ダージリンは危うくティーカップを取り落としそうになった。
すんでのところで持ち直したが、中身の紅茶は大いに揺れている。今これに唇を付けたら、顔中を濡らす事になりそうだ。
「どうかされましたか?」
相対する西住みほが心配そうに首を傾げた。
如何にも白々しい。
「み、みほさん。その、後ろのものは」
「戦車ですよ」
「それは私にもそう見えるのだけれど」
「はい、
「本当に?」
「本当です」
戦車だという事ぐらい輪郭を見れば分かる。けれど、心が受け入れ難いと訴えているのだ。
ショッキングピンクM3リーに、歴史観ごちゃ混ぜ三突、戦車道に一切関わり無いメッセージ入り八九式、黄金に輝く成金仕様38(t)。
何て珍妙奇天烈、何て騎士道の欠片もないゲテモノ、何てふざけた、何て、何て、何だって──
強い目眩にふらついたダージリンを、慌ててオレンジペコが支えた。
大洗の隊員たちは揃って口元をひん曲げ相手を観察していたが、それでもティーカップから液体は零れなかったので、無念そうな顔をした。
試合前の挨拶を待つ平原に、両チームは、お互い戦車を背に整列していた。
確かに向こうから派手な物体がやって来ると、さっきから思っていた聖グロチームであったが、何かの宣伝車だろうと推測はしても、戦車だろうとは露とも思っていなかった。なので中から大洗チームがぞろぞろ出てきて、整列し始めた時には目玉が飛び出た。
彼女らは甘いもてなしを享受しつつも、静かに闘争心を練り上げていた。あの程度の懐柔で骨抜きになっていては、到底強豪校の選抜メンバーなど務まらない。
あの西住みほが、どんな恐ろしい戦車隊を率いて来るのか──警戒と畏怖によって、心を武装していた。
それだけに、落差が大き過ぎた。
素晴らしい紅茶ですと親切に説明されて、心をときめかせて待っていたら、出されてきたのがインスタントコーヒーだった時の様なショックだ。
明らかにユーモアの域を逸脱している。
「あっ、平気ですか。お確かに」
すまし顔で気を遣う大洗の隊長を、聖グロ隊員たちは、よもや信じられないような目で見つめた。繰り返し、変態戦車とそのすまし面を見比べてみる。その麾下たちは、にやけ面で口をもごもごさせていた。
一つの推測が立った。
まさか、西住みほ様に限ってまさかなのだが。もしかして我々を──
その推測は、聖グロの矜持を横からビンタした。
先程とは別の意味で手が震え出す。それでもなおティーカップの中身を零すことは無かったが、握力が柄を砕いてしまいそうになった。
我々は高潔な騎士道を穢す者には何人たりとも容赦しないのだ。例え誰であっても、誰であってもだ。
「随分、
ペコの腕を離れたダージリンが低い声で言った。仲間からして何とか平静に見えたが、所詮装いに過ぎない。その証拠に、手の平では石を作っているではないか。
「良いでしょう、おかしくって」
「あなたは、これで笑えるのかしら」
「笑いましたとも、そりゃもう。腹を抱えて。あ、笑っていいんですよ」
「結構っ……ところで、どういうおつもりで、装飾を?」
「もちろん、負かす
「それは大きな勝算の現れかしら」
「見たところ、我々とあなた方とでは、どうも大差ないようですよ」
「……というと」
みほは、ダージリンの背後で紅茶片手に整列しているレディ気取りを一瞥して、鼻で笑った。
「滑稽でしょ?」
ダージリンは、無礼者の顔に紅茶をぶちまけてやりたい衝動を抑えるのに全理性を費やした。白塗りの柄に、ひびが入る。
何だ、何だ。これは挑発か?
