮田医院だろうか? 羽生蛇村唯一の病院で、緊急時の避難場所に指定されている。避難している村人がいるかもしれないし、もしかしたら八尾比沙子の姿もあるかもしれない。徒歩では少し遠く、着くのは夕方になるかもしれないが、行くしかない。幸いこの辺りは人が住んでいない地域だ。屍人はいないだろう。牧野は知子に宮田医院へ行くことを説明し、その場を離れた。

 

 だが、五分ほど歩いたところで、牧野と知子は再び立ち尽くしてしまう。

 

 蛭ノ塚は近年の区画整理でも積極的な再開発はされず、小さな神社と県道が通るだけの寂しい地域だったはずだ。しかし、いま目の前には、いくつかの家屋が建つ小さな集落が広がっている。家屋はどれも古く、寂れてはいるものの、人が生活しているような気配も感じられる。

 

「……求導師様……ここ、どこなんですか……? あたしたち、これからどうなっちゃうの……?」震える声の知子。

 

 ――黙れ! 私だってなんでも知ってるわけじゃない!

 

 喉まで出かかった言葉を飲み込む牧野。求導士たる者、いかなる場合も信者を導く存在でなければならない。常々八尾比沙子から教えられてきたことだった。

 

 牧野は、知子を励ますように言った。「僕にも何が起こっているのか判らないけど、大丈夫。僕たちには、神のご加護がある。必ず、知子ちゃんをお父さんお母さんに会わせてあげるから」

 

 我ながら説得力の無い言葉だと思う。神のご加護があれば大丈夫など、あり得ないことはすでに身をもって経験済みだ。知子も牧野の言葉には疑問を持っているような表情だが、求導士である自分がこう言えば、信者は信じるしかないだろう。

 

 目の前の集落を見る牧野。恐らくここも、大字粗戸と同じく、二十七年前に消滅した比良境なのだろう。ならば、生活しているのは人ではなく屍人だ。蛭ノ塚は、今は人が住んでいない地域だから安全に進めると思ったが、甘かったようだ。だが、進むしかない。

 

「行こう、知子ちゃん。大丈夫。僕が付いてるから」

 

 心にもないことを言い、再び歩きはじめる。

 

 道は、右手側に広大な赤い海が広がっており、左手側には切り立った崖がつづいている。しばらく進むと、崖の間を縫うように石造りの細い階段があり、その手前には大きな鳥居が建てられてあった。鳥居があるということは、階段を登れば水蛭子神社があるのだろう。県道は東に向かっているので、階段は北へ向かうことになる。比良境へはこの階段を使った方が近いのかもしれない。もし、比良境への道が無かったとしても、高台から見下ろせば集落の地形を把握できるだろう。牧野は階段を登ってみることにした。

 

 しかし、数段登ったところで、身体が大きく震え、一瞬、猟銃を構える屍人の視点が見えた。まずい、撃たれる!

 

「知子ちゃん! 戻って!!」

 

 一人で逃げ出したい気持ちを何とか抑え、知子を連れて階段を駆け下りる。背後で銃声が鳴り響いたが、なんとか身を隠すことができた。素早く幻視を行い、狙撃手を探す牧野。いた。階段の途中。下段に向けて銃を構えている。幸い、その場を離れて追って来る様子は無かった。しばらく銃を構えて警戒していたが、やがて銃を下ろした。ひとまずは安心だが、屍人はそこから動こうとはしなかった。どうやら階段を見張っているようである。この階段は進めない。このまま県道を進むしかないが、そのためには階段の前を通らなければならず、屍人の前に姿をさらすことになる。それはあまりにも危険だろう。別の道は無いのか? 考えても無駄だった。ここは恐らく土砂災害が発生した二十七年前の蛭ノ塚だ。その当時、牧野はまだ生まれたばかりで、村の地形は全く判らない。どの道を進めば宮田医院へ行けるのか見当もつかなかった。でたらめに進んでも、今のように屍人に襲われるだけだ。くそ! 苛立つ牧野。どうして私がこんな危険な場所にいなければいけないのだ。私は、眞魚教の求導師だぞ。

 

「あの、求導師様?」知子が声をかける。

 

「なんだ!?」

 

 溜まっていた苛立ちが爆発し、牧野は、思わず声を荒らげてしまう。

 

 突然豹変した求導師に怯えたような表情の知子。

 

 牧野は我に返った。慌てて笑顔を作る。「ああ、ゴメンゴメン。何?」

 

「えっと……変なことを言うかもしれないんですけど、あたし、ここは、二十七年前の蛭ノ塚じゃないかと思うんです」

 

「……どうして、そう思うんだい?」

 

