水平線の少女   作:宵闇@ねこまんま

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水平線の少女(2)

「おい! しっかりしろ!」

 大きな声が、彼女の意識を覚醒させた。

 鼓膜に響く言葉を上手く理解できないままゆっくりと瞼を開けると、一人の青年に抱きかかえられていることが分かった。

「よかった……意識が中々戻らないから心配したぜ」

 青年は大きく溜息をつくと、少女をジッと見た。その視線には疑念が込められている。

「……お前、ここら辺の子じゃないな。どこから来た?」

 青年の質問に、少女は上手く言葉を返せなかった。戸惑いを見せる少女を青年は不思議そうに眺める。しかし、何も話そうとしない少女に諦めたのか、視線を外した。少女はそれに安堵のような、申し訳なさのような感情を覚えたが、やはり少女の口からはなんの言葉も出てこなかった。

 青年は、少女の小さな身体を背中に回し、ゆっくりと立ち上がった。

「とりあえず、俺の家に連れてくぞ。所々怪我してるみたいだし」

「あの……!」

 青年は、いきなり少女が喋ったことに驚いたのか、目を見開いて少女を見た。少女自身も驚いているようで、青年は少し奇妙なおかしさを感じた。

「なんだ、ちゃんと喋れるのか。どうした?」

 少女は、たどたどしく、言った。

「あ、ありがとう……ございます」

「気にすんな。俺は三枝勇次郎。お前は?」

「わたしの名前は――な、なんでしたっけ?」

「あははは! こりゃ先が長そうだ」

 青年は豪快に笑うと、頭に疑問符を浮かべる少女を背負ったまま、家へと向かった。

 海の上には、釣り竿とバケツが流れていた。

 

 

****

 

 

「んで、女の子を拾ってきたっていうのかい」

 青年、勇次郎は母親である冴子の小言を素直に受け止めることしかできなかった。

 家に着いた勇次郎は、少女のことを冴子に説明した。その間少女は冴子に目を合わせることもなく、ただ玄関に並べられた靴を見ていた。その態度に冴子は少しのイラつきを覚えたが、少女の身体を見て、勇次郎に少女を風呂場に案内するように告げた。

 よく見れば少女の身体中には小さな傷があり、ボロボロだった。そのため、まずはその砂と傷だらけの身体を綺麗にするように命じたのだ。その時少女には何も尋ねず、ただタオルと代えの着替えを渡した。少女は戸惑いながらも、その好意を素直に受け取り小さくすいません、と呟いたが、冴子は聞こえなかったかのように少女から離れた。

