上野の地下は蜘蛛の巣状の坑道となっていた。
暗く視界の悪い、まるでどこまでも続くかのように錯覚してしまいそうな通路は、足元だけはしっかりとコンクリートで舗装されているがそれ以外、壁も天井も土がむき出しになっており、今にも崩れ落ちてくるのではないかと思わせるような有様だった。
――足場が悪いな
声を押し殺しながら、そっと心中で呟く。
こつ、こつ、と。
なるべく音を立てないように気を付けてはいるものの、こうも静寂に包まれた広い洞穴では嫌が応にも足音が反響する。
とは言え、自分と十字の足音以外に特に音は無い。
本当に何の音もしない。
少なくとも二十人程度、恐らく人だと思わしきものがいるはずなのに。
まるで生命全てが死に絶えたかのように、洞穴は不気味な静けさを保っていた。
COMPに表示されたマップを見つめる。
蜘蛛の巣のように広がった坑道の途中に点在する赤い点はミズチ曰、誰かがいる場所、らしい。
――本当に行くのか?
今更ながら考えてしまうのは、恐らくここが最後の分岐点だからだろう。
* * *
今代キョウジ、葛葉名取からの依頼は端的に言えば『近頃ガイアーズの動きが活発で何やら画策しているらしいので動向を調査して欲しい』というものだった。
とは言っても帝都内で言えばヤタガラスの監視の目がある。だがそれも天網恢恢というか、全ての人間の行動を把握できているわけではない以上、何がしかの漏れはある。
それでも大半は把握しているのだ……問題はその把握できていない一握りの場所でガイアーズたちが蠢いていることだが。
護国鎮護の機関たるヤタガラスはこの日本国内に限定すればメシア教やガイア教に匹敵、或いは凌駕するだろう勢力であり、当然ながらメシアもガイアも、それ以外の勢力だってヤタガラスの動きを常に警戒している。
そのため無暗矢鱈に人を動かせば、帝都内の
故に把握できていない少数地域をフリーのサマナーである俺に見てきてほしい、というのが実質的な名取からの依頼である。
当然ながらすでにその範囲は見て回っている。
ガイアーズの姿は見えなかった、というか普通の恰好して街中歩かれればガイアーズかどうかなんてほぼ分かるはずも無い。
一部
すでにその程度の内容は名取には送っているのだが、名取から帰って来た返事は調査続行。
と言っても名取だってすぐに何か見つかるだなんて思ってもいないだろう。
ガイアーズだって馬鹿ではないのだ、当然そういう工作をするなら見えないところでやっている。
つまり早急にそういった証拠を見つけようと思うならば、多少の危険を覚悟でガイアーズの拠点一つ殴り込むくらいのことはしなければならないのだが。
だったらどうしてよりによって本拠地へとやってきているのか。
危険度で言えば当たり前だが最大級だ。
普段の俺ならば絶対に寄りつくことすら嫌がる類の場所ではある……が。
和泉が居なくなった。
一週間連絡も取れず、音信不通。
拠点としているマンションには明らかな異常の痕跡があり、何かあったことは明白。
言って見れば予感だった。
嫌な予感がする。
ただそれだけの理由で俺は十字を連れてガイア教の本拠地へとやってきている。
* * *
故にここが最後の分岐点だ。
ガイア教の本拠地へと侵入を果たしたが、今なら……そうまだ誰とも遭遇せずに帰還することは可能だ。
今すぐミズチを使って地上へと脱出すれば何事も無かったかのように戻れる。
だがここから先へ進めば。
出会うのは全て敵だろう。
或いは、ここに和泉いるかとも期待半分ではあるが。
もしかしたら何の成果も無く、徒労に終わる可能性だって十分ある。
何せ和泉は本質的にガイアーズたちとは違う。
無法と暴力が支配するガイア教において、自らを律する法と道徳を持つ和泉は混じり合わない水と油だ。
メシア教への敵対、その一点のみでこれまで和泉はガイア教に身を寄せていたが、一度破綻すれば敵対はまず免れないだろう。
故に可能性の一つとして
ならそんな和泉がこの場所にやってくるはずも無い、というのも分かる。
この探索はハイリスクローリターンだ。
ガイア教の本拠地に潜入し、場合によっては奇襲するというリスクは最早計り知れない。
場合によっては世界の半分を敵に回すような事態になるかもしれない。
力を秩序とするガイアにおいて、力を軽んじられるというのは禁忌だから。
故に襲撃者は何があろうと必ず殺そうとするだろう。
例えガイアの総力を挙げてでも、必ず殺して面子を守る。
暴力という名の面子すら保て無くなればそれはガイアの滅亡を意味するから。
それに対して得られるリターンはどうだろう。
最善で和泉一人。或いはガイアが何かしようとしてるという情報も得られるかもしれない。
だがそれはガイア教を敵に回してまで得るほどの物なのか?