「おばあちゃんがまだ生きていたころ、毎日、水蛭子神社のお参りに行ってて、あたしもよく付いて行ってたんです」

 

 知子の祖母が亡くなったのは二年前だ。祖母もまた熱心な眞魚教の信者だったが、知子の言う通り、水蛭子神社への参拝も行っていたようである。日本では神社などの神道と教会やお寺などの宗教は別物という考えが強い。ゆえに、仏教やキリスト教を信仰しながらも神社を参拝する人は多く、この羽生蛇村でも、知子の祖母のように、眞魚教信者でありながら水蛭子神社を参拝する者も少なからずいる。数年前の区画整理で水蛭子神社が再建されたのも、そういった村人の要望に応えたものだった。

 

「でも、知子ちゃんが参拝したのは再建された新しい神社で、二十七年前のものじゃないよね?」牧野は言った。

 

「はい。でも、おばあちゃんはあたしが生まれる前から蛭子様に通ってて、よく、蛭子様のお話をしてくれてたんです。土砂災害が起こる前の神社や村の写真とかもたくさん見せてくれました。ここ、その写真で見た村に、すごく似てるんです」

 

「……それで?」続きを促す牧野。ここが二十七年前の蛭ノ塚だというのは判っている。牧野にしてみれば、今さらそんなことを指摘されてもなんの役にも立たない。

 

「もし、本当にここが二十七年前の蛭ノ塚なら、この道をまっすぐ進むと神主様の家があって、その近くにも神社へ行ける裏道があるんです。宮田医院のある比良境へは、そこからも行けると思います」

 

 知子の話を聞いた牧野は腕を組み、ふうむ、と唸った。本当ならば有益な情報だが、所詮は子供の言うことだ。どこまで信用していいのかは判らない。

 

 それに。

 

「ありがとう、知子ちゃん。すごくためになる情報だよ。でも、もし、その話が本当だったとしても、いま重要なのは、この階段の先にいる、銃を持っている屍人をどうするかってことなんだ。神主様の家に行くには、どうしても、あいつの前を通らなければいけない。僕はともかく、知子ちゃんを危険な目に遭わすわけにはいかないからね」

 

 本音を言えば、知子に囮になってもらい、その隙に通り抜けるくらいのことはしてもいいと思う。眞魚教の信者ならば、命を賭して求導師を護るのが義務と言っても過言ではない。それに、今は赤い水の影響からか、治癒能力が飛躍的に向上している。銃で撃たれた程度の傷なら、簡単に治ってしまうのだ。子供とはいえ、囮になって求導師を護ることくらいはできるだろう。名案だが、さすがにそれを自分の口から言うのはまずい。

 

「そう……ですね」あごに手を当て、考える知子。「でも、宮田医院へ行くには、ここを通るしかないと思うんです」

 

 心の中で舌打ちをする牧野。これだから子供は嫌なんだ。大した根拠もないくせに自分の意見が絶対だと思い込み、否定しても決して受け入れようとしない。ここは、大人としてしっかりと教育する必要がありそうだ。

 

「でも、どうやって屍人の前を通るんだい?」訊いてみた。どうせ良い案など考えていないから、黙るしかないだろう。自分がいかに無責任な発言したか、身をもって知るはずだ。

 

 知子は少し考え、言った。「屍人ってすごくのろまだから、全力で駆け抜ければ大丈夫だと思うんです。動いているものを撃つのって、本物の猟師でも難しいはずだし」

 

 再度、心の中で舌打ちをする牧野。間違いを認めて反省するかと思いきや、さらにとんでもないことを言い出した。銃を持っている屍人の前を駆け抜ける? 本気で言っているのか。やはり子供だ。それがどんなに危険なことかが判っていない。

 

「ダメだよ。知子ちゃんを、そんな危険な目に遭わせるわけにはいかない」苛立ちをおさえつつ、牧野は務めて優しい口調で言うが。

 

「じゃあ、求導師様はどうすればいいと思いますか?」逆に問うてくる知子。

 

「それは……」

 

 言葉を告げない牧野。この道を進まないならば戻るしかないが、戻ったところで他に道はない。良い案は、牧野には無いのだ。だから。

 

「それを、いま考えてるんだ」

 

 そう言うしかなかった。

 

 知子は自信を込めた口調で言う。「大丈夫です、求導師様。あいつらの撃つ弾なんて、絶対に当たりませんから」

 

 そう言って知子は、鳥居の前に飛びだした。

 

 銃声が鳴り響き、地面がはじけ飛ぶ。

 

 しかし、知子はその前に鳥居の前を走り抜けていた。知子の言う通り、弾が当たることはなかった。

 

「求導師様も早く!」向こう側から手を振る知子。

 

