「今日、少し街の方に買い物行ってくる。何か買ってくるものとかあるか?」
朝ごはんを食べている時、勇次郎が突然言った。
「新作のバック」
「却下」
「新しい船」
「無理」
「母親への思いやり」
「今以上に!?」
「……可愛い服を」
「……予算上また今度にしてください」
「今、なっちゃんのお願いだけ一瞬考えたでしょ! うわーないわー。気持ち悪いわー」
月子の頭に小さなたんこぶをプレゼントした勇次郎は、白いTシャツの上に、灰色で半袖のパーカーを羽織って、黒いチノパンを穿いていた。
いつもより少しオシャレした勇次郎が、いつもと少し違う様子がして、名無しの胸はざわついた。
しかし、何も言えないまま、勇次郎は行ってしまった。
「ついていかなくてよかったの?」
月子の言葉に、名無しはドキリとする。月子はいまだに名無しと勇次郎をくっつけようと画策しているようだ。
その日名無しと月子は、月子の部屋でゴロゴロと休みを消費していた。
月子の質問に、名無しははにかみながら答えた。
「街の方は人が多いと聞いたので……。少し私にはハードルが高いかな、と」
ごまかしの気持ちが入ってしまったことに、小さな罪悪感をおぼえた。
「えー。なっちゃん可愛いから、こんな田舎より街のほうが似合うよー。それに立派なものをお持ちだし」
月子はジト目で名無しのある一部分を凝視した。
名無しは慌てて近くにあったクッションで隠した。
「勝手に大きくなってたんです! 月子さんだって、スタイルいいじゃないですか」
「んふふ、そうかなー」
月子はその場でモデルのポーズを真似て名無しにウインクする。
「……」
苦笑いで答えた名無しがその評価を物語っていた。
「酷いなー。でも、うちの村にはなっちゃんよりスタイル良いスーパー美女がいるんだからね! 今でもたまにうちに遊びにくるんだよ」
名無しはニコニコと月子の話を聞いていた。
名無しがこの家に来て、二週間ほど経った。
記憶の手がかりはまだ見つからないが、もう三枝家の一員として、すっかり村に馴染んでいた。
冴子の手伝いをして、それ以外は月子や勇次郎と共に過ごしていた。
特に月子は、同年代の女の子はみんな遠い場所に住んでいるので、なかなか長期休みに会えないらしい。だから、名無しと月子はそれこそ姉妹のように仲良く過ごしていた。
「おばさーん。いるー?」
玄関の方から、聞き慣れない声が聞こえてきた。名無しは月子に首を傾げ、誰だか尋ねたが、月子はにやりと笑っただけだった。
「噂をすれば……。ちょっと部屋片づけてから行くから、先に下行ってて」
「わかりました」
名無しはトコトコと階段を下りていった。
玄関には一人の女性が、籠いっぱいの貝やら魚やらを携えて、辺りを窺っていた。
よくわからない英文の書かれたTシャツは、豊かな胸部のおかげで、さらによくわからない文字になっていた。茶色の髪は、とても活発的な印象を周囲に与えている。
「あの……初めまして。私、今ここでお世話になってる者です。名前は……」
「あぁ、あんたが名無しの子ね。噂は聞いてるよ」
女性は満面の笑みで名無しを受け入れた。屈託のない笑顔に名無しもいつにも増して笑顔を浮かべることができた。
「はい、皆さんから名無しちゃんで、なっちゃんと呼ばれてて……」
「なっちゃん……? それは、勇次郎もそう呼んでるのかい?」
女性は急に怖い顔になって、名無しを、具体的には名無しの後ろの階段を睨みつけた。その態度の豹変ぶりに名無しが言葉を失っていると、声を低くして女性が尋ねた。
「……今日、勇次郎はいるかい?」
「い、いえ。街に買い物にいってます。冴子さんも、スーパーに買い物に行ってまして。もうすぐ月子さんが来ます」
名無しは、何か悪い予感がして早口で答えた。少しつっけんどんな言い方になっていたが、女性は気にする素振りも見せず、頬に手を当てた。
「そうかい、月子はいるんだね。……勇次郎のやろう、逃げやがったな」
名無しはその言葉が気になった。
「逃げたって、どういうことですか?」
「あぁ、悪いね。つい言葉が悪くなっちゃった。いや、昨日の晩、勇次郎には明日行くって連絡しといたんだけど、返信がなくてね。そんな感じで、あいつとは半年近く顔を合わせてないんだ」
女性は笑顔に戻り、名無しに手を差し出した。
「あたいは相良春江。この村で海女をやってる」
名無しは、ゆっくりとその手を握った。大きくてさらさらしているが、強い力が溢れていて印象的だ。
「春姉~久しぶり~」
二階から月子がタタタと小走りに降りてきた。
「ちょうどなっちゃんに春姉の話しようとしてたんだよ。さぁ上がって上がって」
月子は春江の手を引いて居間へと進んだ。
「月子、そんなに引っ張らないでちょうだいよ」
春江は苦笑しながら、されるがまま、居間に連れて行かれた。
名無しはその後をゆっくりとついていった。
春江の先ほどの言葉をゆっくりと反芻しながら。