壺中の天とグリムガル   作:カイメ

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 ムツがバルバラに指示された絞殺の間の外に設置されていた梯子を登り、蓋となっていた頭上の腐りかけた木板を押し開くと、物置部屋へと出た。埃にまみれた古いテーブルの上に椅子が逆さに並ぶが、もうどれだけ放置されているのか蜘蛛の巣が張っている。窓の無い部屋には隙間だらけの扉が一つ。積もった埃が扉への道標の様に踏み鳴らされており、扉の隙間から漏れた光が照らしていた。

 新たな足跡をひと揃いこしらえ、少し押せば壊れそうな扉に似つかわしくない頑丈そうな錠を外し開くと、外気が鼻をくすぐった。少し酸っぱい、据えた臭い。嗅ぎなれつつあるスラムの臭いだ。決して良い香りではなく望んで吸い込みたい空気ではないのに、帰って来た感じがして心落ち着くのが面白い。

 外に出ると、暗くてジメジメしているイメージの強いスラムにして、明るい。手で日差しを遮りながら天を仰ぐと、太陽が伺えた。スラムは建物が密集しているので空は狭い。丁度中天であった。

 背後で扉が閉まり、ガチリと閂が落ちる音が鳴った。押しても引いてももう開かない。一方通行。外からは一見してただの板切れの扉だが、流石は盗賊ギルドの管理と云うべきか。もしかしたら室内にも何か仕掛けがあったのかもしれない。

 それにしても投薬による頭痛は収まってきているが、新たな()()()()があれよあれよと植え付けられ、別の意味で頭が痛い。とは云え、この暖かな日差しは気持ちが良い。直近の問題は、腹の虫が鳴りっぱなしである事と、唇がカピカピになる程に喉の渇きが深刻な事だ。どんな問題に対応するにしても、睡眠不足と並んで空腹は理性主義の敵であり、かつ直観主義の敵でもある。つまり、腹が減っては戦ができぬ。ムツは背伸びとあくびを一つしながら、中央区の市場に足を向けた。

 西地区(スラム)では大通りにも裏通りにも、老若男女何をするでもなく座り込んでいる者は多いが、幸いな事に本当に動かなくなってしまっている者は見受けられない。纏わりつく視線を受けながら、騒めきに向かって歩みを進めると、市場の活気と青い空が広がった。

 雑多な屋台が無秩序に入り乱れている様で、傾向はある。飲食の屋台や酒を出す店が固まっている一画。そしてパンや肉などの食料品、衣服や日用雑貨。扱う商品ごとにそれぞれが入り交じりながらも集まっている。しかし共通するのは、見渡す限りどれも安いという事だ。

 市場はオルタナ東西南北の区域で云えば北区に当たるが、西区のスラムと隣接している部分はまるでスラムの延長の様な印象を受ける。実際この区分けなど曖昧なものだ。

 そんな緩衝地帯であるからこそ、どの商品も客層に適した値段設定になっており、品質も相応だ。

 具が僅かに浮いているだけの水の様なスープと、逆に鍋から骨が溢れ肉もたっぷり入った濁ったスープが隣同士で売られている。値段は同じで量が多い事は共通しているが、前者はスラムの住民が、後者は汚れた身なりの義勇兵が引っ切り無しに購入している。

 活気と怒声に溢れる中を、人ごみをかき分け、澄んだスープを注文する。提示価格よりも器の貸し出し料として銅貨一枚分多く支払う。食べ終わった後器を返却すれば銅貨が返ってくる仕組みだ。

 席は埋まってしまっているので道の端に寄って口を付ける。塩気は強いが思った以上に旨みも強い。飲み込んだ後にも口内に残る僅かな苦みを含んだ潮の香り。貝を使っているらしい。具が無いので腹を満たすには落第だが、喉の渇きは癒せる。不味くはない。対して濁ったスープの方は、骨にへばり付いた肉片を齧っている義勇兵が多い。食べ応えこそありそうだが、何の肉だか判ったものではない。流石に人ではなかろうが、ゴブリンやオークの肉であっても不思議ではない。客の表情もどこか陰りがあり、とても美味そうには見えない。やはりこちらで正解だったらしい。

 熱いスープを啜りながら人通りを観察すると、身なりからスラムの住民と判る者と、荒くれ者、義勇兵が殆どを占めている。痩せて粗末な身なりである者は判り易く、体格と顔色を見れば経済状況が一目で知れる。実戦の気配を漂わせる装備をしていればこれも義勇兵と一目で判るが、少数ながら私服に非武装であっても、義勇兵か一般人かは何となく判別できる。一般人は足早で、用事を済ませたらこの区画を離れている。

 一般人の立ち去り先。この混沌から少し離れた地点に目を凝らせば、そちらは雑多ながら店も人も整列しており、正しく“市場”という印象だ。あくまでもこのスラム付近だけが特別らしい。

 今まで気にも留めなかった。盗賊ギルドのある西区と、武闘家ギルドのある東区の通り道だというのに。何故だ?

 目を落とす。あっという間に中身が空になった年季の入った陶器。屋台での昼食は初めてだ。どうして?

