角谷杏は生来、小心で臆病な性格であった。
それは自分で自覚していたし、直そうと思ってどうにかなるものでもないという事は重々承知していた。
いつも他人の顔色を見て、何を求められているのかを探っていた。他人の期待に添えないことが、何だかとても嫌だった。その事で、他人を失望させてしまうことはもっと嫌だった。
求められていることを確実に実行し、喜ばれるだけの能力が杏には備わっていた。
この性格を優しさと言って良いのかは、今でも分からない。
人間というのは誰でも、腹の中を探られるのを嫌うものだ。自分は誰よりも複雑である、という自負を無意識に持っているからだ。
だから杏は飄々と、適当な人間を振る舞った。
単純な人間を振舞っていれば、その種の安心感を周囲に与えられるからだ。
事実、周囲の人々は杏を誤解した。目論見は、正しく成っていた。
しかし、その
それは恐怖だった。
その振る舞いが、偽りが、露見すること……実は杏が全くの臆病からそんなことをしていると、他人に知られることが、たまらなく怖くなった。
嫌なことから逃れる為にしていた事が、皮肉にも新たな恐怖となって杏を追い詰めたのだった。
けれど気が付いた時には、もう後戻りはできなかった。杏はこの先、内なる恐怖を抱えながら、飄々と強がって生きてゆくことしかできないと思った。
絶望にも似た諦観が、胸の奥に巣食った。
それが変わったのは大洗女子学園に入ってからだった。
他人からの要求と、何時もの
より多くの人目に晒されることは、正直、恐怖を助長するばかりで、とても嫌だった。
そこで、川嶋桃と小山柚子に出会った。
初めは他の誰もと同じように、二人は恐怖の対象でしかなかった。
仲良くなったものの、それは仮初の友情だと思った。本当の自分を知れば、失望して、見放されるに違いがないのだから。
しばらくすると、なんと生徒会長に指名されてしまった。他人の要求を察し確実にこなすこと、その苦労をおくびにも出さないこと……それは人目に、杏が有能であることの証明に他ならなかった。
無理だと思った。こんな小心の自分にできる訳がない。
しかし、辞退することは周りの人間が許さないだろう。断るには勇気が必要だった。そして、その勇気が杏には無かった。
杏は他ならぬ自分に追い詰められた。自分ですら敵なのだから、味方は誰もいないと思った。
途方に暮れた杏は、海を眺めて、人知れず泣いた。不安と、恐怖と、そして自分への叱責で一杯だった。
その間、普段は欠かさない周囲への注意が疎かになった。そして、その姿を川嶋桃と小山柚子に見られてしまった。
心配して寄ってきた二人に、どうしたのかと聞かれた。何でもないと答えると、そんな筈はないだろうと言われた。
観念した杏は、適当に事情をでっちあげて逃れようとした。
けれど、話しているうちに本音が漏れ始めて、止まらなくなった。涙も止まらなかった。そして、心の内の全てを暴露してしまった。
杏が最も恐れていた事を、自分からしてしまった。
終わった……そう思った。
今にこの二人は軽蔑の視線と言葉を自分に向けるに違いないと思った。
けれど、二人はそうはしなかった。
杏より激しく泣き始めたのだ。
二人は泣きながらに言った「友達がこんなに苦しんでいるとは気が付かなかった」「私達は友達失格だ」「どうか許して欲しい」。
その言葉に、杏は打たれた。本当の友達だと思っていなかったのは自分だけだったのだ。
この二人は、自分の弱いところも認めてくれるのだと、ようやく気が付いた。
その後、三人は一緒になって泣いた。
悲しかったけれど、そこには真の友を得たという喜びも確かにあった。
泣き終わる頃には、杏は生徒会長になることを決意していた。それを伝えると、二人も付いてくると言ってくれた。
もう、不安も恐怖も無くなっていた。
それからも、杏の
それで親友二人の……大洗女子学園の皆の為になるのなら、それで良いと思った。
他人を思いその為に働くこと、何時も強い自分を振る舞うこと……それは杏にとって
杏は深く感謝している。自分を変えてくれた、親友にも、この学園にも、返しきれないほどの恩を感じていた。
生徒会長として、どんな事があろうとも、これを守ろうと誓った。
角谷杏は、大洗女子学園を愛していた。
◆
先日の全校集会以来、みほは学校の有名人になっていた。
何しろ
何をやらかしたのか、そしてこれから何をするのか……何しろ女子校である、みほの噂は口伝えにあっという間に広まった。
どうやら西住みほというのは『A組の良心』と呼ばれている。見返りや、下心なしに親切を行っては名乗らずに去ってゆく……らしい。
大体こんな風な噂だった。
自然、顔も知られる訳で、みほは先輩後輩問わず挨拶されることが多くなった。
その挨拶に応える時に、みほは片手をひょいと顔の横まで挙げる癖があった。
この手をひょいと挙げる仕草が「何だか可愛い」というので、挨拶をされる頻度はもっと多くなった。
手を下げる間もなくひっきりなしに声をかけられるので、みほの手は挙げっぱなしになった。
挙げっぱなしの手が、今度は「何だか格好良い」ということになり、今やみほを見かけたら挨拶をして手を挙げさせるのが学校で流行り出した。
当の本人は、期待を裏切ることもなかろうと、嫌な顔一つせず何時もにこにこして応じていた。
そんな風潮が学校に根付いた頃、みほは校内放送で再び生徒会に呼び出しを受けた。授業終わりの放課後のことである。学校中がざわついた。
沙織や華と放課後の予定を話していたみほは、それを中断された。
「今度は何だろう、また強引な勧誘をしようって魂胆かな?」
「みほさん、一人で大丈夫ですか?」
友人が心配そうに言った。
ここでみほが「大丈夫じゃない」と言えば、本当に付いて来てくれるだろう。良い友達を持ったことを、みほは嬉しく思った。
「大丈夫、何とかなるよ」
「本当に平気?」
「うん」
「では、私たちは教室で待っていますね」
「でも、多分
みほの口調は、本当に何でもない風だったので、二人は安心した。
一緒に帰れないのは名残惜しいが、今日はここで分かれることとなった。
「みほ、またね!」
「みほさん、また明日」
手を振る友人たちは、少し寂しそうだった。
「さようなら」
みほはにっこりしながら、右手をひょいと挙げて別れを告げた。
正史の角谷杏とは少々来歴が異なっている。