 危険だが、もたもたしていると屍人が下りて来ることも考えられる。意を決し、牧野は走った。銃声がしたが、知子の時と同じように、銃弾は牧野の背後の地面を弾き飛ばした。

 

「ほら。あたしの言ったとおりでしょ?」

 

 嬉しそうな表情の知子。牧野には、それが自分をバカにしているように思えた。

 

「なんて無茶をするんだ! たまたまうまく行ったから良かったけど、ヘタをしたら、撃たれてたかもしれないんだよ!?」

 

「あ……その……すみません」

 

 知子は肩を落とし、小さく縮こまった。

 

 その姿を見て、牧野は満足する。「ああ、いや。いいんだ。怒鳴ったりして、ゴメンね。でも、二度と、こんな危険なマネをしちゃいけないよ?」

 

「はい……」

 

 やれやれ。本当に子供は面倒だな。胸の内でため息をつく牧野。しかし、怒鳴ったりしたのはまずかっただろうか? 自分は温厚な求導師で通っている。そのイメージを損なったのではないだろうか? いや。子供が危険なことをしていれば叱る。これは、大人の義務だ。むしろ、求導師としては正しい行いだろう。そう納得することにした。

 

 知子の無茶のおかげで危険に晒されはしたが、なんとか鳥居の前を通り抜けることができた。だが、それで安心はできない。この先には神主の家があり、その近くにも神社へ向かう道がある、と、知子は言っていたが、はたしてどこまで信用してよいものか。所詮は子供の言うことだ。あまり期待はしない方がいい。牧野は、知子を連れ、先を進んだ。

 

 途中、道端に古いパトカーが放置されているのを見つけた。中に何か使えるようなものはないだろうか? 拳銃はさすがに期待できないだろうが、警棒くらいはあるかもしれない。牧野は中を探りたかったが、知子がいる手前、諦めるしかなかった。眞魚教の求導師として、このような非常事態であっても、子供の前で車上荒らしなどするわけにはいかない。そのまま通り過ぎるしかなかった。

 

 道を進んだ先には、民家と、その近くに山の上に向かう細い階段があった。知子の言う通りであった。民家の周りには草刈りをしている屍人と見張りをしている屍人がいたが、なんとか見つからずに通り抜けることができた。

 

「この階段を上がるとまず(ほこら)があって、その先に神社があります」

 

 得意げな表情で言い、先を進む知子。牧野はなんとなくその態度が気に入らなかったが、後を追って階段を上がる。彼女の言う通り、階段は祠のある広場へと続いていた。その先に神社の社もある。

 

 しかし、社では、屍人がハンマーで釘を打ちつけていた。ここでも、大工作業をしているようである。祠の陰に身をひそめ、様子を窺う。屍人はときどき振り返り、周囲の警戒も怠らない。社の前には鳥居があり、その先は下りの階段だ。さきほど牧野たちを狙撃した猟銃屍人がいるものと思われる。

 

「まずいね。あの、釘を打ってる屍人に見つかると、さっきの銃を撃ってきた屍人を呼ばれる可能性もあるよ。知子ちゃん。どうする?」

 

 牧野は知子に訊いた。少々意地悪を言っているように思われるかもしれないが、これも、知子のためだ。この道を進もうと言ったのは知子だ。言ったことには最後まで責任を持つ義務があることを教えなければならない。まあ、所詮は子供だ。どうせ良い案は無く、私に泣きつくことだろう。

 

 知子は周囲を見回した。「……確か、神社の裏に回れば、小さな泉と川があって、そっちにも進めるはずです」

 

「はずです、って、そんな曖昧な記憶で進むのは危険だよ。それに、あの屍人はすごく周囲を警戒してる」

 

「大丈夫です。たしかに、警戒していますが、釘を打ってるときは、作業に没頭しています。静かに進めば、きっと気付かれません。見ててください」

 

 知子はまた、牧野が止めるのも聞かず、祠の陰から出た。屍人の様子を窺い、釘打ち作業に没頭している間に、しゃがみ歩きで横を通り過ぎ、社の横に身を隠した。知子の言う通り、気付かれることはなかった。牧野に向かって手を振る。来い、ということだ。牧野も屍人の様子を窺い、隙をついてそばを通り抜けた。

 

「ほら、大丈夫だったでしょ?」

 

 また嬉しそうな表情で言う知子。危険なマネはするなとついさっき言ったばかりなのに。牧野はまた怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られたが、すぐ側に屍人がいるので、何とか気持ちを抑えた。

 

 神社の裏に回ると、赤い水が湧き出す泉と川があった。小さな石橋もかかっており、先に進めるようになっている。

 

