小汚い酒場だ。ここオルタナでは、飲み屋街と花街は街の中心部から並行するように存在している。どちらも街の中心部から離れるほど、人口密度が減っていく。二つの区域を繋ぐ大きな道を“花道”、小さな道を“裏道”と呼び、郊外ほど裏道は増えていく。ここは、かなり郊外の裏道に存在する酒場だった。周りに人通りが少ない立地であるにも関わらず、古くも大きな店だ。客も多い。ただし、どう見てもまともじゃない者ばかりだった。
荒くれの義勇兵、闇に隠れていそうな職種の面々、据えた目をした娼婦。ダークエルフやドワーフなど、異人もちらほら散見される。
店の名を、「毒イモリの酒場」と云う。実に名は体を表している。
ムツは、昼間怪しげな露天商に紹介されたここに一日の慰労と、情報収集にやってきていた。レンジとの激闘から半日。
既に、腫れ上がった顔、切れた唇、充血した目、拳を握れない手、息をする度に痛む呼吸器はすっかり元通りになっている。
「初日から神殿の世話になるとは、有望な
多くのテーブルがある中、同席を許してくれた美女が云った。美女の名はバルバラ。妙に露出の多い服装をしていて、大きな胸と引き締まった腹筋を惜しげもなく晒している。眼鏡をかけており、それが知的な印象を与え、その様な装いでも商売女とは雰囲気を隔絶させていた。
言葉に皮肉は感じない。純粋に面白がっているのだろう。それにしても魅力的だ。
ムツは特に言葉を返さず、樽のジョッキを煽った。冷えたビールだ。もう三杯目になるが、疲れた体にその苦みとコクが染み渡る。美人のお姉さんに現を抜かしている場合ではない。力を抜きつつ、気持ちを新たにする。危ない。しかし、もう三十分近く今日の出来事を中心に話しているが、依然として本題を切り出させてくれない。
「兵団の事務所で
やっと、バルバラは言外に目的を聞いてきた。まあ、包み隠さず、正直に答えるべきだろう。
「聞きたい事がある。しばらくはソロで活動したいのだが、適切なギルドとその担当官をアドバイスして欲しい。申し訳ないが、情報料は1シルバーしか払えないから、簡単なもので構わない」
「ソロ? やめておきなさい。1シルバーなら命を救う情報料としてこれで赤字なぐらいよ」
「オーダー以外の情報には払えないな」
バルバラはそうでしょうね、と面白そうにビールを煽ると、追加とつまみを注文した。
「入団給付金が10シルバー。ギルドに8シルバー払うことを考えると、ここで治療代から差し引かれたなけなしの1シルバーを払ってまで知りたい情報って事だしね。で、何でソロを?」
「自分のせいで死ぬのは仕方ないが、他人のせいで死ぬのは嫌だ。特に、気にくわない命令に従った末に、使い潰されるのは御免こうむる」
本心。結局そういう事なのだ。マナトとは組みたかった。でも足手まといのせいで犬死にしたくないし、我の強いリーダーや熟練パーティーの下っ端にもなりたくない。マナトは気に入っているが、そういう意味で縁がなかった。かなり残念だったが。
「小心者なの? でも、意外とそんなものなのかもね。正直なのは好きよ」
ムツは、どうなんだとジョッキから手を離すと、背筋を正した。
「それ、あたしが盗賊ギルドに所属している事を知っていて聞いているのよね? なら、盗賊ギルドに入りなさいな。実際、単独の敵を選べるなら、盗賊の先制攻撃は強烈よ」
「選べなかったら?」
「逃げなさい」
判りやすい。他には、と促す。
「次点なら、神官でしょうね」
神官? 聖騎士だと思っていたのだが。やはり聞きに来て良かった。
「戦いに身を置いていれば、どんな強者でも必ず怪我をする。それを治せるか、治せないかはそのまま生存率に影響する。回復魔法が使えなければ回復手段はポーションになるわけだけど、まあ、そんな金は無いわよね」
それは判る。でも・・・・・・。
