駆逐寮は他の寮より階数が多めで、看板には誰かが描いたのだろうか、可愛らしい猫の絵が描かれていた。
「おばさん、この人私のお客ね」
陽炎が管理人室でテレビを見ていた女性に声をかけた。その女性は来客用の寮と比べて幾分若い。
「お姉さんでしょ? ……あら、陽炎ちゃんも遂に彼氏? 少し前まで男の人を見るだけで逃げてたのに、成長したわね」
「いいから! もうっ」
陽炎がいそいそと歩を進めた。
「はやく、他の子が起きちゃうでしょ」
陽炎の案内に付き添い、勇次郎も急いでついていく。
視界の端に親指を突き立ててウインクしている女性がいたが、苦笑いで手を横に振ることしかできなかった。
「この奥に風呂場があるから、脱いだ服は頂戴。すぐ洗ってくるから」
陽炎は周囲をちらちらと見て、スリッパを入れる靴箱の脇に立てかけられた『清掃中』の看板を引っ張り出し、風呂の入り口に立てかけた。
「私が服を洗濯している間はこれで入れない様にしておくから。それでも誰か来たら素っ裸でもタオルなり桶なりで隠して出てきなさいよ。妹達に手を出したら許さないから」
陽炎はキッと勇次郎を睨みつけ、近くに合った籠を突き出した。
「???」
「服を入れて頂戴。はやく」
勇次郎は脱衣所に向かい、すぐに服を全て脱ぎ捨て、籠に詰めた。
中は意外と広く、ちょっとした旅館の風呂のようだった。
「ほら、頼むぜ」
タオルで大事なところを隠し、陽炎に籠を渡した。
陽炎は反対側に顔を向けながら手をぶんぶん振り回し、籠を探っていた。
「おい、そんなに動かしてたら渡せねぇよ」
「む……」
手の振りが収まると、勇次郎はその手に籠を渡した。
陽炎がようやく籠を手元に引き寄せて、ホッと一息つくと今度は大きな悲鳴をあげた。
「ぎゃあぁぁぁぁ」
「うるせぇよ! 他の奴が起きるだろ!」
「あ、あんた普通女の子に服渡すときパンツは見えないところにそっと置くのが普通でしょ! もう!」
「え……すまん」
「まったく……」
呆れたように陽炎は肩を竦めて勇次郎に向き合った。
「はっ……まっ……」
陽炎は適度に引き締まった勇次郎の身体を見て、声にならない声をあげた。
「おい、陽炎?」
「え、あぁうん。問題ないわよ。すぐ洗濯してくるから」
そう言って、陽炎は凄いスピードでどこかへ去った。残された勇次郎は嵐に巻き込まれたような疲れた顔をしていた。
「……なんだあいつ」
勇次郎は陽炎の挙動不審な態度を疑問に思いつつ、風呂場へ向かった。
ガラガラと風呂の扉を開けると、中は脱衣所と同様に、旅館のように豪華で、風呂というより温泉だった。
大きな浴場、その中に一本大きな柱が立っており、壁には銭湯とは異なった趣を持つ赤富士と、可愛らしい動物の絵が描かれていた。
流し場で身体に纏わりついていた塩水を流し、洗い場で塩水でパサパサになった髪を洗いながすと、大分すっきりした。
お湯に足を付けると、それは勇次郎の感覚からすると少し温かったが、気持ちの良い温度だった。
「ふぅ。朝から災難だな。早起きは三文の徳と言うが、悪いことしか起きてない気がするなぁ」
誰もいない温泉で、のんびりとするのはとても気持ちがよく、つい歌いだしてしまいそうだった。
しかし、近くから勇次郎のものでない呼吸音が聞こえると、背中に悪寒が走った。
「誰かいるのか!?」
勇次郎が立ち上がり大声で言うと、その呼吸音は止まった。
数秒間勇次郎が黙り込んでいると、お湯が流れる音の中に、再び呼吸音が混じる様になった。
「俺は怪しい者じゃない。訳あってこの風呂を借りてるんだ」
そう言いながらも、勇次郎は内心、これ怪しいだろうなぁ、と思っていた。
何かが水をはじく音と共に勇次郎はその場で動けなくなった。
「動くな。今あたしの砲身が後ろからあんたの眉間に標準を合わせてる。あとは言わなくても分かるよね」
冷たい鉄の塊が後頭部に突き当てられているのが分かる。ひんやりとしたそれは気持ちの良いものだったが、背中からは冷たい汗が流れていた。
