「どうする? 帰るか?」
勇次郎が名無しの髪を優しく撫でながら訊いた。
「いいえ。今話したいです」
名無しは勇次郎を見上げた。
「春姉から、どこまで聞いた?」
「夏海さんが……勇次郎さんが、帰ってこない夏海さんを、いつまでも探している。というところまでです」
名無しは、言葉を慎重に選んだ。
少しでも言葉を間違えたら、勇次郎はきっと、壊れてしまう。そう思って。
「そうか。じゃあ、もう知ってるんだな。夏海が……死んでるって事」
勇次郎の言葉に、名無しは息を飲んだ。
「夏海さんのこと……」
「たぶん、春姉とか月子は、俺が夏海の死を受け入れてなくて、それが原因で海にも入れないって言ってたろ」
「……はい」
「実際、それも半分当たってんだよ。あの防波堤に行ってるのも、夏海がまだあそこで倒れてる気がするからで、海に入れなくなったのも、夏海が死んだ海に入るのが怖くなったからだ」
勇次郎は、星が輝く空を見た。雲一つない、綺麗な夜空は勇次郎の背中を押しているようだ。
「防波堤で釣りしてる時、夏海は今寝てんのかな、とか、今日はどんな話しようかな、とか本気で考えてる。でも、釣り糸をジッと見てさ、太陽が昇るの見てたら、分かっちまうんだよ。あいつが、もういないってこと。もう、会えないってこと」
「勇次郎さん……」
勇次郎の頬に、一筋の涙が流れた。
「みんなに心配かけてんのも、みんなが気を使ってるのもわかる。だけどさ、ダメなんだよ」
勇次郎は、唇を噛み締める。
「夏海のこと、今でも好きなんだよ」
「……私は、夏海さんの代わりになれますか?」
名無しの言葉に、勇次郎は目を見開いた。
「私は、勇次郎さんが苦しんでいる姿を、泣いてる姿を見たくないです。もし、私が夏海さんの代わりになれるなら」
「それは違う!」
勇次郎は名無しを強く抱きしめた。
「なんで、ダメなんですか? 私のこと、嫌いですか?」
「なっちゃん、そんな風に考えないで欲しい。そんな、辛い顔しないでくれ」
名無しは自分が今どんな顔をしているのか、分からなかった。
でも、自分が零した言葉に、自分が一番傷ついていることは分かった。
「今でも、夏海のことは好きだ」
名無しの胸に、その言葉は深く刺さった。
それが身体に染み込んでいくようで、気持ちが悪かった。
吐き気で、身体が震える。
「だけど、なっちゃんのことも好きだ」
名無しの震えがピタリと収まった。
「……今なんて」
「なっちゃんが、好きだ」
勇次郎は、名無しの耳元にささやいた。
「初めて会ったとき、本当に夏海かと思った。だけど、全然違う子だった。それに記憶喪失とか言い出すから、これからどうしようかと思った」
名無しは、その言葉に耳を傾ける。
心地よい声色で、自分の全てを委ねても構わないと思えた。
「月子がなっちゃんって名付けた時、胸が苦しくなった。俺の中でも、どこか重ねてしまうことが何度かあった」
勇次郎は申し訳なさそうに、顔をゆがめた。
「だけど、一緒に過ごすうちに、惹かれていった。他人を気遣うところ、誰も見ていなくても頑張ってるところ、……自分の中の『何か』に、向き合っているところ」
「え……」
「海を見つめてるとき、なっちゃんの眼は、その『何か』と闘っていた。その眼は、俺にないものだ。その眼を見た時、俺も頑張らなきゃって思った」
勇次郎の声が、切ない程小さくなる。
「だから、夏海の代わりとか、言わないでくれ。なっちゃんは、俺にとってのなっちゃんは、ここに確かにいる」
もう一度、強く抱きしめる。
「……記憶喪失ですよ?」
「未来には関係ない」
「名無しですよ?」
「なっちゃん、って立派な名前があるじゃん」
「引っ込み思案ですよ?」
「そこも好きだ」
「臆病ですよ?」
「思慮深いだけだ」
「……夏海さんじゃ、ないですよ」
「……あぁ。知ってる」
勇次郎は、名無しをゆっくりと離した。
「これ、受け取ってくれ」
勇次郎は胸元から、あるものを取り出した。
「これは……カチューシャ?」
真っ白のカチューシャが、月明かりに照らされていた。
「昨日、街に行ったとき見つけた。なっちゃんに、よく似合うと思って」
名無しは、それを受け取り、身に着けた。
名無しの茶髪が、綺麗に纏められ、より一層儚さが増した。
その姿はまるで、妖精のようだった。
「うん、よく似合う」
「あ、ありがとうございます」
名無しは恥ずかしそうに俯く。
勇次郎はベンチに座る名無しと目が合うように膝をつく。
「勇次郎さん?」
「なっちゃん、改めて、俺と付き合ってくれ」
そう言って、勇次郎は右手を差し出した。
「はい、よろしくお願いします」
名無しは左手をその右手の上に置いた。
名無しの浮かべる眩しい笑顔は、夜に咲いたヒマワリのようだった。