 少女が風呂に入ってる間、冴子は勇次郎の話を改めて聞き、ホッと溜息をついた。

「あんたがあの子に何かしたのかと思ったよ。まぁ、そんなことできるような男じゃないことも知ってるけどさ」

「あのまま砂浜に放置できなかったから、それに……」

 勇次郎の顔に影が曇る。

「……父ちゃんがもうすぐ帰ってくるから、そしたら父ちゃんにあたしが説明するよ」

 冴子は勇次郎の顔で何かを察したようで、すぐに話を逸らした。

「あのぅ……お風呂、ありがとうございました……」

 障子の端から少女がこちらを覗き込んできた。

 服は妹の月子のジャージを着ていた。胸のあたりが少しきつそうだが、普通に着る分には問題なさそうだ。

「あぁ、あんたかい。そろそろ朝飯の時間だから、そこに座んな」

 冴子は座布団を指さし、勇次郎を見た。

「勇次郎は月子を起こしてきておくれ。夏休みだからっていつまでも寝ていられると思うな、ってね」

 あははは、と勇次郎そっくりに豪快に笑い、台所へ向かっていった。

「りょーかい。――あんたはそこで待っててくれ」

「あの! 私、朝ごはんまで……」

「いいんだよ、遠慮するな。遠慮したら親父が逆に怒るぞ」

 勇次郎がおどけて言うと、少女は怯えた表情になった。慌てて勇次郎が取り繕う。

「冗談だ、冗談。ちょっと妹起こしてくるから」

 少女はこくりと頷いた。

 勇次郎は、子犬のような娘だな、なんて思ったが、口には出さなかった。

 勇次郎は少女に頷き返すと、階段を上り、妹の部屋の前に立った。

「おーーい、月子ぉ。起きてるかぁ」

 反応はない。ノックをしても、部屋の中からは何も聞こえない。

「……入るぞぉ」

 ゆっくりとドアを開けると、こんもり膨らんだ蒲団が、部屋の隅にあった。

「朝飯の時間だぞ。学校が休みになったからって、我が家でだらけていられると思うなby母上」

「夏休みなんだから、そう簡単に起こせると思うなby娘」

 蒲団の中からくぐもった声が聞こえた。勇次郎は呆れ顔で膨れた蒲団の頂点を掴む。

「そんなお前を無理矢理起こしに来たby兄ぃぃ!」

 その一声と共に膨らんだ蒲団を引っぺがしにかかる。

「ぎゃあぁぁぁぁ!」

 女性の声とは思えないような悲痛な声をあげ、妹である月子は抗った。

 持ち上がる蒲団に親の形見とでも言わんばかりに抱き付き、蒲団と共に宙に持ち上げられた。

「なんだお前、だっこちゃんかよ」

「なんだお前、蝶野かよ」

 蒲団ごと妹を持ち上げる兄と、蒲団ごと兄に持ち上げられる妹が睨みあっていた。

「蒲団が破れる。離して朝飯食え」

「蒲団が破れる。離して母さんに怒られろ」

「それお前も一緒だけど大丈夫か?」

 そう言うと、月子は少し思案して、手を蒲団から離した。

 もちろん下に背中から落ちて痛みに悶えるまでがテンプレだった。

 勇次郎は部屋のドアに手をかけ、床でのたうち回る月子に言った。

「今日はお客さんがいるから、少しは身なりを整えてから降りて来いよ」

「お客さん!? 男? イケメン?」

「黙れマセガキ、はよしろよ」

 ドアをバタンと閉めて、階段を下りた。

 そこではチョコンと座る少女が不思議そうにこちらを見ていた。

「どうかしたか?」

「いえ……随分騒がしかったな……と」

「あぁ、月子は世話の焼ける妹でな。うちじゃよくあることだ」

 勇次郎は頭をポリポリ書きながら目を逸らした。

「もうすぐ降りてくるから、その時ちゃんと紹介するよ」

 そう言って照れを誤魔化すと、少女はクスクス笑い始めた。

「なにか可笑しかったか?」

「いえ、そういうんじゃないんですけど。あなたがそうやって照れてる姿を初めて見たので、つい」

 少女は勇次郎の厳しい顔や笑った顔ばかりが印象に残っていたので、いかめしい勇次郎が照れる姿につい笑ってしまったのだ。

「なんじゃそりゃ。まぁいいけどさ。あんた笑うと可愛いじゃねぇか」

 勇次郎の言葉に、少女は耳を真っ赤にさせた。

「ななな、何言ってるんですか! からかわないでください!」