それにしては手が込みすぎている。挑発のためだけに、戦車をこんな風にしたりしない。ただでさえ格上の相手に、迷彩効果を塗り潰す様な、そんな馬鹿な真似はしない。
此奴らは
撤回する。
長い間抱いてきた彼女への憧れ、正体不明の恐怖、実際に出会ってみて再認識した敬意──全て撤回だ。今は全部忘れて、容赦無く叩き潰してやる。
意図的な挑発であろうが、もう退くものか。これで黙っていては女が廃る。仮にも淑女を名乗るのなら、
敢えて土足で踏み込んで来ると言うのなら、宜しい。迎え撃って差し上げよう。
「悪いけれど、手加減なんてものを期待しないで頂戴ね。例え如何なる相手でも『敵』であれば全力を尽くす、それが聖グロの流儀ですから──宣戦布告よ」
俄に聖グロ隊員たちはざわついた。
ダージリンが隊長に就任してから、これを明確に宣言したのは初であった。
本気で怒っていらっしゃるのね──隊員たちは息を呑んだ。
淑女は敵意を隠さず、卑怯な奇襲を行わない。事前に敵意を宣言し、その上で、正々堂々と謀略を巡らす。
それが『騎士道』に則った決闘であると信じているからだ。
「名誉にかけて、ですか」
「それが何かあなたに分かるのかしら」
「さあ? どの辺にあるものかも知りません」
「…………ッ」
ダージリンは言葉を詰まらせて、肩を震わすと、一転踵を返し戦車へと向かった。隊員たちもそれに倣う。
誰も言葉は残さなかった。
しかし、最後に見せた淑女らしからぬ鬼の形相が、大洗女子に全てを伝えた。
みほは、歪みそうになる唇を必死に噛んで表情を殺した。
先の態度は、もちろん画策しての挑発、心にも無い安い侮辱である。しかし「滑稽」と言ったは、あながち嘘でもなかった。
行動原理が理解不能だ。
こうでもしてやらなければ相手を『敵』と見なさず、宣戦布告も打てない
言われずとも、こちらはとっくに済んでいるぞ。
常在戦場。
我等は初めからずっと『敵』同士なのだ。
ならば、無言で叩けば良い。音の一つ出なくなるまで潰せば良い。親切な宣言なんて、必要も無い──だが彼女らは絶対にそうしない。
気付いていないのだ。
無意識のうちに、自分を高みに置いている傲慢さに。相手を敵と見なさない事こそ、見下し果てた侮辱であるという事に。
それを棚上げして目先の義憤に燃えるのか。
これを滑稽と言わずして何だろう。
嗚呼きっと、
◆
身も竦む様な断崖絶壁。
その縁に伏して、みほと優花里は双眼鏡を覗いていた。試合開始直後、予定通り速やかにこの地点に到達してから、ずっとこうしている。
視線の彼方には、聖グロチームが巻き起こしているであろう土煙が高く昇っている。戦車のシルエットは、未だ発見できない。
「いやぁ、怒っていましたね。ダージリンさんの怒り顔なんて滅多に見られませんよ」
「あはは、流石に心が痛んだよ」
「それは本心ですか?」
「笑いそうだった」
「ですよねぇっ!!」
「内緒だからね……しぃ、見えて来たよ」
「あっ、すみません……」
ようやく見えてきた戦車の影を、二人は暫く無言で観察した。
発見。確認。機影、五輛!
マチルダⅡ四輛を、先頭のチャーチルMk.Ⅶ(恐らく隊長車だろう)が率いる様な形での横列だ。
砂塵を巻き上げ荒野を進む鋼鉄の馬は、双眼鏡越しにも意識に迫り来る。営々と積み上げられた『理』に基づく美しい行進は、威圧感のみならず、何処か高貴を思い起こさせる様だ。
一糸乱れぬ陣形は、練度の高さ、チームの格を無言のうちに語っていた。
「勇ましいなぁ。アレクサンドロスか、はたまたヘラクレスか」
「でなければヘクトルかリュサンドロス、ですねっ!」
「あははっ、それそれ」
「しかし西住殿、本当に見事な隊列でありますな。あれだけ怒らせた直後だというのに」
「そうかな? 良く見てみて。綺麗に見えても、一輛一輛が先行しようと息巻いてる。
「え、え、そうですか……?」
優花里は指摘された事を踏まえてじっくり観察してみたが、全く分からない。試合前に聖グロ研究会と称して、過去の試合映像を擦り切れる程見たが、映像の中の行進と今の行進に差があるとは感じられない。
きっと西住殿にしか見えない景色なんだ──優花里は、
優花里は諦めて双眼鏡から目を離した。
気後れする事だ。
私は、幾らかでも西住殿の助けになれているのだろうか。西住殿が自ら偵察に出ると言うから、嬉々としてお供すると申し出たけれど、まるでお役に立てていない。むしろ邪魔になっているまで有り得るのではないか──
情け無げに、未だ遠方を臨んでいる隊長を見ると、横顔に垂れる髪が崖から吹き上げる強風に靡いて、激しく頬を叩いていた。それをうっとうしそうに何度も払い除けるみほの様子は、何だか可愛らしくも艶めいていた。
少し思い付いた。
優花里は双眼鏡を置いて後ろに回ると、荒ぶる横髪をそっと両手で頬に押えつけた。髪の毛はふんわり、もふもふしていた。ちょっとひんやりした頬の温度が、手に気持ちいい。
みほは敵から目を離そうとはしなかったが、微笑んで「ありがとう」と言った。
「こんな事でしかお役に立てず……」
「凄く助かるよ。そのまま、頼むね」
「はっ、ひゃい!」
西住殿のお役に立てて、しかも接触している。
なんて役得!! やっぱりお供を申し出て良かった──あっ、何だか良い匂いがする──
みほが一つの結論を出すのに、そう長い時間は要らなかった。
髪を押さえる両手を優しく払い退けると、すっと立ち上がる。現実に引き戻された優花里は、みほの思案が纏まった事を悟った。
「如何でありましょうか」
憧れの西住流の見解はどんなものか。
優花里は好奇心のままに尋ねた。
「聖グロは柄にもなく冷静さを欠いてる。ううん、今だけじゃない。今日、聖グロは何一つ
みほの顔には子供の様な笑顔が、みるみる広がっていく。
「愉快だなぁ」
崖に立ち、敵を遠く見下ろす隊長に、優花里は畏怖した。
試合前からも、敵の勝ちうる要素を限りなく排除する──これが西住みほの闘争!
