「ぐっ……あが」
痛い、苦しい。
全身に掛かる激しい痛みに悶え、四肢が斬り刻まれる様な熱さに耐えきれず。思わず目を開けると。
「こ……こは?」
視界に広がっているのは真っ白な天井と、鼻腔を擽る薬品の臭い。
“普通なら”ここで戸惑いながらも、自分が病院の一室である事に気付くのだが、男は全く状況が理解出来ずキョロキョロと辺りを見渡すだけ。
「どこだ……ここ」
白い壁に囲まれ、開いた窓からは海が見え入り込んだ海風がカーテンを揺らしている。
「……綺麗だ」
窓から見える景色を見て、ありのままに感じていた感情を口にすると。
不思議と、全身に感じる痛みは和らいだ気がした。
「漸く目を覚ましましたか」
「!」
引き戸の扉が開かれ、部屋へと入ってきたのは黒スーツを身に纏う二人のSPを引き連れた女性。
癖っ毛なのか、至る所に跳ねっ毛があり、目の下には隈が出来ている。
「お前は……誰だ?」
「随分なご挨拶ですね。一応、私は命の恩人なのですが?」
「おん……じん?」
「覚えていませんか……ま、あれだけの出血にあれだけの傷を受けていたら、当然と言えば当然か」
「きず?」
言われてみれば腕や体には幾重にも重なった包帯が所狭しと巻かれていた。
道理で全身が痛かった訳だ。男は自分の体を見つめていると。
「それでは、お互い自己紹介をしましょうか。私はシオニー=レジス、このリモネシアの外務大臣を勤めています」
「はぁ……」
「それで、貴方のお名前は?」
促す様に聞いてくるシオニーと名乗る女性は、男の名乗りを待つが……。
「お、俺は……」
「?」
「俺は……誰だ?」
◇
「はぁ、まさか完全記憶喪失だとは……」
仕事場へ向かうリムジンの中、その中ではリモネシアの外務大臣、シオニー=レジスが深い溜め息を零していた。
完全記憶喪失。その名の通り完全に脳の記憶、知識、経験が失われている人間の状態を差す言葉であり、下手をすれば服を着る等と言った最低限の知識すら失っている場合もある。
だが、幸いあの男は服を着るという最低限の常識程度は失っていないようで、その辺りはホッとしている。
しかし、厄介な人間を拾ってしまったと言う事実は変わりない。しかもただの記憶喪失者ではなく、時空震動で現れた人間だ。
既に国連に“先日、我が国で時空震動が起こったが、被害もなく特に変化らしい変化はなかった”と、報告してしまっている。
ここで厄介払いで国連に男の保護を求めても、どうして報告を怠った等、根掘り葉掘り聴かれ、最悪の場合三大国家の何れかに介入されてしまう可能性だってある。
リモネシアの繁栄と平和を願う彼女にとって、それは非常に宜しくない事態だ。
大国が世界を支配するこの時代、僅かな弱みを見せる事は許されない。
小国でありながらそんな時代に真っ向から挑むシオニーの姿は、このリモネシアでは大勢の……更に言えば若者に絶大な支持を得ていた。
(それに、“あの”計画を成功させる為にも、下手を打つわけにはいかない。ここは様子見が妥当か……)
あの男の事はこちらで監視するとして、問題は大国がどう反応するかだ。
冷戦状態となっている現世界情勢、僅かでも他の国と差を付けたいと狙っているのが三大国家の本音。
そんな飢えた猛獣に対し、シオニーはどう出し抜くか頭の中で考えていると。
『ちょっと、ちょっとシオニーちゃん!』
「なんですか、五月蝿いですよ静かにして下さいボンボン」
『酷っ!? そりゃ確かに僕は金持ちだから否定はしないけどさ、それは流石に傷付くよシオニーちゃん』
目の前の電子画面(ディスプレイ)に映し出されているのは、羽織の良さそうな人物、如何にもお坊ちゃんな風貌の男性。
こちらの皮肉にもヘラヘラとした態度で受け流し、その態度が真面目な彼女の神経逆撫でする。
「それで、一体私に何の用ですか?」
『いやだってさ、先日君の所で時空震動があったじゃない? 協力者としては心配だしさ』
「本音は?」
『そっちに何が出て来たのか気になって気になって!!』
「…………」
『わー! ごめん! 嘘! 冗談だから切らないで!』
清々しいまでのドヤ顔に通信を切りそうだなる。
「それで? 実際何の用で連絡してきたのです? これから私はAEUの重役と会談があるのだけれど」
『いやぁ、ただの暇潰────』
ブツリ。奴が言い切る前に通信を切った自分はきっと悪くない。
そもそもマトモに奴と会話など出来る筈もなかった。
奴は金で全て解決出来ると思い込んでいる。いや、実際そう出来るから余計に質が悪い。
