「そうかい、海ねぇ」
冴子はサバの味噌煮を頬張りながら言った。
「はい……」
「海は広いからなぁ」
厳慈は言い聞かせるように言った。
漁師である厳慈がそう言うと、なおさらその重みが増す。
「ここの浜にものが流れてくるのって稀だろ? 付近の島じゃないのかね」
勇次郎の言葉に、厳慈は頷いた。
「それに最近、漁獲量が減っとるし、海に何か起きてるのかもしれん」
「父ちゃん、大丈夫なのかい?」
「あぁ、ここらは豊かな海域だから少し減っても問題はねぇ。ただ、周りの若いのは少し危惧してる。少しでも漁の時間を増やして減った漁獲量を取り返そうとしてたが、みんなで止めた。まだ我慢の時だ」
「気を付けてくれよ、親父」
「わかっとる。心配するな」
勇次郎の心配を素っ気なく飯と一緒に口にかきこんだ。
「お兄ちゃん、実はこっちにも問題が」
唐突に月子が割って入ってきた。その顔はいつになく険しい表情だ。
「どうした月子」
「学校の宿題、学校に忘れた」
「なぜ夏休みが始まって二週間後に気づいたんだ」
「フンっ……訊かないでよ。そんな当たり前のこと」
月子は目を細め、にやりと笑った。
「なぁにかっこつけてんだい! 飯食ったらさっさと取りにいってきな!」
冴子の雷を受け、月子は急いでご飯を口にかきこんだ。
「暗いから気をつけろよ」
「わ、わたしも行きます! 危ないし……」
名無しがそう言うと、月子は笑った。
「歩いて十五分くらいだし、別にいいよ。なっちゃんはゆっくりご飯食べてて」
「いいえ、心配なので行きます! しっかり護衛させていただきます!」
その言葉に、家族全員が笑った。
「護衛だなんて、なっちゃんは大げさだなぁ。よし、月子。しっかり護衛してもらえ」
厳慈の言葉に、月子は頷いた。
「じゃあお願いね、なっちゃん。でも、ご飯はゆっくり食べてね」
「……はい」
名無しは耳を真っ赤にして箸を進めた。
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「じゃあいってくるね」
「いってきます」
月子は街燈もない真っ暗な道を、明るい足取りで進んだ。
その後ろでは、名無しがキョロキョロと辺りを窺っている。
「なんにもないから、大丈夫だよー」
月子の言葉に、名無しは曖昧に頷く。
「分かってはいるんですけど、なんだか落ち着かなくて」
「なっちゃんは心配症だなぁ。ねえ、何かお話しようよ」
「お話……ですか。私なにも話せることなんて」
「例えば、お兄ちゃんの事とかさ」
名無しはその言葉にピクリと反応する。
それをチラリと見た月子はうっすらと笑みを浮かべ、話を続けた。
「お兄ちゃん、顔もいいし、性格もいいんだけど、彼女いないんだよねぇ」
「……勇次郎さんには感謝してます。助けていただいたこと。暖かい家に迎え入れてくれたこと。ですが、私には」
「記憶がない、でしょ?」
名無しはこくりと頷いた。月子は名無しが来てからの数日、名無しと勇次郎がくっついてしまえばいいのではないか、ということを考えていた。二人はお似合いに見えたし、なにより勇次郎が以前より明るくなったのを月子はよく知っていた。ただ名無しの方にも、勇次郎の方にも心の奥で眠る遠慮が時折垣間見えた。名無しのその遠慮の原因が、失われた記憶であると月子は予想していた。
「でも、記憶がない、というのは、たぶん間違っているんです。『嘘』なんです」
名無しは戸惑いながらも、確かに自分の口からそう言った。その言葉に月子は少し驚くが、そのまま話を促した。
「どうしてそう思うの?」
月子は優しく諭すように訊いた。
名無しは自分より年下に見える月子に、不思議な抱擁力を感じていた。
「……自分に記憶がない。そう考えると、胸の奥から声が聞こえるんです。違う、お前は! そこで声は途切れるんです。男の人でも、女の人でもない。全てが混じり合った声。声というより、悲鳴。その声が聞こえるたびに、私は目を逸らしてしまうんです。怖くて、怯えて、逃げ腰になってしまうんです」
月子は名無しの瞳をジッと見つめた。その奥に、月子には思い図ることもできない、何かが居るように感じて。
「変ですよね。思い出さないといけないのに、思い出すのが怖いんです」
「変じゃないよ」
月子は、名無しの瞳の中にいる何かに宣告するように言った。
「アタシはまだ十七の子供だけど、記憶は曖昧なものだと思ってる。曖昧でいいんだって。今まであったこと全部背負ってたら、きっとみんな潰れちゃうよ。だから人は忘れるんだよ。いつかそれを背負える時、その記憶に向き合える時がきたら、ちゃんと思い出せるように、神様だか誰だかが、そういう風に作ったんだよ。アタシはそう思ってる」
名無しはポカンと口を開けて月子を見た。
「だから、なっちゃんの記憶も、ちゃんと向き合える時がくるよ」
「ありがとうございます。月子さん、私、なんだか頑張れるような気がしてきました」
名無しは何かが吹っ切れたように、空に浮かぶ月を見上げた。
「……だから、そんな記憶は、少しの間でも、忘れちゃうほうがいいんだよ。背負えないのに、向き合うのは、辛すぎるよ」
月子は、空を見上げる名無しを、少し羨ましそうに見て、呟いた。
「なにか言いましたか?」
「ううん、なんでもない。ほら、もう学校だよ。さっさと取っちゃおう」
そう言って、二人は学校に入っていった。