美しいまでの勝利を重ねてこれたのは、きっと目に見えぬ場所でも戦っていたからに違いない。
自分はそれを、画面の中ではなく、紙面の上ではなく、実際に目撃しているのか。
世間では西住家次女の、真正面から当たらない巧妙な戦い方は、従来の西住流の信義とは異なっていると頻繁に言われる。
だが、実際はどうか。
西住みほは勝利へ突き進む意志の純粋結晶だ。
彼女こそ、本物の『西住流』なのだ!
「では勝てますか!?」
「そこは戦術と腕かな」
詮無き問いにも、みほは楽しそうに答えた。
◆
操縦席に深くもたれ、日除けの操縦教本を顔に被せて、いびきをかく麻子は、まるで戦場に身を置いているとは思えぬ様子だった。
と言うより女子高生としてどうなのか、沙織が呆れて首を降る。
操縦席の天井を外から叩く音がした。
「麻子さん起きて」
偵察から戻った我らが隊長の声だ。直後、同行していた優花里と共に車内に戻ってきた。
麻子は怠そうに教本を放り投げて、操縦桿を握った。
「撃って敵の注意を引き付けます。目標、敵隊長車」
「ぉを」
「はい」
麻子が戦車を旋回させ大まかに狙いを定め、華がスコープを覗いて精密照準を行う。
みほは相変わらず上半身を露出させて、敵から目を離さない。まあ、相当離れているし、至近に弾着すれば上出来だろう。
一瞬後に響く砲撃音。
当たった。
…………。
この距離で当てるのか。
「すみません。弾かれました」
「え……ああ、撃破が目的じゃないから大丈夫」
予想外の結果にみほは一瞬頭の処理がつかなくなって、申し訳無さそうに謝る華に応えるのに一拍置く事になった。
頼もしい事だ。これもまた
みほは、湧きかけた仄暗い感情に厚い蓋をして、眼前の状況に集中した。
こちらに気が付いた敵勢は、怒りの矛先目掛けて果敢に突進を敢行してくる。隊列が乱れるのもお構い無しだ。今度は優花里にも分かる程、怒り狂っているのがあからさまであった。
それはそうだ。
本当の意味で、不意に横から(しかも隊長車を)ぶたれたのだから。
この分だと、直ぐに登ってくるだろう。
「ちゃんと気付いてくれたみたい。うわぁ、くわばらくわばら……麻子さん」
「注文は」
「
「荒っぽくなるぞ」
「それも面白い」
「笑ってろ」
ぶっきらぼうに返事をした麻子は、徐にヘアバンドを付け直し、長い前髪を全てかき上げた。指十本を順番にぽきぽき鳴らし、
ぎょっとしたのは沙織である。
掴まる手すりを求めてばたばたし始めた様子に、優花里や華は首を傾ける。
沙織は知っていた。
幼馴染がこの形態(曰く、マジモード麻子)を取る時は、絶対に穏やかならぬ事態に発展する事を。
ど、ど、ど──
眠っていたⅣ号のエンジンが唸り始める。
その猛りが増す毎に、普段眠たそうに半分落ちている麻子の瞼は開かれていった。
この断崖を唯一通る登坂道、その背後から土煙が立ち上り始めた。それを確認したみほが腕を高く上げ、発進合図の待機をする。
車内に緊張が走る。
「隊長、追手は早いのか」
「とっても」
「怒っているか」
「まるで火の玉だね」
「怒っているから、早いのか」
「うん、きっとそう」
「そうか──」
怒、怒、怒──
麻子は獰猛に歯を剥いた。
両頬を深く引き裂く歯列は、その持ち主を笑っている様にも、怒っている様にも見せた。
その隙間から大きく呼気を吐き出し、誰も──沙織でさえ聞いたことのない、恐ろしい声色で言った。
「だったら、誰も私に追い付けない」
直後、土煙の中から遂に敵を発見した。
隊長の腕が鋭く振り下ろされる!
