リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
ミサトはエレベーターに乗りながら、ネルフの勤務が(強制ではないが)支給の制服であることに少し安心した。
いくら彼女でも前日と同じ服で出勤する気にはなれない。
もちろん常夏の日本で二日連続同じ制服なのは不快だったが、どうしても服を取りに一度家に帰る気にはなれなかった。
コンビニで買った新しい質素な下着でとりあえずは満足する。
そして、昨日この目で見た地下の巨人をもう一度思い浮かべた。
作りかけの巨大な女性人形のような、まるで魔術の術式に使う呪いの人形のような。
彼女の脳裏に15年前のあの、セカンドインパクトの映像が浮かんだ。
では、地下のあれこそが。
彼女は加持リョウジから譲り受けたその赤いカードを懐からとりだし。
そして、ぽつり、と囁いた。
…まるで、血のような赤ね。
「で、加持君には会えたの?」
発令所に入るなりのそのリツコの不意打ちに、ミサトは不覚にも一瞬言葉を詰まらせてしまった。
リツコはそんな様子に少しだけ眼差しを向けると、わざわざ淹れてやったコーヒーを差し出す。
「…なんの話かしら?」
その紙コップを受け取りながら、無理を承知ですっとぼけた。
「あらそう?なら別にいいわよ?」
リツコも紙コップのコーヒーを飲みながら同じくすっとぼけたように言う。
その口調にミサトは、まあ、ばればれか、と少しため息をついた。
「じゃあ、もし加持君に会ったら伝えといて。火遊びは、ここが限界だって」
「…加持君のこと心配してるのね」
「そりゃ学生時代からの付き合いですもの。でも同郷のよしみで大目に見れるのはここまでよ」
ミサトは少しため息をついて。
リツコはその様子をちらりと眺めて呆れたように同じく息を吐く。
「加持君あいかわらずなのねえ?」
「…そうね。あの頃とあんまり変わってなかったわ」
「昔から無茶ですものね、彼。でも、流石にもう落ち着いてもいい年だと思うわよ」
「じゃ、あんたから加持君にいいなさいよ」
「私が言って聞くわけないでしょ?」
リツコは少し呆れが混じった口調で言う。
すると、ミサトはどこかアンニュイな様子でずずずと音をたててコーヒーをすすり。
「あたしが言っても、同じよ。」
その言葉にリツコは、ふむ、とひっそりと嘆息した。
だからまあ、言う事言ったからいいか、と話を変える。
「そういえば、アスカとシンジ君の様子は?」
「良好よ~ん?」
少し明るい口調のその返事に嘘を感じなくて、リツコはあら、と意外そうに言った。
「意外ねえ。あのアスカが…」
「ほんとよねえ。それもこれもシンジ君のおかげかも」
「ふうん?いっそ囲っちゃえば、シンジ君のこと」
「馬鹿いってんじゃないわよ」
そんな冗談を言い合いつつ。
「でも私はやっぱり同居はよしたほうがいいと思うけどねえ。ましてやチルドレン二人となんて…」
「まだ言うの?本当に良好なのよ」
「だから、なおさら言ってるの。貴方のこと心配してあげてるのよ」
「…あたしを?」
「そ。前に言ったでしょう。必要以上に情を移すとこの先、貴方が辛いかもしれないわよ」
ミサトは少し神妙な様子で呟いた。
「そりゃ…リツコの言う事だって、もちろん分かるわよ。でも」
「…でも?」
「…あたしは、あたしが信じるやり方を貫くわ。」
そのミサトの言葉に、変わってないのは加持君だけじゃないみたいね、とリツコはやはり嘆息した。
・
アスカはどこか不機嫌に一人帰り道を歩いた。
なんとなく空を見上げて、まあまあ綺麗な青空ね、と思った。
まだ日は高かったので少し汗ばみはするが、でもカラッとして心地よい気温だった。
彼女は日本特有のそのじめっとした熱さにはまだ慣れなくて、毎日こんな感じだったらいいのに、と心底思った。
と、最近妙に空を見上げることが多くなった自分に気づく。
まるであの少年の癖が移ったかの様な。彼女はちょっとだけ眉をひそめた。
喉が渇いたのでジュースを買う。
飲みながら歩いて、ふう、と息を吐いた。
そして改めて疑問に思う。
…なんでアタシこんなに不機嫌になってんだか?
昨日の夜から自分がちょっと様子がおかしい事はもちろん分かっている。
でも、自覚しているからってどうにかできるほど彼女はまだ大人ではない。
あっという間に飲み終わったジュースをゴミ箱に放り投げる。見事な3ポイントシュートだった。
そして、珍しく今日用事があるから、と言った少年の事を考えた。
あの二人組みは先に帰ってたし、何の用事かしらね?
