リヴァイアサン・レテ湖の深遠   作:借り暮らしのリビングデッド

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2-1《天を翔けるは赤き竜、海に潜むは狂い神》

 

 

 

 

 

「あの、一条さん」

「何」

 

放課後、窓際の机で頬杖をつきながら空の町並みを眺めていた彼女は、振り向きもせず委員長にそっけなく答えた。

 

「あ、ううん、今日もその、遅刻してたから、どうしたのかなあ、って」

「貴方に関係あるの」

 

その抑揚のない声に委員長は、自身の日本人形のような長い黒髪をそわそわと撫でた。

メガネが似合う、地味だが可愛らしい顔に焦りが浮かぶ。

 

「あ、うん、そう…だよね。ごめんね!別に詮索するつもりとか…」

「そう」

 

相変わらず窓を眺めながら会話終了とばかりに彼女は沈黙した。

 

委員長こと山岸マユミは、やはり今日も一条ユイに敗北した。

彼女に敗北した回数はもはや数え切れない。

 

最初は他薦で無理やり委員長にされ、でも何時からかその役割にやりがいを感じ始め。

おかげで少しずつ前向きになった元根暗少女マユミは、常にクラスで浮いている一条ユイをどうにかしてあげたかったのだ。

 

委員長としての責任感もある。

だが、やはり単純に彼女が心配になってしまうのだった。

ある種、昔の自分を重ねているのかも知れなかった。

 

彼女は一切クラスに馴染んでいない。

それは彼女の外見も大いに、というか一番の理由としてあるのだろう。

すでに毎日のように見ているマユミでさえ、こうやって彼女を目前にすると畏怖を感じてしまうのだ。

 

アルビノ、という一種の欠陥が一条ユイという少女にもたらす効果は絶大の一言だった。

 

それは、はっきりと神々しいと言える程だった。マユミは改めて妖精みたいだ、と感心する。

まるで絵画から抜け出てきたようだった。とても同じ人間とは思えない。

例えば同性のマユミですら、彼女がそれこそ自分達と同じように食事したり排便したりしているであろう事が信じられないのだ。

そしてその畏怖は、彼女がアルビノとは無関係に纏っている、形容し難い硬質な雰囲気によってさらに拍車が掛かっていた。

 

つまり一条ユイという少女は、同年代の少年少女にとってはあまりに未知でありすぎたのだ。

 

それでもどうにかしてあげたい、そう思うマユミは確かに心の優しい少女だったろう。

それが必ずしも美徳と言い切れないのが人の世の無常さなのだが。

 

「…あの一条さん、でもね…私」

「どうして構うの?」

 

彼女はようやく窓から目を離しマユミを見た。

その人形のような端正な顔立ちと、まつ毛すら白い猫型の赤い瞳は信じられないほどよくマッチしており、

やはり至近距離で見るとその神性な畏怖に声を詰まらせてしまう。

 

「だ、だって一条さん、いつも一人だし…」

「それで」

「…と、友達とか作らないのかなあって…クラスの皆ともっと…」

「必要ならそうしてるわ」

「でも…」

「私は貴方じゃないわ。」

 

その言葉にマユミは、と、胸を突かれた。

 

「どうしてそんな事が分からないの」

 

そして彼女はそっけなく席を立った。

何か言いたそうにしているマユミが初めから存在しないかのように。

 

 

 

 

彼女は何時もの抜け道を登った。

 

上から寒い空気が流れてくる。

相変わらずその空気は静謐で清々しく。

それを吸い込むと、まるで彼女の中の不純物が排出されていくような、そんな感覚すらあった。

 

『君は何人目?』

 

唐突に昨日の彼の言葉を思い出す。

まったくもってわけの分からない言葉だった。

 

なのに、どうしてあの言葉を聞いたとき、一瞬動揺したのだろう?

自分でも分からなかった。

 

ふとポケットから、そのビー玉のような物を取り出す。

 

やはり、何回見ても美しい、深い深い赤だった。

そうしてそれをもう一度ポケットにしっかり仕舞うと、彼女は一定のペースで階段を登り始めた。

 

今日の夕日はどんな色だろうか。

 

 

これぐらい、綺麗なら良いのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ・序曲Ⅱ《天を翔けるは赤き竜、

 

          海に潜むは狂い神》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

曇った空は、その美貌をちらつかせてもくれなかった。

 

ほんの少しだけ赤いだけの夕闇を残念に思いながら、それでも海鳴りの心地よさに耳を澄ませる。

そして足元の、昨日彼が砂浜に描いていた、その消えかかった楽譜を頭で鳴らした。

 

