水平線の少女   作:宵闇@ねこまんま

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水平線の少女(7)

「お兄ちゃんがいそいそと家出て行ったから、春姉来るのかなーって思ってたよ」

 月子は三人分のお茶を用意しながら、春江に言った。

「そうかい。あたいは勇次郎にも用があったんだけどね」

 春江は小さく溜息をつきながら、頬杖をついた。

「なっちゃんは春姉と話すのは初めてだよね。春姉はね、アタシとお兄ちゃんのお姉ちゃんみたいな人なんだよ」

 月子の言葉に、名無しは軽く頷いた。

「ここら辺は人口が少ないからね。うちと三枝さんは家も子供たちの歳も近いから、昔から仲良くしてるんだ」

「春姉は村一番の海女さんだしね。すごいんだよー」

 月子は冷たい麦茶をコップに入れて、ちゃぶ台に運んだ。

「お母さんがもうすぐ帰ってくるから、少し待っててね」

「あぁ、そうさせてもらうよ」

 春江は運ばれた麦茶を、豪快にグイッと煽った。

「ふぅ。ところで月子。この子をなっちゃんって呼び始めたの、月子でしょ」

 春江は切れ長のまつげをひくつかせて、月子を見た。

「……はーい。だって、一年以上前のことだったし」

「いや、別に怒ってるわけじゃないんだよ。もうみんな『夏海』のことは受け止めてる。ただ、受け止められない勇次郎が、そう呼ぶことにあたいは違和感を持っただけさ」

「でも、それはしょうがないんじゃ――」

 「あの、『夏海』さんって、勇次郎さんが毎朝、防波堤で待ってるっていう……人ですか?」

 月子の言葉を遮り、名無しが言葉を挟んだ。以前、勇次郎が話してくれた女性の名前が出てきたからだ。

 名無しの言葉に、月子と春江は固まった。

 二人は名無しを見ていた。その表情はなんとも言えない気持ち悪さを物語っていた。

 何か、言ってはいけないことを言ってしまったような雰囲気が部屋に満ちる。

「ナナは、防波堤で勇次郎に話しかけたのかい?」

 ナナというのは、名無しのことらしい。

 名無しは、こくりと頷いた。

 まるでそれが悪いことのような気がした。

「そうかー。あの時のお兄ちゃんとお話したのかー。できれば、気づかないで欲しかったな」

 普段から明るい月子ですら戸惑っていたので、名無しは心底後悔した。

 こんな話、しなければよかったと。

 でも、本当の地獄はそこからだった。

「勇次郎は、まだ『夏海』を探しているのかい?」

「……はい。そう言っていました。それが、何か問題なんですか?」

 名無しは、勇気を奮って、訊いた。

 とても残酷な真実の扉を、ノックした。

「あぁ。『夏海』はもう、『死んでいる』」

 春江の言葉を、名無しが理解するのには、少しの沈黙が必要だった。

 

****

 

「でも、勇次郎さんは、毎朝、防波堤で」

 名無しは早口になりすぎて、どもり気味にまくしたてた。

「なっちゃんの言いたいことは分かるよ。死人を待つなんて、どう考えてもおかしいって」

 月子は悲しそうな表情で虚空を見つめる。手元の麦茶に入っていた氷は、全て溶けていた。

「勇次郎は、まだ夏海の死を受け入れてないんだ。あいつこそが、第一発見者だってのに」

 春江は悔しそうに唇を噛み締める。

 名無しは、その現実がとても受け入れられなかった。

 いつも心に余裕があるように見えて、誰よりも親切で、優しくて、周りを常に気遣える。そんな勇次郎が、そんな大きな問題を抱えているなんて、想像がつかなかった。

「夏姉はね、お兄ちゃんと同い年だったの。それで、子供の頃は、アタシとお兄ちゃんで、夏姉のこと、『なっちゃん』って呼んでたの。中学生になった頃から、お兄ちゃんは『夏海』、アタシは『夏姉』って呼ぶようになったけど」

 名無しの脳裏に、初めて『なっちゃん』と呼ばれた時の、勇次郎の張り付けたような笑顔を思い出された。

「夏海は、この村で一番の海女になれる、自慢の妹だった。勇次郎も、鋭い勘と洞察力で、この村一番の漁師になれる男だった。そんな二人は、幼馴染ってことで、すごく仲がよかったんだ」

「見てるこっちが恥ずかしくなるくらいにね」

 月子は昔を思い出して、フフッと笑った。

「そう……なんですか」

 名無しの胸が、ズキズキと痛んだ。

「けど一年と少し前に、海女として海に潜ってる最中に、事故があった。たぶん、潜ってる最中にフカか何かに襲われたんだと思う。その時、勇次郎の誕生日が近いから、街でいいもの買うんだ、って張り切ってたからね。少し無茶をしたんだと思う」

「一晩帰ってこなくて、みんな手分けして探したんだよ。お兄ちゃんなんか、死に物狂いで探して、船も夜ギリギリまで探して。朝、だれよりも早く浜に向かったお兄ちゃんが、浜に打ちあがってた、夏姉を見つけたんだ」

 名無しは、口を手で押さえた。

 言い知れぬ吐き気が込み上げてきたからだった。

 勇次郎が名無しを見つけた時、いったい彼は、どんな気持ちで救ったのだろう。

 そう考えると、やりきれなかった。

「それ以来、勇次郎は船に乗らなくなった。正確に言えば、『乗れなくなった』」

「乗れなく……?」

「うん、乗れなくなった。大切な人を殺した海が、怖くなったって。でもいつからか、毎朝防波堤に釣りをしに行くようになったんだ。心配になったアタシが話しかけたら、夏姉と間違えられた。お帰りって、心底嬉しそうに笑うんだ。アタシ、お兄ちゃんのこと……少し怖くなった」

「あたいも間違えられたことがあるね。たぶん、誰でもいいんだ。だけど、誰もあいつの心の傷を、癒すことはできないんだ」

 春江は、名無しを見た。

「そんなあいつが、ナナのことを『なっちゃん』と呼んだ。あたいはそれが心配だよ。あいつが、ナナを夏海の代わりに――」

「春姉!」

 月子が春江の言葉を遮った。

「……ごめんね。今の言葉は、ナナには言っちゃいけない言葉だったね。ナナは、ナナらしく生きていけばいいんだ。夏海とは違う」

 春江は、自分に言い聞かせるように、言葉を漏らした。

「ただいまー。あら、春ちゃん来てるのー?」

 冴子が丁度帰ってきた。

 春江は顔を上げて、月子と名無しを見た。

「長居しちゃったね。おばさんに挨拶したら帰るよ。じゃあね」

 そう言って、そそくさと居間を出て行こうとした。

 最後に、名無しを見て、言った。

「記憶喪失のナナに頼むのも変なんだけどさ、勇次郎のこと、助けてあげて。お願い。ナナならなんとかできるって、そんな気がする」

 そう言い残して、春江は玄関に向かった。

「……春姉は、ああ言ってたけど、アタシは時間が解決してくれると思ってる。だから、無理はしないでね」

 月子は、春江が居た場所を見つめながら言った。

 名無しは、ただ茫然と頷くことしかできなかった。


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