今回の通信も恐らくは必死になっている此方をからかいに来たのが本音だろう。
(もうよそう、これ以上奴で悩んではそれこそ時間の無駄だ)
頭を振り、気持ちを切り替える。奴の様な人格破綻者より、例の男はについて考えた方がまだ有意義な時間の潰し方と言えるだろう。
(そう言えば、確かあの男の担当医が言っていたな)
三日前、担当医だった者が酷く興奮気味に話していたのを覚えている。
当時、血塗れだったあの男を助けた時、正直助かる見込みはほぼなかったらしい。
傷付いた体から流れる血はどう見ても出血死、或いはショック死、胸の抉られた傷は即死する程だと担当医は語る。
目の前に担ぎ込まれ、呼吸しているのを確認するまでは死体を連れてきてどうすると、呆れられていたらしい。
担当医は言った。有り得ないと。
タフとか、強運だとか、そんな偶然で済ませられるレベルではない。
生命の活動限界を、明らかに超えているのだ。
しかも、術式後は二時間後に早くも回復の兆しを見せ始め、峠もどこぞの走り屋の如く瞬く間に乗り越え、“順調”に男は回復し、あれだけの傷を三日で完治させたのだ。
人間ではない。担当医は男の事をそう評価した。
「人間ではない……か」
顎に手を添え、シオニー=レジスは考える。
記憶が戻らなくても、もし利用出来る相手ならば、こちら側に引き込めないだろうか?
幸いあの男の存在を世間には公表していない、だったらその並外れた生命力を利用して自分の専属ボディガードに仕立て上げるのもありかもしれない。
一瞬だけそんな事を考えるシオニーだが、すぐ様その考えを改める。
「……無理ね、あんな優男ではボディガードはおろかマトモに警備だって出来やしない」
優男、シオニーは男をそう評価する。
だが、それも無理もない事かも知れない。 体付きは引き締まっているが、顔付きは全然でハッキリ言って弱そうなのだ。
虫も殺せなそうな弱々しいと目、何よりも男にはそう言った覇気が全くない。そもそも記憶喪失の人間に一体何を頼むつもりでいるのだ。
「どうやらよっぽど疲れているみたいね」
アホな事を考えている自分に活を入れ、シオニーはAEUの重役の待つ会談場へと車を急がせるのだった。
頑張れ私、家に帰れば温かいご飯が待っているから。
◇
何て考えていた時期が彼女にもありました。
「なによ………これ」
会談も終え、仕事も終わり、漸く自宅に帰ってこれたと思えば、出迎えたのは食い散らかされた食べカスの山。
何事かと思い、リビングへと駆けつけてみれば、其処には地獄が待っていた。
床一面には玄関先以上に散乱している食べ屑の山、飲み物の入ったペットボトルは一滴も残らず飲み干され、買い置きのチキンは目の前の男に骨ごと食い潰されていた。
一心不乱に食べ続ける男、すると漸く此方に気付いたのか、男は骨付き肉をかぶりつきながら振り返り。
「おかえりなさい……です」
「あ、た、ただいま」
いきなりの挨拶に戸惑うも、シオニーは咄嗟に返す。そう言えば、こうして誰かに“おかえり”なんて言われるのはいつ以来だろう。
外務大臣と言う役職に付いてから、日々公務の仕事に追われ、家にはあまり帰れず、帰ってもただ眠りに来るだけ。
だからだろうか、目の前の彼におかえりと言われ、懐かしく思うのは……。
「……ん?」
ふと足下に何かが当たり、反射的に下を向くと、シオニーの目は大きく見開いた。
それは先日、自分の行きつけの喫茶店で販売されている一日10個限定の激レアプリンの残骸だった。
プリンの上に盛られた果物は世界各国から取り寄せたどれも極上の品々。
中央のホイップクリームは甘過ぎず、果物の味をより引き立たせる役割を担っている。
更に、下に敷かれた本命のプリンは企業秘密な特殊な製法で造られる至高の一品。
とある喫茶店のシュークリームに並ぶ人気商品。リモネシアのスイーツ部門第1位名物、通称”グレート・リモネシアプリン“。
それが、剰りにも無惨に食い散らかされていた。
「ふ、ふふ……」
思い返せばこの男を拾ってからと言うもの、碌な事がなかった。
大国に対する政府の対策、国連への報告に公務の増加、AEUや各国の大臣及び重役との会談、付け加えて嫌みったらしいアクシオン財団のボンボンとの会話。
極めつけは目の前の男による我が家の食材への蹂躙、挙げ句の果てには1ヶ月に一度しか食べらない貴重なスイーツまで……。
今日の私は頑張った。凄く頑張った。─────だから。
「今日の私は、阿修羅すら凌駕する存在だ!!」
────もう、ゴールしてもいいよね?
