リヴァイアサン・レテ湖の深遠 作:借り暮らしのリビングデッド
洞木ヒカリにとって、その奥二重の目とそばかすは大変なコンプレックスだった。
はああ、と更衣室で手鏡を見ながらため息をつく。
もっと綺麗に生まれたかったなあ、と心底から彼女は思った。
ヒカリは典型的な日本人顔の少女だった。
決して不細工ではないがさして美人でもない。まさに平凡を絵に描いたようだった。
せめて、二重にならないかしら?
そんな事を考えて鏡をじーと睨む。
勿論、そんな事したって二重になってくれるほど人は便利じゃない。
そもそも彼女のコンプレックスは思春期ゆえの通過儀礼と言って良かったろう。
確かにその目は一重だが、大きめで優しい丸みを帯びていて魅力が無い訳ではなかったし、
平凡な顔立ちという事は特に欠点が無いと同義だった。
つまり、化粧や髪型などで幾らでも美人に変身できる器量だったのだ。
もっとも、まだ中学生で碌に化粧すら知らない彼女が自身のその器量に気づけるはずも無かったが。
・
性別に関係なく笑顔が似合う人とそうでない人が居る。
ヒカリのその笑い方はやや特徴的だった。
きゅっと、やや小さめの口の両端を閉めて、どこか我慢するように、はにかむように笑う。
照れたようなその唇の端は、窪んだように影が出来て、どこか人を暖かくさせるような熱を放つ。
彼女はつまり、笑顔を見せると十倍にも二十倍にも可愛く見える少女だった。
よく言えば無難、悪く言うと平凡なその顔が、笑うとまさに花が咲いたようにぱっと輝く。
彼女ほど笑顔が可愛い女の子は滅多に居ないのだが、当然本人が気づいてるわけが無かった。
ぱしゃり、と一枚。
プールサイドで同級生と談笑しているヒカリを撮って、もったいないなあ、とケンスケは思った。
ヒカリは控えめな野花のような子で、派手で綺麗な花に隠れて、いつも影が薄い。
だが常に、そんな隅に隠れた控えめな存在に気づく人は居るのである。
中学生にしてすでに写真で食っていくと誓いを立てているケンスケはまさにそういう、他の人が気づかない魅力的な物を発見する才能に満ちていた。
委員長は将来大化けするかもなあ、ともう一枚写真を撮りながら彼は頷いた。
トウジの奴もさっさと気づいてやれば良いのに、とケンスケは思う。
若干の嫉妬を親友に抱きながら、それでもかなりお似合いなんじゃないか、と太鼓判を押した。
ちなみに、彼はクラスの女子から大いに嫌われていた。
それはそうだろう。
時に女子(しかもプールの授業中の)をこうやって無許可に撮ったりしてるのだから。
ただでさえ難しい年齢の少女達に、割と本気で嫌悪されて当然だった。
それでも別段はぶられたり陰湿ないじめにあったりしてないのは、ネルフ関係者という上流階級だけが通うその中学校が割と品行方正だったからだ。
そういう意味ではむしろクラスメートを称えるべきだったかもしれない。
もちろんケンスケ自身、すごーく女子達に嫌われている自覚はある。
時に悩んだりした事もあった。それでも彼はカメラを手放そうとしない。
つまりケンスケは、他者の顔色を窺って生きるより、嫌われても自分の道を歩む事を選んだのだ。
14歳では中々出来ない決意だったが、その強さはあまり表には出ない類のもので、当然ケンスケという少年の賞賛すべきその内面の強さを知っている人はあまり居ない。
ちなみに彼は、その人の隠れた魅力を発見する才能にも満ちていた。
外見だけでなく内面に対してすらも。
ケンスケはつまり、やろうと思えば大抵の人からあらゆる美徳を見出せたのだ。
その才能こそまさに彼の美徳に他ならなかったろう。
だがやはり、彼のそういう人間的魅力に気づいてくれる女の子など残念ながら一人も居ないのだった。
と、彼は女子を眺めるのに飽きたのか、横に視線を滑らせる。