「
同時、敵の一斉砲撃が開始された。
◆
眠りから解放されたⅣ号戦車は荒道を猛烈な勢いで駆け抜ける。
装甲に劣るⅣ号は、背後からの砲撃を食らえば白旗は免れない。それを緩急付けた動きで何度も避け続け、時には飛び出した岩を盾にする事で防ぎ、尚且つ敵との距離を離し続ける麻子の運転技術は正に神がかりであり、聖グロを驚嘆させた。
しかし、その
女子たちが趣味で置いた小物はもちろん、重い砲弾さえも、この狭い空間に跳ね回る。
「あららららら、お尻が痛いです」
「ヒヤッホォォウ! 最高だぜぇぇ!!」
「ままままま麻子ぉっ、もうちょっと、優しく、優しくしてぇ! 吐きそうだよぉっ!」
「黙れ、荒っぽくなると言っただろ。文句なら上の隊長殿に言え。それとも後ろのクソボケ共に言ってみるか?」
「ひいぃ……何か麻子がこわい……!」
幼馴染の抗議を全く取り合わず、一心不乱に運転する麻子の髪は激しく上下に揺さぶられ、怒髪天を衝いている様に見えた。
通信機にしがみついて「もーやだ!」と沙織が絶叫する一方で、みほは指揮もせずに黙りっぱなしであった。
みほは戦車に乗って昂ると、笑ったり手を叩いたりする
どうしたのだろう、まさか怖気付いている訳でもあるまいに──
「──Heute wollen wir ein Liedlein singen,Trinken wollen wir den kühlen Wein !」
その時、混沌極まる車内に響き出したのは、勇ましい異国の歌であった。
みほは笑う代わりに、手を叩く代わりに、大きく歌い始めたのだ。
皆がぽかんとする中、優花里だけは派手に吹き出して、一通り笑った後、みほに合わせて合唱を始めた。どうやら、何の歌か知っているらしい。
「Und die Gläser sollen dazu klingen,Denn es muß, es muß geschieden sein !」
語感からすると、英語ではない。
これは……恐らく
みほの歌を聞いたのは誰もが初めてであったが、独語特有の力強い旋律がみほに合っていて、非常に美しいと感じられた。優花里以外の乗組員に分かったのは、そこまでであった。
どうせロクな歌ではないだろう、と麻子は勘繰ってこそいたが(実際にそれは正しい)。
この間指揮を任されていた新副隊長、澤梓が、作戦通り味方部隊を高台の上で待機させていた。
「西住隊長、何時でもやれますっ」
Ⅳ号は速やかに高台上のポジションに登り、みほは歌唱を中断し、得意気に息巻く副隊長へ「重畳」と短く応じた。
改めて地形を確認する。
Ⅳ号が走り、敵が追って来る唯一の登坂道は道幅が狭く、両側を切り立った崖に囲まれている為、回り込みは不可能。
その終点は、おあつらえ向きの高台になっていて、そこに広く陣取れば、敵が左右から並んで登ってくる隙に上から一方的な半包囲射撃が可能になっている。
みほは、河嶋桃が提案した作戦を心内で酷評した。
上記の全ては、それに見合うだけの練度があってこその話である。網にかける魚は、相応でなければならないのだ。
この作戦を今の大洗で仮に実行したとすれば、砲撃の足並み揃わないまま、あれよあれよと逆包囲されチェックメイト。
しかも、挙動が余りに露骨だ。
味方一輛で一本道に誘い込んで、その先が高台である。そんなの地図を眺めていれば、怒りに正気を失っていたって看破できるだろう。
そうだ、尽くは敵に見抜かれている。
敵は作為を見抜いていて、危惧の如く、逆包囲せしめんと追ってきているのだ。
聖グロリアーナの高水準の練度であれば、大洗など一捻りにできる。
「
みほは右手を、ひょいと軽く顔の横に挙げた。
『砲撃準備』の
各車の砲手は引き金に指をかける。
遥か向こうに、土煙が高く登っているのを、砲手たちはスコープ越しに認めた。
すぐそこにまで、遂に、敵は迫って来ている。
初めての実戦、相手は強豪聖グロリアーナ女学院!