じゃあ、と。
脳裏に白い少女。
ふ、と眉がまた僅かにひそまった。
そして、ま、どうでもいいわよ、と鼻を鳴らした。
どーでもいいわよ。
また髪を乱暴に揺らしながら歩き。
そのとある人物だけに設定している着信音が鳴って、彼女の目が輝いた。
「加持さん!」
「ようアスカ。久しぶり」
駅前のショッピングモールでその姿を見つけて。
彼女は迷わず彼の腕に抱きついた。
「もう!今まで何してたの?」
「ちょっと急な仕事が入ってな。ほったらかしですまなかった」
冷房の効いた喫茶店でおいしいケーキとアイスティー。
「へえ、そうなんだ」
「でね」
上機嫌にずっと喋りっぱなしのアスカに生返事をしながら、加持はそろそろかな、と。
もちろんアスカがその加持の気のない様子に気づかない訳が無く。
『へえ、そうなんだ』か。
一瞬彼女は目を伏せた。
すると、車のクラクションがそこらから聞こえた。
何かしら、とケータイが鳴って、彼女は思わず声を上げた。
「え?非常徴集?」
「…本当か?」
加持は一瞬眉をひそめて。
まさかこのタイミングか…と。
そして彼は、コーヒーで口元を隠しながら面白そうに、にやり、と笑ったのだった。
青Ⅸ 《海よりも深きもの》
・Ⅰ
「…なんてこと」
リツコは非常灯で照らされた発令所でその報告に愕然とした。
泣きっ面に蜂ね、と深くため息をつく。
「使徒って、必ず海から現れるのね…」
ミサトも憮然としながら。
「使徒、神の使い、天使…。あたし使徒っててっきり空から現れるものかと思ったわ」
非常灯の青い光に照らされたミサトの引き締まった表情は、まさにこれから戦いに挑む武士のような様子ですらあった。
リツコはそれを横目に見ながら、そしてそっと目を逸らす。
「そんなこと言ってる場合じゃないわ。本部が停電なんて…」
「使徒の攻撃、なの?」
「わからない…でも、その可能性もあると思う」
それか物理的に、つまり誰かによって人為的に落とされたか。一瞬旧友の男臭い顔が浮かぶ。
でも、今はまだ結論を出すには早い、とリツコは目の前の作業に集中した。
すると、マヤの緊張した報告の声。
「先輩、やはり停電は本部内だけではありません。第三新東京全域で発生しています」
「…まずいわね。兵装ビルも使えないか」
ミサトは眉をひそめ。
「とりあえずシンジ君たちは向かってるのね?」
「はい。セカンド、サード共に本部に向かっています。ですが、到着までは両名共にしばらくはかかるかと」
「でも来れたって本部内ですら停電してるんだから、ケイジ到着までどれくらいかかるか…」
「レイだけは本部にいてくれたのだけが不幸中の幸いね」
一つ頷き、すると噂をすればと開けっ放しにしておいた扉から白い少女があらわれた。
ミサトはプラグスーツを着た少女を見つめ。
「レイ。あなたは今から弐号機にのってもらう。いいわね?」
「はい」
すると、少女の後ろに見えた大きな影にミサトは思わず敬礼する。
ゲンドウは相変わらず極めて冷静沈着に低い声で言った。
「話は聞いた。赤木博士は電力の復元に集中。葛城三佐、君は使徒を。方法はまかせる。
レイ、今すぐドックへ。整備班は人力でエントリープラグの挿入準備」
「はい」
「それと残りの職員を集めろ。サードが到着後すぐ初号機のケイジまで行ける様、今のうちに通路を確保する。
他のオペレーターはどうしている」
「青葉君は本部内。日向君は休暇でしたがすでに本部に向かっています。」
「いや、なら日向君は地上で待機させろ。電力が復帰するまで上で使徒の観察、報告を」
は、とミサトが声を上げた。
そして改めてその威圧的なネルフ総司令を観察した。
彼はこんな状況でも欠片も動揺していないようだった。
普段畏怖と緊張を与える彼も、こんなときにはこの上なく頼もしく思えた。
…シンジ君の父親だなんて思えないわね。
一瞬そんなことを考えて。
「では始めろ。時間を無為にするな」
ゲンドウはやはり重々しく、なんの感情も込めないように言った。
・
レイは何度目かのその海にもぐって、呼吸を整えた。
やはりセカンドの匂いがした。
その慣れない匂いは別に不快ではなかったが、何かよそよそしいような。
確かに自分ではない、あくまで他者のものを借ているのだ、という感想を彼女に抱かせた。
弐号機の海はやはり初号機とも零号機とも違っていた。
