数時間後、名無しは慌ただしい人の動きで目が覚めた。
どうやら、ババ抜きをしている最中に寝てしまったらしい。
時計の針を見ると、二時を指していた。
隣では、月子が可愛い寝息を立てていた。
「俺もいく」
勇次郎が冴子に伝えると、冴子は厳しい顔で断った。
「あんたが行っても、なんにもならない。ここで、月子となっちゃんを見ていて」
「でも」
「でももへちまもないよ。父ちゃんが言ってたろ。もしものことがあったら」
「何が、あったんですか」
二人は名無しが起きたことに気づいた。冴子は一瞬戸惑いを浮かべたが、すぐに表情を引き締める。
「父ちゃんの船から、救難信号が届いた。他の船からも一斉に。無線は通じないらしい。今、港の漁師組合から連絡があった」
名無しの顔から血の気が引いた。
「海軍基地から救助船が出たらしいけど、急に海が荒れて、到着まで一時間近くかかるらしい」
冴子は要点を的確にまとめた。
それはまるで、自分自身に言い聞かせているようだった。
「アタシは、漁師組合に行ってくる。あんた達は、家で待ってな」
「待てよ、母ちゃん」
「いいから! こんな時くらい言うこと聞いてくれ!」
冴子は、悲鳴に近い声で叫んだ。
「……今、船を出せる人間は、この村にいないんだろ?」
その言葉に、冴子はビクリと震えた。
「だったら、母ちゃんが行っても何も変わらない」
「それでも! 父ちゃんに何かあったんなら、アタシが行かなきゃ!」
「俺も行く」
勇次郎は冴子の眼を睨むように見た。
「俺が『海に出る』」
勇次郎の手は震えていた。冴子は息子が言っていることが信じられず、呆然とした。
「よし、ならさっさと支度しちゃおう。三十秒で支度しな、ってやつだね」
いつの間にか起きていた月子は、パジャマから普段着に着替えていた。
「みんなで行けば、問題ないでしょ?」
月子の言葉に、勇次郎は笑って返す。
「その通りだ。さぁ、行こう」
勇次郎の言葉に、名無しと月子が頷いた。
「ほんとに……頑固な子達だよ」
冴子は小さく溜息をついて、表情を引き締めた。
名無しも急いで着替えた。
その服は、名無しがこの村に流れ着いた時のものだった。
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「俺が行きます」
勇次郎の言葉に、組合に集まった多くの人が驚いた。
そこには、漁にでている漁師の家族が大勢集まっていた。
「でも、勇次郎君、海に出れないんじゃ……」
誰かが呟いた。
「出ます。そして、親父たちを助けてきます」
勇次郎は覚悟を決めた眼で、周囲を見渡した。その表情を見た者は、誰も勇次郎を止めようとはしなかった。
「あたいも行く」
人混みの中から、春江が現れる。
「春姉……」
「言いたい事はたくさんあるが、後回しだ」
春江も勇次郎と同じく覚悟を決めていた。
「ありがとう……それじゃ、行ってくる」
そう言って、二人は足早に外に出て行った。
多くの人々は、その場に残った。
ある人は祈りをささげ、ある人は大丈夫だと周りの人間を励ましていた。
色々な人が、色々なことを考えていた。
しかし、誰一人として、絶望していなかった。
それを見ていた名無しの胸に、熱いなにかが込み上げてきた。
懐かしい、どこかで見た記憶。
「行かなくちゃ」
名無しの呟きを、傍にいた月子だけが聞いていた。
「なっちゃん?」
「月子さん、私、行ってきます」
「なっちゃん? どうしたの? ねぇ!」
月子の言葉に応えることもなく、名無しは港に駆け出していた。
外は生暖かい風が強く吹き付けていた。
風が吹くたびに、名無しの胸は締め付けられていった。それは目を逸らしていた記憶が、叫びが風に混じってその姿を徐々に現していくようだった。
風が止んだ瞬間、顔を上げた名無しの眼には、美しくも荒々しい海が映し出された。
「なっちゃん?」
小型の漁船が港に一隻残っていた。
その脇には、勇次郎と春江が立っていた。
「わたしも行かせてください」
「ナナ、海は危険だ。組合で待ってな」
春江は名無しを一瞥して、船に飛び乗った。
「そうだ。来てくれるのは嬉しいが、なっちゃんは戻れ」
勇次郎は名無しの頬を撫でた。
「行かなくちゃいけないんです」
「だからなっちゃん――」
勇次郎と春江の言葉をものともせず、名無しは強い意志のこもった言葉を返した。その眼を見た勇次郎は、言葉をつぐみ、頷いた。
「……わかった。乗ってくれ」
勇次郎は名無しの眼に見覚えがあった。
「おい! 勇次郎!」
「俺からもお願いだ、春姉」
勇次郎は、名無しのその眼を見た。
前に見た、自分の中の何かと向き合っている時の眼だった。
勇次郎は、荒れ狂う海を見つめた。
すると、自然に足が震えてきた。
目には、涙があふれてきた。
それでも、海を見た。
ふと、誰かが勇次郎の手を握った。
手の主を見ると、在りし日の夏海が写った。
「夏海――俺、行くから」
誰にも聞こえないくらい、小さな声でつぶやいた。
深く息を吐き、目を閉じた。
深く息を吸い、目を開いた。
手の主は、名無しだった。
荒れ狂う海に、恐れはなかった。
「いくぜ、なっちゃん」
勇次郎と名無しは、船に飛び乗った。
二人とも、同じ眼をしていた。