壺中の天とグリムガル   作:カイメ

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1-1 プロローグ

”――目覚めよ(アウェイク)。”

 

 何かを囁かれた気がした。

「うっ」

 薄くすえた臭い。ムツが目を開け、体を起こすと、何もない暗闇のみが広がっていた。いや、違う。暗いだけで、ゆらゆらと小さな蝋燭の揺らぎがここが洞窟であると教えてくれている。

 手をついた地面は固い岩で、気付いてみれば体が痛む。少なくとも1時間以上は寝ていた様だ。

 引き締まった大柄な体を、音を立てない様ゆっくりと立ち起こすと、辺りを見渡した。息を飲んだ。人だ。人が居る。それも一人二人ではない。ざっと見渡しただけで6,7人。薄い灯りの下で目を懲らすと、どうも10人以上が横たわっている。

 どう云う状況だ? それ以前に、ムツ。自分の名前以外に何も思い出せない。

 壁により掛かり、頭上の寂光を頼りに詳しく辺りを観察する。

 まだ起きているのは自分一人だけらしい。少なくとも、動く者、話す者は居ない。洞窟の中を蝋燭が道案内をするかの様に点在している。しかし、ムツを至近で照らす蝋燭を最後に途絶え、洞窟の奥は完全な闇となっている。暗闇に浮かぶ蝋燭の道。その先が猛烈に気になる。まるで誘蛾灯の様だと思った。もし自分達が蛾で、蝋燭の先が誘蛾灯であるならば、その先に待ち受けるのは何だろうか? 

 ――ん? 誘蛾灯? 誘蛾灯って何だ?

「もしかして、誰かいる・・・・・・?」

「・・・・・・います」

「ああ」

 若い男の声。それにつられる様に男女の返事が続いた。どれも若い。

 それを皮切りに、現状に困惑した声が続々とあがった。

 ムツはその話し合いには参加せず、沈黙を保った。それどころではなかった。背中が嫌な汗で濡れていく。何かを考えれば考えるほど、何かが頭の中から失われていく。決して失ってはいけない大事なものが、この手の中から絶えずこぼれ落ち続けている。この上ない恐怖を感じていた。

 愕然と壁により掛かったまま動きを止めていると、全員が光の道を進んでいた。

 おいおい、いいのか。そっちは危険なのではないのか。

 根拠など無いはずなのに、漠然と腹の底から恐怖が沸いてくる。だが、一人残されるのもかなりリスクが高いのは違いない。

 ムツは誰も居なくなった岩の仮宿をゆっくりと離れた。

「誰かいねえのか! ここを開けろ!」

「ねえ、いないの、誰か、開けて!」

 大分離されていたのか、割と遠くから男の怒声、女の叫び声が響く。閉じ込められているのか? 忍び足のまま少し足を早める。

 追いつくと鉄格子と、かび臭い階段。そしてその上に光が見えた。男女は一人ずつ階段を上っていく所だった。

 急ぐことはない。ムツもゆっくりと後に続いた。列の最後の男の後ろに付く。

「ん? うわあああああッ」

「えっ? 何? 何?」

「どうしたの!?」

 男が振り返ると、その眠そうな目を驚愕に見開き、絶叫した。階段を上る途中だった大人しそうな少女と、人の良さそうな爽やかな青年も振り返った。

 何だと云うのか。ムツも至近で叫ばれ、半開きだった瞳を極限まで開いたこの少年とも同じぐらい心臓が高鳴っているだろうが、なんとかゆっくり腕を組むことで動揺を隠す事が出来た。

 隠す意味なんて無いのだけれど。何となく、こっちも衝動のまま返すように叫んだら、騒ぎが大きくなるだけだよなぁ、と思った。思ってから、どうも自分は表情筋が動きにくい質である事に気がついた。端から見て実にふてぶてしく構えていることだろう。眠そうな少年には悪いけれど、図らずも忍び足で近づいた自分が悪いのだけれど、一体何事だといぶかしげな表情を浮かべて、責任を回避することにしよう。そうしよう。そうした。

