その日の見学は補給で終わった。明日は名取も交え、大湊の提督と大規模演習を行うと棗は勇次郎に言った。名取と長波は二人で執務室を去った。名取は今日駆逐寮で過ごすらしい。この様子だと明日は重巡寮に泊まることになりそうだった。
「で、今日もこの広い寮で一人きりってわけか」
勇次郎は蒲団に寝転がり、天井を見上げていた。そうしているうちに、瞼が鉛のように重くなり、暗い背景に陽炎や川内の姿が映り、今日は忙しかったな、という言葉を脳が理解している間に眠りに落ちていった。
「……次郎。勇次郎」
誰かの呼ぶ声に勇次郎は目を覚ました。
糊のようにべたつく瞼を必死に開け、視線を蒲団脇に向け目を凝らすと、窓枠に誰かが立っていた。
「おぉ、起きた。おはよー」
声の主を探る前に壁に掛けられた時計を見ると、まだ午前二時だ。
「誰だ……」
「私だよ、私。川内だよ」
瞼のべたべたが取れはじめ、暗い部屋の窓枠に腰掛ける川内を一瞥し、また蒲団を被った。
「寝かせろ」
「うわぁ、私の対応に慣れ過ぎでしょ。球磨みたいな反応しないでよ」
窓枠から降り、勇次郎の蒲団を揺らす。それに合わせ蒲団の中から曇った声が聞こえる。
「なんだよ。今日は疲れたんだ」
「いいから起きてって」
観念した勇次郎は顔をひょこりと蒲団の外に出した。その体勢はぜったいに蒲団からでないけど話だけはきいてやる、という勇次郎の意志を物語っていた。
それを見た川内は大人しく蒲団の横であぐらをかいた。
「なんの用だ。というかどこから入った」
「窓のカギ開いてたから窓から。ちょっと話がしたくてさ」
いつになく真面目な顔をする川内に違和感を覚えた勇次郎は真剣に話を聞くことにした。
「で、話って?」
「できればここじゃなくて外で話したいんだけど」
「俺は早起きは三文の徳という言葉が偽りだとつい先日気づいたんだ」
川内は苦笑いで応える。
「お願いだからさ。すぐに終わる話だし、ね?」
川内の瞳に切ない光が宿ったのが見え、勇次郎の心が揺らいだ。
「……明日は演習だから、終わったらすぐ寝るぞ」
「ありがと」
蒲団から身体を出すと、汗のせいか、少し肌寒く感じた。床に落ちているパーカーを着込み、ドアに手をかけた。
「管理人さんに説明するのは面倒だな」
「そうだね……。勇次郎、こっちこっち」
川内は窓枠をまたいで、外に出た。
「おい、二階だぞ。あぶねぇよ」
「大丈夫だって。ほらこっち」
川内は窓の外から手を振り、勇次郎が窓際に寄ると、確かに人が一人立てるような足場があり、川内が指さす先には室外機が足場の少し下の壁に埋められていた。川内はそれに飛び乗り、そのまま地面に降り立った。
勇次郎も川内の後に続いた。室外機の上に足を乗せた時、ミシリと嫌な音が聞こえた気がしたが、そのまま地面に降りた。靴を履いていなかったので、コンクリートの小さな棘が足裏を刺した。
「勇次郎、これ」
川内は茂みからサンダルを取り出した。勇次郎の足よりサイズが大きい。
「これどうしたんだ?」
「提督から借りた」
悪戯っぽく笑う様子を見ると、棗の了解は取っていないようだ。
「こっち」
川内は軽い足取りで海岸へ向かった。
道中、川内は時折空を見上げ、チラリと勇次郎の方に目を向け、何も言わずにまた前を向いて歩いた。
「今日はやけに静かだな」
沈黙に耐え切れず話を切り出すと、川内は前を向いたまま話始めた。
「まぁね。色々考えることがあってさ」
「お前も考えことがあるんだな。てっきり夜戦のことしか頭にないと思ってた」
勇次郎はそう言った後、しまったと思った。嫌味な言い方になってしまったことを済まなく思い、謝ろうと思ったが、その前に川内が口を開いた。
「勇次郎は、私がなんで夜戦にこだわるか知ってる?」
「まぁ……棗さんから少し聞いた。大戦時に活躍した戦闘が夜戦だったから、だっけ?」
「おおまかに言うと、そんな感じ。私が参加した戦闘のうち半分以上が夜戦だったっていうのと、沈んだ戦闘が夜戦だったことも関係してる」
「……」
沈んだ戦闘、その言葉に勇次郎は嫌な響きを感じた。泥水に足を踏み込んだような、気持ち悪さだ。
「でもさ、軽巡や駆逐艦の戦闘なんて夜戦がもっぱらだし、私は特別夜戦と関わりが深いわけじゃないんだ。でも、私の心には、いつでもこの景色が漂っているんだ」
川内はこちらに顔を向けた。川内の向こうには、一筋の光もない真っ暗な海が広がっていた。
いつのまにか、勇次郎と川内は海岸に着いていた。すぐそばで鳴り響いているはずの波のぶつかり合う音が、遠い国からぼんやりと響くBGMのように聞こえ、限りなく無音に近い海が眼前に広がっていた。
「私が闘っていたのはこの海なんだ。この海のはずなんだ」
川内は勇次郎の目を見据え、まっすぐと言葉を投げつける。
「私は艦娘になりたくなかった」
勇次郎はその言葉を理解するのに数秒かかった。