隣に座ってるシンジが、同じくプールの授業をぼんやりと眺めていた。
視線を追う。白い少女がプールの隅で体育すわりをしていた。
スクール水着を着てはいたが、どうやら授業は見学しているらしかった。
「なんや、綾波に見とれてるんか」
同じくシンジの視線を追ったトウジがぼんやりという。
ううん、と。それからシンジはぽつりと言った。
「綾波って、いつも一人だよね」
「ああ、あいつずっとそうだよ。誰かと仲良く話してるとこなんて見たことない」
「確かにそうやなあ。まあ、近寄りがたいしな」
「そう?」
そうかなあ?シンジは少し不思議そうに首を傾げた。
そりゃそうだろ、とケンスケ。
「あの外見じゃあな」
「おう、俺初めて見たときびっくりしたで」
「俺も。外人かと思ったもん」
「俺は不良かと思ったわ。」
「確か病気なんだっけか」
「…アルビノ?、とか、だったような」シンジがぼんやりと。
「そうそう。先天性なんとか。身体の色素がないんだっけ?でも不思議なんだよな」
「何が?」
「確かその病気って紫外線に弱いらしいんだよ。だから重症な人はそれこそ日中歩けないとか」
「綾波思いっきり歩いてるやん」
「だから不思議なんだって」
ケンスケは観察しながら。
「こんな日差し強いのに全然平気そうなんだよなあ」
それどころか、と。
前々から不思議に思ってたことをぼんやり言う。
「ぶっちゃけ汗もまるでかいてないし、日焼けもまったくしてないし…」
「それ、おまえの勘違いちゃう?」
「いやいや、めっちゃ肌白いじゃん綾波」
「ちゃうわ。その病気が太陽に弱いっての。逆に覚えてるんちゃうか?」
「いやそんなはずは無いって。白人とか色素が薄い人ほど紫外線に弱いって結構常識だぞ?」
「じゃあれちゃう?ネルフのなんか、そういう、あれや。先進医療?」
「あー。薬とか?」
「そうなんちゃう?」
「うーん。まあ、そうかもなあ。エヴァなんか作っちゃうんだもんなあ」
「そや。ネルフにかかればそんなんお茶の子さいさいなんちゃうか」
「エヴァのパイロットだしなあ」
「そやそや」
確かにそうかもな、とケンスケは納得した。
と、その視線に気が付いて、少しからかうような口調で暑苦しい親友に声をかけた。
「なあトウジ、委員長がこっちみてるぞ」
「え」
すると確かに、洞木ヒカリがこっちを見ているようだった。
こら鈴原!まじめに授業受けなさい!と、微かに声が聞こえた。
それにトウジはへいへーいと腰を上げる。
「しゃあない。走るかあ」
何で女子はプールで男子はランニングやねん、と愚痴る。
男女差別反対!とケンスケも賛同しながら。
「つかおまえ委員長の言う事は素直に聞くんだな?」
「…何がや。別にそういう訳ちゃうわ」
「またまた」
シンジはそんなやりとりを眺めつつ、ふとプールを見た。
と、ヒカリと視線があったような気がした。
すると、彼女がおずおずと、控えめに手をふった。
だから彼も、やはり控えめに手をふり返した。
Ⅲ 『心に咲く花』
「アスカ、これ」
昼休み。
購買に急がなくては売り切れるのに、彼女はなんとなく食欲が無くてぼんやりと空を見上げていた。
その少年の声にそっけなく答える。
「何よ」
「お弁当」
彼女は目を丸くした。
「え、どうゆうこと?」
「うん。昨日の夜作っといたんだ」
そういや昨日夜中まで何かごそごそしてたわね、と。
すると、彼は少ししょんぼりしたような気配で、あの、要らないならいいけど…と呟いた。
彼女は少し考えて、ちょっとおずおずと。
「…あ、ありがと…」
すると、彼ははにかんで、弁当を彼女の机に置くと例の二人の席に戻っていった。
それにきょとんとしながら、ふと教室を見回す。
みんなが注目していた。思わずほんのり赤面してしまう。
…馬鹿シンジ、こんな大勢の前で渡さなくてもいいじゃない!