 ――そうだ。オルタナに来てそう日が経った訳ではないが、これまでこんな日が高い時間は道場に籠って身を虐めていたか、オルタナの外に出ていたかのどちらかだった。考えてみれば休日など片手の指で足りる程で、“強くなる”のに必要な事以外はしてこなかった。余裕が無かっただけとも云えるが。市場には朝か夕方以降しか通らず、だから日中の活気には縁が無かったのだ。

 なら、ここらで一日ゆっくりしても罰は当たるまい。昨日道場に戻らなかったのでクヌギの娘のクラウディアには小言を云われようが、今更多少の寄り道をして帰ろうが同じことだ。

 そうなると早まってここでスープを買ってしまったのがとたんに惜しくなる。少し歩けばもっと美味いものが沢山あるだろうに。殆ど具無しだった割に、飢餓感が抑えられてしまった。もう汁物はいらない。串焼きでも買うか。もしくは普段食べない甘味でも良いかもしれない。明日以降、財布事情が厳しくなるのは決まっているが、まだ買い食いが許されるぐらいの小銭はある。少なくとも今日は。

「――おい。生きてるならこっちを向け」

()ッ」

 ゴツ、という殴打音に反射的に振り返る。道の端で兵士が膝を抱えて座り込んだ男に剣の鞘を突き付けている。グリグリと頬に食込む鞘尻は丸みを帯びてはいるが、木製の鞘においてその部分だけは赤褐色に鈍く反射している。痛いはずだ。たまらず男が手を伸ばすと、兵士は触るなと云わんばかりに剣を引いた。

「こんな所で死ぬんじゃねぇ。死ぬならスラムの中か、街の外で死ね!」

 騒めきが視線へと変換され、奇妙な音の空白地帯が広がっていく。視線を逸らし離れる者。距離をとって様子を覗う者。不味い肉が余計に不味くなったと、器を残して去る義勇兵もいる。だが、近づく者はいない。

「北区は市民の場所だ。だのにお前ら役立たずの屑どもは領主様の恩情に胡坐をかいて我が物顔でのさばり、あろうことか糞みてぇな餌とゴミをばら撒きやがる。おかげでこのあたりはまともな市民が寄り付けなくなっちまった。屑はスラム(ゴミ貯め)から出てくるんじゃねぇ!」

「……俺は、戦士だ」

「何が戦士だ。虚ろな目をしやがって。近場で雑魚相手に小金を稼ぐが関の山な負け犬は、戦士とは呼ばねぇんだよ」

 兵士を見上げる男は青みがかった鎧を着ている。傷は多く補強の跡も目立つが、新品であればなかなかの値段がしただろう金属鎧だ。男の顔は汚れと目の下の隈が目立ち、一見すれば壮年。しかしよくよく見れば皺は少なく、白髪も無く、まだ青年とも呼べるだろう年齢だ。

 顔は上げても視線は落ち込んだままで、兵士の足元を瞬きもせずに見つめている。陰気を通り越して不吉さすら感じる面持ちだ。

「……あんたの言葉は覚えておく。それでいいだろう?」

「本当に判ってんのか? 屑も死ねば数日で起き上がり、人を襲う。そうなれば役立たずどころじゃねえ。害悪だ。だが、お前らは平気で道端でくたばる。誰が処理する? 俺たちだ。本来、亜人どもから街を守る事に力を注がなくちゃならねぇ俺たちが、こんな見回りなんかに人数をとられているのは、何故だ? 云ってみろ」

「あんた達の迷惑になる場所では死なない。手間はかけない」

「こっちを見て話せ。身の程、礼儀ってものを知らねぇのか」

 男はゆっくりと視線を上げ、もう一度“手間はかけない”と繰り返した。

「お前らもだ! 死ぬときは、スラム(ゴミ貯め)で死ね!」

 兵士は周囲へ声を張り上げ、目線を逸らし反応が無い事に舌打ちと唾棄をし、立ち去ろうとして一度振り返った。

「ああ、そうだ。戦士を名乗るな。虫唾が走る」

 そして、男の返事を待たず、肩をいからせ去っていった。

 男も、ゆっくりと立ち上がり、集まる視線から逃げるように、兵士と反対側――スラムの方向へ歩き出した。ムツに近づいてくる。止まった人の流れが戻りつつあるが、男に話しかける者はいない。男は布切れを刀身に巻いた、鞘の無い古剣を手にしている。男の背後には、兵士に向けられるものとは別種の胡乱で迷惑気な視線が注がれている。ふらふらと真っ直ぐに歩く男に、人は道を開けるが、ムツが避けずにいると目の前で立ち止まった。

 一言云ってやらねば気が済まなかったのだ。心に響くことなく、何の意味の無い事だとしても、黙ってやり過ごす事は出来なかった。看過出来ないことがあった。

「――なにか、用か?」

「戦って、死ね」

「? 義勇兵、か? その体。だが、ならどうしてあの糞野郎の肩を持つ?」

「兵士の言を肯定している訳ではない。スラムで死ぬなと云っている」

「……ああ、そういう事か? その青臭さ、そのなりでまさか新人(ルーキー)か?」

 ムツが返答せずにいると、男は陰気な微笑を浮かべ、頷いた。

「スラムで死なれて、アンデッド化されちゃ困る、と。西町に住んでるようには見えねぇが、盗賊か暗黒騎士か。 それともスラムに知り合いでもいるのか?」

「俺の事はどうでも良い。スラムの目につかないところで武器を持った義勇兵がくたばるとどうなるか。町の外で戦って死ぬも良し、暗黒騎士ギルドで介錯してもらうも良し。ルミアリス神殿で保護を求めたって良い。だが、ひっそりと衰弱死はするな」