「そう。神官は十全な武装ができない。許された武器は限られたメイス類だけだし、金属製の防具の着用も不可能。真正面から敵と戦う職じゃないわ」
「では、聖騎士は?」
「確かに聖騎士は剣も盾も鎧も使える。攻撃力にも防御力にも問題は無い上に、回復手段もある。だけど、ね」
何が問題だと云うのか。正直なところ、聖騎士が候補筆頭だったのだが。
「聖騎士は、自分を回復できない。一人で闘うなら劣化戦士という事になる」
何てことだ。誤算極まりない。
「――成程。しかし、何故? 裏技なんかも無いのだろうか?」
「さあ、それは神官や聖騎士に直接聞いてみれば良いんじゃない? 少なくともあたしは自己回復できる聖騎士ってのは聞いたことがない」
何か理屈があるのか。だが、そうなると困った。本当に盗賊か神官しか選択肢が無いぞ、これは。
「ちなみに、暗黒騎士も手軽に手を出せる職じゃないし、そもそもこれを選ぶのなら戦士の方がマシって意味で聖騎士と同じ。ソロなら魔法使いと狩人は論外。壁役の居ない魔法使いなんて殺してくれと云わんばかりだし、弓で安全に片をつけられる状況は限定的過ぎる」
うーむ。どうしたものか。これで七大職は検討してしまった。
「ちなみに、他に戦闘目的の職業はあるのだろうか?」
「あるにはあるけれど、マイナーな職業ってのは、マイナーである理由があるの。例えば有名処で“武士”って職がある。基本は戦士に似た職業なんだけど、刀っていう特殊な片刃の両手剣の専門職で、弓は使えるけど盾は使えないって尖った職業。死霊術師とか、呪医とか、剣舞師とか、話に聞く職はまあ、色々あるけど、どれもやっぱり尖っているし、そもそもこの町ではなれないから、現実的じゃない。――ま、ソロが良いっていうなら、盗賊で腕を磨きながら、気に入ったメンバーを探していけばいいでしょう」
云いたいことは言い終えたとばかりに、バルバラはゴクゴクとジョッキを傾けた。なんだ。美女が酒を飲む姿というのはどうしてこう・・・・・・。たまらん。
「――ぷはっ。実際、ムツ。貴方運が良いわ。普通は担当官を義勇兵側から選ぶ事なんてできないの。でも、あたしの側から担当を申し出ることは出来る。自分で云うのもあれだけど、腕利きよ、あたしは」
「ん? バルバラは教官職を務めているのか?」
「あれ? 云ってなかった? 今日も一人担当になってね。今はもう、酷いものだけど、素質は凄いわ」
今日? あの12人の誰かか? 誰だ? 盗賊が似合いそうな奴? いたか?
「うーん、高い攻撃力と回復手段を有した前衛職は、存在しない、か・・・・・・」
バルバラはもう半分加入は決まったものと考えているのか、「一緒に面倒見てあげるわよ」と気分良く酒の追加をオーダーし、ふいに顔をしかめた。
「あるぞ、その条件の職業」
「消えなさい、クヌギ」
ジョッキを片手にムツの隣に腰を落としたクヌギと呼ばれた四十手前ぐらいだろう男は、身長こそ普通だが体が厚く、一目で鍛えて居ることが判る体格だった。特に、耳が潰れているのが特徴的だ。
「そう云うな。どうして武闘家を紹介しない? 待っていたのに」
「聞こえなかった? クヌギ。お呼びじゃないのよ」
「誰だ? 武闘家?」
聞いたことのない職だ。折角の時間を邪魔したことも、盗み聞きしていたことにも腹は立つが、云っている話には興味がある。
「そう。鍛えた身体と技術で敵を穿ち、傷ついた肉体を魔法や薬に頼らず治癒する。特におまえ、その身体、最初から基礎は出来ているようだし、素晴らしい前蹴りを持っているとも聞いた。最高に合った職だろう」
「ムツ、命が惜しくば止めておきなさい。そいつは、教え子を武器を持った敵に防具も着けず、素手で突っ込ませる狂った奴よ」
バルバラは激高している。その怒声に周辺の注目を浴び始めているが、気にするそぶりもない。この男、クヌギと云ったか。その甘言を鵜呑みにするのは危なそうだ。素手で闘う? 刺されたら死ぬのに?