「い、いや、ごめん、なんでもない!」

「んだよ、びっくりさせんじゃねーよ! いやしてねーけども!」

「どっちだよ」

 ざわつき出す上に向かって眠そうな少年が謝罪し、反応に義務的に突っ込むと、こちらにも会釈をした。ただ、目が合わない。身長の違いはあるが階段を登り始めていた彼と相対的な顔の高さに差は無いのに、不自然に視線が下を向いている。

 悪いのはこっちなのにそうも恐縮されると妙な気分になる。こっちも恐縮したくなるような、逆に加虐心を目覚めさせたくなるような・・・・・・。

「す、すみませんでした。大声あげて」

「いや」

 ムツが組んだ腕を解き、気にしていないと少年の視線に合わせる様に軽く手を振ると、ようやく視線を合わせてくれた。恐縮している眠そうな少年に上が空いている事を目で伝えると、彼はいそいそと上っていった。なんか、ごめんね。色々。

 

 妙にスッキリしてしまった階段を一人上る。光の先は、「外」だった。薄暗く、肌寒い。朝特有の空気だ。かび臭い「中」に比べて、実に清々しい。腹の空気を入れ換える様に深呼吸をした。たまらなく美味い。

 男女は12人。自分を入れて13人。内、4人が女性だった。全員軽装で、これぞ普段着という様相。だが、それ以外にも人は居た。彼らは鎧を着用していた。

 鎧は戦いに用いる。「今」はもう廃れているはずの過去の遺物。

 ――何故か古いような感じがするが、戦闘に備えている事は間違いない。

 彼らは何と戦う? 俺たちとか? それとも俺たち以外の何かとか?

 眼下には街が広がっている。ここは小高い丘らしい。建物がひしめき合い、早朝の静かさの中に多くの人間の生活が感じられる。背後には今出てきた塔がある。場所といい、守衛がいることといい、割と重要な施設だったらしい。少なくとも、罪人の牢獄には見えない。

 男女に目を戻すと、案内人が来ていたらしくぞろぞろと付いていく所だった。

 ただ今度は一人男が残っていた。階段で眠そうな少年の一つ前にいた、優しそうな青年だ。「ついて行かないの?」

さらさら髪でやたらと爽やかな青年は、声も見た目通り優し気で、性格も気が利くタイプらしい。

「行く。ムツだ」

「マナト。よろしく」

 どちらとも無く握手を交わすと、二人で騒がしい団体の後を追う。何が起きるか判らないけれど、このマナトとは仲良くしておきたい。多分、マナトに裏切られる時が来たなら、それは誰一人信じられない最悪の時だ。たった一言しか言葉を交わしてないのに、我ながら信頼をよせたものだ。でも、第六感に近いこの感覚は、不思議と外れることはない。無かったはずだ、多分。

「もっと怖い人なのかと思ったよ」

「怖い?」

 自分を客観視すると、ムツの体躯は大きい方だ。一人同じぐらいの大男がいるものの、他は皆小さい。一般的な成人男性の体格のマナトと比べても、一回り大きいだろう。

 でかくて、無表情で、眠そうな少年を絶叫させ、集団から外れ他の者と交流していない、無愛想な男。確かに、あまり近づきたくないタイプだ。

「ああ、悪い意味じゃないんだ。状況をよく観察したかったんだよね。俺もそうだったから」

 頷く。こっちが口下手だから、こうやって気取らず会話をフォローしてくれるタイプは付き合いやすい。良い参謀タイプだ。是非仲間にしたい。その為なら靴ぐらい舐めてもいい。いや、舐めないけど。舐めさせないだろうけれど。

「物騒な事になりそうな気がする」

「と云うと?」

「衛兵は勿論、歩行者の多くが武器を携帯している。戦争、紛争、その他、日常的に武器を使う状況である蓋然性が高い。罪人扱いされていない事から考えて、建前上の任意で傭兵か何かに実質強制される可能性を無視できない」