「随分と挑戦的じゃないか。新人(ルーキー)。勘違いするな。死ぬ気なんてさらさらない。確かに金は無いが餓死する程じゃねえし、新人(ルーキー)に説教されるほどに落ちぶれてもいねえ」

 男は標準的な体格だ。大柄なムツに比べひとまわり小さいが、見上げられた濁った瞳は怯む事無くムツを威圧していた。長い間、少なくとも10年以上は戦い続けて来たのだろう年季を、そこには感じさせる。

「あんた、何故落ちぶれている? 五体満足なんだろう?」

「――色々あんのさ、新人(ルーキー)。長く義勇兵をやってるとな。今は想像もできんだろうが、お前もいつ貧困に喘いでもおかしくない。それが義勇兵ってもんだ。誰もが死にたく無い。苦しまずに死ねた、なんて事が良い事だとは思わない。一番多いのが怪我だが、それ以外にも“戦えなくなる”奴は少なくない。西町に行くならよく見るだろ。戦えない、仕事が無い、だが腹は減る。そんな奴らの末路を」

 確かに、思い当たる。何もすることが無い、出来る事が無いとただ日がな一日座り込んで、盗賊や暗黒騎士に()()()()()()後押しをただ待っている者。男は、そんな彼らも死にたい訳じゃないと云う。当たり前だ。当たり前だが、現実に則した()()は、彼らの天寿を許容しない。

「それでも、どんなに世を恨んで絶望していようと、たった一つのルールは守るように努めている。身寄りが居なければ、動けなくなる前に暗黒騎士ギルドへ行く。それだけは。死後にまで軽蔑されたくはないからだ」

 誰もが、最低限を承知している。人知れず死んではいけない。男は語った。

 

「そうだな。不躾な事を云った。申し訳ない、()()

 ムツは深く頭を下げた。

 スラムに住む子供たち。ザックや、武闘家の技に純粋な歓声を上げていた子。それに()()()()()()なってしまった女の子の顔がどうしてもちらつく。ただでさえ厳しい現実を突きつけられている彼らに、アンデットの脅威まで追加されることなどあってはならない。

 しかし、頭に血が上って失礼な態度を取ってしまったのも確かだ。合理に欠いているのも問題だが、生活に困窮している者を見下して、正論を振りかざして愉悦を得てしまえば、傲慢な兵士と同種に成り下がる。全く正論に酔ってはいなかったかと問われれば、完全な否定は出来ない。ならば、素直に非を認めるべきだ。武器を持った相手に無防備な姿勢を晒すのは危ない、そんな()()()()()は捨て置かなければならない。

 それが合理(正しい)と信ずる。

「なんだ、殊勝じゃないか。よし、じゃあ一つ良い事を教えてやるよ」

 ムツが頭を上げるのを待って、男は濁った目のまま口調だけは楽し気に語り出した。

「さっき命の始末に責任を持て、できなきゃ教会に頭を下げろって云ってたな」

「申し訳ない」

「責めてるんじゃねぇ。教育だ。()()からのな。――このオルタナで、一番危険な場所の話だ。どこだと思う?」

 危険な場所? スラムに決まってるだろう。皆、生きるのに必死で、隙を見せれば奪われる。だが一番となるとどこだ? 飲み屋街と花街を繋ぐ道の中で、裏道と呼ばれる細い通路は視界が悪く危ない。だが、ヤバい奴の密度で云えば、スラムの奥の毒イモリの酒場の周辺が一番だろう。だが、統制のとれなさを含めて考えれば、盗賊ギルドからも暗黒騎士ギルドからも離れた密集宅地は真の意味でカオスだ。心を病んだ一人暮らしが多い

「――ドン沼。確かに、あそこは一つの底だ。だが違う。……神殿だ」

 ? ルミアリス神殿が、危ない? 意味が判らない。貧者への援助も行っている、最も安全な場所だろう。それは神官も人間である以上色々いるだろうが、ムツの知る神官は概ね慈愛に満ちている。仲間のメリイも慈愛に……慈愛? いや、背中を預ける仲間の評価は辞めておこう。彼女は立派な神官だ。……マナトはあるべき神官を象った男だし、上級神官のアルメナには命を救われた。彼女の適切な治療が無くば今生きていないだろうし、淡々と仕事をこなしている様で、小さな思いやりに溢れた治療だった。その部下のメティスはまだ見習いでありながらも身を削ってまで助けてくれた。レンジとの殴り合いの負傷を治療してくれたのは彼女だ。それも、正規の料金からかなり値引いた料金で。治療は建前上お布施という形をとるので割引というのも可笑しな話だが、治療内容によって相場はある。なら、その差額は彼女が負担してくれたのだろう事は今なら想像に難くない。

 で、その神官が一堂に会するルミアリス神殿が危ない?

