ペタリ、ペタリと。誰かが板張りの廊下を歩く音で名無しは目を覚ました。
名無しは、月子の部屋に蒲団をしく形で睡眠をとっていた。
壁を見ると、時計の針はもうすぐ四時を指す頃だった。
隣の蒲団には、月子がぐっすりと寝ている。
足音は階段をゆっくりと音を立てないように降りていった。
(勇次郎さん……?)
月子の隣の部屋は勇次郎の部屋になっており、冴子と厳慈は一階に寝室があるので、名無しは勇次郎だと推察した。
どうにもこのまま眠れない、そう感じた名無しは月子の部屋を出た。
階段を下りている途中で、玄関が開く音が聞こえた。
どうやら勇次郎は外に出たらしい。
名無しは好奇心が抑えられず、こっそりとその後をついていった。
勇次郎は釣り竿とバケツを持ち、海に向かっていった。
村はまだ静かで、薄暗かった。遠くで波の音が響いている。
生暖かい風が名無しの肩を撫でて行った。
防波堤に着くと、勇次郎は防波堤の先に座り込み、竿を垂らした。
その姿は、どこか寂しそうで、話しかけるのを躊躇させた。
勇気を振り絞って、話しかけることを決意したのは、それから十分後だった。
名無しは、勇次郎を驚かさない様に、ゆっくりと話しかけた。
「――ここから、倒れてた私が見えたんですか?」
その言葉に、勇次郎は勢いよく振り返った。
「な、『夏海』……?」
勇次郎は喜びと驚きが混じったような複雑な顔で名無しを見つめた。
薄暗い時間だったので、きっと誰かと見間違えたんだろう。そう考えた名無しは、誤解を解こうとした。
「勇次郎さん、私です。名無しの」
「『夏海』!」
突然、勇次郎は名無しを強く抱きしめる。強引ともとれるその行動を名無しは止めることができなかった。
「お前、どこいってたんだよ! さんざん心配かけやがって! お前がいなくなったら俺、俺……」
「勇次郎さん!? 人違いして」
その時、名無しは気づいた。
勇次郎が嗚咽混じりに大粒の涙を流していることに。
「勇次郎さん……?」
「俺よぅ、お前がいないと、ダメなんだよ……」
名無しは、なぜか胸が苦しくなって、勇次郎をゆっくりと抱きしめ返した。
きっとそれは同情ではなく、名無しの心のどこかに引っかかるものがあったからだ。勇次郎の顔を、名無しはかつてどこかで見たような気がした。辛い現実と戦う者の顔を。
結局、そのまま十五分ほど、名無しは抱きしめられたままだった。その間、名無しはひたすら勇次郎の背を撫で、勇次郎はいつまでも溢れてくる涙をとめどなく零していた。
朝日が昇り始めた時、日の光が名無しの顔を強く照らした。眩しさに目を細め、勇次郎も同じように一度名無しから離れた。そして名無しの顔を見つめる。
その瞬間勇次郎は、ハッと息を飲んで、すぐに名無しから離れた。
「勇次郎さん……?」
「悪い、人違いだった。――このこと、親父たちには内緒にしてくれ」
「でも……」
「いいから! ……頼む」
勇次郎は少し腫れた目頭をこすり、名無しを見た。
その眼には、有無を言わせない何かがあった。
「……わかりました。でも……理由くらいは教えてください」
寂しそうな表情を浮かべる名無しに、勇次郎は話すのを躊躇っているようだった。
しかし、話すことを決めたようで、名無しに改めて向き合った。苦しい表情を浮かべる勇次郎に、名無しは心苦しさを覚えたが、それでも訊かずにはいられなかった。
「一年くらい前に、大切な人が俺の前からいなくなったんだ」
勇次郎は、唇を噛み締めて海を睨んだ。
「俺は、あいつが帰ってくるのを待ってるんだ。いつまでも、この場所で」
勇次郎の顔が朝日に照らされていた。その顔には、強い意志が現れていた。
「うちに帰るか。朝飯の時間だ」
勇次郎が名無しに笑顔を向けた。目を赤く腫らしたそれは痛々しい程の強がりでできていた。
「……はい。そうですね。月子さんを起こさないと」
名無しもその笑顔に答える。
胸の内に、鋭く刺さった刃を撫でながら。