だからここが最後の分岐点。
そんなもの、考えるまでも無かった。
* * *
「……あら」
ぴちゃ、ぴちゃ、と。
水音が室内に響いていた。
あぁ……あぁぁ……と。
同時に呻くような喘ぐような、声が聞こえ。
むせかえるような雄と雌の臭いに顔を歪めた。
薄っすらと、暗闇に満たされた部屋で目が慣れてきて。
水音は男女たちから発せられていて、それが何なのか考える意味も無く。
ぱん、と。
銃声が室内に響く。
「ふふ……うふふふ。おイタはダメよ?」
白一色のワンピースを着た金糸の髪を腰まで伸ばした女は、けれどその獣欲に満ちた空間に一切交じり合わないほどに清らかで、けれどどこまでも目を惹き付けるほどに艶めかしかった。
放たれた銃弾を女が片手で
「糞ったれ……」
マップを見つめ、最も人の多い場所へやって来た。
坑道の途中途中に扉のようなものがまるで埋め込められたかのように設置されており、その中の一室が目的の場所だった。
聞こえたのは人の声と水音。
扉を開くかどうか、迷った自分を嘲笑うかのように扉が一人でに開き。
見えたのは肉欲に溺れ、享楽に耽る
咄嗟に放った弾丸はけれど女によってあっさり摘ままれる。
ただ者ではない……というのはすぐに分かった。
と、言うか。
「悪魔……か」
「ふふ……大正解♪」
嬉しそうに、弾むような声で、悪魔が笑みを浮かべる。
瞬間、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
香りが部屋に充満していく、と同時に。
――――!!
嬌声が響き渡る。
部屋の扉が開いたことなどまるで眼中に無いと言わんばかりに、男女たちが互いの体を貪り合い、行為に耽り合う。
「下がってろ……十字」
片手で十字を制し、指示を出すと十字が頷いてすぐに部屋から離れていく。
睨むような自身の視線に、けれど女はうっとりとした笑みを湛えたままこちらを見つめ。
「アナタはだあれ? ここは私の部屋。私が差配し、私が支配し、私が采配する私の楽園」
謡うように、女は告げる。
「そんな楽園にお客様だなんて……素敵だわ、素敵な話だわ、素敵な話よ」
謡うように、女は告げる。
「だからいっぱいお持て成ししてあげないとダメね。たくさん、たくさん、お持て成ししてあげないとダメだわ」
謡うように、女は独り呟く。
「甘い甘いお菓子と素敵なお茶で、たくさんお持て成ししてあげましょう」
ぱちん、と女が指を弾くと同時に。
「っ!」
部屋に充満していた甘い香りが一層強くなる。
部屋の中にいた男女たちは最早狂ったようにただひたすら性交を繰り返す。
快楽に笑みを浮かべ、けれどとっくに限界を迎えた体が悲鳴を上げていた。
男も女も、どちらも白目を剥きながら、それでも笑みを湛えてお互いの性器をぶつけ合う。
目の前に広がる色欲の宴は最早醜悪の一言だった。
だがそんなことすら気にならない。
気にする余裕すら無い。
「て、め……」
思わず膝を着く。全身を襲う熱と渦巻く欲に、理性が溶かされそうになる。
きっと人間のままだったならば……抵抗すら許されず目の前の饗宴に仲間入りすることになっていたかもしれない。
最早洗脳の域にまで達した香りはじくじくと理性を犯し、溶かしていく。
「燃やし尽くせ……ランタン!」
SUMMON OK?