「あり得ない」

「気を悪くするなよ。神官を悪く云う気はない。まあ、例外はいるが。危ないってのはそこじゃない」

 なら何だ。

 ムッとした様子を隠さないムツに、男は目を細めた。

「ルミアリス神殿は弱者救済を行う。助けてくれと云えば、助けてくれる。怪我をしていれば治療を。飢えには食べ物を。寒さに凍えていれば、神殿への宿泊と毛布の貸し出しをしてくれる。慈悲を乞う者は少なくない。だが、対価なく助けを乞い続ける者はあまりいない。餓死や凍死をしそうな奴などいくらでも居るのに、だ。気に留めたことがあったか?」

 云われてみれば確かに不自然だ。遠慮は美徳だが、生きる為に同じ貧者から強奪を図るような人間は遠慮なんてものから程遠い。利用できるものを利用しないなんておかしい。……まて。この話は何の話だった? “オルタナで一番危ない場所は、ルミアリス神殿”?

「そうだ。神官や聖騎士は清らかであるべしとされているが、だからこそ、その善意に甘えて教会の負担となる、奴らに云わせりゃ“不届き者”を良く思わない者も、神殿の内外に居る。わらわらと、な」

「粛清を行っていると?」

「神殿側もその事実を知らない訳じゃない。しかしオルタナの困窮者全てを救う事は出来ないし、試みて共倒れになる訳にもいかない。黙認し、適度な支援に留める事で過剰な事態が起きないように節制している、というのが現実だ」

「しかしその暗黙の了解を知らない者も居る」

「その場合は警告が行われる。受け入れれば良し。だが無視しても()()()神殿の負担は続かない」

「成程」

「だから、金も無いのに神殿を利用するのは主に3種類。何も知らぬ者。適切な利用を試みる者。そして本当に切羽詰まった者だ」

 

「興味深い話だった。感謝する」

「なんだ、信じねぇのか?」

 男の話には説得力がある。“生活の厳しい者は多い”“神殿は支援を行っている”“神殿には大行列ができていない”この3つの事実と併せて考え、否定される要素は無い。ただ、真実だと確信するには至っていない。そして、その穴を埋めるもの、男との間に人間関係や信用の積み重ね、話の裏付けは存在しない。

 それに嘘ではないにしろ、やはりかなりの誇張があるのではなかろうか。この話がそのまま事実なら、神官が座しているとはとても思えない。

「いや、非常に参考になる話だった」

「慎重だな。だがまあ、正しい。ならもう一つ助言だ。その慎重さは大事にしろ。人間は良くも悪くも慣れる生き物だ。慣れて油断したとき、脇腹を思わぬところからザックリ。そうなりたくなければ、誰に対してもその慎重さを失わない事が肝要だ。誰に対しても、な……」

 

 最初の印象に反して饒舌だった男と別れ、市場を東に進む。食欲は失せていた。教会の話も、その後の忠告も、聞くに値するものだった。

 人間は慣れるもの。確かにその通りだ。背中を預ける仲間(メリイ)の存在。無条件で信用しかけてはいないか? そう釘を刺された気分だった。メリイは絶対に裏切らないのか? その保証は? 無い。

 疑心暗鬼になってもいけないが、冷静さ、慎重さを放り投げ、信頼という名の思考停止に陥ってはいないかと問われれば、否定できる材料もまた見当たらない。

 胃がムカムカする。美味く感じたスープの後味が気持ち悪い。胃が煽動し酸っぱさが喉を焼く。これはいかん。

 

 自問する。自身は何者か? 武闘家だ。

 武闘家として大成するのに必要なものは? 危機感。

 そう、危機感だ。なら、割り切らなければならない厳しい事態は、今後絶対に出てくる。その時、冷静さを失っていればどうなる? 考えるまでもない。()()が必要となる。

 だが妙に悲観的になってもならない。精神衛生も大事だ。心を温めること無しに、先へ進むことは難しい。人間なのだから。その上で、覚悟も忘れない。それだけだ。

 ムツは、熱を残す吐息を零し、パメラの加入に思考を向けた。

 今後、というか明日からどうするべきか。難題だ。どうにもならない。なるようになれ。パメラを治療? できることなどない。普通に接することが益となるとバルバラが考えたのなら、それを信じよう。これは思考停止じゃないよな……?

 盗賊が加入する。時間は有限。そう。思案すべきはそこだ。()()()()もある。そっちの方が現実的な脅威だ。活動場所と相手。ゴブリン、オーク、コボルト。実質的に選択肢は多くない。日帰りで遠征すれば活動時間は減る。それを許容すれば候補は増えるが、幸いに悩む必要はないだろう。

 強くなるための相手を探すのに、遠くまで出向く必要はない。作戦の成功を考えると()()()()も保てる。危険は大きいが、やりがいはある。

 問題はメリイだ。現在彼女は新魔法の修練中。明日はパメラと現場の下見を行うことになる。本来はムツも道場に籠っている予定であり、パメラに関する決定は全て独断となる。メリイも良い顔はしないだろう。だが伝えて修練を切り上げられても、活動を制止させられても困る。事後報告は仕方ない。仕方ないのだ……。

 合流日、勝手に活動方針を決め、メンバーを加入させ、あろうことか先行活動していた事を知ったメリイが、元々の能面を鉄壁のものとする光景が目に浮かぶ。メリイは怒鳴るタイプではない。静かに怒るだろう。ねちねちとしつこそうだ。でも陰湿な事はしない、はず。しないよな? どうだろう。手が出るタイプではないから、そこは安心だ。安心か? 考えても仕方がない。仕方がないのだ……。