零号機が忘れられた湖なら、初号機は未知にあふれたディープブルーの深海。
そして弐号機は例えば南の島の浅い、でも広く、とても澄み切ったエメラルドグリーンの海だった。
心地よくその浅瀬を泳ぐ。
何か、困惑のような気配がした。
だから彼女は何時も道り囁いた。
…貴方を傷つけたりしないわ。
すると、その気配はそれに納得したように、奥へと引っ込んだ。
・
「シンクロ成功、29%安定!」
マヤはノートPCの簡易プログラムの表示に少し安堵したように息を吐いた。
トランシーバーからリツコの声。
『安心したわ。こちらも復旧を急いでる。使徒はまだ侵攻中よ。
今さっき日向君から連絡があったわ、約5分後にドグマ直下と』
了解、とマヤは内容をゲンドウに伝える。
「わかった。葛城君に報告を。全て一任する。
では引き続き初号気のプラグ準備を始める。急げ。」
上着を脱ぎ汗だくのゲンドウは、同じく汗だくの職員たちに告げる。
そんな見慣れないネルフ最高司令にマヤは、はい、と少し遠慮がちに敬礼した。
・
レイは僅かに混じった巨人の重い身体を動かし、その通路を登って行った。
すると何か、彼女の膜を突くような、つまり意識を向けられた感覚。
使徒が気づいたようだった。ゆっくりと近づく気配。
『レイ、使徒が気づいたわ。そっちに向かってる』
トランシーバーからの葛城三佐の声に、はいと返事をする。
そしていくつかのやり取り。
彼女は凛とした表情でその時をまつ。
そして、隔壁から躍り出た。
パレッドライフルによるレイの奇襲はATフィールドによって防がれた。
爆煙で使徒の姿が隠れ、それを確認してすぐさま身を翻し、ビルからアンビリカルケーブルを取り出す。
使徒を警戒しつつ背に装着、表示がバッテリーモードから切り替わった。
少し安堵して、すると煙幕から使徒の細い足が飛び出し、驚くほど伸びた。
するとそれがまるで鞭のように鋭くしなって、弐号機の左肩をATフィールドと共に貫いた。
く、と彼女の顔が苦痛に歪んだ。
ミサトと日向マコトは兵装ビルの上で双眼鏡で戦況を確認する。
本部に戦況を連絡しているマコトを横目に、ミサトはすぐさまレイに指示をだした。
「レイ、一度下がって!ケーブルはつけたから後は時間を稼ぐの!」
『了解…』
痛みにこらえるかのような少女の声がきこえ、すると、トランシーバーから悲鳴が響いた。
「レイ!?」
レイはその左肩が溶けるような激痛に戦慄した。
肩を貫いたその足から液体が分泌され始め、すると滴ったその液体が弐号機の装甲と肉をあっという間に溶かした。
たった三割程度のシンクロ率ですら気を失いそうな痛みに、彼女は歯を食いしばった。
・
アスカはそれを見たとき、自分の目を疑った。
ごしごし、と手の甲で目をこする。
遠くにまるで蜘蛛のような巨大な生物と、四つの瞳の赤い巨人。
つまり。
「…なんで弐号機が出てるの!?」
助手席の彼女の悲鳴のような声に、加持は一瞬眼差しを向けて。
さらにアクセルを踏んだ。
・
レイは意識を失いそうになりながら、それでもATフィールドの中和を試みる。
貫かれた左肩のそれを抜こうとしても、表面から分泌された溶解液で掴んだ手も溶けてしまいそうだった。
どうにか、使徒のATフィールドが薄くなった感覚。
彼女は朦朧とした意識でライフルを撃った。
左肩を貫いていた使徒の足が吹き飛んで、それを目の端に捕らえて息を整える。
すると、視界がすべて濃い霧に包まれていた。
何?と目を瞬かせて。
ミサトは弐号機のライフルが使徒に直撃したのを確認してよし、と声を上げた。
液体が飛び散ったのが見えた、つまりダメージを受けてる。
だからミサトはレイに次の指示を出そうと、眉をひそめた。
使徒の周りからおびただしい霧。
そして、耳に聞こえる何か、溶けるような…。
ふと、突然のその異臭に彼女は嘔吐しそうになった。
思わずマコトと目を合わす。
彼も手で口と鼻を覆っていた。
使徒に振り向いて、するとその霧が少しずつ広がっているようだった。
ある種の確信をもって、ミサトは地面を観察し、何かの液体が拡大していくのを確認して顔を青ざめた。これは…。
「酸の、海…」
そして、使徒を中心に約3キロ四方が、ずる、という地響きと共に陥没した。
レイはその突然の浮遊感に、でも咄嗟に事態を把握して、眉をゆがめる。
地面はまだ陥没し続けていた。
使徒の体液から分泌された溶解液は特殊防壁など物ともしないようだった。