『雪』じゃない。あの夕闇のような曲でもない。

そしてやっぱり彼女も知らない、ならきっと彼が作ったであろう三つ目の曲。

 

やはり、どこか哀愁があって、でも何か、何か…焦がれのような、暖かさのような熱もあって。

まるで誰かに、それこそ大切な誰かに贈るために作ったような、そんなとても美しい曲だった。

 

彼は、あの中学校に居なかった。

 

その荒れ果てた様子は一昨日初めて見た時とほとんど変わらなくて、人が泊まった形跡すらなかった。

だからもしかすると、と思い、その誰も居ない海に足を運んで、でも。

強い海風が吹いて、思わず身を震わせた。

 

…寒い。

 

流石の彼女も上着を着てくれば良かったと思い、愛用の蒼いマフラーに鼻まで深くうずめる。

周りをもう一度見回す。

振り返ると夥しい廃墟のビル、海に視線を戻すとやはり海に沈んだ電柱や鉄塔。

 

誰も、居るはずがなかった。

美しい廃墟とは、人が居ない、というのと同義なのだから。

 

そう、こんな美しい廃墟都市に誰かが居る方が不自然なのだ。

人が去ったとき、人に観測されなくなったとき、その無生物は擬態をやめて、廃墟としてのその美しさを花開かせるのだから。

 

彼女はただ、夕日が雲の切れ間からその美しい顔を気まぐれに見せてくれないだろうか、とぼんやりと海を見続けた。

でも、とうとう日が落ちても見せてくれなくて。

 

だからそのボッという音が聞こえたとき、彼女は思わず体を震わせてしまったのだった。

 

「今日は一段とさっむいねえ~…」

 

おじちゃん身に染みるよ、という呟きと一緒に、あの嫌いじゃない匂いが鼻をついた。

そっと、彼女はマフラーを巻きなおした。

 

「君流石に寒くないの?むしろ見てるこっちが寒いんだけど」

 

そう言って少しだけ距離をとって横に並んだ彼に、彼女は一瞥もくれず呟いた。

 

「貴方と一緒にしないで。私…ぴちぴちだもの」

「そのぴちぴちエキスを色々な方法でおじさんに分けてくれないかな」

「嫌。第一、貴方言うほどおじさんじゃないでしょ」

「そう?まあ確かに世間じゃまだ若造だけど、君ぐらいの時に30前後って言ったら完全に中年だったけどなあ」

「貴方見た目若いもの。大学卒業したてとか、それぐらいに見える」

「あれ、褒めてくれてるの?」

「そうかもね」

 

彼女はようやく横目で彼をそっと一瞥する。

 

相変わらずの茶色のフード付きのコートに濃い目のデニム。

やはり貧乏くさい、というより浮浪者の2、3歩手前と言った感じの服装だった。

なのに、それでも不潔な印象をまるで与えないのがつくづく不思議な男だった。

 

「貴方、どこで何してたの」

「ん?何って?」

「この都市に、泊まってるの」

「うん、昨日まで中学に泊まってたんだけどね。流石にあそこに一人は不気味でさ。

 すぐそこに良いとこ見つけて、お引越ししてたのさ」

 

どうやら長居しそうだしね、と煙と一緒に吐き出し独り言のように呟いた。

その言葉に彼女は彼を目の端に捉えながら一瞬目を伏せて、それからゆっくりと口を開いた。

 

「…貴方って、普段何してる人なの」

「何も。おじさん実は住所不定無職なんだ。別名旅人とも言うけどね」

「つまり…やっぱりスパイ?」

「本業旅人、副業スパイって?でもそうだとすればずいぶん間抜けなスパイだね」

「どうして」

「だって怪しさ大爆発じゃない。怪しさが三日同じ服を着て歩いてるような男がそれありえる?普通少しは隠すでしょ」

「逆にそんな風に思わせるのも織り込み済みなのかもしれない」

「ああ、なるほど。じゃ、僕がスパイならどうする?」

「…今の嘘よ。貴方がスパイなんてありえないわ」

「どうしてさ」

 

すると彼女は、足元にうっすらと残ったその砂浜の楽譜に目を落としながら囁いた。

 

「そういう人が、こんな綺麗な曲を作れるわけ無いもの」

 

その台詞に彼は目を丸めて、それから呆れたように声を上げて笑った。

 

「それこそどうしてさ。僕なんてただの下手の横好きだよ。第一、才能と人格は無関係だろう。」

「だから言ってるの。才能と、その才能で何を成すかは別でしょ」

 

その言葉に、彼は目を瞬かせた。

 