「あははは、なるほど。人が照れる姿ってのは、確かに面白いもんだな」

 勇次郎はしてやったり、という顔だ。

「おめぇ、そんな可愛い娘をからかうとは、良い度胸しとるな」

「いや、だってやられたらやり返すのが俺の……流……儀」

 勇次郎の声が、徐々に小さくなっていく。

「んで、俺の流儀は女の子には優しくする事だって、おめぇ知ってるだろ?」

 勇次郎がゆっくりと振り向くと、鬼のような形相をした男が仁王立ちしていた。

「親父……おはよう……」

「おう! おはようバカ息子ぉぉ!」

 勇次郎の頭に拳骨が降り注いだ。

「いってぇぇぇ! 朝から痛ぇよ親父! 加減しろ!」

 がハハハと笑いながら、男は座布団にボスンと座り込んだ。

「嬢ちゃんが、母ちゃんが言ってた娘っ子か。えらいベッピンさんを拾ったな、勇次郎」

 勇次郎はバツが悪そうにそっぽを向いた。

「俺は三枝厳慈。ゲンさんでも、お父さんでも、好きに呼んでくれ」

「えっと、じゃあ、厳慈さんとお呼びします……」

 厳慈のふるまいが勇次郎そっくりだったので、少女は初対面でも緊張することなく接することができた。もちろんそれには厳慈の朗らかな雰囲気も一因しているが。

「えらい上品な嬢ちゃんだな。月子にも見習ってほしいもんだ」

 厳慈は大げさに溜息をついた。

 少女は恥ずかしそうに俯く。

「ほら、席に着きな。父ちゃんが朝いちばんで取ってきてくれた魚だよ。月子は?」

 いつのまにか、大きなちゃぶ台には豪勢な朝食が並んでいた。

 キラキラと輝く焼き魚に、美味しそうな香りのする味噌汁。ほかほかのご飯の隣には小皿に置かれた漬物まである。それがきっちり五人前。

 トタトタと誰かが歩く音が聞こえ、居間の前で止まった。

「月子、ただいま参りました」

 ふすまがゆっくりと開かれ、そこには正座で頭を床に付ける月子がいた。

 皺一つ無いシャツに、可愛いピンクのミニスカートを穿いていた。

 これが月子なりのお客さん用の服らしかった。

「月子おめぇどっか出かけるのか?」

 厳慈は娘がこんな洒落た服を持っていたとは知らなかったらしく、少しショックを受けている様子だ。

 月子は周囲をよく見て、少女と目が合った。

「お客さんってこの人?」

 月子が勇次郎に尋ね、勇次郎はこくりと頷いた。

「ちょっと待ってて」

 月子はすぐに部屋に戻る。

 上からバタバタと音がした後、すぐに月子は居間に帰ってきた。

 しかし服装は寝ていた時と同じものに戻っている。

「おはよー。朝ごはんー」

 月子はそのままのんびりとした様子で少女の隣に座った。

「おい勇次郎、うちの月子って変わってるな」

「親父、あれ半分あんたでできてるんだぜ」

 勇次郎の頭にもう一つ大きな拳骨が降った。

「いいから座りな。ご飯が冷めちまうよ」

 冴子の言葉に従い、勇次郎も少女と厳慈の間に座った。

 冴子は厳慈と勇次郎の間に座り、皆が卓についた。

「ほいじゃ、いただきます」

「「「いただきます」」」

 厳慈に続いて、家族三人が続いた。

「い、いただきます」

 そのあとに一拍遅れて、少女も続いた。

 少女以外の四人は、なんてことのないように食事をとった。

 少女も恐る恐る焼き魚を頬張る。

「ん! 美味しい……」

 少女の口から、無意識で言葉が出た。

 甘い油が口を潤して、白身がよくご飯に絡む。

「そうかい。そう言ってもらえると、漁師冥利に尽きるね」

 厳慈は心底嬉しそうに笑う。

「あの、私、いいんでしょうか」

 少女は遠慮しがちに言った。

「いいって、何が?」

 勇次郎は優しい口調で訊いた。

「見ず知らずの私なんかに、こんな親切にしていただいて。私、返せるようなもの何も持ってないです。それどころか、なんで自分がここにいるのか、自分が誰なのかも……」

「え、お姉さん記憶喪失なの!?」

 月子は飛び上がりそうになるほど驚いた。

 それを見て、少女は悲しくなった。自分が迷惑をかけていると、改めて認識して。