勇次郎は両手を上げ、降参のポーズをとった。
「よろしい。所属は?」
勇次郎はその言葉に呆れながら、先ほどと同じように答えた。
「無所属、提督見習いだ。昨日から研修でこの鎮守府に滞在している」
「証拠は……って言っても、素っ裸のままだと何もできないか」
その言葉には嘲笑の意が込められていた。
勇次郎は少しムッとしながら答える。
「そうだ。だがあと少ししたら陽炎がここに来て証人になってくれる」
「陽炎が? 陽炎が男を寮の風呂に入れることを許可するなんて、珍しいこともあるもんだ」
その言葉は、嘘なんてバレバレだぞ、と言わんばかりだ。
「本当だ。信じなくてもいいがな」
「ふん、この場であんたをねじ伏せて憲兵を呼ぶ方が早そうだ」
後頭部から砲身が離れる感覚と共に、小さな腕が勇次郎の首に巻き付いてきた。
「しばらく寝てな!」
互いに濡れて滑りやすくなっているというのに、しっかりと呼吸する部分を締めているところから、確かに軍人の魂を感じた。
しかし、それをただやらせるほど勇次郎は優しくない。
「うんッ!」
掛け声と同時に勢いよく上体を大きく前に持っていき、その勢いのまま回転して、背中を相手ごと浴槽に叩きつけた。
相手の手が緩めてたことを確認すると、今度は勇次郎が相手の首に腕を回した。
相手は長い黒髪と、それに混じる桃色の髪を持つ少女だった。
少女は己の置かれた状況に気づくと、身体をばたつかせ、必死に勇次郎の腕から逃れようとした。
勇次郎は相手を傷つけない様に、素早く腕を解いて、また両手を上に上げた。
少女は一つの砲台に二つの砲身がついた、所謂二連装砲をこちらに向け、息を整えた。
互いに向き合い、こちらに戦意がないことに気づくと、少女も武器を降ろした。
「なんであのまま気絶させなかったんだい」
「その理由がないからだ。俺と君は戦う理由がない」
「あたしはあのまま締めあげるつもりだった」
「だからなんだ? それは俺がお前を傷つける理由にならない」
厳しい眼で睨む勇次郎の中に、少女は太く切れない意志を垣間見た。
「……はぁ。あたしの負けだよ」
少女は艤装を消し、湯船に浸かった。
「もういいのか?」
「あぁ。お兄さんも、いつまでもそんなもんぶら下げてないで、湯船に浸かりな」
少女に促されるまま、勇次郎は湯船に浸かった。
「あたしは夕雲型四番艦、長波だ」
「俺は三枝勇次郎。さっきも言った通り、提督見習いだ」
互いに自己紹介をすると、なんだか可笑しくなって、二人で笑いあった。
「勇次郎か。いい名前だねぇ。それに胆も据わってる」
「長波こそ、小さいのによく戦えるな。凄いよ」
長波は嬉しそうにはしゃいだ。
「そうだろー。駆逐艦の中じゃ、肉弾戦なら負けない自信があるね」
「暁にもか?」
そう言うと、長波は苦笑いした。
「暁には……たぶん敵わないかなぁ」
「そうか。やっぱり秘書艦だし、強いんだなぁ」
「『強い』ねぇ。まぁ、間違ってはいないけどね」
『強い』という言葉のニュアンスに、どこか疑問を感じるようだったが、それについては何も言わなかった。
「で、なんで駆逐寮の風呂に入ることになったんだい?」
「実は……」
勇次郎の話に、長波は大いに笑った。
「いやぁ、それは災難だねぇ。でも、早起きは三文の徳、っていうのは間違ってないんじゃないかい?」
勇次郎はその言葉に首を傾げる。
「どういうことだ?」
「いやほら、陽炎のスパッツ、川内のパンツ、あたしの裸、これを三文で見れたんならお得だろ?」
「あぁ……そういう」
勇次郎はそこまで思考が追いついて、長波の全身に無意識に目が行った瞬間、浴場のドアが大きな音を立てて開いた。
「あ、陽炎」
「えっ」
長波の言葉に、勇次郎が振り向くと、風呂桶がこちらに飛んでくるのが見えた。
「私の妹になにしてんのぉぉぉぉぉ!」
その後視界が暗くなり、勇次郎の記憶は一度途絶えた。