 言い訳ばかり。ムツは胃を抑えて嘆息した。また胃が痛む。しかし今度は喉は焼かれなかった。

 

 市場を東に進む。昼時という事もあり、様々な屋台が活気に溢れ、肉や魚を焼いただけのシンプルなものから、特製のパンに肉厚のハムと特製の卵サラダを挟んだサンドイッチ、じっくり卵に浸した上で焼き上げ粉砂糖をまぶしたパンなど、様々な香りが鼻をくすぐる。

 そしてオルタナを縦に割る中央大通りを超えると、店の性格が変わる。屋台ではなく店舗が増え、店内での飲食が増える。カフェテリアなどもあるが、サンドイッチ一つとっても綺麗にカットされた上で皿に盛りつけられている。客層も綺麗な身なりの者が多い。義勇兵も見られるが、魔法使いや神官、聖騎士が多く、盗賊や戦士、暗黒騎士はあまり見られない。

 さらに東に進むと、屋台群の小広間に出た。屋台と云っても西側と比べがっちりとした木造で簡易店舗と呼んだ方が適当かもしれない。買い食いできる店は皆無で、日用雑貨類と、食べ物。肉や魚も売っているが、特に野菜類が多く売られている。全店舗の半数が野菜類だ。色とりどりの品ぞろえが整頓された陳列により鮮やかで、東区の高級住宅街の奥様方や使用人が穏やかに買い物しているのが印象的だ。オルタナは争いの絶えない街というイメージが強かったが、こんな場所もあるのかと、視界が啓けて頓悟する思いだ。

 確かに、オルタナは兵士や義勇兵が多い。戦える人口が多数を占めてはいるが、その家族や商人、役人だってオルタナの住人だ。穏やかな日常を意図的に演出する空間もまた、需要があるのだ。東区付近はその色が強いという事だろう。それにしても、同じ中央区の市場でも西と東ではまるで別の国の様な変容。ムツの所属する武闘家ギルドは東区にあるので、西か東かどちらに所属しているのかという二元論であれば東になるが、どうにも落ち着かない。同じく東区に拠点のある魔法使いのうち懐が寂しい者や、穏やかな癒しを求めない者も同じような感覚を味わっているのかもしれない。

 

 

「いい加減にしなさい。お客様は決まっているのだよ」

「おかしいだろ! なんで豆屋で豆が買えないんだよ! そりゃ金持ちじゃないけど豆ぐらい買えるって云ってるだろ!」

「値が張るのだよ。この辺りの店はね。良い品を求めるお客様に御満足頂く為に、本当に良い品を選び抜いている。だから、同じお金を使うのなら、もっと西側の店でお腹を一杯にできる量を買いなさい」

「それを決めるのは、おれだ!」

「判った判った。じゃあ、少し分けてあげるからこれをもって帰りなさい」

「金は払う! おれは物乞いじゃない!」

 この場に似つかわしくない怒声。ムツが声に目をやると、身なりの汚れた少年が、豆屋の店主に銅貨を突き出している。その小さな手から溢れんばかりの銅貨を、店主は受け取る気配は無く、少年も店主の差し出す小袋に手を伸ばさない。

 気の強さがはっきり判るこの声には聞き覚えがあり、持っている衣服の少ない彼の比較的マシな一張羅にも見覚えがある。スラムの少年、ザックだ。バルバラとの待ち合わせでの伝言役と、数度の偶然から仲良くなったスラムの子。今では強くなるためのトレーニングや食生活のアドバイス、簡単な体裁きを指導する間柄になっている。

 だが、そんな彼が何故こんなところにいる? 店主の言ではないが、無駄遣いできる余裕は無いはずだ。

「それぐらいにしておきなさい、少年。店主も困っているだろう。周りにも迷惑だ」

「あ? 兵士が何の用だよ! おれは何も悪い事なんかしてねえ!」

「そうだな。だが、周囲を見回してみろ。穏やかな日常を壊す異物に向けられる視線がどんなものかが判るだろう」

 ザックに諭すようなハスキーボイスを向けたのは見回りの兵士だ。二人組でどちらも聖騎士の装い。純白で高級そうな鎧に、ルミアリス神殿の紋章が刻まれた逆三角を伸ばしたヒーターシールドを持ち、片手剣を腰に携えている。特にザックに向かう者は、バイザーを下した兜も被っており口から上は隠れているので顔が見えないが、声から判断するに女だ。もう一人がムツに迫る巨漢であるため目立っていないが、平均的な男性程度の身長があるため、殊更に中性的な印象を与えている。後ろのモヒカンの巨漢が口出しするつもりがないのか引いている為、余計にその印象は強まっていた。

 ザックは女聖騎士の言葉通りに辺りを見渡すと、わずかに怯んだ様子だった。それもそのはずだろう。離れた場所から見ているムツでさえ感じる冷ややかな周囲の目線は、子供を威圧するには十全だ。