だから彼女は威嚇するようにぎろぎろっと目を光らせた。
すると注目してた生徒がいっせいに視線をはずした。
それに彼女はふん、と鼻を鳴らした。
実は彼女は現在、少しだけクラスで浮いていた。
理由は単純、かぶっていた猫の皮が剥がれまくっているからである。
もっとも、彼女自身もうめんどうであまり猫を被ろうとしなくなったのもあるが。
(それ自体が今までの彼女ならありえなかった。だが彼女はまだ自分のその変質を自覚していない)
そもそも美人と言うのは近寄り難い。外国の血が入っているならなおさらだった。
その上、彼女の気性の激しさが知られるにつれ彼女に話しかける人はほとんど居なくなってしまったのだった。
シンジ少年を除いて、だが。
だから彼女はその視線を無視するように堂々と自分の席で弁当の包みをあけた。
思わず目を丸くする。昨日の残りのハンバーグに、ナポリタン、から揚げ、彩るように野菜炒め。
すんげえ旨そうだった。ごくりと生唾を飲み込む。
そしてこんな手の込んだ弁当をわざわざ作ってきた理由を疑問に思って、少年を振り返る。
彼も弁当の包みを空け、でもメガネとジャージにからかわれているようだった。
やっぱりふん、と鼻を鳴らし、一口。
…うんめえ。
そしてがつがつと貪る様に凄い勢いで食べ初めた。
すると遠慮がちな声。
「あの…惣流さん」
「ふぁによ?」
もぐもぐしながら、やんないわよ、とばかりに弁当を隠しその声の主を見上げる。
そばかすにおさげの、確か学級委員長。
「なんやシンジ。それ」
「え?何が」
「ま、まさかミサトさんが作ったのか!?」
その見事な出来の弁当を覗き込んでケンスケがうらやましそうに言った。
「ううん、僕が作ったんだ。ミサトさん料理あんまりできないし」
結局昨日帰ってこなかったし、と心で付け加える。
すると一瞬間があって。
「…わざわざ、惣流にも?」
「うん」
「…なあシンジ」
「うん?」
「おまえって…」
「うん」
「…いや…なんでもない」
その奇妙な空気にシンジは首を傾げた。
まあいいか、と、アスカが気になって振り向いてみると、洞木さんと机を並べていた。
どうやら一緒に食べているようだった。その緋色の髪からは、昨日のような暗い影は見えなかった。
それに少し安心して、シンジは改めて昨日バスタオル一枚で風呂から出てきた彼女を思い浮かべた。
あんなに弱々しいアスカは初めて見たな…。
いや、と。
正確には、あのユニゾンの特訓の日、綾波が弐号機のシンクロに成功したと言われたとき以来だった。
あれ?でも、あれはどちらかと言えばショックを受けてる感じで、昨日のはまた少し違っていたような…?
でも少年にはやっぱりそれ以上のことはわからなくて、だからなんとなく白い少女に眼差しを向けた。
頬杖をついて窓を見ている彼女の周囲だけ、相変わらず清い別の空気が流れているようだった。
そういえば、綾波が昼食べている所見たことが無いな、と少年は今更ながらようやく気づいた。
…どうしてだろう?と思い、ふと、今度彼女にも弁当作って来ようかな、と。
それがとても好いアイデアのような気がして、少年は無自覚に微笑んだ。
「ヒカリ、帰ろ」
放課後。
そう声をかけてきたアスカにヒカリはごめん、と申し訳なさそうに呟いた。
「今日、これから妹のお見舞い行くの」
アスカは緋色の髪を少し後ろに流し、ふうん、と。
「妹さん…病気なの?」
「…うん」
と、ヒカリは咄嗟にシンジ少年に視線を向けた。
すると目が合って、彼も咄嗟に目を伏せた。
当然アスカはその動作に気づいて、ん?と少しだけ、僅かに眉をひそめた。
「…ま、いいわ。じゃね」
「うん。また明日」
そうしてアスカはそっけなく背を向けて、それから少年に近寄って何か声をかけたようだった。
すると、彼女は見る見る不機嫌になって、髪を乱暴に揺らして教室を後にした。
それを見届けて、なんとなく、少年と目を合わせた。
「アスカと仲良くなったんだね」
「うん」
ヒカリはシンジと少し間を挟んで同じペースで一緒に歩いた。
まだ日は高く、青空は美しく、夕暮れには大分時間があるようだった。
「その、最近、惣流さん一人だったから…」
少し心配だったの、と彼女は続けた。
どうやら学級委員長の責任感から話しかけたらしかった。
それにふと感じるものがあって、でもやっぱりシンジは沈黙を守った。
バス停の前で二人でたたずんだ。
病院行きのバス亭にはいつも通り誰も居なかった。
そうでなかったらヒカリはシンジと一緒に行動しなかったろう。
変なうわさがたってしまったら困るから。