「まあ、間違っちゃいない。だが正確でもない。別に勝算の無いことをやらせている訳じゃないからな」
「あんたの理想に付き合わされて、惨殺された門下が何人いた? 今、何人残っている? それが現実よ。確かにあんたは強いかも知れない。でも教育者としては間違っている」
「今、オルタナに残っているのはゼロだな。皆無。悲しい事だが、まあ、仕方ないだろ。死んじまったもんは」
うお、顔色も変えず言い切った。そしてクヌギの黒い眼がこちらをじっと見つめた。
「バルバラが云ったのも一面だ。説明が省けて有り難い。だが、オレについて来れるのであれば、オークの頭を一撃で吹き飛ばし、死なない限り何度でも立ち上がる戦士にしてみせる。確約する。特にムツ、お前ならそれ以上だってなれるかもしれない」
・・・・・・ああ、わかる。本気だ。この人は狂っているかもしれないが、全く嘘を云っていない。この直感は当たる。信じるか、この男を。
「ムツ」
バルバラが激高を納め、静かに、深く見つめてくる。悲しみと、怒りと、憎しみと、不安が収縮しているかの様な深い目だ。クヌギの狂気の目とは対照的だ。この世界には魅了の魔法でも存在しているのか疑いたくなる。
「あたしが、鍛える。最高の盗賊に。技術は人を呼ぶ。信頼できる仲間だってきっと集まる。生きることが大事なのよ」
うん。本当に有り難い。バルバラ、いい女だ。お陰で、冷静に決められた。
「バルバラ、有り難う」
バルバラは、目を閉じた。
あれから1週間。ムツはダムローの旧市街に足を踏み入れていた。ダムローは拠点のあるオルタナから四キロ程北西に歩いた所にある廃墟で、現在はゴブリンの勢力圏にある。
ゴブリンは大きな子供ぐらいの体格で、初心者に適した敵だ。特にこのダムローは、オルタナに遠いほど強いゴブリンが拠点にしている傾向があり、一番オルタナに近い南東部は旧市街と呼ばれ、はぐれゴブリンも多い腕試しに最適な狩り場の一つとされている。
ムツは、このダムロー旧市街南東部にて、一匹のゴブリンに狙いを定めていた。
ムツの装備は黒に染色された麻の道着と、底のしっかりした頑丈な皮のブーツ、それに左手にだけ肘から手の甲まで覆う鉄製の手甲をつけている。剣もナイフも、盾も弓も携帯していない。
連日続いた地獄のような特訓の疲れも、昨日は8時間しっかり休んだことで概ね癒えている。身体は軽い。用意は万全だ。
対するゴブリンは、錆が目立つ剣を素振りしている。目立った防具もなく、殆ど裸に近い。剣は使い慣れているのか、その小さな体躯の割には鋭く、振る度にビッビッと風を切っている。
手に汗を握る。流石に緊張する。武器の差を鑑みても、圧倒的な体格の差の分、戦力はこっちが上だ。だが、初陣。今から、あいつを殺す。躊躇せずにできるか。失敗しないか。間合いを取り間違えて一振りでも受けてしまえば、酷いことになる。最悪、即死もあり得る。
目を閉じ、深呼吸をすると、バルバラの顔が思い出された。別れ際の表情だ。言葉無く、見送ってくれた。
盗賊として訓練を受けていたらまた違ったのだろうか。そうかもしれない。でも、今この場にあってそれを考えても仕方がない。さあ、やろう。
ムツはゆっくりとゴブリンに姿を見せた。距離は十五メートルほど。
「ゴブ、いくぞ」
ゴブリンが斬り掛かってきた。ぶんぶんと剣を振り回す。まずは回避する。少し大げさなぐらいで、確実に避ける。ゴブリンの踏み込みは浅く、振り始めてからの後退でも間合いの外に出ることは難しくなかった。
「があっがあっ」とゴブリンは攻撃が当たらないことに苛立ちを含ませ始め、突きが加わった。
だが、斬撃に比べれば溜めの時間があり、速度が遅めな事でさらに避けやすい。腹の先を突きが空振りした瞬間、ムツは反撃を開始した。
ローキック。体重の軽いゴブリンは足を刈り取られ、「うぎゃっ」とうつ伏せに倒れ込んだ。すかさず剣を持った右手を踏みつける。