「どれほど優れていてもまるで惹かれない絵や音楽はあるもの。

 どんな才能があったって、心がそれに見合ってないなら意味なんて無いわ」

 

彼は思案するように少し目を伏せた。

その言葉に、確かに何か感じるものがあるようだった。

 

「…『雪』も、この曲も。心が見合わない人が作れるような曲じゃない。

 私にもそれぐらい分かる。馬鹿にするのもいい加減にしてくれる」

 

彼は、やはり何かを考えてるような様子で、でもそんな自分を笑うかのように口角を上げた。

 

「…君に何が分かるのさ。子供が分かった風な口を利くんじゃないよ」

「子供が間違ってるとは限らないわ。それに私…もう、子供じゃないもの」

 

彼はくすりと笑った。

 

「そうだよね、もう14歳だものね。確かに子供じゃあない」

「そうよ」

「でも大人でもない。限りなく透明に近いパープルってやつだ」

 

そう言いながら彼は空を見上げた。

その様子を横目で見て、彼女も彼の隣で同じく空を仰いだ。

今になってようやく雲が晴れてきた。

夕暮れはもう過ぎていたが、その青黒い夜に成りかかった空は、確かに夕焼けとはまた別の美しさと哀愁があった。

 

その哀愁に浸りながら彼女は低く囁いた。

 

「…ここに描いたの、なんて名前の曲?」

「…『花』」

「花…」

 

彼女は少し頷いた。

 

「…誰かに、贈った曲?」

 

すると、彼はゆっくりと煙草に火を点けた。

やはり、それはどう答えようか思案するための間を作るための動作に見えた。

 

「どうしてそう思ったの」

「別に。説明なんて出来ない。ただそう思ったの」

「そっか」

 

彼はそのまま、何も答えなかった。

彼女もそれ以上追及せず、互いに沈黙したままただぼんやりと黄昏が夜になっていく過程を見続けた。

 

そうして空が夜に完全に侵食された頃、彼女は、不覚にもくしゃみをした。

 

「ほら、やっぱり寒いんじゃない」

 

それ見た事か、と彼が面白そうに笑った。

 

「寒くないわ」

「いやいや、寒いでしょ」

「平気」

「…君なんでそんな無意味なところで意固地なの?」

「そんなんじゃないわっぐっしゅ」

 

そのくしゃみに彼は声を出して笑った。

彼女の頬がマフラーの中でほんのり赤くなった。

 

「ほら、風邪引くよ。送ったげるからもう帰りなさい…」

「…嫌」

「どうしてさ」

「帰ってもする事無いもの」

「ふうん?」

 

彼は一瞬彼女に眼差しを向けると、ゆったりと呟いた。

 

「…友達は居ないの、君」

「居ないわ」

「どうして?作ればいいじゃないか」

「誰でも良い訳じゃないもの」

「…ああ」

 

彼は彼女のその言葉に深く同意するような声を漏らした。

 

「そりゃそうだ…誰でも良いならこんな楽な事は無いよね」

 

一、二度頷きながら彼は言葉を重ねた。

 

「誰でも良いならどれほど…」

 

すると、しょうがないね、と少し微笑が含まれたような息をついて。

それからどこか悪戯っ子のような口調でこう呟いた。

 

「じゃ、おじちゃんがお嬢ちゃんの身も心もあの手この手で温めてあげようか?」

「そう?」

 

彼女は無表情を保ちながら呟いた。

 

「なら、そうしてくれる」

「…いやいやいや。」

 

彼は割かし本気のトーンで呆れた声を出した。

 

「何度も言ってるけどさ、君無防備にも程があるよ」

 

その呆れのような、面白いような、そんな初めて見る表情を彼女に向けて。

 

「…危なっかしくてさ、僕に悪戯でもされたらどうするのさ」

「貴方は私にそんな事する人じゃないでしょう。そのつもりなら幾らでも機会あったわ」

「男をまるで分かってないね。今はそうでも突然ムラムラして君を押し倒すかもよ?」

 

彼はげへへとちょっと下品に笑った。

 

「馬鹿にしないで。例えそうなったって貴方私を傷つけるつもりなんて無いでしょ。それぐらい分かる」

「だからどうして?ついこないだ会ったばかりで、何故僕がそんな男じゃないって判断できる」

「分かるもの。実際そんな事するつもりなんて貴方無いでしょう?馬鹿にしないでと言ったわ。」

 

その断言に彼は僅かに困惑のような気配を見せて、でも気を取り直したかのようにゆっくりつぶやいた。

 

