SIREN(サイレン)/小説   作:ドラ麦茶

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第十話 志村晃 合石岳/三隅林道 初日/八時十九分五十九秒

 ――空気が、騒がしいな。

 

 赤い雨の降り続く合石岳(ごうじゃくだけ)の林道で、志村(しむら)(あきら)は胸の奥で呟いた。二十歳の時から猟師を生業にしている彼は、この合石岳とは、もう五十年以上の付き合いだ。山の全てが庭のようなものだが、今日は、まるで見知らぬ他人の家に上がり込んでしまったかのような居心地の悪さを感じる。どこがどうおかしいのか? と、問われても、うまく答えることはできないだろう。その異変は、言葉で言い表せるものではない。猟師の勘とでもいうようなものだ。ただ、異変が起こった理由には思い当たることがあった。

 

 二日前のことだ。羽生蛇村役場から、八月二日の夜は外出しないようにとの連絡が村人全員に行き渡った。村の有力者である神代家が祭事を行うというのである。祭事というのが何なのかは村人には知る由もなかったが、この村に住んでいるかぎり、神代家のやることに口出しをしない方が良い、それが、この村での不文律であった。

 

 その祭事が行われたであろう八月二日の夜、村にサイレンが鳴り響き、大きな地震に襲われた。

 

 志村が異変を感じたのは、それ以降だ。

 

 神代家の祭事が関係しているかは判らない。しかし、以前も全く同じことが起こっている。

 

 二十七年前の土砂災害の日だ。

 

 志村自身はその災害に巻き込まれることは無かったが、妻と息子は帰らぬ人となった。だから、今でもよく覚えている。あの夜も、神代家は祭事を行っていた。

 

 志村は、長年愛用している旧式の猟銃を両手で握りしめた。父より譲り受けたその猟銃は、八十を間近に控えた志村よりも古いものだ。もはや骨董品と言ってもよい物だが、手入れだけは毎日欠かさなかった為、今でも問題なく獲物を撃つことができる。

 

 しかし今日は、獲物以外のものを撃つことになるかもしれない。

 

 志村は、胸の奥でそう感じていた。

 

 

 

 

 

 

 志村晃は、羽生蛇村で代々猟師を営み、生活をしてきた。猟師とは、山に入り、熊や猪などの獣を狩り、生活をしている者である。かつては獲物の肉や毛皮は高く売れ、村にも多くの猟師がいたが、時代は変わり、今では動物愛護の名のもとに、世間から白い目で見られ、非難されることが多い。肉や毛皮は売れなくなり、現在の主な仕事は、村に現れ農作物を荒らしたり人を襲ったりする害獣を駆除することである。それで貰えるお金はわずかだ。多くの猟師が職を変え、あるいは、農家や会社勤めと兼業する者(というよりは、農家や会社勤めを本業とし、猟師を副業とする者)がほとんどだが、志村はずっと猟師のみを生業としてきた。生活は楽ではなかったが、天涯孤独の身であったから、なんとか生活することができたのである。

 

 

 

 

 

 

 林道を進んだ志村は、山肌に大きく口を開けたトンネルの前で足を止めた。このトンネルを抜けた先には、かつて、(すず)が採れる炭鉱があった。三隅錫(みすみすず)という、羽生蛇村でしか採れない希少な鉱石だ。昔は村の主要産業のひとつだったが、鉱量が枯渇し、四十年近く前に閉鎖された。さらに、二十七年前の土砂災害で鉱山そのものが土砂に埋もれてしまった。以来、このトンネルは、子供たちが勝手に入り込まないよう、防護柵で固く閉ざされたはずであった。

 

 しかし、志村の目の前にあるトンネルには防護柵が施されていなかった。トンネルの奥からは強い風が吹き付けている。中は、土砂で埋もれているはずなのに。

 

 ――まるで、二十七年前の山にいるようだ。

 

 志村はまた、胸の奥で呟いた。

 

 志村は勘の鋭い男であった。長年野生の動物を相手に生活をしてきた猟師だから、というのもあるが、それ以上に、志村の一族には、彼のように勘の鋭い者が多くいたのだ。村の誰も気付かない異変に、志村の家の者だけが気付くことがある。しかし、それが原因で、彼の従兄弟と息子は、村から姿を消してしまったのだが……。

 

 志村は大きく首を振った。もう、二十七年も前の話だ。最近、昔のことをよく思い出す。わしも歳を取ったな。

 