「・・・・・・なるほど。あり得る」

 マナトはそこから考え込んだ。

ムツは空を見上げた。赤い月が浮かんでいる。「何故月が赤いのだろう?」と疑問を持ったのだろうか? その予想はどれも碌でもないものだった。

 

 一団が案内されたのは、落ち着きのなく話止まらない案内係曰く「オルタナ辺境軍義勇兵団レッドムーン」の事務所らしかった。石造りの二階建ての建物で、酒場の様な外観だが白地に赤い三日月の旗が掲げられている。

 もう嫌な予感しかしない。一人全力で逃げるべきか。しかし状況把握も出来ていない現在、余りに勇気のいる決断だ。マナトと相談するにも、自然と離れて今はもう他の者と話している。

 今は一番騒がしかった天パのバカに笑いかけている。いや、実はバカではないのかも知れない。さっき騒々しさを咎められて土下座していたけれど。決めつけは良くないけれど・・・・・・。目つきの悪い丸刈りの男にどつかれている。ああ、やはりアレはバカだ。

 建物に入ると、危険人物が3人に増えた。

 一人目は天パに土下座されていた銀髪の男。ただ者じゃないオーラを放っていて、見るからに危ない。こっちから近づかないのは当然だが、時々目線が飛んできているのが怖い。後で絡まれそうな気配がビンビンする。君子危うきに、じゃないが目立たず興味を失ってもらうのが最善だ。

 二人目は丸刈りでギャングの様な男。こっちは銀髪とある意味同方向だが確実に違うヤバさを放っている。銀髪が狼ならこっちの丸刈りは野犬だ。似ているが違う。何をするか判らないという点ではこっちの方がやばい。ただ、明らかに意識が銀髪に向いているのでこっちが目立たなければ危険は小さいだろう。

 そして三人目。ある意味こいつが一番やばい。外観通り酒場のような内装の中、バーテンダーの様にカウンターで待ち構えていた男。天然じゃ有り得ない緑色の髪に割れた顎。黒い口紅をべったり塗った唇が厚化粧と頬紅に際立っている。

「こちらへいらっしゃい、子猫ちゃんたち。歓迎するわ。アタシはブリトニー。当オルタ名辺境軍義勇兵団レッドムーン事務所の所長兼ホストよ。所長って呼んでもいいけど、ブリちゃんでもオッケー。ただしその場合は、親愛の情をたっぷりこめて呼ぶのよ? いい?」

 良くないよ。勘弁してよ。言動から暴力の気配を感じないのは有り難いが、近づきたくないという意味では他二人を凌駕する。

 集団の一番隅で様子を伺っていると、銀髪が所長に食ってかかった。銀髪はレンジと云うらしい。レンジが所長をオカマ呼ばわりした瞬間、首もとにナイフを突きつけられた。早い。無駄なく行われた一連の動作は、確かに戦場に身を置く手練れの戦士のそれだった。

「別に長生きしたいわけじゃないが、脅されて従うのは性に合わない。殺れるものなら殺ってみろよ、オカマ所長」

 突きつけられたナイフをがっちりと掴み、臆することなく言い放ったレンジに、場は完全に飲まれた。

 もうイヤ。帰って良いかな。帰れる場所なんて無いけれど。強いて云えばあの塔の中? 平和でも臭いのは嫌だし、餓えるのはもっとイヤだ。世の中ままならない。

 その後、チャラ男のキッカワが仲裁に入り、所長の説明が行われた。曰く、塔に人間がやってくるのは珍しい事ではなく、その者達には義勇兵団への入団を奨めている。義勇兵団に入って戦いに身を置けば銀貨10枚が軍資金として与えられるとの事。ここだけ切り取ればかなり条件は良い。いざとなったらもらい逃げしても良い。

 それ以上の詳しい説明はしてもらえない様だったので、さっさと銀貨の入った袋を手に取った。銀貨10枚は思ったより重さがあるが、これが今後暫くの生命線かと思うと途端に頼りなく感じる。所長と目が合うとウィンクをされた。