「…そう見せかけてるだけかもしれないよ。君に僕の何を理解できる?」

「理解なんてしてないわ。貴方意味分からないもの。でも、それが暖かいかどうか知るのに、どういう原理でそうなっているのかなんて理解する必要なんてない」

 

そっけなく彼女は言うと、海を眺めたままこう囁いた。

 

「触れてみれば、分かるもの。」

 

それに、彼ははっきりと目を見開いた。

 

「…ああ、そうだね」

 

そして、ゆっくりと二度三度頷いて。

 

「確かに、君の言う通りだ」

 

その通りだ…と呟いて。

彼女は、急に様子の変わった彼を、耳を澄ませる様にじっと観察した。

 

彼は深い声で囁いた。

 

「そうだね、その人の温度を判断するのにその人を理解する必要なんて無いよね。

 ただ一度、たった一度だけ…触れてみれば良いだけだ。それで全て分かる…簡単な事だ。

 でも、その感覚はすっかり忘れてた…」

 

その声質には先ほどまでのどこか演技じみた成分は混じってなかった。

 

「昔ね、出会ってたった一日で親友になれた人が居たよ。

 いや、それどころか半日…もしかしたら出会って一時間も経っていなかったかもしれない。

 その人とはたった3日で長いお別れになってしまったけどね。」

 

静かに言葉を紡ぐ。

 

「そう、確かに子供の頃の僕には君と同じ感性が宿ってた。

 じゃなきゃそんな短い時間でその人と親友になんてなれるわけない。

 ましてや、僕は今でもその人が心から好きだし…無二の、親友だと思ってる。きっとこの先も」

 

その瞳には深い哀愁が宿っていて。

 

「…そう、僕にも確かに宿って居たんだ。なのに、自分がかつてそんな感性を宿していた事も、それをもうとっくに失ってしまった事も、そんな感性が存在している事さえ、殆ど忘れかけてたよ。そしてそうやって失って、でも何を失ったかすら忘れて…」

 

彼はふっと彼女に振り向いて、静かに言葉を重ねた。

その瞳には、誤魔化し様が無い、深いまごころが篭っていた。

 

「その感覚を大切にするんだよ、君。それはとても大事な物だから」

「…よく、わからない」

「うん、今の君にとってその感性は宿っていて当たり前の物だから、尊さに気づけない。

 それを失って初めて大切さに気づくんだ。でもその時にはもう何もかも手遅れなんだよ。

 僕もかつて君のように真実を測るための掌を宿していたんだ。

 でももう根っこから切り落とされちゃった。もう一度生えてきてくれることは、きっと無いんだろうね」

 

彼女は、ただ沈黙を守って彼の独白を聞いた。

 

「君の言う通りだね。その人を知るのに、素性も名前も、出会ってからの時間すら関係ない。

 でもね、その感性は誰もが持てる物じゃないんだよ。…いや、もしかしたら生まれた時には皆もっていたかもしれない。

 でも成長するにつれ、それこそ人によっては物心付いた時にはもうあっという間に無くしてしまうものなんだ。そしてその感覚の存在すらもすぐに忘れてしまう。

 それはきっと君ぐらいの年齢まですら維持するのは、難しい。大人まで維持し続けるなんて尚更だ」

 

彼はただ何かの熱に焦がれる様に、でも静かに、ただ語った。

 

「だからその透明な三本目の腕を大切にするんだよ。それは君を裏切る事は無いからね。

 その手が触れて感じるものは正真正銘真実だけだ。その感覚が君を欺くことは決して無い。

 でもその手は気を抜くとあっという間に根元から腐り落ちて二度と生えては来ない。

 だから君は…この先も、それを持ち続けられると良いね」

 

少しの沈黙が流れた。

 

言い終わると、彼はあのまるで内面を覗けない能面のような表情で、ただ海を眺めた。

彼女も同じく寄せ返す波を眺めながら、今の彼の独白を消化するように、ゆっくり噛み締めながら反芻した。

 

「…覚えておくと良い。エヴァが子供しか乗れないのはね、本来その三つ目の腕で、動かすものだからなんだよ」

 

その言葉に彼女は振り返って、その動作でふとマフラーの片側が落ちた。

それを彼女は左手でひょい、と肩に戻す。

その仕草に彼はふ、と笑った。

 

「それ何時もやってるけど、少しサイズが小さいんじゃない?」

「そうかもね。でも、この色が好きなの。同じ色のはこのサイズしかなかったもの」

「じゃ、こういう風に巻けば良いよ」

 

彼は彼女に近づいてマフラーを解き、そっと巻きなおした。

その間彼女はポケットに両手を入れたまま無防備に成すがままだった。

彼が綺麗にそれを巻き終えると、彼女は少しぴょんぴょんとジャンプする。

 