「はい……ごめんなさ」

「すごい! 初めて見た!」

 けれど、月子は想像と逆に、とても嬉しそうにはしゃいだ。

「えっと、あの……」

「どれくらい忘れてるの? ちゃんと喋れてるから、日本語は問題ないし……。一昨日の朝食は覚えてる?」

「それはお前が覚えてないだろうが」

 勇次郎が窘めると、月子は頬を膨らまし、抗議の意を示していた。

「いいんだよ」

 厳慈は、優しい声で言った。

「見返りなんぞ求めん。困ってる人がいたら助ける。うちじゃ当たり前だ。嬢ちゃんは、もし勇次郎が海で溺れてたら、見過ごすかい?」

「絶対に助けます」

 少女は強い口調で言った。その後、恥ずかしそうに俯いた。

 厳慈はそれを見て、またがハハハと笑った。

「嬢ちゃん、気に入った。記憶が戻るまでうちにいろ。これも何かの縁だ。ゆっくりしていけ」

「でも、それじゃ」

「名前も思い出せてないのかぁ……。仮の名前でも付けないと呼びにくいねぇ」

 月子は一人でぶつぶつと言っている。

「それじゃ、私は皆さんに負担ばかりかけてしまいます。申し訳ないです」

「いいって、家事の手伝いとかしてくれれば。なぁ母ちゃん」

 厳慈が冴子に話を振った。

「まったく、うちの人はみんなそうやって他人様第一なんだから」

 冴子は真剣な顔で少女を見つめる。

「少しはうちの家計も考えてほしいよ……。ところであんた知ってるかい?」

 冴子の言葉に、少女は肩を震わせた。冴子の瞳には厳しい光が宿っていたからだ。

「漁師って結構儲かるんだよ」

 冴子は雰囲気を一転させ、あははは、と大きく笑い飛ばした。

「一人増えるくらいなんてことないさ。そこの月子は家事を少しもやらないから、丁度手伝いが欲しいと考えてたんだ。あんたが良ければ、うちにいてくれないかい?」

 少女は不安な顔で勇次郎を見た。

 勇次郎は、優しい顔で頷いた。

「それでは、記憶が戻るまでの間、よろしくお願いします」

「なっちゃんだね!」

 少女が頭を下げてる横で、月子は頭に電球をピカピカと光らせながら、意気揚々と話し始めた。

「あんまりちゃんとした名前つけると、記憶が戻ってから気まずくなるよね。だけどずっとあんたとか嬢ちゃんじゃ可哀想だもん。そこで月子ちゃん考えた!」

「は、何を?」

「よくぞ聞いてくれたバカ兄様。名無しちゃんを可愛く言って。なっちゃん!」

 空気がピシリと凍る音が聞こえた。

「すまねえ、なっちゃん。うちの娘がバカで。……こんな娘でも、半分は俺でできてるんだよ」

 厳慈は目頭を拭った。

「なっちゃん、さらにもう半分はアタシなんだよ。ごめんね……」

 冴子は布巾で顔を覆った。

「娘を馬鹿にするなぁぁぁ! てか気に入ってんじゃん。使いまくってんじゃん!」

 月子が大声で抗議する。

「でも、いいでしょ。嬢ちゃんとか呼ばれるより、なっちゃんの方が良いよね?」

 少女、名無しは、小さく頷いた。その肩は小さく震えていた。

「……ぷっ。なっちゃんで……いいです……ぷふっ」

「すまねぇ、こんなバカな妹でも、成分は俺と同じなんだ」

 勇次郎は、今までにないくらい真剣な顔で、名無しを見た。

「あはは、はははは」

 勇次郎の挙動にこらえられず、名無しは笑った。

 それを見たみんなも、大声で笑った。

 ひとしきり笑った後、また食事に戻った。

 名無しは、美味しいごはんが、さらに美味しくなったように感じた。

「あれ、でもなっちゃんって……」

 月子が首を傾げて、勇次郎を見た。

 名無しも同じように勇次郎を見た。その顔は、張り付けたような笑顔だった。

「いいのかい、勇次郎」

 厳慈は、勇次郎の顔を見た。

「……うん。いいよ。問題ない」

 その顔はどこか憂いを帯びていた。

 食事は、とても楽しいものだった。

 そのごく一部分を除いて。




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