水平線の少女   作:宵闇@ねこまんま

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水平線の少女(8)

「ただいま」

 もうすぐ夕日が沈むという頃になって、勇次郎は買い物から家に帰ってきた。

「おかえりなさい、勇次郎さん」

「おう、手伝いごくろうさん」

 台所で冴子の手伝いをしていた名無しが、勇次郎を出迎えた。

「なんだい、気分は新婚さんかい。もうすぐ晩御飯だから、月子を呼んできて頂戴」

「はいよー」

 冴子の冷やかしをものともせず、勇次郎は階段を上った。

 名無しはどこか不安げに、勇次郎を見ていた。それに勇次郎が気づくことはなく、月子の部屋の前に勇次郎は立った。

「月子、そろそろ晩飯だってよ。下りて来いってさ」

 ドア越しに月子に話しかけたが、返事は一向にない。

「月子―。寝てるんじゃないよな?」

 そろりと月子の部屋に入ったが、中には誰もいなかった。

「あれ、いねぇじゃん。どっか出かけたん……ボフッ」

 部屋に入り切った瞬間、扉の陰から布か何かで口を塞がれた。

「んんんん! んんん!」

「静かにして、お兄ちゃん」

 どうやら月子が犯人らしい。

 それが分かった勇次郎は、大人しく両手を上げて降参の意を表した。

「んじゃ、そのままそこに座って」

 布が口から外された。口を押えていた物の正体は月子のTシャツだった。皮肉にも、心臓を止めるな、というよくわからない文言が書かれている。それで勇次郎の呼吸を止めようとしたのだ、なかなか洒落が効いている。

「お兄さん、あしたは何の日か覚えてる?」

 勇次郎を見下し、仁王立ちをする月子。

「えっと……燃えるごみと新聞回収が重なる日だったっけ」

「そうだったんだ……」

 月子は神妙な顔で頷く。

「って、そうじゃなくて! 明日は豊漁祭でしょ」

「そーだったな。忘れてたよ」

 勇次郎が棒読みでとぼけた。

 月子はそれを無視して話を続けた。

「アタシとなっちゃんはお祭りに行く予定です。そこでお兄ちゃん、荷物持ち兼護衛兼案内係よろしくね」

「は? 嫌だよめんどくせぇ。てか、なっちゃんに了承とってんのか? なっちゃん人混み苦手だろ」

「お祭りだし、大丈夫だよ。……なっちゃん、最近元気ないように見えるから、気分転換になればいいな、と思って」

 影を差す妹の表情につられ、勇次郎はその意見を受け入れた。

「そういうことなら、まぁいいけどさ」

「妹のお願いは速攻蹴って、なっちゃんのお願いは聞いちゃう辺り、お兄ちゃんも単純だよね」

「どういう意味だ。というかさ……」

 勇次郎は固く拳を握りしめる。

「それだけの話なら、別にホールドとる意味ないんじゃないのぉ。月子ちゃんよぉ」

「一回やってみたかっただけで、他意はないです、ごめんなさぁぁぁい!」

 月子が勇次郎を突き飛ばして、階段を駆け下りた。

「待てこら月子ぉぉぉ」

 急いでそれを追いかける勇次郎。

「キャッ」

「おっと。すまん」

 階段近くにいた名無しにぶつかりそうになる。その隙に月子は逃げてしまった。

「お兄ちゃんから話してねー。よろしくー」

 居間に逃げ込んだ月子が、顔だけ出してひょうきんに言いのけた。

「あいつ……」

「もう、勇次郎さん。家の中で走り回ったら危ないですよ」

 名無しが頬を膨らまして抗議した。

「あぁ、悪いな。なっちゃん」

 勇次郎は改めて、名無しをジッと見た。

 冴子から借りた割烹着は、とてもよく似合っている。どこかの若妻と言われれても分からない。

 白頭巾の端から少し零れている茶髪が、どこか年頃の少女の雰囲気を残している。勇次郎は雑念を振り払うように頭を振る。

「どうかしましたか? 勇次郎さん?」

 名無しが勇次郎を不安げに見つめていた。

「いや、なんでもないんだ。ところでなっちゃん、明日この村で、豊漁祭っていう祭りがあるんだ。月子と三人で行かないか?」

「お祭り、ですか。でも私、人混みが……」

「大丈夫、俺が守ってやるから」

 勇次郎の笑みにつられて、名無しはこくりと頷いた。

「んじゃ、明日の夕方な。着付けは母さんがやってくれるだろう」

「はい……。私、とても楽しみです」

 名無しは嬉しそうに肩を揺らした。

 それが勇次郎の腕に当たる。

「浮かれて怪我するなよ」

「はい、気を付けます」

 ニコニコと答える名無しに、勇次郎は苦笑した。

「晩飯できてるんだろ?」

「はい、今晩は煮つけですよ」

 二人で並んで歩く廊下は、狭いけど、暖かいものだった。


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