「で、でも、おれが何をしたっていうんだよ。普通に金を持って、普通に買い物をしようとしただけだ。西区に住んでいるからって、おれは泥棒でも物乞いでもないっ」

「かもしれない。でもそれは()()()には判らん。それに、だ」

 女聖騎士は僅かに店主に体を向けた。目線は隠れていても、一瞥したのが判り、ザックも店主を仰ぎ見た。恰幅も服の品も良い、この辺りによく見る商人だ。

「――この小広間で商売をするには、金も信用も必要だ。魔道の気配を残す彼が商人としてここまで来るのは並大抵の事じゃない。義勇兵か余所者か。商人として第二の人生を歩み、10年か、あるいはもっと長く必死に働いて来たのだろう。それを理由も無くぶち壊すのは、悪だ。許されない。少年。君はそれをしようとしている」

「だからおれは――」

「客商売だ。客が見るのは商品だけじゃない。客は他の客も見る。お前に売れば、“スラムの子供が客の店”になってしまうんだよ。どうなると思う?」

「でも……おれは――」

 ザックは銅貨を握りしめて項垂れた。

 助けに介入するべきか。いいや、それは事態が悪化する蓋然性が高い。ムツが割って入ったところで、さらに注目を集める事になり事態の解決に寄与せず誰の得にもならない。

 ザック、引き下がれ。悪事を働いた訳でもその意思がある訳でもない事は確認するまでもない。でも、強情に粘ったところで良い事も何もない。

「でも、強くなるにはこの豆が良いんだ。スラムの方ではあんまり置いてないし、古かったり他の豆が混ざっていたりする。まともな店もあるけど、どこも売り切れだったんだ……」

 頭を殴られたかの様な衝撃。豆屋の商品を見る。一番価格が安く、ザックが買おうとしていた商品は、ムツがザックに奨めた豆だった。高たんぱくで炒れば僅かに甘みも持つこの豆は、まともな肉や魚に比べて遥かに安価。筋肉の材料となるたんぱく質は、成長期の子供に不足させてはならない栄養素。特に強くなりたい、体を作りたいと願うザックに野菜や海藻の重要性と共に最初に教えた食材だった。

 この事態を招いたのは、俺のせいか? 購入できる店が限られている。売り切れの可能性がある。その時、ザックがどうするかを予想しなかった。諦めてまた売っている時に買う。それが普通だ。でも、“栄養が足りなければ、いくらトレーニングしても体は強くならない”とザックに教えた。ザックは、欠かしてはならないと認識した。俺のせいだ。

「ここまで丁寧に云っても判らんのなら仕方ない。――おい」

 モヒカンの聖騎士が前に出て、手を伸ばす。

 ザックが連れていかれる。どうなる? 殺されはしないだろう。だが判らない。抵抗して一発小突かれただけでも、圧倒的な体格差では致命傷になることもある。黙って見過ごすのか? それは、ザックにとって最善か? 本当に被害を最小にするのに適当か? そうすべきだ。見過ごせば罪悪感に苛まれるだろう。ザックの為に、そんな痛みは飲み込むべきだ。

 モヒカンがザックの腕をつかみ、手から銅貨が零れ落ちた。僅かな金。でも小さなザックが稼ぐには大変な金だ。

「嫌だ。誰か、助けて!」

「悪いようにはせん。おとなしくしておけ」

「――ああ、ごめん、姉ちゃん、……兄ちゃん」

 

 

 足が動いた。声の届く距離。一瞬だった。

「ザック」

「兄ちゃん!?」

 モヒカンが手を放し、自由になったザックはサッと落ちた銅貨を拾い、モヒカンと対峙するムツの後ろに回り込んだ。

「兄ちゃん? その少年の兄か。……確かお前、最初から見ていたな。――屑が」

 女聖騎士の空気が変わる。瞬間、抜剣した。

 ――やってしまった。いや違う。否。この直感による行動は論理の積み上げによるものではない。しかし大局的な直観を得ていると信ずる。正しい事をした、それが重要だ。今はどうしようと悩む時ではない。下手を打てばザックと二人で牢獄行き、この場で斬殺もあり得る。

「どうした? 黙っていないで言い訳の一つでもしてみろ」

 女聖騎士がまた前に出て、ムツに剣先を向ける。モヒカンはまた一歩引いた形となるが、柄に手をかけ静かにこちらの動向を窺っている。直情的な女聖騎士に対し、モヒカンからは彼女を見守り行動を阻害しない意思を感じる。お目付け役か、護衛か。そうなると女聖騎士もそれなりの立場という事になる。

 厄介だ。しかし焦るな。油断はせず、考えろ。

一案、投降、従属。無難だが、保留。

二案、抵抗。交戦。敵の現在戦力は2名。女聖騎士からは強者特有の気配は感じないものの、同格か少し格上かは大いにあり得る。武装している以上、オーラを最大活用した1対1でも勝利は確実ではない。モヒカンの腕前も不明だが、護衛にしろお目付け役にしろ、女聖騎士より格下という事はあるまい。つまり、1対2の正面戦闘は下策。却下。

三案、敵戦意逓減工作。採用。情報収集を兼ねた防衛戦闘は許容できるか? 可。限定採用。失敗したら即座に一案へ移行。実行。

「ザック、どうして買い物出来なかったと思う?」

「え? いや今それどころじゃ……」

「大事なことだ」

 女聖騎士は無視だ。視界には入れているが、突き付けられた剣、怒りには構わない。相手のペース、理屈で動いてはならない。バルバラの試験。敵の動揺を誘い、こちらのペースを押し付ける事ができれば、戦力で劣っていても圧勝できる。学んだことは、活かす。