◇
「全く、今回は初犯だったから大目にみたけど、次はないからそのつもりで」
「ごめんなさい……です」
あれから一時間、目の前の男対し鉄拳制裁を下した後、シオニーは男と共に家の片付けを同時にどうしてあんな行動を取ったのか問い詰めた。
何でも黒服の男にここへ連れてこられてはみたものの、何をどうすればいいのやら、それすらも分からずに時間だけが過ぎて行き、だんだん腹が減って来て、遂には我慢出来ずに家の中を勝手に物色したのだという。
……確かに、何も知らず、何も覚えていない人間を放っていた自分にも責はある。
仕事にばかり気を向け、記憶喪失である彼に対し満足な配慮がなかったのが今回の原因。
(高い授業料を払ったと思えば、少しは気が楽か)
少しばかり高く付いた気がするが……。
「それで、何か思い出した?」
「きおく……ですか?」
「そう───って、その様子だと全然みたいね」
「……ごめんなさい」
全く自分の事は思い出せていないのだろう。申し訳なさそうに俯く男に、シオニーは何だか自分が悪者みたいだと思い、咳払いして話を変える。
「ま、まぁ記憶の方は焦らずゆっくり思い出せば良い、見つけてしまった以上保護責任者としての責務があるから……記憶が戻るまでは面倒は見るわ」
「ありがとう……です」
「それよりもまずはアナタの服ね、かなり大きいサイズを探さないといけないし、それに戸籍も……」
言いかけてシオニーは気付く。コイツ、名前ないじゃん。
今まで“貴方”とか“お前”とか言って来たが、そんな事外に出た後にまで続けたら間違いなく不審に思われる。
どうしようと、悩んでいる彼女の視界にある物体が入った。
今晩の前菜として買ってきた野菜の盛り合わせ、すっかりメインディッシュに格上げされた一品だが、その中に気になるモノがあった。
緑黄色野菜でビタミンB、C、Dや他にも多くの栄養素が含まれている野菜。その野菜を見て、シオニーはパッとある一つの名前を思い浮かべる。
「……ブロリー」
「?」
「どうかしら? いまパッと貴方の名前を思い浮かべたのだけれど」
「……………」
沈黙。
流石に野菜から名前を付けると言うのは些か不謹慎過ぎたか、真剣な顔で俯いているブロリー(仮)に居たたまれない気持ちでいると。
「いい……です」
「へ?」
「俺の、名前、それで……いいです」
顔を上げ、見つめてくる瞳の色は相変わらず感情など入ってはいなかった。しかし、それでも名前を手に入れた事でどこか人間らせさを取り戻した”ブロリー“に、シオニーは自然と笑みが零れた。
(なんだか、久し振りに笑った気がする)
「さて、明日は私も仕事はお休みだし、ブロリーの服や日用品も買わなきゃいけないから、早く寝るわよ」
「はい……」
「……一応言っておくけど、襲わないでよね?」
「? おそうってなんですかぁ?」
「…………」
なんだか、出来の悪い弟が出来た気分だ。
ブロリーの分の寝床を準備し、シオニーはブロリーの教育方針に悩みながら一日を終えるのだった。
◇
「それで、準備の方はどうなっている?」
「ハッ、既に兵力の方は万全。財団からの支援もあり準備は万端です」
「しかし、宜しいのですか? 財団からは手を出さない事を条件に支援されいるのに……これは、明らかな契約違反では?」
「構わん、この国を我等のモノにしたら速やかに財団本部も制圧すればいい。さすれば他の同志達も協力してくれるだろう」
「では?」
「うむ、明日、我等は決起する。目標はこの国────リモネシアだ!」
「全ては、大国が支配するこの時代から世界を解放する為に!!」
混沌するこの時代、蹂躙されるのは人の心か魂か?
つくづく、自分はブロリストなんだなぁ……。