「ぎいいいいッッ」
ゴブリンが無茶苦茶に暴れる。起き上がろうとするも、右腕は動かず足にも上手く力が入らない様だ。
「終わりだ」と、ムツは踏みつけた右足はそのままに、ゴブリンの背中に左膝から乗り、首を捻り折った。ベギリという音と共に動きが途端に止まり、左腕もパタンと落ちた。うつ伏せのまま、ゴブリンのもう何も写していない苦しげな目は空を見上げている。
殺した。終わらせた。これが戦い。仲間が居たなら、この空虚さを共有できたのだろうか・・・・・・。
ゴブリンもこのままなのはあんまりだろう。仰向けにひっくり返しながら、首を元の位置に戻す。目も閉ざす。目が合わなくなると、少し罪悪感も薄れた気がした。
ムツは、自然と手を合わせていた。それが何の儀式なのかは覚えていない。ただ、鎮魂の意だけは残っていた。
戦利品は錆びた剣と、穴の空いた銀貨が2枚だけだった。ムツは今、極貧状態にある。最初にもらった銀貨10枚の内、クヌギに8枚を渡し、怪我の治療に銅貨100枚でようやく銀貨1枚相当価値となる、銅貨76枚を使っている。この治療費も担当官の厚意に甘えての金額で、本来銀貨1枚でも足りないのに、おつりと称して渡した銀貨に対し担当官の手元にあった銅貨24枚を頂戴している。彼女には今度お礼にいかなければならない。そしてバルバラに情報料として銀貨1枚。酒場で銅貨12枚を使っている。その他、昼間の調査に銅貨8枚を使ったから、手元には銅貨4枚しかない。
訓練中はクヌギが衣食住の全てを提供してくれていたし、これからも道場の奥に無料で住んで良いことになっているので、そこに金はかからない。だが、如何せん所持金銅貨4枚。殆ど何も買えないし、明日の食事に事欠く有様だ。
今日の朝はツケでクヌギの娘が用意してくれた食事を頂戴したが、今日の夜以降も口にするには金を納めなければならない。それに今晩はご馳走を用意しておくと云っていた。金が無い、は許されない。
ムツは手元を再度確認した。銅貨4枚。どれだけの価値も無いかも知れない穴の空いた銀貨2枚、ずた袋に錆びた剣1本。
うん。足りない。全然。
人間、現金なものだ。空腹は哀愁を凌駕する。ゴブリンに捧げた鎮魂は嘘ではないが、こちらも命がかかっているのだ。餓死は嫌だ。ぐうっと腹が鳴った。太陽は高く、中天。携帯食料は無い。なんとしても、夕餉は獲得しなければならない。
「腹減り、腹減る、腹減った・・・・・・」
ムツは、空腹を紛らわせながら、なるべく目立たぬ様、廃墟を隠れながら進む。ゴブリンを探す機械となった。時をおかず、建物の影にでかい人型の影を見つけた。
物陰に隠れながら様子を伺う。盗賊ほどではないが、武闘家は軽装なので音を出しにくく敵に見つかりにくい。ホブゴブリン1匹だ。その足下にはゴブリン二体が死んでいる。立派な鎧を纏ったゴブリン達だ。1匹は槍をもち、首を斬り殺されており、もう1匹は頭を何かで潰されている。ホブゴブリンは槍持ちのゴブリンの死体の前で悲しそうにうめいている。
成る程、剣持のゴブリンの襲撃に遭い、槍持ちが戦死。しかし剣持もホブゴブリンの巨大な棍棒で頭を潰された、と。美味しい。
あのホブゴブリンを倒せば、色々持ってそうなゴブリン2体とホブゴブリンの戦利品を手にすることが出来る。
ホブゴブリンはでかい。二メートルを少し超えたぐらいか。だが太く、体重は百二十キロはあるだろう。あの棍棒を受ければ、剣持ゴブリンの様に潰される。頭なら自分でも即死だろう。
やるか。やれるのか。出来る。きっと出来る。避けて、打つ。それを繰り返せば殺せる。
相手も生き物なのだ。内臓を損傷したら、上手く動けない。重要な器官が傷ついたら、死ぬ。それに、あのホブゴブリンは防具を着けていない。やれる!
体調は万全だ。行ける。やってやる。万策擁して打ち倒す!