二人で沈黙してただ青空を見ていた。やっぱり、今日も入道雲が見事だった。
太陽の熱は高かったが、今日はカラッとしていて気持ちのいい気温だった。
不思議と、昨日の帰り道のような気まずい沈黙ではなかった。
ヒカリはふと、あの綺麗なピアノの旋律を思い出して、少年に眼差しを向けた。
その横顔はまだ幼さが残っていて、でも奇妙にそっけないような、冷たいような。
つまり、普段の少年からは間逆の印象を見るものに与えるようだった。
なんとなく目を瞬かせて、すると少年がぽつりと言った。
「あ、花」
買わないと、と。
バスに揺られながら、隣の席に座ってぽつりぽつりと言葉を重ねた。
あまり話さなかったが、やっぱり気まずくはなかった。
ヒカリはそれを少し不思議に思った。
バスを降りて、病院からさほどには離れていないその花屋で、少年が花を選ぶのをぼんやりと眺めた。
買い終えて、行こ、と一緒に並んで歩く。
ふとどんな花を選んだか気になって、だから彼女はそれを見たとき目を瞬かせたのだ。
どこか安心するような、穏やかな香りが鼻をくすぐる。
彼が手に持っているそれは控えめで美しくたおやかで、それ自体がその贈り主の人となりを物語っているように思えた。
彼女は、驚きのあまりまじまじと少年を見た。
その視線に気づいた彼が、眼差しを向けて、何?と目で語りかけた。
「あ、ううん!」
ヒカリは慌てて首を振って目を逸らした。
少年は不思議そうに、でもすぐに前を向いて歩き出した。
それを確かめてから、ヒカリは彼に気づかれないようにそっと。
その花と、それと同じくらい繊細で、でも少しひんやりした彼の横顔を見つめたのだった。
・
白い少女は、ぼんやりとその水槽に写る『彼女たち』を眺めた。
するとその暗く、まるで水族館のような部屋にこつ、こつ、と男性の靴音。
「何をしている」
低く、心地よい響きの声に彼女はゆっくり振り向いた。
ゲンドウが彼女の隣に立って、同じくその水槽を眺めた。
彼女は返事もせず、その横顔をそっと見つめた。
髪は短く、顎鬚を生やした彫りの深い顔立ちに、サングラス。
その横顔はひどく冷たく、全てを拒絶しているようであまりに近寄り難かった。
でもその黒々とした瞳は、どこかで見覚えがあった。
「…目」
ゲンドウが、少しだけ彼女に意識を向けた気配がした。
「目が、良く似ています」
「あれにか」
彼は無表情に低い声で呟いた。
彼女は少しうなずいた。
「それは…知らなかった」
ゲンドウはメガネをとると、人差し指と中指で瞼の上を揉む。
その動作を、彼女はぼんやりと眺めた。
そると、彼は突然低い声で言った。
「約束の日を忘れるな」
「はい」
「なら良い」
ゲンドウはメガネをかけつつ、まるで感情を込めないような平坦な声でこう言った。
「それまでは望むように生きろ。」
すると、白い少女は、ぽつりと言った。
…料理。
ゲンドウから僅かに、僅かに困惑の気配がした。
でも少しの後そっけなく、ああ、と呟いた。
ネルフ本部内にあるその部屋は広く、なのにひどく簡素だった。
テーブルと、ベッドと、ソファーと、壁に立てかけられたいくつかの服。
そしてタンスの上にある、数冊の文庫本。床にはカーペットすら敷かれておらず、テレビすらない。
その部屋は廃墟に近い色彩を放っており、白い少女の部屋と確かに同じ気配がした。
彼女は、テーブルで食後のコーヒーに目を落とした。
ミルクを少しだけ垂らす。
白いそれはコーヒーに溶けて、あっという間に見分けが付かなくなった。
台所からは洗物の音が僅かに聞こえていた。
それに彼女は耳をすませて、すると、その音が止んだ。
足音がして、ゲンドウが台所から姿を現せた。
ネルフ司令としての彼は欠片の生活臭もしない男だった。
あえて、そう見せてる部分もあったのかもしれない。
だがサングラスを外し、ワイシャツの袖をまくったその姿は、確かに生活の匂いを纏っていた。
彼はソファにゆっくりと座った。
少女はまだコーヒーカップに視線を落としたままだった。
ボッというライターの音。
そして、その臭いような、でも不思議と嫌いではない匂いが彼女の鼻腔をくすぐった。
ゲンドウは、その短い煙草に視線を落としながら、低く呟いた。
「約束の日、お前は消える」
彼女はまるで聞こえないかのようにかつてコーヒーだった、あるいはミルクだったそれに視線を落としていた。
「生命は必ず死ぬ。遅いか早いかだ。たかが数年、数十年など世界にとって瞬き一つだ。
忘れるな、お前はそれだけのために存在している。他に理由は無い」