 黙って離れると「いけずねぇ」と不気味な言葉。鳥肌が立った。

 気を取り直して社交的なマナトを探すと女の子二人と話していた。この状況でリラックスしているマイペースな子と、対照的に泣きそうに怯えている子だ。マナト、素晴らしい行動力だ。実に真似したいが、泣かれそうだ。分を弁えるのは大切だが、悲しい。

鈍い音がした。振り向くと、レンジの足下に丸刈りが尻餅をついている。

レンジが丸刈りを殴りつけたらしい。

「立て」とレンジが無表情で云い、目を血走らせた丸刈りをさらに蹴転がす。

「・・・・・・何のつもりだ、この野郎」

「おまえ、俺を最初に見たとき思っただろう。こいつは自分より強いか弱いかって。答えを教えてやる。立て」

 面白い事になった。危険人物である二人の動きが見られるのは嬉しい。敵を知り己を知らば。いや、敵ってのは最悪を想定しすぎか。みんな仲良くお手々繋いで協力し合おうなんて展開も! いや、それは無いか。それにしても不意打ちで主導権を得られたのは大きい。レンジは戦いの流れを掴むのが上手いタイプか。このまま一方的な展開になるのかね。

 ふと、レンジと目が合った。

「そのまま見ていろ、次はお前だ」

 は? ・・・・・・は? ぎょっとした視線が集中している。・・・・・・俺? マナトも困惑した視線を送ってきている。

「グッ! ゴッ!」

 レンジは立ち上がった丸刈りを一方的に殴りつけている。丸刈りも避けようとはしているのだが、避ける先が判るかのようにレンジの攻撃は丸刈りを痛めつけていく。

 戦いに皆が集中する中、マナトの視線を感じた。心配そうな表情を送り、扉に目を向けた。今のうちに逃げたらどうか、と云うことか。確かに、それが良いかも知れない。

 丸刈りの反撃は空振りに終わり、レンジは懐に踏み込むと鳩尾に膝を入れた。一度では終わらない。二度、三度。苦痛に顔を歪ませた丸刈りが距離を取ろうとするも、レンジはくっついているかの様にするりと距離を詰めて今度は丸刈りの頭を両手で固定した。

 ――あ、遅かった。終わる。

 レンジは頭を思い切り振りかぶり、頭突きを放った。ゴズンッという凄い音。ついに丸刈りは崩れるように膝をついた。

「・・・・・・相当な石頭だな、おまえ」レンジは指先で額をさすった。赤くなって、少し血が滲んでいる。「名前を教えろ」

 丸刈りは軽い脳震盪でも起こしているのか視線が定まっていない。だが決して床に手はつけるものかと膝に手を当て、ふらつきながらもそのまま立ち上がった。ナイス根性だ。

「・・・・・・ロンだ。強えな、てめえ」

「おまえも大分頑丈だ。俺に付いてこい、ロン」

「ああ。しばらくはついてってやる。・・・・・・さっさと片付けろ」

 ロンはレンジをにらみ付けた。

 闘るならば、瞬殺。自分に勝った以上、苦戦は許さない、と云う事か。判るよ。負けは悲しいし、恥ずかしい。だからって矛先をこちらに向けるのは違うと思う。

 レンジがゆっくりと近づいてくる。レンジとロンを囲んでいた人の輪が、レンジとムツを囲むものに変化していく。

 もう逃げられない。マナトの厚意を無駄にした。しかし、どうする。普通に闘って勝てるのか、アレに。謝るか。でも謝る様な事は何もしていないしな。と云うかそもそも、何で絡まれているんだ、俺は。

 もうすぐ攻撃圏内に入ってしまう。レンジは油断無く近づいている。何か云うなら最後のタイミング。最善は――。

「セオッ!」

「ごふっ」

 ――あれ? 前蹴り。それも想像以上に鋭く体重の乗った蹴りが出た。レンジは防御したものの、突き抜けた衝撃に踏ん張りが効かず吹き飛ばされた。たたら踏んだ先はテーブルで、上に乗り上げイスを巻き込んで盛大に転倒した。