 志村は猟銃を肩に担ぐと、トンネルの中へ入って行った。このトンネルは、鉱山で採れた錫を、西の蛇ノ首谷(じゃのくびだに)にある選鉱所へ送るためのものだ。壁と天井はコンクリートで固められ、地面にはトロッコのレールが敷かれてある。トンネルは深く、奥の方まで光は届かない。志村は懐中電灯を取り出した。山に入る時はいつなんどきも持ち歩いている。ライトで闇を照らし、奥へと進む。この先には、今朝からずっと感じている違和感の正体がある――特に理由は無いが、持ち前の勘でそう思っていた。

 

 しばらく進むと前方が明るくなってきた。ライトを消し、外へ出る。

 

 トンネルのすぐそばにはコンクリートでできた二階建ての鉱山事務所があり、その前に、東西に延びるトロッコのレールが敷かれてある。東には二つの炭鉱があり、西に行けば、そちらにもいくつかの小さな炭鉱と、鉱員たちが休憩したり鉱山で使用する道具を置いたりする管理小屋があるはずだ。

 

 それは、志村の古い記憶にある三隅鉱山と同じ光景だった。

 

 二十七年前に消えたはずの鉱山が、目の前に存在している。

 

 だが、志村はそのことに対し、特別な感情を抱くことは無かった。若い者なら何が起きているのか解明しようとするのかもしれないが、志村はもう、そのような好奇心を抱くような歳ではない。面倒なことはごめんだ。志村は昔から事なかれ主義であり、村で起こる面倒事には関わらないようにしていた。二十七年前もそうだった。息子や従兄弟が神代家の存在に疑問を持ち、行動を起こす中、自分は関わらないようにしてきた。

 

 志村はまた大きく首を振る。今日は本当に、昔のことをよく思い出す。

 

 村で何が起ころうとも、自分には関係ない。ここが二十七年前の三隅鉱山だろうとそうでなかろうと、どうでもいいことだ。志村は、来た道を戻ろうとした。

 

 突然、志村の身体が大きく震えた。

 

 そして、一瞬、トンネルに向かって歩く自分の後ろ姿が見えた。それはまるで、他人の視点を自分が見ているかのような映像。

 

 映像はすぐに消える。今のは何だ? 周囲を窺う。静かな鉱山に乾いた銃声が鳴り響き、志村の足元の土がトンネル側へ大きく弾け飛んだ。誰かに撃たれた。とっさに身を屈め、素早く鉱山事務所の中に隠れる。そのまま様子を窺うが、それ以上銃声が鳴ることはなかった。うまく隠れられたようだ。

 

 土が弾け飛んだ方向から考えて、銃を撃った者は、東の炭鉱付近にいるものと思われた。だが、様子を探ろうにも、顔を出した瞬間また撃たれる可能性がある。どうにかして、顔を外に出さずに相手の様子を探るすべはないだろうか? 考える。そう言えば、撃たれる前、一瞬トンネル側へ歩く自分の姿が見えた。あれはもしや、銃を撃った者の視点ではないだろうか? 志村は、持ち前の勘でそう悟った。幻視――この村に伝わる特殊能力のようなものだ。話に聞いたことはあったが、まさか、自分の身に起こるとは。

 

 志村は目を閉じ、意識を東の炭鉱付近に集中する。すぐに映像が浮かび上がった。炭鉱の前に小さな小屋があり、その屋根の上に、猟銃を持った男が、周囲を見回している。ひどく興奮しており、獣のような荒い息づかいだ。猟銃を持つ手は灰色で、とても生きている人間の手とは思えない。

 

 屍人だ。直感的にそう思った。

 

 目を開けた志村は、これからどうすべきかを考えた。幻視に屍人。この村に、何かが起こっている。それは間違いない。村に何が起ころうとも志村には関係が無かったが、もうこの村で静かに暮らすことは不可能だろう。志村はこの村が好きだというわけではない。それでも、妻と息子が眠る地だったから、これまで村を離れることはなかった。それも、そろそろ潮時だ。

 

 村を捨てる決意をした志村。ちょうど、この鉱山事務所の裏に、道祖神(どうそじん)道と呼ばれる、山を越えるための道がある。険しい山道だが、この鉱山から村を出るにはそこを通るのが一番早い。家に戻ってもまとめるほどの荷物は無いし、別れを告げる人もいない。この猟銃ひとつあれば十分だった。志村は事務所の奥へ向かい、裏口から外に出た。