「消えた後は」
「瞬きをしろ。俺も居る」
あの世があればな、と独り言のように。
「なかったら」
「無に還るだけだろう。そればかりは死ぬまでわからないな。それを楽しみに生きるのも悪くは無い」
少しの間があった。
煙草の先端が、じじ、と焼ける音が僅かにした。
彼が、深く息を吸って、煙を吐いた。
「あれと仲が良いそうだな」
はい、と少女はそっけなく答えた。
「そうか」
「気になるなら、」
彼が彼女に眼差しを向けた気配がした。
それでも彼女は、新たにミルクコーヒーと定義されるようになったそれに写る自分を見下ろしていた。
「優しくしてあげたらどうですか」
僅かに笑いのような気配がした。
多分、彼女でなければ気が付かないほど僅かな、でも確かに微笑だった。
「俺が?あれに?それに何の意味がある」
そしてまだ半分残っている、その煙草を灰皿に押し付けた。
「…手料理など久しぶりだ」
やはり独り言のように、彼は囁いた。
「送らせる…満足したろう。帰れ」
「いいえ」
「…お前は、何を望む」
「わかりません」
彼女はようやくカップから目を離して、窓を見た。
そこから見えるジオフロントの景色は、美しいミニチュアのようだった。
「何も…」
・
その病室をガラス窓から眺めて、シンジは眉と肩を落とした。
面会謝絶と書かれた札。
その立ち入り禁止の病室のベッドに眠る少女は確かにまだ幼く。
それゆえ、その少女を縛るように伸びた様々な線や呼吸器は目を背けたくなほど痛々しかった。
「碇君、その…ごめんね。病室にはやっぱり入れないって」
「ううん…」
そう言って、彼は自身が買ってきた花に目を落とした。
少し、日は落ちかけていた。
でも蝉の声はうるさく、まだ太陽の光は眩しく、熱く。
なのに、シンジにはその全てが窓の向こうの景色を眺めてるように虚ろに写った。
ヒカリは、その少年の背を眺めながらどう声をかけていいか悩んだ。
すると、少年があの、と声を上げた。
「あの、ありがとう洞木さん」
「ううん…こっちこそ、ありがとう」
そのヒカリの言葉に、シンジは振り返って、どうして、と。
「…碇君のせいじゃないもの」
「でも…」
でも、と少年はうなだれた。
それがあまりに虚ろで、ヒカリは心配気に眉をひそめた。
エヴァというロボットのパイロットを恨まなかったといえば嘘になる。
特に、彼女の姉ははっきりとした敵意を示した。
その敵意はネルフ関係者の父にまで及び。すでに、彼女の家庭はひびが入っていた。
彼女の表情に暗い影が落ちた。
それでもヒカリは姉ほどには恨みが続かなかった。
なぜなら、ヒカリはあの初戦を一部始終自分の目で見たのだから。
あのエヴァという怖い顔のロボットが、化け物に頭をえぐられる所を見たのだ。
そのあまりのスケールの大きさとそれを目前で見た恐怖はまさに想像を絶する体験で。
そのパイロットが同い年の少年だと知って、なおさら、敵意が続かなかったのだ。
自分なら、きっと怖くて泣き叫んでるに違いないから。
もちろん最初は子供がパイロットなど信じられなかった。
だが他でもない、ネルフに勤めている彼女の父親が認めてるのだ。そのパイロットがこの少年であることも含めて。
なぜ子供が乗らなくてはならないのか、何故碇君だったのか、という部分は守秘義務ということで教えてもらえなかったが。
そうである以上。
「…碇君」
そう呟いたまま彼女は黙った。
その少年の背は、消えてしまいそうなほど儚かった。
だから沈黙したまま二人でその交差点に立って。
ようやく、異常に気づいたのだった。
「あれ…」
ヒカリは信号を見上げて思わず声を上げた。
信号が、点いてない。
車のクラクションの音が幾つか聞こえた。
どうやらここだけではないらしい。
少年も、あれ、と不思議そうに呟いた。
「…停電、かなあ?」
すると、彼の携帯が鳴った。
非常徴集?
と、ヒカリに声をかけようとして、その様子に彼は目を丸くした。
彼女の顔は真っ青だった。
「…どうしたの?」
「碇君…どうしよう…」
「何が…?」
「だって、停電でしょ…?」
ヒカリは震えるように言った。
「妹の生命維持装置…大丈夫なのかな…」
彼は一瞬ぽかんとして。
そして、意味が染みこむにつれ同じく顔を青ざめた。
・
それは、海から現れた。
蜘蛛のような、あるいは蟹のような巨大な姿。
少しだけオレンジ色をした綺麗な青空を背景に、その使徒はゆったりと、あるいはのんびりと、とすら形容できる様子で。
第三新東京市に足を踏み入れたのだった。
16/2/25