「きゃあああっ!」

「うおおおおおおおお!」

「おいっ!」

「ちょっと! 外でやりなさい、外で!」

 騒然とした場と、ロンの苛立ち、所長の迫力に一瞬、気を取られた。そのほんの一瞬で、起き上がっていたレンジに距離を詰められてしまった。

「おらァ!」

 前蹴り。負けず嫌いか、こいつは。しっかりガードするも、即座に右拳が顔を叩いた。後ろに仰け反る。いかん。バランスを崩しながら、こちらも拳を振るう。先にレンジの更なる拳が脇腹を抉った。だが、こっちも今度は止まらない。そのままレンジの胸骨に拳は吸い込まれた。ミシリ、と良く覚えがある感触がした。レンジもよろめいた。

 一瞬の間。なんて重い拳なのだ。命中した頬が熱く燃える様で、蹴りをガードした椀部が痺れている。息も出来ない。

 だが、停止は許されない。ムツとレンジはそのまま至近で殴り合った。殴りながら殴られる。殴られながら殴る。二人とも止まらない。両者ともダメージが蓄積されていく。レンジの攻撃をムツが捌く。捌いて、捌いて、レンジの攻撃は止まらない。レンジの右の大振りを、ムツが捌くと同時に半回転しながら大きく踏み込む。肘が鳩尾に入る。「ぐふっ」と息を吐き出す。 しかしレンジは拳を半分背を向けたムツの側顔面に振り抜いた。潰れるようにムツが膝をつく。

「今度はお前が――」

 レンジはムツを、顔を守ったガードごと蹴り飛ばした。ムツは飛ばされながら体勢を整えたものの、勢いのまま踏鞴踏み、ガツンと壁に激突した。店が崩れるのではないかという衝撃。

 ムツは朦朧としながら、初めてレンジの笑みを見た。牙をむいた狼だった。

「あんた達ッッッ! 店が壊れるでしょ!」

 その時、雷鳴のような声が響いた。声の方向、所長がナイフを二本腰から取り出すのが見えた。――嘘だろ。

 振りかぶり、一本がきらめいた。レンジが避ける。あんなに近かったのに良く避けたものだ。「ぬぐおああああッッ! 危ねぇええええええええええッッ」避けたナイフはレンジの背後に居た天パを掠めたらしい。

 悲鳴。レンジ以外の全員が壁際まで後退した。ムツの周りからは誰も居なくなった。

 所長が取り出したナイフは二本。と云う事は・・・・・・? 所長は再度振りかぶっている。動け。だが、今、壁に体重を預けている。不味い。飛んでくる。

「ぐッ」

 後ろ手で壁を押し、なりふり構わず頭を下げる。バランスを崩し、前回り受け身を取り、起き上がりつつ、何とか視線を所長に向けた。追撃は無いらしい。全身痛いが、裂傷が無いところを見ると、当たらなかった様だ。振り返ると、切れ味の良さそうなナイフがさっきまで頭のあった壁に深々と突き刺さっていた。距離があったから避けられた。だが、一瞬でも反応が遅ければ・・・・・・? ぞっとした。

「――云ったでしょう。“外で”やりなさい、って」

 静かな、地獄の底から響いてくるような低音で、所長は呟いた。暗い目だ。本気の目だ。動けば、音を立てれば喰われる。奇妙な静寂が包んだ。ごくり、と眠そうな目をした少年が喉を鳴らし、視線を浴び、わたわたとした。和んだ。