崩れた廃墟。広さはあるし、瓦礫のせいで見晴らしは良くない。ホブゴブリンは感覚が鈍そうでもあるし、ある程度まで気付かれずに接近できるだろう。そこから、剣を投擲して一撃入れる。その後接近して腕を狙う。棍棒を落としたら拾わせない。素手同士なら必ず勝てる。
ムツは、槍持ちゴブリンに寄り添うホブゴブリンの背後側に回り込むと、少しずつ瓦礫に隠れながら接近を開始した。手には回収した剣を、いつでも投げられるように構えている。目算十六メートル。これ以上は隠れる場所がない。行ける。やれる。思い切り投擲した。
剣はビュンビュンと回転しながら放物線を描き、見事ホブゴブリンの左肩に突き刺さった。走る。一気に決める。
「ぎゃわあああ」とホブゴブリンが振り返りながら低く空気を振るわせた。 その勢いで剣が抜け落ち、ホブゴブリンが棍棒を振り上げてしまった。まずい。対応が早い。振り下ろされる。
「ぐっ」と横に転がり緊急回避。ドズンと渾身の一撃が振り下ろされ、地面の瓦礫が破壊され飛び散った。乾燥した土煙が舞い上がる。回避成功。すぐさま起き上がり、一度距離をおく。奇襲は失敗だが、まだ立て直せる。
左半身を前に出した、受けの構え。手甲のついた左手を前に、主砲の右手も打ち出せるように縦拳を準備する。
じりじりと間合いを調整する。避ける。そして手を狙う。
ホブゴブリンも第二撃を準備。大上段に両手で構えた。左後ろ肩からの出血は軽くなく、脇腹にまで血は滴っているが、武器を振るうのに支障はでていないらしい。
どうした、来ないのか。来い。そっちから! こないのか!
「おおおおおッッッ!! 来い!! ホブゴブ!!」
「がああああああああ」
気合いと共に、同時に踏み出した。ホブゴブリンは踏み込みつつ、大上段のまま棍棒を横に倒した。不味いッ!
横薙ぎの一閃!
まるでバットを振るうが如く、起動を修正した。スライディングでの回避を試みる。
地面すれすれを滑るムツのすぐ上を棍棒が通過し、とっさに顔を守った左手の手甲を掠めていった。勝機!
起き上がりながら、ムツは棍棒に身体を流されているホブゴブリンの股間を思い切り蹴り上げた。
音にならない悲鳴を上げ、ホブゴブリンは棍棒を取り落とし、股間を押さえながら倒れ込んだ。
今ッッ! 最大戦力を投じる時! この1週間で修得した武闘家のスキル!
「
体中を気が駆け巡る。今は五秒、身体能力が約二割増加する。
繰り出す技は、一番の得意技。この1週間でも最も磨きをかけたこの一撃。渾身の、前蹴り!
「セオッ!!!」
左足を踏みしめ、全体重を込めるつもりで右足を突き出す。全身をバネに、最大瞬発を! 命中時最大威力となるように!
右足は、こちらを確認しようとなんとか首を上げたホブゴブリンの顔面に突き刺さった。
首ごと顔が跳ね上げられ、ズズン、とホブゴブリンの巨体が仰向けにひっくり返った。
決まった。文句なしの一撃。
ホブゴブリンは顎がくだけ、だらりと口が開き、鼻が潰れ顔面の形が変わっていた。これは、我ながら・・・・・・酷い。長く観察するのは辛い。
瞬間、ホブゴブリンが目を開けた。
「しまっ・・・・・・」
腕が伸び、ムツのことを抱きしめた。
「こいつッ!」圧殺するつもりだ。背骨と肋骨がミチミチと音を立てる。持たない。左腕も一緒に固定されてしまっている。動けない。しかし右腕は何とか動く。ならば、とムツは人差し指と中指をホブゴブリンの右目に突き入れた。
「がああああああああああ」「ぐうううううううう」
死んでたまるか。こんな一日目で。
「死んでたまるかあああああああああああああ」
指を抜く。今度は左目に突き入れた。ホブゴブリンの力が増す。死ね、早く!
