「ただいま」
もうすぐ夕日が沈むという頃になって、勇次郎は買い物から家に帰ってきた。
「おかえりなさい、勇次郎さん」
「おう、手伝いごくろうさん」
台所で冴子の手伝いをしていた名無しが、勇次郎を出迎えた。
「なんだい、気分は新婚さんかい。もうすぐ晩御飯だから、月子を呼んできて頂戴」
「はいよー」
冴子の冷やかしをものともせず、勇次郎は階段を上った。
名無しはどこか不安げに、勇次郎を見ていた。それに勇次郎が気づくことはなく、月子の部屋の前に勇次郎は立った。
「月子、そろそろ晩飯だってよ。下りて来いってさ」
ドア越しに月子に話しかけたが、返事は一向にない。
「月子―。寝てるんじゃないよな?」
そろりと月子の部屋に入ったが、中には誰もいなかった。
「あれ、いねぇじゃん。どっか出かけたん……ボフッ」
部屋に入り切った瞬間、扉の陰から布か何かで口を塞がれた。
「んんんん! んんん!」
「静かにして、お兄ちゃん」
どうやら月子が犯人らしい。
それが分かった勇次郎は、大人しく両手を上げて降参の意を表した。
「んじゃ、そのままそこに座って」
布が口から外された。口を押えていた物の正体は月子のTシャツだった。皮肉にも、心臓を止めるな、というよくわからない文言が書かれている。それで勇次郎の呼吸を止めようとしたのだ、なかなか洒落が効いている。
「お兄さん、あしたは何の日か覚えてる?」
勇次郎を見下し、仁王立ちをする月子。
「えっと……燃えるごみと新聞回収が重なる日だったっけ」
「そうだったんだ……」
月子は神妙な顔で頷く。
「って、そうじゃなくて! 明日は豊漁祭でしょ」
「そーだったな。忘れてたよ」
勇次郎が棒読みでとぼけた。
月子はそれを無視して話を続けた。
「アタシとなっちゃんはお祭りに行く予定です。そこでお兄ちゃん、荷物持ち兼護衛兼案内係よろしくね」
「は? 嫌だよめんどくせぇ。てか、なっちゃんに了承とってんのか? なっちゃん人混み苦手だろ」
「お祭りだし、大丈夫だよ。……なっちゃん、最近元気ないように見えるから、気分転換になればいいな、と思って」
影を差す妹の表情につられ、勇次郎はその意見を受け入れた。
「そういうことなら、まぁいいけどさ」
「妹のお願いは速攻蹴って、なっちゃんのお願いは聞いちゃう辺り、お兄ちゃんも単純だよね」
「どういう意味だ。というかさ……」
勇次郎は固く拳を握りしめる。
「それだけの話なら、別にホールドとる意味ないんじゃないのぉ。月子ちゃんよぉ」
「一回やってみたかっただけで、他意はないです、ごめんなさぁぁぁい!」
月子が勇次郎を突き飛ばして、階段を駆け下りた。
「待てこら月子ぉぉぉ」
急いでそれを追いかける勇次郎。
「キャッ」
「おっと。すまん」
階段近くにいた名無しにぶつかりそうになる。その隙に月子は逃げてしまった。
「お兄ちゃんから話してねー。よろしくー」
居間に逃げ込んだ月子が、顔だけ出してひょうきんに言いのけた。
「あいつ……」
「もう、勇次郎さん。家の中で走り回ったら危ないですよ」
名無しが頬を膨らまして抗議した。
「あぁ、悪いな。なっちゃん」
勇次郎は改めて、名無しをジッと見た。
冴子から借りた割烹着は、とてもよく似合っている。どこかの若妻と言われれても分からない。
白頭巾の端から少し零れている茶髪が、どこか年頃の少女の雰囲気を残している。勇次郎は雑念を振り払うように頭を振る。
「どうかしましたか? 勇次郎さん?」
名無しが勇次郎を不安げに見つめていた。
「いや、なんでもないんだ。ところでなっちゃん、明日この村で、豊漁祭っていう祭りがあるんだ。月子と三人で行かないか?」
「お祭り、ですか。でも私、人混みが……」
「大丈夫、俺が守ってやるから」
勇次郎の笑みにつられて、名無しはこくりと頷いた。
「んじゃ、明日の夕方な。着付けは母さんがやってくれるだろう」
「はい……。私、とても楽しみです」
名無しは嬉しそうに肩を揺らした。
それが勇次郎の腕に当たる。
「浮かれて怪我するなよ」
「はい、気を付けます」
ニコニコと答える名無しに、勇次郎は苦笑した。
「晩飯できてるんだろ?」
「はい、今晩は煮つけですよ」
二人で並んで歩く廊下は、狭いけど、暖かいものだった。