この日しほは末の娘の初めての晴れ舞台、戦車道の試合を観戦しに来ていた。
家を出る時に「頑張りなさい」と柄にもなく励ますと、みほは緊張した様子もなく、にっこりして言った。
「見ていて下さい」
勝敗は関係なく、全力を出せればそれで良いと思っていた。初陣ではそれさえも難しいだろうが。
だが、そのような楽観は甘かった。
敵を全車両撃破し、みほは勝利した。
試合はフラッグ戦だった。しかし、みほは
しほは恐ろしいものを見た形相で絶句した。
知っていたからだった。一体あの娘が何を実行したのか、その正体を知っていた。
それは間違いなく『西住流』だった。
今では失われた……そして、
試合が終わり、みほがその報告をしに仕事部屋までやってきた。真顔を作ろうとして必死に笑みを堪えているような表情だった。
対してしほは深刻な心持ちと、表情で告げた。
「みほ、あなたの西住流は邪道よ」
呆然とする我が子に、続けてその説明をしようとすると、突然激しく泣き始めた。
しほは、唐突に大泣きし始めたみほに狼狽えた。叱りつけたことで、何故これ程までに泣くのか、理由が思い当たらなかった。
どうしてよいか分からずにいると、みほはそのまま家を飛び出して行ってしまった。
しほは娘をすぐに探し始めた。まほや家政婦の力も借りて方々を探し回った。日も傾いてきて、焦り出した頃に、なんと墓場でぐったりしている娘の姿を見つけた。
とにかく尋常ではないということを直感したので、駆け寄って抱き上げた。
娘の鼓動を感じたくて、強く抱きしめた。
どうやら眠っていただけで、無事のようだった。
理由は未だ分からなかったが、娘を深く傷付けてしまったという自覚はあった。
言うべき言葉が見つからなくて、結局、より強く娘を抱きしめることしかできなかった。
◆
みほは母親のことが大好きだった。
優しいお母さんだと思っていた。確かに厳しくはあったが、それは優しさと矛盾するものではなかった。
いつも忙しそうで、母より姉と過ごした時間の方が長いだろう。たまに会話をしても戦車の話ばかり聞かされた。
一緒に娯楽を嗜むなんてしてもらった覚えがない。
けれど、闇夜が怖くて縋り付いた時、優しく抱きしめてくれた。
その温もりだけで、みほには十分だった。
優しさというものはこの世で最も尊ぶべきものだと、母親から学んだ。
曾祖母……西住戦車隊長に何が切っ掛けで、何時から尊敬の念を懐いていたのかは覚えていない。気が付いた時には深い崇敬の念があった。
ただ、母は曾祖母のことを全然話してくれなかったのは覚えている。
教えてくれないのなら自分で調べるしかない。
西住屋敷の巨大な書庫から本を引っ張りだして読み漁った。
読書の習慣はこの時に身に付いた。
本当に色々なことを学んだ。人生で最も有意義な時間であったと今でも思う。
母が教えてくれない、古い指南書に克明に記された、戦車の技法……作戦立案……心得……。
どれもこれも今の西住流には失われたものばかりだった。
これを復活させ西住流に更なる繁栄を呼ぶことこそが、この家に産まれ、西住流の後継者たる自分の使命だと強く思った。
尊敬して止まない曾祖母が、血を流し、命を賭して実行した『西住流』。その誇り高い血が自分には流れている。
偉大な先祖たちが創意工夫し作り上げたものを、失わせてはならないと誓った。
全くの正義感からの誓いであった。
けれど、現実はみほを裏切った。
人生初の戦車道の試合において、独力で必死に身につけた戦法を鮮やかに成功させた時だった。
みほは母親に褒め称えられると思っていた。西住家に産まれたる者の鑑だと……そう言われると、無邪気に信じていた。
「あなたの西住流は邪道よ」
試合の報告に行くと、面と向かってそう言われた。
他ならぬ母に言われた。
大好きなお母さんに、否定された。
みほは大泣きした。そのまま部屋から飛び出して、着の身着のまま家を走り出た。
ここ辺りの記憶が曖昧であるから、相当激しく泣いていたのだろう。
穢されたと思った。
尊敬する曾祖母のことも、西住流のことも、この身に流れる血も、あの誓いさえも……全部が全部否定され、無意味なものに貶められたと感じた。
悔しかった。褒めてもらえると思ったのに。お母さんは何一つ分かってはくれなかった。
様々な感情が容赦なくみほの心を突き刺した。
どこをどう走ったのか、とうとう走れなくなってへたりこんだのは墓地だった。
ここは家族で何度か訪れたことがあって知っていた。
ふらふらと重い足を動かして『西住家之墓』と彫られた墓石まで辿り着くと、それにしがみついてまた泣いた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
と、ひたすらに謝ったことをはっきり覚えている。泣いて泣いて、泣き続けた。
そのうち涙も涸れて、ぼんやりと墓石を見つめるだけになった。
引き裂かれた胸に虚しさが込み上げてくる。
曾祖母も、今は無き先祖も、何も残さなかったのだろうか。遺志は引き継がれることなく、これだけの墓石になってお終いか。
先祖が命を賭して実践した『西住流』。それらは忘れ去られる運命しか待ち受けていないのか。
あの愚かなる母や、卑怯者の姉に引き継がれ、ただただ廃れる未来しか道が無いのか。
全てが無駄だったのか。
私が愛し、崇敬した西住流は他ならぬ西住の血によって否定されるのか。
否! 断じて否!!
私がいる。
誰もが忘れ、否定し、その誇りを穢そうとも、私だけは断じて許さない。先祖たちは何も残さなかったなどと言わせてなるものか。
彼女たちは私を残したのだ、この、西住みほを。
そのたった一つがある限り『西住流』は不滅だ。
今は邪道と蔑まれ、名も無き、私だけの戦車道。
いつか、いつの日か『正調西住流』を復活させる為に生きよう。
先祖に恥じることのない、堂々とした道を歩こう。
私はその為にここに居る。
みほは立ち上がった。
改めて墓石を見つめると、あちらからも見つめ返されているような気分になった。
みほは物言わぬ墓石に、再び誓った。
西住流を穢す全てを駆逐し、ここに復活させると。
先祖たちの遺志は絶対に無駄にはしないと。
生きる限りこれに全力を尽くすと。
西住みほは、ここに鬼と化した。
西住みほは『禁書』の棚から本を取り出していた。