 ムツは、手近なテーブルのイスを引くと、どっかりと座った。それをもって、音が戻り、場の緊張が弛緩した。

「おまえ」

 ムツの座るテーブルに手をかけ立つのは、レンジだった。まさか外で続きを、とか云うのではだろうな。充分過ぎる程やっただろう。

「名前は」

 狼の笑顔は引っ込み、最初の、沈着な無表情だった。

「ムツ」

「ムツ、お前も来い」

 なんだそれは。拳を通して分かり合った、とか云う奴か。俺はお前のことなど微塵も判らないんだが。せいぜい、正々堂々としていて、筋が通っていない事が嫌いで、サディスティックという訳ではなくて、まどろっこしい事が嫌いで、仲間の信頼には応えたいリーダー気質が強くて、意外と俺のことを気に入ってくれたと云うことぐらいだ。まあ、判りやすいのは嫌いじゃない。

「遠慮する。だが――」

 視線を合わせて、様子を伺う。酷い顔だ。これからもっと腫れるだろう。俺もそうだが。

「――遠からず、互いに協力することは出てくるだろう。そのときは頼む」

「判った。それでいい」

 レンジはムツから視線を外すと、勧誘活動を再開した。次の対象は頭良さそうなメガネの青年らしかった。

 ――ん? 待てよ。今のちょっかいは勧誘活動だったのか? どういう風に見られているのだ。間違っているぞ、レンジ。誘うなら普通に誘え。

「大丈夫? ムツ? いや、大丈夫じゃ無いよね・・・・・・」

「酷いか?」

 心配そうなマナトが様子を伺いに来てくれた。足も痛いが、腹から上は痛くない場所がない。だが、後に残る傷は無いだろう。熱は出るかもしれないが。

 酷いね、とマナトは笑った。

「ボコボコにされた顔を見て笑うとは良い趣味をしている」

 水を要求する、と神妙に告げると、マナトは苦笑して所長に近づいていった。頼んだぞ。奴に近づきたくない。代償にキスの一つぐらいなら払っておいてくれ。

 さて、暫く休みたい。かと云って一人でぼうっとしているのもまたレンジグループに絡まれないか心配だ。それに話していた方が傷の痛みが紛れる。幸い、注目は集めているので誘う相手には事欠かない。やっぱり男よりは女の子の方が良い。ならば、と、先程マナトが話していた女の子二人組に、笑顔でテーブルの着席を誘った。

「ひっ」なんだ、それは。「ご、ごめんなさい」

 いや、謝られてもな。それきり、大人しい女の子は、マイペースな女の子の後ろに隠れてしまった。マイペースな女の子も合掌して謝意を示すと、大人しい女の子をなだめにかかってしまった。

 振られてしまった。それに、軒並み他の面々からも視線を外されてしまった。いじめか。ぼっちか。だが、こちらは気になるようで、再度こちらを見た天パの少年と目が合った。空いている椅子を指さす。逃がさないぞ。

「お、おう。じゃ、じゃあお邪魔して」と、天パの少年は隣の眠そうな少年の腕を掴んだ。

「ランタ、お前ッ」

「うるせえ、死なばもろともだ。一人は怖すぎだから、すみませんお願いしますついてきて下さい」

 だからビビり過ぎだろ。お前らには何にもしてないだろうが。流石にいい加減ちょっと傷つくぞ。マナトを見習え、マナトを。あのコミュ力は素晴らしいぞ。あ、それは俺もか。

「ムツだ」

「は、はい。知ってます。ランタです。へへっ」

「気持ち悪いよ。媚び過ぎだろ。――ハルヒロです」

 天パがランタ、眠そうな少年がハルヒロか。ハルヒロ、素晴らしい突っ込みだ。

「ああ」

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 いかん。話が続かない。こんな時は自虐だ。怖いイメージを払拭しなければ。