 

 裏口の外は高い塀に囲まれた庭になっている。道祖神道へ出るには小さな門をくぐる必要があるのだが、門は鉄格子の扉で閉ざされており、扉は鎖が巻きつけられ南京錠がかけられていた。鎖も錠前も長年風雨にさらされていたようで、錆びついて今にも崩れ落ちそうだ。しかし、志村の力で引っ張ったくらいではビクともしなかった。なにか道具があれば壊せるかもしれない。考える志村。ここは鉱山だ。どこかにつるはしのひとつくらいあるだろう。志村は事務所へ戻った。片っ端から部屋を調べて行くが、荒れ果てたビル内に使えそうなものは何も無かった。ここに無ければ、西の管理小屋まで行かなければならない。その場合はビルの表玄関から出なければならず、東の小屋の屋根の上にいる屍人に狙撃される危険性がある。

 

 志村は目を閉じ、幻視で屍人の様子を探った。猟銃を持った屍人は、先ほどと同じ屋根の上で周囲を警戒している。このビルの玄関も監視しているが、時折振り返り、反対側の坑道の出入口にも注意を払っている。その間はビルから注意が逸れるので、隙をついて外に出ることも可能だ。だが、相手がどのくらいの時間ビルから目を離すかは判らない。外に出た瞬間振り返ることも十分考えられる。背後から狙撃されるのが最も危険だ。

 

 ならば、いっそのことこちらから狙撃するか。

 

 相手が屍人ならば狙撃したところで何の問題もない。すでに死んでいるから屍人と呼ばれるのだ。もし屍人ではなく、生きている人間だとしても、先に撃ってきたのは相手の方だ。まともな人間ではないだろう。

 

 ――よし。

 

 戦う決意をした志村は、ビルの玄関の陰に隠れ、幻視で屍人の様子を探る。屍人はしばらく玄関付近を見ていたが、やがて視線が逸れ、坑道入口の方へ向いた。

 

 ――今だ。

 

 志村は外に出て、銃を構えた。照準器を覗き込む。薄霧の立ち込める中、小屋の上に、ぼんやりと屍人の背中が見えた。素早く照準を合わせ、引き金を引いた。銃声が空に響き渡る。一瞬遅れて、屍人は倒れた。

 

 五十年以上猟師をしている志村だが、熊や猪などの獣以外を撃ったのはこれが初めてだった。しかし、そのことで特別な感情が沸くことは無かった。相手は人の姿かたちをしているとはいえ、人に害を及ぼす以上、害獣と同じだ。駆除すべき相手を駆除したに過ぎない。それに、村の伝承が正しいとすれば、銃で撃ったごときで屍人を完全に殺すことはできない。傷はやがて塞がり、よみがえるはずである。

 

 志村は西の管理小屋へ向かった。もたもたしていると、また撃たれてしまう。

 

 管理小屋へ続く道は緩やかな下り坂だ。地面に敷かれているトロッコのレールは、西の炭鉱まで続いている。レール上には数台のトロッコが放置されてあった。レールに沿ってしばらく進むと、また身体が大きく震え、猟銃を構える屍人の視点が見えた。撃たれる。そう思ったが、幻視は一瞬で、どこから狙われているのか判らない。

 

 銃声が鳴り響き、右肩に焼け付くような痛みが走った。正面からの銃撃だ。志村はトロッコの陰に身を隠した。すぐに傷を確認する。幸い急所は外れ、銃弾は貫通しているようだが、血が大量に吹き出している。血管を損傷したのかもしれない。志村は持ち物からタオルを取り出し、片手で巻きつけた。タオルはみるみる赤く染まる。出血が止まらなければ、まずいことになる。

 

 しかし、鋭い痛みは次第に和らいでいく。傷が治っているようだ。驚きはしなかった。幻視が使える以上、こういった特殊な能力が宿ったとしても不思議ではない。傷は放っておいても大丈夫そうだ。志村は目を閉じ、撃ってきた屍人の気配を探った。すぐに見つけた。この道を進んだ先。管理小屋近くのレール上で、銃口をトロッコに向けている。そのまま様子を探ったが、トロッコから目を離そうとしない。じっと銃を構えたまま、いつでも引き金を引ける体勢だ。隙は無いように見えた。トロッコの陰から姿を出した瞬間狙撃されるだろう。いくら傷が早く治るとは言え、連続で撃たれるのはあまりにも危険だ。反撃は難しい。ここは一度退くべきだろうか? だが、戻ったところで事態が好転するとは思えない。村から出るには北の道祖神道を通って山を越えるのが一番早い。それ以外に村の外に出るには、一度村に下りなければならない。恐らく村にも屍人が溢れているだろう。ならば、なんとかしてここを突破し、道祖神道を進んだ方がはるかに安全だ。

 

 では、どうする?