「死ねえええええええええええええええッッッ!!!!!!!」
突き入れた指を抉るように動かしながら、全力で突き入れた。根本まで指が入ると、ホブゴブリンの身体がビクンと震えた。
力が抜ける。ホブゴブリンは崩れ落ちると、最後にもう一度ビクリと痙攣し、完全に動きを止めた。――勝った。生き残った。
ムツも、仰向けにひっくり返った。
もう何時間も闘っていた気がしたが、まだ日は高い。太陽がまぶしかった。
ムツは気が付いて居なかった。バルバラの命を受け、ムツを監視していた盗賊ギルドの中堅盗賊が様子を伺っていた事を。
「うひ! えらいものを見てしまった! えらいものを見てしまった!」
ポニーテールを暴れるに任せ、急いでオルタナへ報告に戻るその盗賊が、口が軽いお調子者で有名だった事を。
オルタナへ戻るムツの足取りは軽い。幸いホブゴブリンの決死の抱擁も、抵抗が功を奏して大きな傷は無い。実質、損害は無い。精々が全身埃まみれな事と、目を突かれたホブゴブリンの返り血で顔が汚れて気持ちが悪い事ぐらいだ。
対して、儲けは最初のゴブリンから穴の空いた銀貨2枚、錆びた剣1本、次のゴブリン2体から鎧一式2体分、割と状態の良い剣と槍が1本ずつ、何かの牙が5本、綺麗な石が6個、こちらからも穴の空いた銀貨が3枚。そしてホブゴブリンから頑丈な巨大な棍棒。貴重品は懐にしまい、棍棒以外の武器防具はズタ袋に詰め込み、棍棒は担いでいる。
しかし、街に入るとどうも様子がおかしい。妙に視線を感じる。巨大な棍棒のせいか? いや、使えないから。持ち上げて運べるのと、武器として使用するのでは勝手が違いすぎる。
それに、よく視線を追えば、棍棒にというよりは俺自体に注目されている気もしないではない。本当に何事だろうか。
クヌギに紹介されていた武器雑貨屋に売却を済ませると、なんと45シルバーと20カパーにもなった。とりわけあの剣が高かった。実に素晴らしい。重い思いをして持って帰った棍棒が二束三文だったのは悲しかったが、それでも大黒字。これで暫くは財布の底に恐怖し無くて済むし、団員章を購入しても半分は残る。
道場に意気揚々と戻ると、満面の笑みのクヌギと、その娘のクラウディアの困惑顔、そして何故か青筋を立てたバルバラが待ち構えていた。
まだ今日は一波乱あるらしい。
ハルヒロは足取り重く散歩をしていた。初めての狩り。初めての戦闘。パーティーで森にゴブリンを狙いにいったのだが、見事に失敗してしまった。収入はゼロ。とりあえずマナトのお陰で安い義勇兵用の宿舎に泊まることにはなり、今晩の寝床のことに頭を悩ませなくて済むのは助かっている。 この状態で野宿なんてしてしまったら、明日のモチベーションが保てない。
「はぁ・・・・・・」
何度目だろうか。重いため息が止まらない。じっとしていられないから目的もなく散歩をしている訳だけど・・・・・・。何か生産的な事に時間を使いたいが、思いつかないのでとりあえず忍び足をしている。人が多く、うるさいので上手くいっているのか判別もできないのだが。
ふと、ざわつきが小声に変わった。何事だろうか。
人々の視線の先を追いかけると、見知った顔が歩いていた。一緒にこっちに来た、ムツだった。だが、その姿は異常だった。外から帰ってきた様なのに、防具らしい装具を殆どつけていない。埃まみれで、よく見ると顔には返り血が突いている。怖い。先日レンジと闘った時とは違い顔に傷は無いが、あのときと同じ戦いの後の空気を感じる。
さらに、背負い袋からは剣や槍が覗き、自身は巨大な棍棒を担いでいた。
「なにあれ、どういうこと?」つい、口から疑問が飛び出すと、横にいた露天商のおじさんが口ひげを弄りながら物知り顔で答えてくれた。
「あれな、義勇兵なりたてで今日初めて外に出た
「は?」
「だよな、意味わかんねーよな。どんな
ホブゴブリンって何、とはとても聞けなかった。だが、様子から露天商は察してしまったらしい。
「なんだ、お前も
「それは・・・・・・素手で倒せるような相手なんですか?」
「無理じゃあ、ない。だがなぁ、一人で、素手でとなると、中堅どころでも厳しい奴は多いだろう。少なくとも
どうしよう、マナト。俺たちこのままで良いのかな・・・・・・?