「ヒーホー! やっちまうのかホー?!」
“マハラギダイン”
COMPから召喚されたジャックランタンが飛び出しざまに放った炎が室内を一気に燃やし尽くしていく。
当然室内にいた人間たちも全て燃やされていく……が。
「もう、手遅れだぜ、こいつは……」
炎に焼かれながら尚、性交を止めない男女たちに背筋がぞっとした。
火炎系魔法最強の一撃はただの人間に過ぎない彼ら彼女たちを一息に焼き尽くし。
後には女だけが残った。
「ああ……何てことかしら」
先ほどまでの笑みは消え、どことなく残念そうな表情で。
「私の楽園が……また作り直しね」
呟きながら視線をこちらへと向け。
「お客様ったら無粋だわ……こうなったらお仕置きが必要ね」
徹頭徹尾、こちらの言葉に返すことは無く。
女は自らの言葉を独り呟き続ける。
「ふふ、でも良いわ。私は寛大だから許してあげる。そう、だって」
――次はアナタも一緒に楽しむことになるんですもの。
* * *
「うふふふ……あははははは」
めき、と音を立てながら、女の頭に角のようなものが生えだす。
ふわり、と女が宙に浮かび上がり。
「良いわ、私自ら歓迎してあげる。この『
女が手をかざす。
「我が名は『イシュタル』……天にありて貶められし者。地に堕ちて尚貶められし者」
その手の中に金色の酒杯が現れる。
「我が名は『バビロン』……淫蕩と背徳の罪架を負わされし者」
言葉と共に酒杯から黒い何かが零れ出し、瞬くに金色の酒杯を
「これは……『バビロンの杯』なり」
“バビロンの杯”
一滴……たった一滴、黒が床に落ちた瞬間。
濁流のような黒が杯から溢れ出す。
「ランタン、吹き飛ばせ!」
「ヒー……ホー!」
“メギドラオン”
黒の濁流が室内を満たしていく。
当然ながらこちらへと向かって流れていくそれをランタンが持てる最大火力を持って吹き飛ばす。
焦熱が黒を焦がし、爆ぜ、蒸発させていき。
けれど黒は収まらない。
無尽蔵に杯から湧き出す黒は押し寄せる濁流となって部屋へと満ち。
「ランタン、こっちだ!」
ランタンの放った一撃で稼いだ僅かな時間で部屋を飛び出し、扉を閉める。
独りでに開いた扉だったが、けれど何の抵抗も無く閉まり……直後に扉に叩きつけられた黒が扉を突き破り溢れ出す。
「くっそがああああ!」
走る。
あれに掴まったらどうなるかなんて知りたくも無い。
けれどろくでもないことになることなんて自明の理だ。
故に走って、走って、走り抜け。
「クロスウウウウウウウウ!」
ここまで隠してきた札を一枚切ることにした。
* * *
ぴたり、と。
黒が止まる。
否、黒だけでない、必死に逃げようとしていた有栖という名の少年も、その少年の傍らにいるカボチャ頭の悪魔も。
まるで彫像か何かのようにピタリと動きを止めていた。
「停止できる時間はそう長くは無い……当たり前だが止めるほどに消耗するMAGは桁違いに増えていく」
その場で動く存在はたった一人だった。
「分かってるな? 十字……使い方を間違えるなよ?」
そう呟いて響野十字は……否
停止した少年を担ぎ上げ、その傍にいるカボチャ頭を片手で掴み。
人間一人担いでいるとは思えないほどの軽快な動きで坑道を駆けていく。
そうして動きを止めた黒い液体から距離を離したところで手近にあった扉を開き中へと入る。
室内に誰もいないことを確認した上で。
「解除」
呟いた。
* * *
一瞬で切り替わった視界に、クロスがやってくれたことを理解する。
遠くから聞こえるゴゴゴ、という水音のような物は先ほどの場所からそう遠く離れていない。
単なる時間稼ぎでしかないということを示していた。
「助かった、十字」
「……けど……連続は、無理、だぞ」
分かっている、と頷きながらも壁に背を付け音を探る。
何とか助かったか、と息を吐くと同時に疲れ切った様子で荒い息を吐く少年の姿を見やる。
響野十字。
かつて和泉が助けた悪魔絡みの事件に巻き込まれた
その時異能が発現し、こちら側の世界に関わらざるを得なくなった少年。
久々にバトル書きたかった。