 

 何か良い案は無いかと周囲を見回した。すぐに思いついたのは、志村がいま身を隠しているこのトロッコを使うことである。屍人は下り坂の先のレール上に立っている。トロッコを走らせることができれば、はね飛ばせるだろう。問題は、はたしてこの古いトロッコが走るのか、ということである。トロッコは長年風雨にさらされてかなり錆びついている。しかし、鉱石を運ぶためのトロッコだ。非常に頑丈で、重量もある。勢いさえつけば走り出す可能性は高い。志村は腰を落とし、足を踏ん張り、力いっぱい押してみた。初めはビクともしなかったが、何度か勢いをつけて押すと。

 

 ゴトリ。

 

 ゆっくりと車輪が回り、進み始める。そのまま押し続けると、思った通り、勢いよく走り出した。大きく息を吐き出し、トロッコを見送る。勢いの付いたトロッコはもう止まらない。幻視で屍人を確認する。接近するトロッコに気付き、逃げようとしているが、道は細く、逃げ場はない。屍人は強くはね飛ばされ、動かなくなった。

 

 屍人を排除した志村は、そのままレール沿いに進んだ。屍人が立っていた場所から少し進むと、左手側に下りの階段があり、そこを降りるとすぐに管理小屋だ。幸い小屋に鍵はかかっていなかった。中に入る。八畳ほどの狭い小屋だ。一応部屋の奥に作業用の机があるものの、ほとんど倉庫として使われていたようで、様々な鉱山道具が雑然と置かれていた。

 

 目的のものはすぐに見つかった。部屋の壁に、つるはしやシャベルがたくさん立てかけられてある。どれも錆びついており、木製の柄の部分もボロボロだ。その中からなんとか使えそうなつるはしを一本選び、志村は来た道を引き返した。早く戻らないと、倒した屍人がよみがえる頃である。

 

 幸い、屍人がよみがえる前に鉱山事務所まで戻ることができた。裏口まで回る。先ほど撃たれた肩の傷はすっかり塞がっており、つるはしを振るうのに問題は無いだろう。

 

 だが志村は、左の二の腕と右の太ももに別の傷ができていることに気が付いた。撃たれてできたものではない。鋭い刃物で切ったような傷だ。山に入るのが仕事の志村だ。真夏とは言え、厚手の衣服を身につけている。その衣服ごと切れているのだ。いつの間に切ったのだろう? まるで身に覚えがない。

 

 しかしそれは、山では決して珍しくない現象だった。知らぬ間に木の枝で引っ掻いたり、草や木の葉で切ったり、時には突風に乗って飛んできた砂や小石で切れることもある。幸い、それほど大きくない傷だ。猟銃で撃たれた傷が一〇分ほどで塞がるのだ。この程度の傷ならば、すぐに治るだろう。

 

 鉄格子の前に立ち、つるはしの刃先を鎖に向ける。大きく振り上げ、勢いよく振り下ろした。がきん! 火花が飛び散る。何度か繰り返すと、鎖はバラバラに崩れ落ちた。同時に、柄がボロボロだったつるはしも折れてしまった。もう使えそうにない。まあ、目的は達した。志村はつるはしを投げ捨て、門を開けた。

 

 門の向こうは、両側を切り立った崖に挟まれた細い砂利道が続いている。少し歩くと、道端に小さな石碑が置かれてあった。男女が並んで立つ姿が浮き彫りにされた像。道祖神の像だ。

 

 道祖神とは、街や村の境、峠などに奉られ、疫病や悪霊などの災いが侵入するのを防いだり、旅へ出る者が道中の安全を祈願したりするための神様である。羽生蛇村だけでなく日本各地で見ることができるが、この村の道祖神の像には、眞魚教のシンボル・マナ字架が彫られているのが特徴だ。

 

 志村は、道祖神の像を見下ろす。信心深い者は、村を出入りするとき、この像に祈りをささげるのだが。

 

 ――フン。

 

 志村は祈りをささげることなく、山奥へと続く道を進んだ。

 

 

 

 

 

 


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