「う、うーん。騒いだから?」

「それが決め手だったな。でも根本的には、身なりが汚かったからだ」

 周囲からは“この状況で何を云い出しているんだ?”という困惑の視線と、単純にムツが何を語ろうとしているのか耳をそばだてられている気配を感じる。無視された女聖騎士の剣先はプルプルと細かく震えている。良い傾向だ。

「そんなの仕方ねーじゃないか! 兄ちゃんは知ってるだろ!」

「学べ、ザック」

 叫ぶザックに鋭く言葉を返す。後ろに居るザックに完全に視線を向ける事はできないが、うっと言葉を詰まらせた所を見るに本人もしまった、と感じたらしい。今度は声を押させて口を開いた。

「じゃあ、どうしたら良かったんだよ」

「どうしようも無かったな」

「はあ?」

「ザックはこの東側市場で買い物をしたことが無かった。どんな環境、気持ちで店を開いているか、知らなかった。知りようも無かった。なら、失敗は必然だ」

「うん」

「でも、もう知った。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()云う。モヒカンは片眉でピクリと反応した。いいぞ、悪くない。理屈が通じて頭も回る。優秀な護衛だ。

 野次馬もすっかり様子を見守る風情となっている。偉そうに説教を垂れ流しおって、と苛立つ者も見られるが、大部分が正論に肯定的だ。

 ここだ。()()()()()()()()()()()()()。ムツは、女聖騎士に背を向けてザックを見つめた。

「ザック、この店主も、お前を見守っている野次馬も、理解のできない悪魔でなく、普通の人だ。過ごしている環境が違うだけで、我が身は可愛いし、納得できて余裕があれば人助けもする。怖がるな。相手の事が判らないのは、ザックだけじゃない」

「……うん、判った」

 注目を集める中、ザックは店主の前に進み出て、深く頭を下げた。

「騒いで、ごめん。――スラムに泥棒が多いのは本当の事だし、なら、おれがそうじゃないってことは、おれが示すしかなかったのに。今度は、もうちょっとマシな格好で来るよ」

 頭を上げたザックは、幾分すっきりしている様に見える。完全に納得している訳ではないだろう。でもその顔にはしこりを表に出すまい、という自制心が確かに伺えた。大したものだ。たかだか10歳かそこらの少年にして、理解力と許容力を備えている。

「帰るか」

「うん」

「待ちな」「ちょっと待て!」

 一歩踏み出した二人に対し、ザックへは店主の、ムツへは震える剣を突き出したままの女聖騎士の声が重なる。

『……』

「……何? おっちゃん」

 間の悪い女騎士の引き留めに、いつの間にか柄から手を放していた後ろのモヒカンが黙って天を仰ぐ中、バツが悪そうに店主が言葉を続けた。

「うちは基本、小袋では売ってない。値引きも受けてない。中袋で銀貨1枚だ。だが、中袋の1割量の小袋を、銅貨11枚で売ろう」

 オルタナでは銀貨1枚で銅貨100枚という固定相場制を採用している。銀貨1枚の1割なら銅貨10枚だが、この店は商品を入れる袋も安物ではない。本来もっと高い豆の味見用か何かに使っているのだろう小袋自体が、銅貨1枚では買えないだろう。

 ザックはぽかんと店主を見つめ、一瞬ムツの方を振り返りそうになったのを堪えて、そのままありがとう、と礼を言った。銅貨を数えて渡し、小袋とは云ってもザックの小さな手には大きな、ずっしりとした豆を受け取ったその顔は、陰りない笑顔だった。

 一件落着。さあ帰ろう、と出来たらどんなに良かったか。

「で、何だ?」

 ()()()、ムツは女騎士に向けて言葉を放った。女騎士の剣先は既に揺らぎと呼ぶに収まらない振動になっており、兜に隠れていない口元は歯を食いしばっており、そんな怒りに耐える様子は完全に浮き上がっていた。

「~~~ッ」

「どうした? 黙っていないで用があるなら云え」

 別に意趣返しをしたい訳ではない。積みあがった怒りを動揺のままに解放されては、堪らない。危なすぎる。

 話をする、という事が重要で、かつ周囲の無事解決して良かった、という空気を無碍にもできない。女騎士には悪いが、このまま割を食ってもらう。

立場が入れ替わった諧謔と、女騎士の暴走への警戒。もはや平穏を愛する野次馬はこちらの味方だ。

 かといって、こうなった以上落としどころも難しい。代償が必要だ。時間か、血か。危険度は前者の方が高い。このまま当初の流れ通り拘束連行されれば、この場の局所有利が消え去ってしまう。血の代償が最小限になるよう、努めよう。

「騎士殿。貴女も教育を受けたいのか? だが待ってくれ。我が子ならずも子供を叱るのは大人の責務というものだが、貴女は大人だ。ご寛恕願おう」

 女騎士の震えが止まった。

「――私はこの18年の生涯、ここまでコケにされたことは無い。領民の誇れる武人を輩出する我が家の末席を汚す者として、このオルタナには望んで来た。剣も魔法も修練を重ね、町の見回りも進んで志願した。だが、これだ。これは何だ? 治安を冒す者を取り締まるのが職務。私が責められる謂れなどない!」