ここで外せば作戦は全て瓦解するという事実が重くのしかかり、また「もしや引き金を引いても弾が出ないのでは」という妄想が駆け巡る。
否が応でも砲手たちの呼吸は乱れ、震え、手の平には嫌な汗をかいた(特に桃の狼狽ぶりは見るに耐えなかった)。
無意識に安息を求めて、視線が揺れ動く──いや駄目だ、一点に集中しなければ当たるものも当たらない──
「今回は殲滅戦です」
その時、砲手の耳に声が届いた。
皆が誰より信頼する、
「殲滅戦……
声がぶるぶると震え、最後は囁くように「戦車道は、愉快だ」と言った。
砲手たちは、笑った。
西住隊長は何も変わらない。戦車道が好きで好きで堪らないのだ。そんな人の指揮下で、有ること無いこと悩むのも馬鹿馬鹿しい。
いつの間にか、呼吸の荒波は凪いで、汗も引いていた。張り詰めた緊張は、戦車大好きな隊長の意志に応えたいという真心に代わった。
そうだ、何もかも楽しんでしまえば良い──彼女の様に。
砲手たちたちは、真っ直ぐな視線で、改めてスコープを覗いた。
敵が見えた。
狭い道を我先にと争う、猛烈な覇気を感じる。
やはり心底怒っていた。
隊長の手は下ろされない。
まだだ、まだ引き付ける。
敵戦車の順番が決まった。
五輛縦隊、
怒っていても最低限の判断力は健在らしい。
一度決まってしまえば、後は前進あるのみ。聖グロの突進力は、益々増したように見えた。
砲撃合図は出ない。
砲手は歯を食いしばって、指先が
敵は間もなく、高台へ登る分岐点に差し掛かった。
ここを通過されれば敵は左右に展開し、後はおしまいだ。
合図は出ない。
まだか、まだか、まだか。
もう、耐えられない──
誰もが独断で引き金を引こうとした、その時。
「撃ぇーーッ!!」
叫びと共に、隊長の手は下ろされた。
高台上で一斉に爆音が鳴り響く。
だが、敵戦車には一切命中しない。
大洗は、敵を狙ったのではなかった。
道の両脇にそびえる、
貫かれた崖の中で、
次の瞬間、巨大な岩が雪崩をうって聖グロ戦車隊を襲った!
聖グロ隊は突然の事態に驚愕し、足を止めていた。
それが最悪の判断であった。
特に先頭を走っていたマチルダⅡは無事で済まなかった。
砲身の直上に崖崩れが襲来し、それをいとも容易く
煙を噴いて白旗を掲げる先頭車と、落ちてきた岩が合わさり、後続の戦車は完全に立ち往生を食った。
次に降り掛かってきた厄災は、大洗戦車隊の一斉砲撃である。前提として、高所に展開していた大洗の砲撃は、定石を外れず一方的なものであった。
一列縦隊で身動きが取れず、しかも混乱状態の聖グロは甘んじてそれを受ける他なく、ようやく態勢を立て直し、統制を取って
大洗の損害零に対し、聖グロの損害二。
五対五の殲滅戦であることを考慮すれば、正に
聖グロ隊が高台へ到達した時、そこは既にもぬけの殻である。みほは完全に引き際を見切っていた。
呆然としたダージリンがキューポラから半身を露出させた時、見えたのは大洗町市街地へ続く道を走り去る、遠目にも丸分かりな、ふざけたカラーリングの大洗戦車隊の背中であった。
頭の中が真っ白になったダージリンは、暫し風に吹かれるままになっていた。味方の動揺した通信にも、何も反応が出来ない。
ぴくりと、不意にダージリンは顔を上げた。
微かに、風の中に声を感じたからである。
それは、歌声であった。
ダージリンは耳を澄まし、それを聞いた。
そして、その意味を理解した時。
それまでの憤怒以上の激情が心を支配した。
ダージリンは猛獣のような表情で歯を食いしばり、己の戦車を拳で叩いた。何度も何度も、その美しい手に血が滲むまで叩いた。
その歌は謳っていた。
『我ら英国へ進撃する、英国へ進撃する』と。
◆
今日は歌いながら 冷えたワインを飲もう
そしてグラスを打ち鳴らそう
私は別れなければ 行かなければならないから
その手を私に渡しておくれ あなたの真白き手を
さようなら愛しき人よ さようなら愛する人よ
さようなら お元気で
我ら進撃する 我ら進撃する
我ら英国へ 英国へ進撃する
楽しい時には、歌をうたおう。
この喜びをあなたに伝えよう。
『Wir fahren gegen Engeland』
https://www.youtube.com/watch?v=xALz_YxKTPI&t=37s