マフラーは落ちてこなかった。

 

ん、と彼女は彼を見ながら頷いた。

その顔は無表情だったが、どこか満足した猫のような雰囲気を醸し出していた。

 

その様子に、彼は暖かく微笑んだ。

 

「…しょうがないね。本当にしょうがない子だね君は」

 

彼は彼女に改めて向き直ると、優しく言った。

 

「じゃあ、怪しいおじさんと夕飯でも食べよっか。

 インスタントだけど、二人で食べれば少しは暖かくなるかもよ」

 

そして、そっと手を差し出した。

彼女はその掌を一瞬見つめて、同じくそっと手を触れ合わせた。

そして、軽く手を繋いで。

 

「食べたらジオフロントの入り口まで送ってあげるから帰りなさい」

 

彼女は手を繋いだまま、彼のその背を見上げた。

相変わらず背の高い男で、そんな近くで見上げると首が痛くなってしまいそうだった。

 

「それから、部屋に戻ったら熱いお風呂に入って、部屋を暖かくして、

 暖かい物を飲んでゆっくり眠りなさい。風邪を引くといけないからね」

 

その深みのある彼の声が心地よかった。

彼女はすっと目を伏せ、マフラーの隙間から白い息が漏れ消えて行くのを少しだけ眺めた。

やはり、それはどこへ溶けて消えて行ってしまうのだろうと考えて。

 

そして、彼の手をきゅっと握った。

 

 

「…うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで…わざわざ呼び出した理由はわかる?レイ」

「わかりません、副司令」

 

夜。

 

突然呼び出された発令所で、レイは静かにそう答えた。

二人しか居ないその巨大な発令所は不気味で、尋問の場としては確かに相応しかったのかもしれない。

 

マヤは目を鋭くしながらまじまじとレイを観察し口を開いた。

 

「実はね、今朝から『マハ』で貴方を監視させてもらってたわ。」

 

レイの眉がきゅ、と歪んだ。

 

「…どうしてですか」

「貴方はそれほど詳しくはないでしょうが、マハシステムはジオフロントから第三新東京市までの何から何までくまなく把握してる。

 だから今まで貴方も護衛もつけず好きにさせてたんだけどね」

「何か異常が」

「…都市の空気成分に、不純物が混じってる。」

 

マヤは静かに紡いだ。

 

「解析の結果、ある種類の煙草の成分と一致したわ」

 

レイは顔の筋をぴくりともさせず無表情に耳を傾けている。

 

「もちろん貴方煙草吸わないわよね。でも、先のテストのとき、貴方の髪や肺から煙草の成分が僅かに検出された。

 つまり貴方は比較的至近距離で煙草の煙を吸ったのよ。だから、最初は年頃で吸い始めでもしたのかと思ったんだけどね。

 でも、貴方自身が吸ったなら検出された成分がちょっと少なすぎると思ったの…後はわかるわよね」

 

レイは、まるで人形にすり替わったかのようにまんじりともしなかった。

 

「遡って解析してみたら貴方、最近上の廃墟で変な行動取ってるわね。第壱中なんて何の用事だったの?それも三度も。

 その内三回空気の振動にある種の人工的な変化が起こってる。誰かがピアノ弾いてたのね。」

「私です」

「にしては上手いわね。最初の二回と翌日の一回。演奏者が違うとマハが確率96.251%で以下略…。

 じゃ、一体誰が弾いたのかしらね?」

 

マヤは、そのレイの様子まるで解剖するかのように冷徹な目で見つめた。

 

「でも、マハの解析じゃ、貴方以外に都市に人は居なかった」

 

ぴくり、と彼女の体が揺れた。

 

「上の都市内にそもそも監視カメラは無いけど、マハシステムよ?誰かが侵入したなら即分かる。

 でも何度解析しても結果は同じ。なら…ピアノを弾いていたのは、誰?」

「…それこそありえないでしょう。マハの目を欺くなんて不可能です」

「そうね。だから、私も確立がゼロじゃない以上ただの杞憂かと判断しかけたんだけど。

 貴方、今日ある廃屋にずいぶん長居したわね…念のため解析させた」

 

一度だけレイは瞬きした。

 

「空気中にコーヒー、ストーブらしき熱。もちろん煙草も…その他もろもろ、役二人分の痕跡。

 でも、やはり都市には貴方以外観測されていない。正直私も混乱してる。ありえない事が、起こってる。

 だから…正直に教えて」

 

マヤが、声をひそませながら、そっと呟いた。

 

「貴方は一体、誰と居たの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

15/6/22


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