「顔、酷いだろ。レンジの奴、遠慮無くボコボコにしてくれた」

「ああ、それ、痛くないんですか」

 何云ってる。痛いに決まってるだろ、ハルヒロ。正直泣きそうだよ。糞ッ。・・・・・・とは云えないから。

「そこそこはな。だが、痛いのは向こうも同じだし。レンジ、肋骨とその周辺だいぶ痛めてるはずなのに、顔に出してない」

「い、痛めてるって、折ったんすか? あ、あの最初の蹴り? 何、そのままずっと闘ってた? ひえぇー。ドMか」

 怖いもの知らずだな、ランタ。多分レンジ聞いてるぞ。面白いから忠告しないけど。

「いや、肋骨はひびぐらいだろう。でも執拗にその周辺は狙ったから、無痛症でもなければ相当痛かったはずだ」

「うーわー。想像するだけで痛ぇな。ムツさん、ドSっすか? そして奴はドM? でもムツさんもボッコボコだし、もしかして両方?」

 なんだこいつ。正気か? 思ったこと何でも口から出ちゃうのか。危ねーな。ランタの後ろに気が付いたハルヒロが頬を引きつらせて距離を取るのも無理はない。

「どちらでもない。それに“そいつ”も違うと思うぞ」

 ランタの背後の“そいつ”に目線を送ると、ランタは「えっ」と動きを止め、ゆっくりと振り返った。

 至近に無表情のレンジが居た。いや、正確には無表情ではない。静かに苛立っている。ご愁傷様。死ぬかな、こいつ。

「うわあああああああああすいませんでしたああああああああああああああ」

 土下座。清々しいまでの土下座だ。好きなのかな、土下座。

「下らん誘導をするな」

 誘導なんてしてない。バカが自爆しただけだろ。それにしてもそこのバカ、視界に入れさえしないのな。

「とりあえず俺たちは5人で活動する。お前はどうするんだ」

 どうするってノープランだよ。マナトは欲しいが、めぼしいのはお前に取られちゃったし。我ながら冷たいが、足を引っ張られるぐらいなら、正直一人の方が良い。人の命を無償で預かるほど、お人好しでも余裕がある訳でも、冷血漢でもない。

「さあ、情報を集めてから決める。どうとでもなるだろう」

「そうか」

 話は済んだとばかりに、レンジはあっさりと事務所を出て行く。その後を男女4人もこちらを気にしながら追って行った。続いて、チャラ男のキッカワも一人で足早に出て行った。

「・・・・・・で、水一杯用意するのに一体どんだけ時間をかけているんだ?」

「お邪魔かと思って」

 嘘つけ。面倒を避けただけだろ。

 樽のジョッキをマナトから奪い取ると、ゴクゴクと冷水を煽る。口の中の傷はしみるが、それ以上に喉が渇いていたらしい。空になるのに時間はかからなかった。

 がたりとランタがテーブルの下から顔を出す。

「ふう。まあ、許してやるか」

「何をだよ」

 土下座から這い上がってきたランタにハルヒロが義務的な突っ込みを入れた。相変わらずアホなランタに、すっかり空気が弛緩すると、残っていた面々が集まってきた。

 今まで全く交流が無かったのは大柄の男だけだった。体は大きいものの顔は穏やかで、荒事が得意なタイプには見えない。体格が優れていたのにレンジに誘われなかったのはそれが原因だろう。たしか、モグゾーとか云ったか。

「それで、マナト、お前はこれからどうする?」

 真面目な話だ。これからの行動基盤に直結する、重要な話題。

「そうだね・・・・・・。とりあえず、情報収集をして、“みんな”と協力しようと思ってるけど・・・・・・」

 みんな、ね。視線は向けないが、相変わらず大人しい少女は、物怖じしていない少女の後ろに隠れている。こう怯えられていると、円滑にまとめ上げるのは難しいだろう。かといって、そんな女の子二人を放り出す訳にもいかない、か。

「そうか、じゃあ、そのうち街であったら情報交換をしよう」

「・・・・・・そっか。うん。判った。そうしよう」

 そうだ。取捨選択は大事だ、マナト。優しすぎるのは、危ない。

 所長に聴きたい事もあったが、この流れでは仕方ない。

 ムツは席を経つと、「またな」と事務所を背にした。外に出ると、早朝から朝に時間は変わり、街には人の気配が濃厚に漂い始めていた。さあ、一日が始まる。どこから回ろうか、と、ムツは痛む頬を撫でた。存外、悪い気分じゃない。良い一日になるだろう。

 


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