「治安を冒すものなどこの場に誰もいないし、いなかった。それだけでは?」

「遅い。この剣は降ろせぬよ」

「お嬢」

 見た目通りの太い声だった。しかしモヒカンの制止に女騎士は反応しない。

「なら、一手指南しましょう」

「……は?」

 ムツは、武闘家ギルドの師範、クヌギを模倣して云った。修練時、幾度となく掛けられる言葉。強者から弱者へかける、大上段からの言葉。

「剣を振らねば収まらぬというなら、頭を冷やすお手伝いを致しましょう、騎士殿」

「よくぞ云った。決めた。そのふざけた面を歪ませてやる。安心しろ。弄る趣味は無い」

 

 女騎士の重心が変わる。

「ザック、離れていろ」

 でも、と反応するザックに言葉は返さない。

「ところで、お前は右利きだな」

「そうだ」

「なら、左手を貰う。私は聖騎士だ。すぐに泣いて乞えば。運が良ければ、切断していてもくっつくだろう。悪ければ――」

 本気だ。来る。

「――あきらめろ!」「循環気流(オーラ)

 誰が見ても判る一流の太刀筋。一瞬の閃光は、予告通りムツの左手首を狙ったものだった。しかしずれる。ずらされた。半身に構えられ前に出されていたムツの前腕に吸い込まれた剣は、僅かな傷を与えただけでピタリと動きを止めた。

「き、切れない!?」

 循環気流(オーラ)、解除。再使用準備。全力の7割出力でかすり傷。

 剣を押し返したムツにどよめきが走る。誰もが制止する間もなく息をのんで、惨劇を予想した。が、剣を受けたムツの腕は、道着こそ切れていても出血が殆ど見られない。滲む程度だ。誰かが云った。

「人間か?」

「武闘家だ。――剣筋は見事。ただしその支給品の剣で、しかも片手では切れんよ」

「ああああああああああ!!」

 聖騎士の象徴たる盾を放り投げ、剣を両手で構えて女騎士が突っ込んでくる。

循環気流(オーラ)!」

 7割出力。やはり最高出力には時間がかかる。

 女騎士の剣は同じように道着の袖を裂くにとどまる。先ほどと違うのは、女騎士が止まらない。両手になり明らかに剣速も圧力もあがっているのに、ムツの表情に焦りはなく、両腕を使って受け止め続けている。

 8割出力、9割。

「どうぞ御遠慮なく」

 挑発。長期戦は持たない。短期戦で納得してもらえなければ、循環気流(オーラ)の強化率を維持できなくなって切られる。間違いなく切り飛ばされる。

 女騎士に返答は無かった。一瞬、止まった。大上段。大きく頭の上まで振りかぶった。これは、拙いかもしれない。今までと別物の一撃が来る。直感。確信。来た。全力強化!

 ムツは初めて後ろに飛んだ。頭の上で腕を交差して防御するも、女騎士の一撃の方が早い。真っ直ぐに振り下ろされ、地面スレスレで止まる。剣先から赤い雫が滴った。

「兄ちゃん!?」

 ザックが駆け寄ってくるが、反応できない。左手をゆっくり握る。動く。頭は無事だ。体も。しかし左前腕を、切られた。タタタ、と傷口から溢れた血が手首まで流れて落ちる。

 長袖の道着だったが、左腕部分は損傷が激しく傷が丸見えだ。前腕を深く斜めに7~8センチほどの裂傷。血は止まる気配無く流れている。持ち上げてしげしげと眺めると、血の通り道が肘へと変わり、道着を湿らせていく。

「素晴らしい一太刀でした」

 女騎士は振り下ろした姿勢のまま動かない。肩で息をしながら、今の一瞬の記憶を反芻している様だった。

「兄ちゃん! 止血しないと!」

「抑えていれば止まる」

 多分。いや、判らん。本当は外繕気修(サーキュレーション)で“もう治った”とできれば決まるのだが、そもそもそのレベルにないし、疲労が強く今すぐ発動させてもどれだけ効果があるか怪しい。血、止まらなければ神殿行きだ。帰ろう。すぐ帰ろう。

 女騎士が、顔を上げた。

「あ、治療を――」

 憑き物が落ちたような穏やかな物言い。まだ半分放心状態らしい。

「結構だ。役に立てたようで嬉しく思うよ」

 二人に向けて云う。モヒカンは全てを見通したような穏やかな目で、阿呆め、と云っていた。

 女騎士から返事は無かったが、腕を抑えて止血したまま、西へ足を向ける。豆屋の店主に会釈をすると、どういう意味か、こくこくと壊れた人形の様に頷いた。

 去る。自然と道が割れ、通路ができる。これだけ注目を浴びて、お咎めなしなら重畳だ。

 お騒がせしました、と口にしようかと思うも、やめる。蛇足だ。

傷口を押さえっぱなしなのが恥ずかしいが、手を放すわけにもいかない。参った。しかし、後の火種になりそうだ。普通に考えて。

 合理。なんとも薄っぺらい合理だ。ままならない。確かに阿呆だ。

 ザックの視線が刺さる。傷も視線も痛い。神殿への道のりは遠い。


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