 先を進む知子の背中を、牧野は忌々しげに見つめる。ここまでは、すべて、知子の言う通りだった。危険な目にもほとんど遭っていない。しかしそれは、単に運が良かっただけだ。ヘタをすれば屍人に襲われ、命を落としていた可能性も十分にある。知子はそれが判っているだろうか? 恐らく判っていない。それどころか、無事に蛭ノ塚を通り抜けられたのは自分のおかげだと思っているだろう。子供だからそれは仕方ないかもしれない。しかし、もし、求導師様は屍人相手にしり込みばかりして頼りなかった、などと、村人たちにあらぬことを吹聴されると困る。子供の言うことなど誰も信用しないだろうが、そんなことを言われるだけで、牧野の面子は丸潰れだ。なんとかして、求導師の威厳を示さなければならない。

 

「……あ」橋を渡って少し進んだところで、知子が小さく声を上げた。

 

「どうしたの?」

 

「この先に、屍人がいます」

 

 道の先を見る。下りの階段になっており、そこにも、猟銃を持った屍人がいた。幸い背を向けているため見つかることはなかったが、このままでは通れない。

 

 牧野は内心ほくそ笑む。これは、求導師の威厳を示すチャンスだ。「どうするの? このままじゃ進めないし、今さら引き返すのも危険だよ? だから、僕の言う通りにしていればよかったのに」

 

 だが、知子は牧野の言うことなど聞いていないかのように、周囲を見回している。「たしか、この辺りで道が二つに分かれてたはずなんです」

 

 牧野も見回すが、道は切り立った崖に挟まれており、横道などない。「そんなこと言ってごまかそうとしてもダメだよ。この道を通ると決めたのは知子ちゃんなんだ。もう、君も十四歳なんだから、言ったことにはちゃんと責任を持たなきゃね。それができないなら、今度からはちゃんと僕の言うことを――」

 

「――あそこ」知子は、牧野の言うことを遮り、崖の上を指さした。「あれ、たぶん道になってると思います」

 

 知子の指さした先を見る。周りは五メートルはあろうかという切り立った崖だが、そこだけ大きくくぼんでおり、二メートルほどの高さしかない。確かに、道があるように思えた。登ろうと思えば登れる高さだ。

 

 知子は何とか登ろうと試みるが、十四歳の少女の腕力と身長では登れそうにない。

 

「仕方ないな。僕に任せて」

 

 牧野は崖に手を掛けた。腕力に関しては牧野もあまり偉そうには言えないが、身長は高い。苦労しながらも、なんとか上ることができた。知子の言う通り、細い道が、宮田医院のある比良境方面へ続いている。

 

「さあ、知子ちゃん。手を貸して。僕が引き上げてあげるから」

 

 崖の上から手を差し伸べる牧野。知子一人ではどうにもならなかったところを、求導師様に助けられた。そのことを強調しなければならない。

 

 知子の手を握り、引き上げようとしたとき。

 

 大きく身体が震え、一瞬屍人の視界が見える。崖の上から少女を引き上げようとしている自分の姿だ。さっきの屍人に見つかった!

 

 そして、鳴り響く銃声。

 

「きゃあ!」

 

 知子の悲鳴。

 

 幸い、銃弾は牧野の足元の土を弾き飛ばしただけだったが、驚いた牧野は、知子の手を離してしまった。尻餅をついて倒れる牧野。

 

「求導師様! 助けて!!」

 

 崖下から悲痛な叫び声が聞こえる。牧野は手を伸ばそうとしたが、再び銃声が鳴り響き、手をひっこめた。屍人の方を見る。銃を構え、さらに撃とうとしている。

 

「いやあぁ!!」

 

 知子の悲鳴が遠ざかる。神社の方へ逃げているようだ。

 

「待って! 知子ちゃん! そっちに行っちゃダメだ!!」

 

 だが、知子の声は聞こえなくなった。崖の下を覗いたが、姿はない。くそう! 勝手に行動しやがって! これだから子供はイヤなんだ!!

 

 立ち上がり、知子の後を追おうとしたが、また銃声が鳴り響いた。屍人は近づいてくる。このままでは、撃たれてしまう。

 

 牧野は。

 

 ――もう知るか! 私の言うことを無視し、勝手に逃げ出したのはアイツだ!!

 

 神社とは逆の方向へ走った。

 

 銃声は鳴り響くが、それも、走るとともに遠ざかって行く。屍人は、牧野ではなく、知子を追っているようだ。

 

 ――私は悪くない! 私はさんざん警告したんだ!! それを全部無視した知子が悪いんだ!

 

 牧野は、比良境へ向かって走る。

 

 

 

 

 

 


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