その凄まじさをまじまじ観察して。
…これは恐らく、このままセントラルドグマに到達されてしまう。
すると、使徒が動いた。
とっさに応戦しようと、だが使徒が吐き出した液体が弐号機に降り注いで。
そして彼女は絶叫した。
トランシーバーから聞こえたその凄まじい悲鳴に戦慄しつつ、ミサトはひたすらレイに呼びかけた。
だが、少しの後その声がぷつりと切れる。どうやら気絶した、と判断し。
「リツコ!?」
『駄目よ、シンクロ途絶!ケーブルも断絶してる!』
「初号機はまだなの!?」
『もうすぐよ!』
「急いで!!」
そしてミサトは吐き気をこらえながら都市の中心に開いた巨大な穴を観察する。
エヴァが暴れても物ともしないような隔壁がああも簡単に…。
ミサトは暗い予感に戦慄した。
「…下手すると、このままドグマか!」
ミサトは、マコトにここを頼んだわよ、と振り返りもせず駆け出した。
・
シンジは、ほとんど倒れそうになりながらケイジにたどり着いた。
何人かの職員が駆け寄って労いの言葉をかけつつ彼を立たせる。
渡されたプラグスーツに着替えるためにシャツを脱ごうとして、その父の姿が目に入った。
夥しい汗をかきながら、職員たちの先頭に立ってプラグを人力で動かそうとしているその姿。
一瞬、それに目が離せなくなって。
すると、ゲンドウが少年に眼差しを向けた。
急げ。
その瞳から語りかける声に頷いて、急いで服を脱ぎ始めた。
・
アスカは僅かな明かりを頼りに、その長い廊下を息を切らしながら走った。
でも。
どこなの、ここ!
彼女は壁に寄りかかって息を整えた。
ちゃんと本部内の地図を覚えておけば良かったと後悔しても後の祭りだった。
もっとも、彼女が間に合ったとしても出来ることなどなかったのだが。
すると、ズゥーーン…と振動。
それに耳をすませて、この振動は恐らく、と。
「…初号機ね?」
初号機は馬鹿シンジしか乗れないはず。
と言う事は、やっぱりアタシの弐号機に乗ってるのは。
脳裏にジオフロントに入る寸前見えた、左肩を貫かれた愛機を思い浮かべて。
「ちくしょう…」
あの女…アタシの弐号機を…!
彼女はぎり、と唇を血が出るほどかみ締めた。
・
シンジは初号機を駆りながら焦っていた。
早く、早く!
まだ電力は復帰していない。
すると青葉シゲルの声。
『いいかいシンジ君、使徒は溶解液のようなもので地面を溶かしながらドグマに進んでいる。
だが、具体的に今どの階層にいるのかわからないんだ。下手するともうドグマまで到達する寸前かもしれない』
トランシーバーのその青年らしい良い声にはい、と答えて。
『それに、どうやらこの使徒は血液が酸のようなもので出来てるらしい。
つまり、不注意に身体を攻撃するのは危険だ。だから出来る限りコアだけを狙うんだ。やれるかい?』
「…でも、コアはどこの位置に?」
『それが分からないんだ…少なくとも地上で観察した限りではコアらしきものは発見できなかった。
だが、今までの使徒は例外なく心臓、または身体の中心にコアがあった』
「はい…」
『…なんとか頼む。』
シンジは、緊張に指先が震えるのを感じながら、頷いた。
すると、シゲルは少しの間の後、突然のんきな口調でこう言った。
『ところでシンジ君。君、音楽は好きか?』
え?と目を瞬かせて。
『いやあ実は俺ミュージシャン崩れでさ。何かの間違いでネルフ入っちゃったんだけど』
「…はあ…」
『これが終わったら、俺の魂の一曲を聴かせてやるよ』
それに少年は目を瞬かせて。
それから少しはにかんだ。
『楽しみにしててくれよな』
「はい」
『じゃさくっと終わらせよう。頼むぜ』
「はい。」
少し深呼吸をして。奇妙に落ち着いた自分を確認する。
青葉さんて面白い人なんだなあ、と今までまったく接点の無かった彼にそんな感想を抱いて。
そして少年はその大きく開いた穴に到達した。
・
加持は、ジオフロントの入り口で煙草を咥えながら戦況を眺めていた。
ほとんど半狂乱になりながら飛び出していったアスカに流石に申し訳ないな、と思いつつ。
今回ばかりはちょっと責任を感じるな、と心で囁いて、遠めにその陥没した穴を面白そうに観察した。
でも、と。
まあ、この程度で敗北するなら人類なんてその程度さ。なあ葛城?
彼はふてぶてしい笑みを浮かべ。
そして楽しそうに目を輝かせた。
16/2/29